2月28日説教原稿

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2月28日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

「心を新たに」
時の問題
以前は伝道者の書といわれていたコヘレトの言葉に「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という言葉があります。同じところには「黙する時、語る時」ともあります。今日の福音書ではイエス様ご自身の言葉として「話してはならない」(9節)という命令が語られています。しかし、この命令には「復活するまでは」という条件が付いています。そうしますと、イエス様が復活された、その時には、大いに語るべき時になった、ということになります。さらにこのところでイエス様は「今見たこと」と特に断わっています。そうしますと、ペテロたちが山の上で見聞きしたことは、復活の後でこそ、特別な意味を持ってくるのです。私たちは、いうまでもなく、復活の後に生きています。その意味では、私たちはこの出来事について語ってよい、あるいは語るべき、なのです。キリスト者として、あるいは教会としてこの出来事を大いに語ったほうがよいのです。そしてこの出来事をよく語るためには、この出来事についてよく知っていなければならないのです。今日は、自分が語るべきネタはこれだ、そんな思いを持ちながら、この聖書を読みたいのです。

イエスが主導する
このところでは、イエス様が三人の弟子、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、山に登ったというところから始まっています。なぜ三人なのか、その理由は書かれていません。ただ、三人という数は12弟子、あるいはその他の弟子たちを加えた数と比べると少数ですが、証人としては十分です。このところの出来事は、記憶され証言されるべきだけれども、12弟子全員が一緒に今ここで取り組むことではない、そういうことなのかもしれません。しかし、それよりも大切なのは、そもそも、このところで「連れて」とある言葉です。あまりにも当たり前ですが、イエス様が三人を連れ出しました。それも、確かな目的をもって連れ出したのでした。ここではっきりとしますのは、人に何かを示すのは、イエス様なのだという事実です。導き手はいつもイエス様ご自身です。教会生活において、さらに言えば、私たち自身の人生においてもそうであると私は考えていますが、私たちキリスト者は勝手に何かを探しだす旅をしているのではありません。むしろ、イエス様に連れられて、イエス様が指し示すものを見て、前に進んでいく、そのような基本的なことがこのところからも読み取れます。

イエスの変貌-光の意味
そして、イエス様がペテロたちに示そうとしていたことの中心、それは、イエス様ご自身の変化です。聖書には、姿が変わったとあります。具体的には服が「真っ白に輝き」(3節)と続いています。これは、光り輝くまばゆさを表しているものと思われます。光は、いろいろなものを照らし出し、明らかにします。しかし、その光も、強すぎますと、もはや何もわからないほどのまぶしさ、としてしか体験できません。このところを読みながら、カルヴァンのキリスト教綱要(1.1.2)にあるたとえ話を思い出しました。それは神様を知るということについて人間がどのようであるのか、について書かれた言葉です。カルヴァンは言います。人間は、自分の目がよく見えるつもりでいる、自分は神様についても、自分の生き方についても正しく考えられるものだと思い込んでいる、しかし、太陽の光を見つめると視力を失ってしまうように、神様の前では、人間は、実は全く目が見えないもの、正しくないものであることがはっきりとする、そして、このことを知らされることが大切だ、といったことです。ペテロたちに求められていたもの、そして、私たちにも求められているもの、それは、このことの確認ではないでしょうか。そして実際のところ、ペテロはまさに人間らしく、人間がなんであるのかをこのところで身をもって示しているように見えます。

良いこと?
彼は、この出来事を見たときに、一言「良い」と結論付けています。5節にはこのように書かれています。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」。この場合、私たちとは、いったい誰でしょうか。ペテロの中では、モーセとエリヤとイエス様、そして、自分たち三人を含んで、ということかもしれません。しかし、いったい何がそんなに素晴らしいのでしょうか。この「すばらしい」という言葉は、目的にかなって美しい、という意味があるようです。そうしますと、ペテロは、イエス様とモーセとエリヤの会談の意味がなんであるか、わかっている、と言いたいようです。しかし、それに続いて、仮小屋を建てようと、なんともちぐはぐな提案をしています。おそらく、これは、聖書の伝統に即して、礼拝するための場所を設けましょう、という提案なのかもしれません。しかし、イエス様が望んでいたのは、今このところで、ペテロたちに拝んでもらうことではありません。すごいものを見たと驚いて、恐れ奉って、あわてて礼拝所を作ることではないのです。むしろ、イエス様が望んでいたのは、神様の存在、神様との交わり、神様のご臨在、神様のご計画、といった私たち人間の世界とは全く別の世界が確かに、私たちに隣り合って存在しているその事実です。

分からない
しかし、ペテロはこのような別の世界の広がりを前にして、それがわからなかった、と聖書は告げています。「ペテロはどう言えばよいのか、わからなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」。これは全く自然な反応です。私たちは、人間を超越したもの、何か異様なものを前にして、まずは恐れることしかできないようなのです。また、このような恐れを持ちながら、適切な受け答えをすることもできません。難しいことではありません。私たちは、わかっていないことについて、何かを言うことはできないのです。わからないものについては、わからないというしかないのです。わからないものについて、わかったようなことを言うのであれば、それは、ちぐはぐなことになります。それは、ペテロが身をもって示しているとおりです。そして、イエス様が願っていたのは、この分からない世界、神様という存在について、ペテロたちが、わかるようになってほしい、ということです。しかし、それはこの時ではなく、復活を理解した後なのです。そうであるからこそ、ペテロたちは、この体験を語ることが、当分の間禁じられたのです。しかし、神様に対して、そのご計画に対して、目が開かれたのなら、むしろ、神様について積極的に語るべきなのです。そして、そのカギを握るのはイエス様の復活です。

語り合ったと、論じ合ったの違い
その意味では、このところで語られている二つの言葉が気になります。一つは、10節にある「死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」というところの「論じ合う」という言葉です。復活について論じあうことは、決して悪いことではありません。イエス様の復活を理解しようとすることは良いことです。しかし、おそらく、ただ人間どうして、このことを論じ合っていても、答えは出てこないのです。そして、このようにして論じ合っているペテロたちは、この時点では、「復活」がわからないのです。一方で、よく似た言葉が4節に登場します。「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」。ここでは、「論じ合う」ではなく「語り合う」となっています。ペテロたちが、わからないことについて「論じ合って」いるのに対して、イエス様たちはわかっていることについて「語り合っている」のです。マルコにはありませんけれども、ルカには同じ山上の変貌のところに注釈のようにして「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9:31)とあります。イエス様とモーセとエリヤは神様の御心、神様のご計画がわかったうえで、話し合っていたのです。そして、イエス様がペテロたちにわかってほしいのは、このことです。

誰にも話すな
そこで改めて自分自身を含めて問いたいのは、私たちは、神様について、イエス様について、豊かに語る言葉を持っているのかです。最初に確認しましたように、すでにイエス様のご復活の後の時代に生きている私たちは、今すでに聖書によって、イエス様の復活とその意味とを教えられているのです。そして、そうであれば、もはやあのイエス様の「誰にも話してはいけない」という命令に縛られる必要もないはずなのです。私たちは自由な時代に生きています。しかし、この自由な時代において、私たちの口が、神様について、イエス様について、活発に語ることばを獲得しているかどうかと言われれば、胸を張って大丈夫と言えないかもしれません。それゆえ、私たちもまた、ペテロたちと同じ道をたどる必要があるのです。復活とは何かと議論をすること、そして、今日のすぐ後に描かれていることではありますが、神様の言葉がただ与えられるだけでは、それを好きにもてあそぶだけに終わりかねないことを知るということ、そしてその先に進む必要があること、一言でいえば、私たちは、神様を知ることについて、壁を乗り越えなければならないのです。

イエスこそ
そして、私たちが神様を知るための助けてはただ一人、イエス様だけです。それこそが、このところで神様によって示されたことです。一つは「これは私の愛する子、これに聞け」という言葉によって、そしてもう一つは、神様の臨在のしるしである雲が晴れたときに、そこにいるのはイエス様だけであったという事実によってです。私たちは、聖書の言葉が説教されるときに、聖霊において、私たちの心の中にまで届けられることによって、また、聖書を個人的に読んで祈る時にも、同様の聖霊の助けによって、イエス様に聞くことができます。そして、このイエス様に聞くことの積み重ねによってこそ、あの「壁」は乗り越えられるのです。

心を新たに
神様を知ることの「壁」が小さくなればなるほど、私たちは豊かなものとされます。そして、私たちは復活の意味をますます自分のこととして知り、神様の御心について、間違うことなく雄弁に語ることのできるものとされるのです。

祈り
父なる神様。尊いみ名を賛美します。あなたは私たちの思いを越えて高くある方です。しかし、そのあなたが今も御子によって、天から遣わされる聖霊において、私たちに語り掛けてくださいます。そして私たちは確かにあなたのものであり、またあなたに愛されていることを知るものとされます。この週の歩みにおいてもいつも私たちがあなたとともにあることを味合わせてくださいますように。そして私たちがあなたを表すものとされますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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