3月14日説教原稿

日本キリスト改革派 新座志木教会のホームページへ戻る

3月14日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿です。朗読などで用いてください。14日の説教は田無教会の中山仰先生によるご奉仕です

説教 ルカ3:21-38「あなたはわたしの愛する子」  

<聖書本文>
3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
3:23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、3:24 マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、3:25 マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、3:26 マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、3:27 ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、3:28 メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、3:29 ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、3:30 シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、3:31 メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、3:32 エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、3:33 アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、3:34 ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、3:35 セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、3:36 カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、3:37 メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、3:38 エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。

<メッセージ>
 本日の礼拝では、イエス・キリストの生涯の初めの記事から、神の愛、キリストの恵みに触れたいと思います。
 ここで主イエスは公生涯の初めの出来事としてバプテスマのヨハネから洗礼を受けています。ユダヤ人には割礼という旧約時代の儀式がありましたから、通常彼らが洗礼を受けることはありませんでした。しかし、罪深い者たちが特別に清められたり、または悔い改めのために洗礼を受けることはありました。罪の全くないイエスさまがそのように清めのためや悔い改めのための洗礼を受けられるということは、このお方は公生涯の初めから私たち罪人の列に加わってくださるという決意を表明され、それを実行されたということです。その行きつく先が、私たち全ての人間の罪を背負うために主は十字架にかかられるということでした。
 このように、イエス・キリストは公生涯の初めから、またその短い公生涯の間に行われた生き方において、常に私たち人間の側に立たれる救い主であったということです。へブル書の著者も「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(ヘブライ2:11)と言っている通りです。

 そのイエスさまのメシアとしての系図が載せられています。系図については、マタイによる福音書の冒頭の系図は有名です。ルカの系図は、マタイと少し異なる点があります。マタイがイスラエルの先祖、神と契約を結んだアブラハムから始まってイエス・キリストにまで至る書き方がなされています。ルカはイエスさまから初めてアブラハムへ、さらにアダムに達し、創造者である神にまで至っていることです。23節後半で、「イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると」と遡る書き方がなされています。マタイ版と少し違うのは、エリはマリアの父親の名前ですから、この系図はヨセフにとって義理の父親から見ているいわばマリアの家系をたどるというものです。マタイ版の意図は、アブラハムから降って来て、イエス・キリストはユダヤ人に約束されていたメシアであるということが強調されています。他方ルカ版では、主イエスから遡って行くのですから、アダム、そして神に至るというように、いわばイエス・キリストは全人類の救い主であるということが強調されています。同時に、神の子孫はユダヤ人だけでなく、異邦人にとっても共通の父であり、御父から遣わされたイエス・キリストは全人類と連帯されるお方であるということが、この書き方から分かります。
 ということは、この書き方によってキリスト教は西洋の宗教という誤解が解けます。特に私たち日本では、伝道していくときに「私はキリスト教とは無関係」と逃げる人がいますが、それは神からの逃亡にしか過ぎないことになります。人類全体は、アダムによって罪人になりました。その罪を解消するために、御子イエス・キリストは全人類の救い主として遣わされたという、大きな連帯がここに示されているからです。

 私のことで恐縮ですが、仰という名前を聖書から取ってつけてもらいました。父親はキリスト者です。小さい頃から教会へずっと休まずに通っていました。ある時、説教の中でイエス・キリストの十字架は呪われた刑であるということを聞きました。私の頭の中では、イエスさまは神の子であるから、乙女マリアから生まれることもできた。公生涯の初めに40日の断食の後悪魔からの誘惑をはねのけた。重い病気を癒すことも、悪霊を言葉だけで追い出すことも他の力ある業も成すことができたという図式ができあがっていました。御父の使命を受けてこの世に来てくださった神の子イエスさまが、どうして呪いの死を遂げなければならないのかと質問しました。でも聖書にはっきり書かれています。福音書には一言も書かれていないので、見落としやすいのですが、ガラテヤ3:13(申21:23の引用)「木にかけられた者は皆呪われている」と明記されています。私の頭の中でのイエスさまは、いわばスーパースターだったのです。神の子スーパースターだから数々の受難をはねのけ、ついには十字架の死からも復活できたのでした。ところが全く私たちと同じ人間としてお生まれになり、転んだら怪我もし血も流れるかもしれない、そのような痛みを全く持たない怪物に造り上げていたことになります。そうなるとイエスさまの痛みを微塵も理解していないことになります。と同時に、この私の罪の身代わりとして十字架に死んでくださったという感謝などふっとんでしまうのです。そのことに気が付いた時、本当に自分の罪深さに驚かされ、気づかされ、悔い改める以外ありませんでした。

 その上でここの主の受洗の記事に触れます。受洗の時に起こったことは、3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。ということでした。
 「天が開ける」とは、救いが成就するという約束が始まるためで、救い主がここに登場したことが判ります。そしてこの時、神のメシアであるイエスさまに「聖霊がくだり」ます。これは神の子メシアとしての任務が遂行されるための力が付与されるということです。さらに天からの声は、詩編2:7とイザヤ42:1の成就です。イザヤ42:1を引用します。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」これらのようにメシアである独り子イエスは、御父からの完全な祝福を受けて公生涯をスタートさせたのでした。イエスさまに聖霊がくだり、神の声が天からあって、イエスさまの身分と使命とが明確に確認されました。イエス・キリストこそ真の神の子であり、メシアであるという保証です。
 それに対して、人々の反応はどうだったでしょうか。3:23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。という反応でしかありません。人々の期待は、武力で制定する指導者としてのメシア(救い主)しか求めていませんでした。自分たちの当面の苦しみや課題を解決してくれないなら何の役にも立たないじゃないかということですね。
しかしそこで人々の見たものは、神の僕としての救い主、私たち罪人に仕える方だったのでした。いったい誰が思ったことでしょうか。神御自身が救い主としてこの世に来られるとは。およそ誰一人として理解できないし、理解しようとさえ思わなかった私たちに対してまさに「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)という言葉に示されているような破格の肩の入れようでした。
 先ほど系図から見たように、選びの民イスラエル、ユダヤ人こそ系図から誇ることはできません。というのは、このルカ版の系図を遡ると、アブラハムで終わらずにアダムまで進むからです。マタイの系図とは異なり、自分たちの先祖はアブラハムだなどと誇れないのです。全ての人は、イエス・キリストと関わるのです。全人類は「アダムの子、アダムは神の子」なのですから。
 このことについては使徒パウロの説教からも知ることができます。使徒言行録17:26-29節(p248)アレオバゴスで<神は、一人の人からすべての民を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の枝や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。>と語っています。私たちはみな神の子孫なのです。
 このような説教を聞いても、信じない人もいます。なぜでしょうか。バプテスマのヨハネも迫った「悔い改め」以外に手段はありません。ではどうしたら悔い改めることができるのでしょうか。それは御言葉に基づいた祈りしかありません。

 この「祈り」こそルカの強調点です。この箇所でも、主イエスご自身洗礼を受けて祈っておられます。この並行箇所のマタイ版では、主イエスの祈りについての言及はありません。これ以降、イエス・キリストは徹底的に祈られます。5:16の癒しの後、6:12十二弟子を選ぶまえ、9:18弟子たちに「わたしを誰というか」と告白を求める前、9:28受難を思い巡らす変貌の山上で、11:1主の祈りを弟子たちに教える時、22:32ペトロの躓きの前、22:41ゲッセマネの祈りにおいて、23:46十字架の上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と。これらのように、イエス・キリストの成し遂げられた救いの御業の数々は、楽々なされたのではありません。「激しい叫びと涙」を伴う祈りによってなのです(ヘブル5:7)。
 これらのように、私たちの救いもこの祈りの上にあるということです。ただし、主のそのような祈りの成果にふさわしいかと問われると、即答できない自分がいることを恥じます。ただ求道者の方々も、信じて御自身で祈って欲しいのです。教会も皆様のために心から祈っています。
 祈りの内にこそ、キリストの聖霊が働き、主の恵みの救いが実現します。救いは皆様のものになります。キリスト者も弱い一人の人間です。牧師さえ、祈りのうちに初めて職務を全うできるのです。
 夏のヤング・サマー・キャンプで証させていただきましたが、私の祈りの体験を少しだけお話させてください。のほほんとしたクリスチャンホーム育ちの私でした。教会でみんなで「めい想」してみようという試みがなされました。テキストはボンヘッファー著『交わりの生活(共に生きる生活)』です。幾つかの聖書の言葉をとっかえひっかえ瞑想したのですが、ピンと来ないし変化も表れませんでした。そんな時クリスマスプレゼントで優しい英語の聖書をもらっていました。ここの箇所の英語で、This is My Son with Be-Loved.という箇所を何回も呪文のように唱えていました。すると祈祷会の時でした、突然この言葉は御父がイエスさまに言われているのですが、この私に対しても「あなたはわたしの愛する子」と呼び掛けてくださっていると肉の耳ではないですが、心に響いて来ました。その時から、初めて積極的に祈りたいと変えられました。

 故榊原先生はこの箇所だったでしょうか、このような例を挙げています。赤ん坊すり替え事件が頻発した時がありました。血液鑑定で親子でないと証明できても、親子であるという積極的に証明はできないそうです。近年はさらに研究が進みましたのでDNA鑑定で親子という証明がなされています。それでも長い生活時間を埋めることは果たしてできるであろうかと思います。まして子どもを捨てた親が、成人した子の前に現れて、「私が実の親だ、信じろ」と言っても無理ではなかろうかと訴えます。
 子供の物心つく前から先行する親の愛があり、先手を打って子を愛で包んでいる時にだけ、子は親を信頼しうるのではないか。主イエスが御子としての実感を持たれるのも、当たり前ではありません。「天が開けて、聖霊がくだる」ことによって初めて可能なのです。
 主イエス・キリストはその本性上、職務上「神の愛する子」とされています。その理由は、神との間に愛と信頼の亀裂を生じている私たちを神の子の一員とするためです。ただそのためにキリスト・イエスは①罪人の一人として悔い改めの洗礼(バプテスマ)を受けてくださいました。②神の子としての栄光を失ったアダムの末のヨセフの子として、人の子と思われる生活に耐えてくださいました。③そして遂には、神を冒涜するものという濡れ衣で、十字架にかかり死なれました。
 しかし、そのような言葉を選ばなければ背反のような子であるイエスさまを御父は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んでくださっているということを覚えたいのです。
 最後に、その恵みをヨハネの手紙一3章1-2節から確認して終わりましょう(p443)。 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」
 罪深い私たちでさえ、神の愛する子と呼んでくださるのです。この一方的な神の愛に拒絶反応を示してよいのでしょうか。神の招きを受け入れる者は幸いです。その者は間違いなく、神の子と呼ばれるでしょう。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

お気軽にお問い合わせを

「一度礼拝に出席してみたい。」

「教会に行ってみたい。」

「でもどうしたらよいかわからない。」

そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。

電話でのお問い合わせなら048-474-9237まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。