1月24日説教原稿

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1月24日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿です。朗読などでご利用ください

ヨハネ1:35-42 私たちの求めを越えて
時代の変わり目と私たち
この所は時代の転換の話と言ってよいかもしれません。それは洗礼者ヨハネからイエス様への転換です。そこで全く新しい時代に入っているのです。それはもう少し具体的には、ヨハネの弟子たちが新たにイエス様を師匠にするという出来事です。人間の弟子であった人たちは、神の子の弟子になるのです。それは、ある意味では、師匠を見つけ出す、ともいえるでしょうし、師匠に見つけ出される、と言えるかもしれません。そして、この所で語られていることを通して、私たちの信仰にとってただ一つだけ必要なものがあるとすれば何か、が示されているように思えるのです。今日はぜひ、一緒にこの所をたどりながら、信仰にとってこれは外せない唯一のものについて確かめたいのです。

ヨハネという人
洗礼者ヨハネがどのような人か、という事については、実は今日の所よりももっと前、1:6節以下に書かれていました。彼は神に遣わされた人、神様によって証をする人、人々が神様を信じることができるように、自分の後からくる光、すなわちイエス様ですが、イエス様について語る人でした。そのヨハネの活動はイスラエルで評判になって、この時代の信仰的指導者だった祭司長、律法学者といった人たちが、わざわざ人を派遣して、あなたはいったい何者なのか、と尋ねたほどでした。この時代、イスラエルの国はローマの属領で、あまりよい状態ではなかったようです。そしてイスラエルには聖書の伝統がありました。やがて世を救う、メシアがやって来る、いや、それよりも先にもう一度預言者エリヤがやって来る、或いはモーセのような預言者がやって来ると聖書に書いてある、というように、人々は新しい神様からの助け主の訪れを期待していたのです。そして、ひょっとしてヨハネがそのような存在ではないか、と考えていたのですが、ヨハネ自身がいや、違う、私はメシアではない、エリヤでもあの預言者でもない、ただ、荒れ野で叫ぶ声だ、と言ったのでした。ヨハネという人はなかなか、かっこいいのです。また、かっこいいだけではなく、実際に神様の言葉を語る力、誠実な信仰、そして何よりも預言者らしい風貌を持っていたようです。そしてこのようなヨハネを師匠として仰ぐ人たちが、一時かなりの数集まっていたようです。

弟子たちは尋ねられる
そのヨハネによって、弟子たちにイエス様が指し示されたところから、今日の話は始まっています。35節に「その翌日」、とあります。その前のまとまりを見ますと、ヨハネがイエス様を見るなり「神の子羊だ」と弟子たちの前で証言する様子が描かれています。その次の日、また、同じようなことがあって、歩いているイエス様を見たヨハネは二人の弟子に向かって「見よ、神の子羊だ」と教えたのです。そして、この二人の弟子は、イエス様の後をついていくという様子が36節に語られています。ここではあえて「従った」と書いてありますが、これがいわば、師匠取替の第一段階と見て良いでしょう。イエス様に興味をもって、関心をもって、その後をついていく、という事がこの時起きているのです。そしてイエス様もただ彼らをついてこさせるままにしていません。すぐに振り返って質問をしているのです。「何を求めているのか」これは、意味の深い言葉ではないでしょうか。私たちもまた、このことを自分自身に問いたい言葉です。しかし、それをひとまず置いて、この時尋ねられた二人の弟子あるいは弟子志願者たちは、少々不思議な答えをしています。それは38節にある通り、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」というものです。この言葉から、あまり多くのことを引き出すのはどうかとも思いますけれども、彼らは、少なくともイエス様がこのあたりの人ではない、という事を知っていたようです。それから、もう一つこれもあてずっぽうですけれども、彼らは、イエス様の生活に興味があったのかもしれません。しかし、いずれにしても、「何を求めているのか」と尋ねられて「どこにお住まいですか」というのは、なんとなくずれているように思えるのです。

彼らは何が欲しかったのか
それで、これもまたわたしの想像なのですが、実はこの時弟子たちには、まだ、自分が本当に何が欲しいのか、はっきりとわかっていなかったのではないかと思えるのです。もちろん、彼らはユダヤ人です。最初にお話しした通り、聖書の民として、自分たちを救ってくれるメシアが現れればよいのに、というような期待を持っていたはずです。しかし、問題は、ではメシアが現れてどうなるのか、です。それはひょっとしたら私たちが、漠然と幸せになりたい、と願っているのとあまり変わらないかもしれないのです。別の話のようで恐縮ですが、落語に「寿限無」というものがあります。新人の落語家がまず取り組むネタのようですが、ご存じのとおり、子どもの幸せを願った親が、和尚さんに相談したところ、子どもにでたらめに長い名前を付けられてしまう、という話です。その最初の「寿限無」という言葉そのものが字のとおり「ことぶき無限」です。さらに、五劫の擦り切れ、というのも、伝説に登場する岩が擦り切れてなくなるまで、という意味で、これも長い時間、という意味です。さらにたどっていきますと、食う寝るところに住む所と続きます。長生きで必要なものが何でも与えられて、という願いがこれでもかと詰め込まれているのがあの名前です。ところで、このような考え方、とにかく健康で長生きで、必要なものが何でもあって、それが幸せというものだ、という考え方を私たちは笑えるのか、と言えば、どうやら、自分たちもそのように考えている節があるのではないでしょうか。おそらく、私たちが漠然と考えている、「幸せ」の中身を言葉にしますと、案外、こんなところに落ち着いてしまうかもしれないのです。同じように「何を求めているのか」と問われた弟子たちが、「どこにお泊りですか」と尋ねたのは、イエス様についていけば、何かがあるかもしれない、という漠然とした期待の表れだったのかもしれません。

そうすればわかる
しかし、それに対して、イエス間はこのように答えておられます。「来なさい、そうすればわかる」と答えています。この分かる、という言葉が大切です。ちなみに、口語訳、新改訳、それから、最新の協会共同訳も、ここを「分かる」としていますが、古い文語訳聖書は「きたれ、さらば見ん」としています。見るのです。しかし、その後弟子たちは、実際にイエス様の泊まっている所を見たと続いています。そして、もし、イエス様の言った意味が、来ればいいではないか、そうしたら住んでいる所をいくらでも眺められる、その目で見ることができる、という意味で、分かるといったのなら、これでこのところは終わってしまっても特に問題ないのです。しかし、どうも、この所は、もっと深い意味があるように思えるのです。あえて「分かる」と訳された言葉は、「見る」とも「気を付ける」とも、あるいは「見つける」とも訳せる言葉のようです。そうしますと、イエス様は、あなたたちは私と一緒に来なさい、そうすれば、あなたたちが、言葉にできなくても、実は心の奥底で願っているもの、あなたたちが幸せになるために、本当に必要なものが何であるのか、それを見つけるのだ、それがわかるようになるのだ、といっておられると思えてならないのです。もっと言えば、漠然と幸せになりたいとしか考えられない私たちに対して、イエス様は、ついて来なさい、そうすれば、あなたは自分に必要なものを見つけ出す、と言ってくださっていると読みたいのです。

アンデレは見た
そして、実際の所、この所で、弟子たちは、自分の生涯を変えるものに出会っているのです。40節からは、イエス様に従った弟子たちが紹介されるとともに、イエス様の所に泊まった弟子たちの、つぎの日の行動が、短く語られています。ここでは、二人のうち、なぜか、シモンの兄弟アンデレだけが名前を紹介されています。もう一人がだれであったのか、諸説ありますが、ここではそれはあまり重要ではありません。むしろ、この所でまず目を止めたいのは、アンデレの行動です。41節は、「彼はまず」と始まっています。最初になのです。その日の活動の最初、トイレに行ったとか、という事は除いて、まず最初の活動に何をしたのか、というと兄弟の所に行ったのです。「まず、自分の兄弟シモンに会って」とある通りです。大切な発見をしたので、まずは一番親しい兄弟に会いに行ったのです。そして、自分たちが求めていたものを見つけた、と告げています。「わたしたちはメシアに出会った」これが、アンデレの第一声です。ここでは淡々と描かれていますが、恐らく、これはもっと強く激しく、喜びを表すような言い方で語られていたはずです。

シモンは聞いた
そして、それだけではなく、兄シモンを、イエス様の所に引っ張ってきています。これは、よほどの確信がなければできないことです。この所では、メシアとは油を注がれたものである、という淡々とした意味の解説だけがなされているように見えます。しかし、それはどうでもいいことではありません。神様に油を注がれた、という事自体、実は驚くべきことです。少し考えてみたいのですが、神様から特別な使命を与えられた人が、目の前に言える、生きて目の前にいる、という事がどのような気がするものか、想像できるでしょうか。おそらく、私たちが具体的に想像できるものとしては、大変有名な俳優、歌手、スター、といった人が、目の前にいる状態です。しかし、それ以上です。しかも、その人が自分の師匠になってくれているのです。自分と大変親しい関係になってくれているのです。その興奮と感激を兄弟に伝え、伝えるだけでは足りず、兄弟をイエス様の所にまで引っ張っていってしまうのです。ここに、本物の出会い、があります。イエス様との出会いです。そして、実は、私たちが、求めているもの、欲しくてたまらないけれども、それがなんであるか、うまく言い言い表せない幸せの中身とは、このこと、すなわち、イエス様に出会う事そのものです。

シモンは名付けられた
そして、この所では、もう一つ象徴的なことが起きています。それは、シモンに新しい名前が与えられるという出来事です。「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」。ケファとは、アラム語です。意味はここにある通り、岩ですが、ギリシャ語ではペテロです。問題は、イエス様は、シモンの名前を、この時まで、聞いていないはずだ、ということです。聞いていないけれども、シモンと知っているのです。そして、ただ知っているだけではなく、新しい名前を付けて、ご自分の特別な弟子にしておられるのです。ここで確かなのは、私たちは、イエス様を知らなくても、イエス様は、私たちを知っておられる、という事です。それも大変よく知っておられて、私たちが、どのような性質で、どうなるのが幸せで、どんな働きができるかを知っていて、それぞれに私たちに呼びかけてくださる、という事です。この後も、イエス様は、ガリラヤに向かい、フィリポやナタナエルと出会われ、彼らを弟子にされます。その一つ一つの出会いは、まさにこのような、ほかにかえがたい、出会いなのです。

私たちの求めを越えて
わたしたちは、漠然とした幸せを願う以上のことができないものであるかもしれません。そして、私たちの人生には不安が付いて回ります。しかし、私たちは、そのような人生の中で、一つだけ、大きな宝に出会うことができます。それは、イエス様との出会いです。イエス様と出会うこと、それ自体が、実は私たちの想像を超えた幸福の始まりなのです。

祈り
父なる神様、貴いみ名を賛美します。あなたは御子を私たちと出会わせてくださいますから感謝します。私たちは今既に、イエス様の弟子にされています。イエス様と出会っています。この出会いの喜びを、決して忘れることなく、何度でも、新しく味わいつつ歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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