1月3日説教原稿

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1月3日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです。朗読などに用いてください

ルカ2:15-20 「心を動かす言葉」
三つのあり方
今日の所において主役はだれなのかと考えた場合、それは羊飼いたちとなるかもしれません。もちろん、本当の主役はイエス様であり、またその出来事を明らかにした神様、であるのは間違いありません。ただ、この所で登場する、羊飼いたち、マリアたち、町の人たち、の中で最も中心的に描かれているのは羊飼いです。そして、このことは、私たちにいくつもの意味を、教えているかもしれません。例えば、羊飼い、という存在自体が、相いれない二つのイメージを共に持っていると言えます。一つは、王、リーダーシップのイメージです。ダビデ自身が羊飼いでしたし、詩編には有名な「主は羊飼い」(23:1)という言い方があります。預言書でもしばしば、神ご自身、或いは王が羊飼いにたとえられています(イザヤ40:11、56:11、エレ31:10)。一方で、羊飼いは絶えず羊の世話をしながら移動していますし、あまりきれいな職業ではありませんでした。その点では神殿を中心とした宗教体制からはみ出した、地の民と呼ばれるような人たち、胡散臭い人々に数えられることもありました。

羊飼いのあり方
この所の羊飼いたちはどちらかと言えば後の方、あまり人々から良く思われていない人たちの代表であったかもしれません。しかし、そのような人たちとのところに、まず天使が現れた、という事が、一つ前の段落で語られたことでした。そして、この所では、人々からは、最も神様から遠い、と思われていた人たちこそが、喜び勇んで、神様の出来事を見ようとして、急いで出かけていく、という様子が描かれています。15節の彼らの言葉はこうでした。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。ここではっきりとしておりますのは、神様から遠いと思われていた羊飼いたちは、全く完全にと言ってよいほどに、神様がしてくださったことを理解していた、また、信じていた、という事実です。そうであるからこそ、彼らは喜び勇んで出かけていく、という行動に出たのです。そこでなお確かめたいのは、このところは、ある意味で信仰者のあるべき形の典型である、ということです。前の段落で、言葉が与えられたのです。その言葉は、彼らの中で明確なイメージを作り出したのです。羊飼いたちが、出来事と言った時、それは、ただ、赤ちゃんが生まれた、という事だけを指しているのではないはずです。

中心にある出来事
むしろ、羊飼いたちがいう「出来事」には、「民全体に与える大きな喜び」(10節)の実現、その救い主の誕生、彼はメシアであって、そのメシアとは飼い葉おけに寝かされた赤ちゃんである(12節)、と言ったことすべてが含まれています。そうしますと、この赤ちゃんが生まれたことは、同時に、救い主としてのキリストの誕生であり、そして、それを確かめるという事は、同時に、天使が彼らに知らせた新しい救いの時代の訪れを確かめることでもあったのです。いささかややこしい言い方になりましたが、この赤ちゃんによって喜ばしい時代の訪れが確かであることがわかる、だから、これを確かめに行く、そして、実際にそれを確かめたので、羊飼いたちは、喜び、神様を賛美しながら帰って行った、というのが、この所のあらすじなのです。そして、最初にお話ししましたように、このようなありかたは、ある意味では、信仰者にとって一つのモデルケース、と言えます。しかし、いずれにしても、大切なのは、この所の中心になるメッセージは、イエスの誕生によって、喜びの時代が既に来ている、という知らせです。そして、この知らせは、この時、羊飼いたちにまず知らされ、そして、そこから先へと広がっていったのでした。ある意味では、ここが、福音伝道の始まり、と言ってもよいのです。

受け手のあり方
一方で、そのよい知らせを受ける人たちについては、すでにお話しした通りですが、ベツレヘムの町の人たちの様子がまず18節で、続いて、マリアについて19節で語られています。それぞれ一節づつですから、それほど詳しく書いてありません。特に町の人たちについては、ただ、驚いたという事だけが報告されています。これに対してマリアは、もう少し丁寧で、この羊飼いたちが語った出来事について、その場合の「出来事」とは、すでにお話しした通り、良い知らせに始まり、それが羊飼いたちに知らされ、しるしとしての赤ちゃんイエス様が発見されるという一連の出来事ですが、このような出来事を、心に深く収めて、思いめぐらし続けた、というものです。あるいは、この時から、思いめぐらすことを始めた、というようにも言えるかもしれません。それは、必ずしも、羊飼いたちのような、喜びに浸るという事ではなく、むしろ、この出来事と、自分との関係を、深く考えることに取り組み始めた、神様の出来事について考えながら生きるようになった、という事でしょう。

マリアのあり方と町の人々のあり方の意義
そこで例えば、このようなそれぞれのあり方を、信仰の段階のようにしてとらえることもできるのかもしれません。例えば、最初は神様の出来事に唯々驚く、そんなことがあるのか、本当なのか、不思議なことだ、というように、遠巻きにしているだけの状態、そして、次に、マリアのように、その言葉をまずはいったん自分の中に受け入れて、思いめぐらし、その出来事と自分と、或いは与えられた子どもの人生がどのように関わるのか、繰り返し思いめぐらし、また、思いめぐらしながら、日々の生活を送っていくようになる、そして、さらには羊飼いたちのように、約束の言葉を、約束の言葉として、受け止めて、それを確かめ、確かに神様は自分の人生の中で、約束を実現してくださっている、という事を確かめて、喜びとともに神様を賛美しながら、帰って行く、という、信仰者として、充実したあり方にたどり着く、というようにです。いわば、信仰者の段階があるというような見方です。その昔のお正月のすごろく遊びのように、各段階を踏んで、より充実した、優れたキリスト者へと昇っていく、といった見方をすることもできるのかもしれません。しかし、一方で、そのような、一つの方向、上に登っていくばかり、よりよいあり方へ、というような見方が本当に良いのか、とも思うのです。牧師がこのような言い方をするのは不謹慎であるかもしれません。しかし、キリスト者は、一つのあり方しか許されないという事ではない広がりがあるはずで、むしろ、私たちの現実はそのようなものであるかもしれないのです。例えば、以前伝道者の書と言われていたコヘレトには有名な言葉があります。「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(3:1)。

どのあり方もありうる
神様が、時を定めておられて、ある人にとっては、神様の知識に目が開かれる時であっても、ほかの人にとっては、ただ、驚いて眺めていることしかできない、また、別の人にとっては、与えられた印象を心におさめる時である、という事は十分にあり得ることです。あるいは、私たちは、この三つの状態、町の人々のようなあり方、マリアのようなあり方、羊飼いたちのようなあり方の間を、絶えず揺れ動いているのかもしれないのです。ある時に、ある出来事については、神様の御心がよくわかるけれども、別の出来事、別の場面では、よくわからない、というようにです。むしろ、あまりにも当然ですが、私たちは、全知全能でも、万能でもなく、失敗しながら生きていくしかない、という当たり前のことを、まずはしっかりと確認した方がよいのかもしれません。そのうえで、私たちは、この羊飼いたちのように、神様から与えられた言葉が、本当に現実となっていることを見て、喜んで神様をほめたたえる、そのような時を生きることもまた、十分に可能なのだ、という事を、改めて確認したいのです。しかし、たとえ、そのような出来事に行き当たったとしても、それは、ただ一度きりの決定的な出来事や、何らかの立場を私たちに与えないのです。これさえあれば、これで十分、これで完成、もう何もしなくてもよい、というような思いは、信仰者の持つべき態度ではないのです。


この所で起きていること
むしろ、私たちは、この一年を始めるにあたり、この所の聖書で描かれていることを、全体的な視点、より大きな視点で眺めたいのです。それは、そもそも、この所の登場人物たちに働きかけているのはだれか、という視点です。羊飼いたちは、言いました。「さあベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。もちろん、ここで羊飼いたちに出かける動機を与えたのは、主なる神様です。そして、その出来事の中心にあるのは、イエス様のご誕生であり、それもまた、主なる神様の出来事です。それは間違いなく、神様の約束の実現であり、神様の愛の実現であり、神様のこの世への最大の働きかけです。それが実現したことを確かめることへと、この時、羊飼いたちがまずは用いられています。そして、彼らの声を通して、町の人たちにこの出来事が伝えられ、マリアにも伝えられ、そして、マリアの心の中に、新しい理解が与えられたという事はすでに確認した通りです。しかし、これらすべては、たった数時間の間に起きたことで、これらの出来事の中心にいるのは、神様ご自身です。そこではっきりとしてくることがあります。それは、神様は休まれることなく、神様ご自身の力で時に適って新たな出来事を私たちに与えられ、そして、私たちがそれぞれのあり方でそれに触れるままに、ご自身の出来事を、前に前にと進めておられるという事実です。

自分の位置を見つける
もっと言えば、私たちが、自分自身の問題にキリキリしている時に、仕事でぶつかった難問にかかりきりになっている時にも、家庭の悩みに没頭している時にも、病を得て、痛みに心を奪われ、癒し以外の何も考えられなくなってしまっている時にも、神様は、新しい業を始められ、私たちがそれをどのように受け止めようとも、ゆるぎなく、ご自身の業を、私たちを巻き込んで先へ、先へと進めておられるという事実です。詩編にはこのような言葉があります。「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない」(121:4)。私たちは、このような神様の御業の中の、ほんの一時を、しかし、神様の御業の中にあるものとして生きています。ベツレヘムの町の人たちが、つぎの日の朝も普通に生活したように、羊飼いたちが、喜びながら、仕事へと荒れ野に帰って行ったように、マリア達が、律法に従って、赤ちゃんイエス様を、まさにイエスと名付け、割礼を施したように、それぞれになすべきことをしながら、しかし、神様の御業の中を歩んでいくのです。

心を動かす言葉を求める
そこで、一つだけ、確かめたいことがあります。いま、このようにして礼拝の時が与えられ、聖書の言葉が読まれ、語られているというこの事実をどのように受け止めるのかです。この所で、神様の言葉が、神様の言葉として受け止められている以上、神様の出来事はここに届いています。そして、神様の出来事を告げる言葉は、新しい出来事を引き起こします。それが、どのように受け止められるとしても、新しい出来事を引き起こします。私たちは、この一年をかけて、私たちそれぞれの仕方で、み言葉に驚き、み言葉を心におさめ、み言葉の真実に出会って喜び賛美する、そのようなありかたを一つでも多く体験することを、求めて行きたいのです。

祈り
父なる神様、新しい年が与えられました。あなたのご支配の中で私たちは新しい歩みを始めています。それは、あなたと共にある時の新しい始まりです。年を越えてもなお変わらない苦難があります。コロナ禍ばかりでなく、私たちそれぞれに固有の問題も絶えず頭を悩まします。しかし、その中であなたのみ旨をたずね、それを生きることが許されています。この週の歩みにもまたあなたの言葉とそのみ旨が鮮やかに示されますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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