12月27日説教原稿

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12月27日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

ルカ2:22-38「新しく立ち上がる日」
ささげられたもの
今日の聖書は全体で四つの段落があります。少々長くなっていますけれども、今一緒に考えたいのは、「ささげられたもの」ということです。この所ではまず、イエス様が生まれた少し後の出来事、律法によって定められた清めの期間の後に、これもまた律法に従って、赤ちゃんであるイエス様を神様にささげるためにエルサレムに登るという事が語られています。ちなみにこのような律法としては、出エジプト記(13:12)や民数記(3:12、18:15)などが挙げられますが、とりあえずこのルカに引用された言葉で言いますと「聖別」という言葉について考えてみます。これは、神様のものとなる、我々に引き寄せて言えば、神様のものとされる、ということです。他から区別されて、神様の人にされる、ということです。ただし、その状態から、贖い代によって買い戻されるのです。そうして自分の人生を始めていくのです。このイエス様の人生の始まり方はしかし、イエス様だけのことでしょうか。今日、一緒に考えたいのはこのあり方です。神様のものなのだけれども、この世に戻されて生きていくというあり方です。

神のものとしてのシメオンとアンナ
そのような生き方のある意味で代表として二人の老人の生き方を確かめたいのです。一人は25節から登場して、この所の中心的な存在となっているシメオンという人です。そしてもう一人は36節で女預言者として紹介されているアンナです。この二人について、その人生の詳しいあり方はあまり語られていません。ただ、アンナは若いころに結婚生活をして、7年後に夫と死に別れた、とあります。そうしますと、彼女はごく当たり前の生活をしていた、という事になります。そしてやもめとなってからは神殿中心の生活に入った、という事です。その意味では、シメオンもまた、当時のイスラエル社会の常識からしますと、普通に結婚をしていた可能性は高いのだと思います。ひょっとしたら孫もいたのかもしれないのです。ただ、そのようなごく普通の生き方の中で、神様のものとしても生きていたのです。この所がとても大切な点です。神様の人として生きるというのは、隠遁生活、世捨て人になるということではないのです。例えば私たちにしましても、神の人だから、それらしいこと以外は一切しない、家族も何も顧みない、というのではありません。例えば修道院のようなところに特別に召しを感じているという人はいるかもしれません。しかし、それはキリスト者皆がすべきことではないのです。むしろ、本当に普通の生き方をしている人の人生の中に、約束の言葉が入ってきて、そして、日常生活をつづけながら、ある意味で普通の生活はそれとしてこなしながら、その中で神様と向き合っていく、というあり方なのです。ではそのシメオンとはどのような人だったのでしょうか。

シメオンと信仰
彼は「正しい人で信仰があつく」とあります。それはより具体的には、「イスラエルの慰められるのを待ち望む」というあり方に現れています。そして、この場合の慰めは、より具体的には、神様との関係において与えられていくものです。先週、キャンドルサービスで、詩編42編を読みました。その3節にこのような言葉があります。「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。」魂が、私たちの深い所で、神様への飢え乾きがある、神様を肌身に感じて、幸福な時を過ごす、そのような麗しい時はいつ来るのか、という強い願いです。そこで、しかし、私たちはなお、自らを省みたいのです。私たちは本当に、このような意味で飢えを感じているのかについてです。少なくとも、私たちが暮らしております日本社会、世間一般を見ますと、そもそも、神様との交わりの麗しさ、と言ったこと自体、ほとんど意識されていないように見えます。それでは、誰も神様のことなど、考えていないのかと言えば私はそうは思いません。おそらく国や宗教を越えて、人間の中には基本的に、神様に頼りたい、神様に求めたい、「ああ、神様」と呼び掛けたい、そのような思いがあるのではないでしょうか。そしてシメオンはこの意味で、少なくとも彼の時代の中でもやや特別な人だったようです。同じ25節の後半で、彼の上に、聖霊がとどまっていたとあるからです。私たちに先立って、多くの人類に先立って、聖書の神様との関係を深く体験していた人の一人、それがシメオンです。

約束に生きるシメオン
このような神様との麗しい関係を求めているシメオンに対して、約束の言葉が与えられています。これもまた聖霊によるものだったと26節に書いてあります。神様の霊が語り掛ける、ということについて、私たちはあまりピンとこないところがあります。本当に奇跡的な仕方で、頭の中に言葉が響いてくる、という事もあるかもしれません。しかし、多くの場合には、それは、聖書の言葉として、あるいは説教の言葉として、あるいは他の信仰者が語る言葉として、示されていくものだと思います。その意味では、これは、私たちにとってもあり得ることです。私たちもまた、様々な仕方で言葉が与えられるはずなのです。問題は、それを、どのように受け止めていくのかです。シメオンに与えられた言葉は「メシアに会うまでは決して死なない」というものでした。この言葉がいつ与えられたのかはわかりません。ひょっとしたらとても若い時だったかもしれませんし、中年になってからかもしれません。いずれにしましても、この約束は、すぐにでも実現しそうなものではないのです。一週間や二週間待っていればどうにかなるようなものではないのです。そして、実際に、シメオンは、この言葉が与えられてから、かなり長い時間を経て老人となっていたのです。もう少しで人生が終わる、という段階になってもこの言葉の実現をまだ見ていなかったのです。その意味では、この言葉は、一生物の言葉と言えます。いつ言葉を手放してしまってもおかしくないのです。「実現するわけがない」という疑いが何度もやって来たかもしれない中で、しかし、手放さずに待ち続けていたのです。そして、おそらくそれを支えているのも神様の霊なのです。

シメオンの喜び
そうであるからこそ、聖霊によって導かれて神殿に出かけたシメオンが、ヨセフたち一行と出会った時の喜びは、大変なものであったのです。一見すると、たまたま、律法に従って神殿に子どもをささげるために登って来た普通の親子にしか見えない、ヨセフたちに出会った時、シメオンはいきなり赤ちゃんのイエス様を抱き上げて、神様をほめたたえ始めています。彼の言葉は勝利の叫びです。「主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせてくださいます」。永らく待っていたのです。もはや、当時の標準よりも長生きしてしまっていたのかもしれません。しかし、まさにこの時、神様から与えられた言葉、約束の言葉が実現しました。神様の言葉に信頼して待ち続けた人には、勝利があります。神様の言葉をまっすぐに聞き取り、それに信頼し続ける人を、神様は必ず顧みてくださるのです。それは私たちにとっても全く同じです。ただ、このようなところを読みます時に、忘れてはならないことがあります。それは、そもそも、シメオンが何を待ち望んでいたかです。シメオンが待っていたのは「イスラエルの慰められる」ことでした。そして、彼に与えられた約束は「メシアを見る」でした。そして、この時、イエス様を見たことによって、シメオンは「救いが見えた」と言ったのでした。救いの実現、神様からのやすらかさ、神様からの平安、神様からの慰め、それはイエス様によって実現しているのですが、同時に、それは見出されるものです。

啓示の光
その意味では31,32節の言葉は大切かもしれません。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光」。この所を新しい協会共同訳聖書は「万人の前に備えられれた救い」と訳しています。すべての人の前で、その面前で、目の前に、救いはやってきている、イエス様という姿でやってきている、という意味になります。そして、それは、光のように啓示されているのです。ちなみに、この啓示という言葉は隠されたものが明らかにされる、という意味です。見たいと思っても見えなかったもの、それが、見えるようになる、というのです。神様なんか関係ねえ、と思っていた人に、神様が見えるようになるのです。神様の救いなんて知らない、と言っていた人が、救いの喜びを知るようになるのです。では、それはどのようにしてでしょうか。この時、突然、大きな喜びの言葉をもって、神様をほめたたえだしたシメオンを見て、父と母は、「驚いていた」と33節にあります。神様の言葉は、そして、神様が人に語らせる言葉もまた、驚きを引き起こします。神様の言葉は、驚きの言葉として、まず与えられるのです。

神の言葉と人の思い-思いが明らかになる
しかも、それは、当惑させる言葉、場合によっては怒りを引き起こす言葉ですらあるかもしれないのです。あるいは、実際にそうだったのです。シメオンが続けて、マリアに語った言葉は、ある不気味さを含んでいました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」神様の言葉がわたしたちに臨むときに、私たちの中に何があるのか、あるいは何がないのかが明らかになります。そして、その事実に耐えられない人は、反対の声を上げるというのです。イエス様ご自身が、反対の思い、敵意、憎しみをぶつけるしるしになる、というのです。そのようなことが起こるので母マリアの心もまた激しい痛みで刺し貫かれるとすら、言われています。そして、実際に、このことはすべて実現しています。しかし、忘れてはならないのは、これは祝福の言葉としても語られていることです。そして、それは倒したり、たてたり、という事によって実現します。

倒したりたてたり
その際、この「たてたり倒れたり」という言葉を、私たちにも直接関係する言葉として、聞きたいのです。私たちは、場合によっては倒されるのです。私たちの古いもの、おかしな思い込み、と言ったものは、倒されます。しかし、神様の言葉を受け止める人は、その言葉によって、新しく立ち上がるのです。そして、私たちを立ち上がらせるのは、このメシアとして生まれた、幼子についての言葉です。アンナが、エルサレムの救いを待ち望む人たちに、幼子のことを話して聞かせたように、世々の教会はイエス・キリストについて話してきました。今も話しています。この言葉を受け止める人こそは、神様によって立ち上がらせていただくのです。

新しく立ち上がる日
新しい年が来ようとしています。しかし、年とともに私たちの肉体は古くなり、心もまた、疲れをおぼえることが多くあるかもしれません。その中にあって、私たちには、信仰が与えられています。神様の言葉を聞く信仰です。この信仰において、み言葉に向かいます時に、私たちは、また、新しく立ち上がるものとされます。

祈り
父なる神様。一年が終わろうとしております。苦難がありました。その中から、うめく声があります。あなたは、このうめきに答えを与えてくださっておりますから感謝します。あなたの答えである主イエスを私たちが、あなたからの贈り物として、ますます喜びつつ受け取ることができますように。新年に向かうこの週の歩みにあなたが新しい希望の光を与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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