毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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「あざやかな変化」
信仰について
今週11日にちょうど東日本大震災から10年の日を迎えます。私はこの教会に赴任してまだ二年目でした。様々なことが思い起こされますし、今となっては、もっとこうしておけばよかった、ということがなくもありません。しかし、今日皆様と一緒に考えたいのは、あのような現実の大変化を前にして、キリスト教信仰はどのような意味があったのか、あるいは今でもあるのか、ということです。なんだかとても大きなことを言っているようですが、教会の会員になるということは誰であれ、イエス様を救い主として信じて、「信じています」と告白をして洗礼を受けて、というところを通っているはずです。或いは求道者であればこれから信じて洗礼を受けることになります。では、その場合にわたしたちが「信じます」というのはいったい何をどう信じていることなのか、それが何の役に立つのか、というごく当たり前のことについて問いたいのです。
人格として?
それで、昔のことですが、私が信仰をもって余りたっていないころ、何かの本か、教会の学びの場であったか忘れましたが、福音派の先生から聞いたことです。教会には、いろいろな人がいる、信仰のあり方、信じたきっかけもそれぞれで、キチンと聖書を読んで学んで信仰を持つ人、ある日突然、祈りの中で、信仰に目覚めて、積極的に教会生活をするようになる人、様々だといった後で、ある人の場合には、信仰告白だの、神学など難しいことはわからないが牧師先生を信じているから、という人もいる、というようなことを言われました。それは、牧師を人間として信じている、という意味になりかねません。これを聞いた時には、そんなことでいいのかなあ、それはちょっと違うのではないか、と思いながら聞いていました。私たち改革派教会はまじめな教派で、聖書の学びを一所懸命する伝統がありますから、その点からいうと、牧師さんを信じる、というのは、どうもちょっと違う、まずは聖書でしょう、ということになりそうです。とはいえ、私は、このような信じ方の中にも何か意味があるような気もしています。実はこのような人を信じるというイメージについて今日は考えたいのです。
信仰と「しるし」
きょうの聖書では「信じる」という言葉が2回登場します。一回は22節で、イエス様がご復活された後で弟子たちが「信じた」とあるところです。もう一か所は23節で多くの人がイエス名を「信じた」、とありますところです。この二つの「信じる」という言葉はギリシア語でも全く同じです。しかし、おそらくこの二つの「信じる」には、大きな違いがあります。では、その違いはいったい何でしょうか。その場合に、「信じた」の前にある言葉がヒントになります。弟子たちの場合は「聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」となっています。一方「多くの人たち」と書かれているところでは「イエスのなさったしるしを見て」となっています。そして、この場合のしるしとは、18節で「こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」とあるところの「しるし」と同じ言葉です。「さあ、さあ、証拠を、証拠を見せてみろ」とばかりに怒ってイエス様に挑みかかっているユダヤ人たちの言葉です。これは、今風に言えばエビデンスです。目で見えるものですね。この人はこんなことができる、だからその点は信用していい、という考え方です。これは、どちらかといえば、何ができるかによって目の前の人を信用する、という考えです。それは信仰というよりは、一般的な意味で人を信用するということです。
しるしを求める心
ところで、このヨハネによる福音書では、七つのしるしというものが登場します。それ自体は、否定的なものではありません。例えば、このところの直前では、カナの婚礼でイエス様が水を葡萄酒に変える、ということがありました。それについて11節では「この最初のしるしをガリラヤのカナで行ってその栄光を現わされた」とあります。ところが、このようなイエス様のしるしは、それがあまり良い方向で理解されない、ということが後のほうで語られています。例えば、ヨハネ12章にこんな言葉があります。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」(12:37)。どれほどしるしが行われようと、それがそのまま信仰につながることにはならないというのです。むしろ、イエス様に反対していた人たちなどは、イエス様がしるしとしての奇跡をおこなって人気が出ると、それを「どうしよう」(11:47)と言って困っていた、という報告があります。こうなりますともう、しるしがあろうとなかろうと、結局イエスを信じたくない、という部分は実は変わらない、ということがよくわかります。そもそも「証拠を」といいたがるのは、信用していないということの裏返しなのかもしれません。信用できないけれども、何か証拠があるのなら、考えてあげてもいい、信じるか、信じないかはこの私が決める、このような考え方です。そして、実は、イエス様は、人間にこのような考え方があると知っておれたと聖書は続いています。
人の心の中にあるもの
それは24節と25節にある通りです。そこで問題になっているのは、「人間とは何か」について語る言葉です。まず24節では「すべての人のことを知っておられ」とあります。これは、人間全般がどのようなものなのかを知っているということでしょう。さらに、25節では「何が人の心の中にあるかをよく知っておられた」とあります。人の中にあるものが人を作り、人を動かすのですね。私たちが、心と言ったり、性格と言ったりしているものを含めて、私たちの内側にあるものが、言葉になったり、行動になったりする、しかし、イエス様にとっては、人間のそういった言葉や行為をあまり信頼するつもりがなかったと、24節では書いてあります。とても厳しい言葉のように感じます。しかし、ある意味では真理を突いた言葉です。それこそ、イエス様が捕らえられたときに、弟子たちは、みなイエス様を見捨てて逃げてしまった、ということがもっと後に出てきますけれども、このように、私たちの中には、何よりも自分がかわいい、自分が助かりたい、そのためには、ほかはどうでもいい、という部分がどうもあるようです。そして、この部分はなかなか頑固で、わたしたちが、イエス様を信じているという場合にもこの影響から自由になれないかもしれないのです。
二つの信仰の違い
そこで、改めて二つの信仰、不思議なしるし、奇跡といったことを見て、なんとなくすごそうだから、自分がいい思いができそうだから、いわば証拠を見て確かそうだから「信じた」という信じ方と、その前の段落にある、イエス様の復活の時に、その語られた言葉を思い出して、聖書とイエス様の言葉を信じた、という場合の、弟子たちについて書かれている「信じた」というあり方、その違いについて考えたいのです。そこで改めて確認します。このところでは、弟子たちは聖書とイエスの語られた言葉を信じた、となっています。この場合の聖書とは私たちが旧約聖書と呼んでいるものです。イエスの語られた言葉は、今日のところの範囲でしたら、「この神殿を壊してみよ、三日で立て直して見せる」という言葉です。これはわかりやすい言葉ではありません。しかし、イエス様の復活後には、弟子たちには、これらの言葉がすっかり納得がいって信じられるようになった、というのです。
何を信じているのか
しかも、彼らは「イエスがこう言われたのを思い出し」とありますから、まさに、復活のイエス様とお会いした時に、このところで語られた言葉「三日で立て直す」という言葉をはっと思い出した、ということのはずです。さらに言えば、「イエス死者の中から復活された時」、とありますのは、弟子たちが、復活したイエス様を見たその時に、ということになります。実際の復活の時の様子はヨハネによる福音書では20章と21章に三度にわたって描かれていますから、その所をお話しする時に詳しく見ることになるかと思いますが、いずれにしてもそこで語られているのは、復活したイエス様が弟子たちの前に立って語り掛けて、ご自身を示してくださった、ということです。もっと言えば、弟子たちは復活のイエス様と出会ったのです。人と人として、人格と人格として、出会ったので、そこで、だいぶ前に聞いて忘れていた「この神殿を壊してみよ、三日で建て直して見せる」という言葉が心の中にありありとよみがえり、また、ただ言葉として思い出しただけでなく、21節にありますように「イエスの言われる神殿とはご自分の体のことだったのである」という理解が、イエス様の言わんとした言葉の意味の全体の構図が、すとんと腑に落ちて分かったのです。それはもう、あーそうか、そうだったのか、というような納得だったはずです。
神殿として
そこで、最後に確認です。彼らが、理解したこと、それはこのところからそのまま読めば、イエス様こそが「神殿」になった、ということです。神殿とはほかでもない、神様と会う場所です。そして、旧約聖書には、それこそ、神殿の作り方から、神殿で働く人の選び方、その服装、神殿でどのようにふるまうのか、ささげものはどのように準備し、どのようにささげ、最後は誰がそれを食べるのか、事細かな取り決めが律法として記されています。逆から言えば、神様と出会うためには、様々な準備をして、特別な建物に集まって、特別な儀式に従って、犠牲の獣をささげて礼拝しなければならなかったのです。しかしイエス様は、この時、神殿から動物と両替人を追い出しました。また、両替の台をひっくり返して、神殿用のお金がざーと流れ出すようにあたりに巻きちらされました。それは何よりも、この古い神殿とそれにまつわる様々な儀式の時代が終わったこと、そしてイエス様ご自身が神殿である、新しい時代が来ている、というしるしです。復活されたイエス様とあらためてであった弟子たちは、イエス様の言葉の通りに、イエス様こそが新しい神殿となった、と膝を打つようにして知ったのです。さらにはイエス様の言葉を通して人格的に神様と出会えると知ったのです。そして、もしこのような神様との人格の交わりという土台があるのなら、牧師を信じる、あるいは、先輩信徒を信じる、そこにキリストを見出す、ということは、必ずしも間違いではないはずです。
あざやかな変化
実は、弟子たちの持った信仰とは、このような信仰です。それは出会いの信仰です。イエス様と人格としてつながった信仰です。イエス様の言葉によって、聖書の言葉によって、自分自身が神様と直接出会うことを知る信仰です。わたしたちは、礼拝において、聖書を通して、また私たちお互いの存在を通して、出会いによって目が開かれるという、あざやかな変化を味わうのです。
祈り
父なる神様、みなを賛美いたします。あなたはご計画によって、イエス様を死に渡され、しかし、死者の中からよみがえらせ、私たちの、新しい神殿としてくださいました。そして今もイエス様は御霊において私たちと出会ってくださいます。どうぞ、この週の歩みがこのイエス様との交わりにおいて強められ豊かなものとなりますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。