毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ガラテヤ5:7-12 「全き信頼」
よく走る
今日の聖書の冒頭に「走る」という言葉があります。もちろん、たとえです。パウロは時にキリスト者の歩みを「走る」と例えることがあります。コリント書では「あなたがたも賞を得るように走りなさい」(コリント一9:24)とありますし、フィリピ書でも「なすべきことはただ一つ…目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:13,14)と言います。ひたすらに、ひたむきに前に向かって進んでいく、こんな様子が伝わる言葉です。おそらくは、自分自身を励ます意味も込めて、パウロは、キリスト者の人生とは、長距離ランナーのようなものだ、くよくよするのはよそう、一所懸命前を向いて進もう、と言いたかったのかな、そんなことを考えさせられる言葉です。しかし、長距離走にはハプニング、思いがけない問題がしばしば起きるものです。パウロはこのところで、ガラテヤ地方の教会の人たちを、基本的にほめています。「あなた方はよく走っていた」というのです。しっかりとした道を着実に前に進んでいたというのです。ところが、そこに邪魔が入ったと続きます。
邪魔をする
7節を見ますと「いったい誰が邪魔をして」となっています。進路をふさぐのです。この所のもともとの言葉を直訳しますと「割り込む」という意味のようです。せっかく正しい道を走っていたのに、横から割り込んできて、前をふさいで、先に進めないようにしてしまう、そんなことをする人たちがいたはずだ、あなたたちも心当たりがあるでしょう。こんな言い方です。その意味では、パウロはかなり真剣に怒っているとみて間違いありません。では、何でパウロはそんなに怒っているのか、それは、これが、キリスト者としての歩みにおいて、のるかそるか、もっと言えば、ガラテヤの人たちが信仰者として、真っ当に歩めるかどうかの大問題だと気づいていたからです。では、パウロが大変な危機感をもって、頭からカッカと湯気をだして(いたと思うのですが)、怒っているこの大問題とはいったいどのようなものであったのでしょうか。このガラテヤ書については、昨年続けて読んできまして、11月28日で今日の所の一つ前、5章1-6節を一緒に読んで終わっていました。そこで、少しだけガラテヤ書で何が問題になっていたのか大雑把におさらいをしてみます。例えば、前回、すなわち昨年の11月に読みましたところの冒頭にこんな言葉がありました「もし割礼を受けるなら」(5:2)。このガラテヤ書で問題となっている大きなポイントは割礼でした。では、それは具体的にはどのようなことだったのでしょうか。
かき乱すもの
今日の所の最後、12節にこんな言葉があります。「あなた方をかき乱すもの」。この所を、口語訳聖書は「あなたがたの煽動者ども」と訳しています。たきつけるのです。そして、転覆させるのです。今まで、正しく歩んでいた人たちを、まったく逆の状態にひっくり返してしまう、そんな人たちがいて、ガラテヤの人たちのなかにも、それに耳を貸してしまう人たちがいたようなのです。それは11節に描かれていることが、ヒントになりますので、もう一度読んでみます。「兄弟たち、この私が今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか」。これは当然、もしもの話です。しかし、どうも、パウロの反対者たちは「パウロ先生は、ほかの町では、人々に割礼を勧めていたんですよ」、「だから、皆さんも割礼を受けたほうがいいんですよ」というような噂を、流していたのではないかと指摘する神学者がいます。たしかに使徒言行録を見ますと、パウロは、エルサレムでの使徒会議の後、テルベ、リストラといった町で伝道をするにあたって、ユダヤ人会堂で働くために、母親がユダヤ人、父親がギリシャ人であったテモテに便宜的に割礼を受けさせたという事が書いてあります。しかし、これは、ユダヤ人が、ユダヤ人の習慣に従っただけです。それもただ一度の例外です。パウロは、決して、ユダヤ人ではない人たちが、ユダヤ人になるために、是非割礼を受けましょう、と言っていたのではないのです。もし、そうしていたら、ユダヤ人たちから迫害されるわけないだろう。というように反論しているのです。
再び割礼について
では、割礼の何が問題ったのでしょうか。「割礼」自体は、創世記17章に初めて登場しますが、それは、アブラハムに与えられた神様との契約のしるしでした(創17:10)。この人は神様の民だ、というしるしです。逆に言えば、この割礼という徴を持たなければ、神様の民、イスラエルに属する者とは言えない、というのが、ユダヤ人の立場です。ところが、パウロは、問題は、そのような体にしるしがあるかどうかではなく、むしろ、その心が本物のイスラエル、神様の民であるかどうかの方が重要だ、といったのでした。同じパウロが書いた手紙のフィリピ書には、こんな言葉があります。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」(3:2,3)。ここでは、体の割礼は、「ただの切り傷だ」と言います。しかし、問題は、「真の割礼」すなわち、何に頼って、何を信じて礼拝して、また生活しているか、そこが問題だ、というのです。そして、まさに、ガラテヤのキリスト者たちは、この意味で、イエス様を礼拝し、イエス様に頼って生きていた、という意味で正しく走っていたのです。ところが、そこにかき乱すものが入り込んだのでした。
この真理
そこで問題は、先ほどのフィリピ書にあった「真の割礼」という言葉特に「真理」という言葉です。「割礼の真理」という場合には割礼の心と言ってもよいかもしれません。割礼が目指しているものともいえます。同じような言葉として、今日の所の7節でも「真理」という言葉が登場していました。ガラテヤの人たちは、この真理を目指して、あるは、真理をもって「よく走っていた」のでした。ところが、邪魔が入ってこの真理に従わないようになった、と続いていたのでした。その場合の真理は、哲学的な正しさのことではありません。信仰の根本、基本中の基本のことです。そして、この「真理」という事でいえば、2000年前のガラテヤの諸教会の人たちも、現代の私たちも、まったく変わることがないのです。まさに、どこまで行っても、いつまでたっても変わらない、それが信仰の「真理」です。それで、ちょっと面倒な話で恐縮ですが、もう一つ別のことを確認します。この所で、「従わない」と訳された言葉と、10節で「あなた方を信頼しています」と訳された「信頼」とは、実はギリシャ語では同じ単語が使われているのです。何でこんな違った訳になっていたかと言いますと、どちらも意訳だからなのですね。もともとの言葉の意味は「説得される」です。そうしますと、ガラテヤの人たちは真理に「説得」されていたのです。ところが、ある時、説得されなくなった、のです。それが、従わない、という事です。一方、パウロは今だに、私はあなたがたがのことでは「説得されている」のです。
主にあって
その場合に、パウロが「主にあって」と言っていることはとても重要です。私たちは、様々なことについて日々決断をします。その決断のためには、情報が必要です。何かを買うにしても、将来を計画するにしても、正しい情報に基づかなければ、正しい決断はできません。問題は、その正しい情報が、どこで手に入るのかです。そして、少なくとも、信仰における判断の材料は、いくらパソコンやスマホで検索しても出てこないのですね。ガラテヤの人たちは、主にあって、説得されている間は、正しく走れたのです。しかし、横から割り込んで、余計なことを耳打ちするような人たちが、登場した時に、このこと、すなわち、主にあって説得されて、先に進む、という正しいあり方を邪魔されたのです。だから、パウロは、猛烈に怒っているのです。しかし、その一方で、パウロは全く絶望していないのです。その根拠は、パウロ自身が、主にあって説得されているからです。10節前半をもう一度読んで見ます。「あなたがたが、決して別な考えをもつことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなた方を信頼しています」。これをもう少し直訳調にしますと、「わたしはあなた方に対して主にあって説得されている。すなわちあなたがたは別の思いを抱かないだろうと。」
召しておられる方
パウロは、ガラテヤの人たちは、大丈夫だ、なぜなら、私イエスが彼らの面倒を見ているから、だから、あなたは安心していてよい、と説得されて、それで納得している、そのような意味で、まったくあなたたちを信頼している、というのです。そして、実は、ここに「真理」がなんであるかが、現れているのです。「真理」とは、頭の中のことではないのです。どこからどう考えても間違えなさそうだから、これが真理だ、と私たちが決めるものではないのです。それは例えば、逆説的ですが、8節の言葉に良く表れています。「このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません」。このような誘い、とは言うまでもなく、ガラテヤの人たちに、「大丈夫ですよ、パウロ先生もそう教えていました」、「この際、割礼を受けちゃいましょうよ」と誘っているような人たちの言葉です。しかし、それは、あなた方を召し出しておられる方、すなわち、主であるイエス様からのものではない、というのです。すなわち、真理ではないのです。さらに言えば、真理であるかどうかは、どこから出てきた言葉であり、考え方なのか、という事にかかっているというのです。イエス様から出る言葉であるかどうかが問題なのです。では、それはどこにおいて見分けられるのでしょうか。
十字架の躓き
そのことを考えます時に、一つ決定的な目印があります。それは、十字架です。11節に「十字架の躓き」、という言葉があります。パウロはコリント書で「 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。(1:23,24)と語っています。ユダヤ人にとって、十字架につけられてしまった救い主、という考えは、完全な矛盾です。戦いに負けて死んでしまった人が、どうして世を救えるのか、という事です。それは、異邦人にとっても同じです。そんな馬鹿なことはないのです。しかし、イエス様に説得されて、あの十字架が、神様との和解のしるしだと分かった人にはたまらない、救いのしるしになるのです。
全き信頼へ
私たちは、神様を信じ、イエス様を信じ、教会を信じ、お互いを信じることができます。それは、ただ、イエス様によって説得されているからです。このイエス様の説得を受けている限り、私たちは正しい道を走り、そして、完全な信頼の中を歩むことができます。
祈り
神様、あなたは、私たちをいつもとらえ、また、説得し続けてくださいますから感謝します。それは、ただ、自分だけのことではなく、私たちそれぞれが、あなたにあることを互いに信じあう事も含まれています。私たちが互いをそのようなものとして受け止め、一つのキリストの体となっていくことができますように。この週の私たちの歩みにもあなたのみ旨がなりますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。