2月14日説教原稿

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2月14日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

ガラテヤ5:13-15 「愛は実現する」
自分事として
最初にお話ししますが、今日の聖書箇所は私にとっては、決して語りやすいところではありません。このところをしっかりと語りとおせるかどうか、いささか自信がないところがあります。ただ、一つだけ約束したいことがあります。それは、これを自分事として語るつもりだということです。上から目線で、あなたたちはこうしなさい、というのではなく、むしろ、これはまず語る人自身が問われることである、そのような理解において、この個所と取り組みたいと願っています。

自由を生きる
今日の聖書はある意味ではこの5章前半のまとめに位置しています。5章では最初に、キリスト者の自由を確認していました。そこから後戻りしてはいけない、という言い方でした。一方、今日のところでもまた、自由という言葉が登場します。しかし、こちらは、これから自由なものとしてどのように生きていくのか、未来のことについて語っています。私たちのこれから、キリスト者となった人のこれから、それをどうするのかを問うのです。しかもそこでパウロは、かなり厳しく現実を見ているのです。自由になった、もう手放しで喜んでいればよい、というのとは違うのです。むしろ、自由をどのように使うのか、これを間違ってはいけない、もし間違うと滅ぶ、このようにはっきりというのです。パウロは理想を語り、同時に現実をしっかりととらえています。これは、私たちの現実の生活に直接かかわる言葉です。

罠がある‐互いにかみ合う
15節はドキリとする言葉です。「互いにかみ合い、共食いしているなら」。ほかでもない、これは教会にあてられた手紙です。教会の中でこのようなことがあるだろうか、と思わなくもありません。もちろん、「噛み合う」とか「共食い」という言葉は、たとえです。たとえですけれども、そのようにたとえられるようなことがおこる可能性がある、とパウロは言うのです。そして、このことを、まさにこのことを自分たちのこととして考える必要が私たちにはあるだろうし、また、そのように考えないと、先に進めないのではないか、と私自身感じています。それは、どういうことかといいますと、あまり格好のいい話ではありませんから、具体的なことは控えますが、私たちの属します東部中会でも数年に一度くらいの割合で、残念なことが起きてしまった歴史があります。教会が混乱することが実際にあります。その時には気まずい思いをする方たちが、確かにいるのです。それが、教会の中で起きるのです。なぜかと思います。多くの場合、誤解があります。それがどうにもならないほど大きくなることがあります。

喰い合う?-肉の問題
そこで混乱の中心にあるのは正義です。教会では正義が重んじられます。何が正しいのかが問われます。しかし、互いに正義を語っているのに意見は一致しません。正義と正義がぶつかるのです。おそらくパウロが言う「喰い合う」とはこのようなことです。なぜ、そうなってしまうのでしょうか。このところで一つとても注意したい言葉があります。それは、「肉に罪を犯させる機会」という13節の言葉です。このところを新しい協会共同訳では「肉を満足させる機会」と訳しています。文語訳では「肉に従う機会」としています。自分は正義の戦いを戦っていると思っているときに何かが働くというのです。しつこいようですが、これは私たち自身の問題です。その中心は「肉を満足させる」あるいは「肉に従う」という場合の「肉」です。パウロは、肉体そのものを否定する人ではありません。人間は肉体において生きているのは間違いありません。そもそも、肉体において生きているその生き方を問題にしているからこそ、このようなかなり面倒な議論をしている、とも言えます。そのうえで、例えばパウロはローマ書7章で、この問題をかなり整理して語っています。しかし、今日はそれを全部読むことはしません。その言葉を一言でいえば、冷静になってみると「自分はしたいと願うことができない、自分で自分を裏切っている、そんな自分を見つけて絶望する」ということです。

自由とは?-隣人を愛する
そこでもまたパウロが「したいと思っていること」は、正義です。正しいことです。しかし、正しくあろう、正しくあろう、として戦うほどに正義から離れてしまう、というのがローマ書7章の言葉です。そうしますとそもそも、私たちが「正しい」とか、義とか言っているその中身が問題になります。そこでパウロは、このところの14節で改めて、正しさの基準としての律法、特にその中でもレビ19:18の言葉を引用しています。「隣人を自分自身のように愛しなさい」です。パウロはこの言葉をただ引用するだけではなく、律法全体、正しさ全体の問題は、この一言によって全うされる、と言います。これはイエス様がマタイ22章(36節以下、特に39節)で律法学者から、最も大切な戒めは何か、と問われて答えられたのと同じです。少なくとも、私たちが正しいことを実現しようとするのであれば、まずは、このところから実現しなければならない、というのです。自分は正しいと主張しているばかりであるのなら、それはそもそも全くこの基準に合っていないのです。そして、このような基準をどのようにして満たすのか、ということもまた、この所ではっきりと書かれています。それが、13節後半の言葉です。

互いに仕え合う-奴隷のように
「愛によって互いに仕えなさい」というところです。この「仕える」という言葉自体、かなり謙遜な響きがあります。しかし、この言葉のもともとの意味は、「奴隷になる」、「服従する」のようです。そうしますと、私たちキリスト者は、あたかも奴隷のようにして、互いに服従するのだ、ということが言われていることになります。さらにこのところでは、それが、先ほど確認しました「肉」との対比において語られています。ここであの「肉」という言葉で意図されていることがはっきりとしてきます。パウロがここで「肉」と言っていることは、私たちの中で働く、間違った自己愛のようなものです。最初に確認しましたように、教会が混乱するときに、正義がぶつかり合います。そこにおいては、悪いのは、少なくともより多く悪いのは「相手」ということになります。そのようなより悪い相手の言いなりになるなど、とんでもない不正義である、とお互いに考えているからこそ、関係が壊れていくのです。正義のためには「服従」などありえないと確信してしまうからこそ争いはどこまでも続くのです。

自由にされている
しかし、そこでパウロは言います。「あなた方は自由を得るために召し出された」。ここでようやく自由の意味が明らかになります。この「自由」とは、なんでも好き放題、わがまま勝手にふるまう自由ではありません。そうではなく、愛を実現する、愛を実行する自由です。もっと言えば、ゆがんだ「私の正義」から離れる自由です。さらに言えば、恨みつらみ、不満不平、といったことからの自由です。しかし、それはただ私たちが、そのように思えばよい、という話ではありません。なぜなら、パウロはあなた方は「召し出された」、というからです。働きかける方がいます。当然ですが、それはイエス様です。イエス様が私たちを呼んでくださって、そして、私たちに語り掛けてくださって、私たちを説得して作り変えてくださることによって、私たちは、すでにこの「私自身」、様々なことを恨んだり、憎んだりしている自分、自分の不満や不安と正義とを、まぜこぜにしてしまっている自分、そんな自分から自由になっているはずだ、とパウロは言うのです。

何が働くか
しかもそれは、ただ、私たちがそのようにわきまえて、一所懸命頑張ることですらないのです。パウロはこのところの6節でこのように言いました。「5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」ここでは「キリストに結ばれていれば」といいます。これは、イエス様に召されていれば、というのと同じです。イエス様との関係に入っていれば、でも同じです。キリスト者とは、イエス様に結ばれたものです。そして、そのような人は、肉の条件がどのようなものであれ、それは関係ない、むしろ、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と続きますが、このところを新しい翻訳では「愛によって働く信仰こそが大事なのです」と訳しました。良い訳だと思います。この愛は言うまでもなくイエス様の愛です。ご自身に逆らう者たち、ご自身を裏切る者たち、それは言うまでもなく私たち自身ですが、そのようなものを愛して、そのような私たちのために十字架で憎しみという罪、わがままという罪をあがなってくださった、イエス様の愛です。自ら負けることで、義を実現したイエス様の愛です。そのような愛の出どころはイエス様ご自身です。そして信仰によってイエス様と結ばれた私たちの中で、イエス様の愛の力が働き始める、というのです。


最初に、私は、このことを自分のこととして語りたい、とお話ししました。私は、ここまで語ってきましたことは大枠で間違っていないのではないかと考えています。問題は、私自身が、このような生き方に入っていけるかどうかです。あるいは、すでにキリスト者となった時点で、今まで語ってきましたところの、イエス様の愛のお働きを自分の中にすでに受け入れていることを、しっかりとわきまえられるか、イエス様に倣うものとして歩んでいけるかが問われる、といってもよいでしょう。いずれにしましても、これは、これからの話です。パウロは、これからキリスト者として生きていくすべての人に、このことを呼び掛けています。

愛は実現する
私たちは愛を行う自由を与えられるために、キリスト者になりました。そして私たちの中で、その新しい命は始まっています。そして、私たちが、自分ではなく、イエス様に従うときに、ただイエス様のお働きによって、私たちの具体的な教会生活において、互いに仕え合うという愛は実現します。目標ははっきりとしています。他者との戦いではなく、自分の肉と戦うときに、この愛は実現します。

祈り
神様、あなたは、主イエスにおいて私たちを召し出してくださいました。それは私たちがイエスの弟子として、互いに仕え合うためです。私たちが互いに仕え合うときに、私たちのただなかに、キリストの体が現れます。どうぞ、この教会もまた、そのようにして、あなたのご栄光を表すものとしてくださいますように。この週の私たちの歩みにもあなたのみ旨がなりますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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