毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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マタイ1:18-25
マリアと同じ?
今日の所は、ある意味では先週一緒に読みましたルカによる福音書と似ています。あちらでは、マリアに天使が現れ、マタイではヨセフに、夢の中ではありますがやはり天使が現れ、これから起こることを語るというあり方です。また、両方ともに、天使との言葉のやり取りの中で、ヨセフとマリア、それぞれの思いが変えられていく、という様子もよく似ていると言えます。ただ、この所を読んでいきます場合には、個人的な信仰や、内面の変化という事も大切なのですが、同時に、この時に一体何が起きているのか、という事をよく意識たいのです。特にここでは、「イエスと名付ける」という言葉があります。イエスという名前は、もう少し元の音に近く言えばヨシュアで、よくある名前だ、と言われています。けれども、ただありふれた名前なのではなく、「救う、助ける」という意味の言葉と関係している言葉です。そうしますと、問題はこの「救い、助け」とはいったい何なのか、です。今日、このクリスマスの日に、私たちに実現している、「助け」について一緒に考えたいのです。
ヨセフの正しさ
そこでとりあえず、ヨセフについての言葉を確認します。19節にこうあります。「夫ヨセフは正しい人であった」とあります。この場合の正しさとは人間として正義感が強い、正直である、という意味も含みますがそれ以上に、神様の前に正しくある人、あるいは正しくあろうとする人、という意味です。例えば、ルカによる福音書に登場する洗礼者ヨハネの父母であるザカリヤとエリサベトも正しい人と書いてありますし(ルカ1:6)、神殿でイエス様たちに出会って赤ちゃんのイエス様を抱き上げて神様をほめたたえたシメオンという人もやはり「正しく信仰に篤い」(ルカ2:25)とあります。このようにいつも神様と共に歩もうとする正しい人の一人にヨセフも数えられていた、というのです。しかし、この19節の言葉には続きがありました。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにすることを望まず」。この時代、婚約関係というのは結婚に準じたものとみなされていたようです。だから結婚前でも「夫ヨセフ」ですし、20節では天使が「妻マリア」と言っているわけです。ところが、二人が一緒に暮らし始める前に妊娠が明らかになってしまったのでした。ヨセフは自分ができる最善の道として、マリアをさらし者にすることなく、ひそかに離縁しようとしたのです。それは、愛から出る配慮です。問題を公にしてしまえば、マリアは処罰される可能性もあったのですが、そうはしない、ただ、このまま結婚もできない、悩んだ末に出した、ヨセフとしての正しい結論が、これだったのでしょう。
神の正しさ
しかし、そこで、しつこい様ですが、ヨセフの正しさとは何だったのかを思い出していただきたいのです。ヨセフの正しさ、それは神様の御心を実現したい、という正しさでした。神様と共にあることを目指す、という意味での正しさでした。そして、この所ではっきりとしているのは、少なくともこの場合、神様が望まれているのは、マリアを去らせることではありません。むしろ、マリアを迎えに行くことです。天使は夢の中で言います。「ダビデの子ヨセフ、恐れず、妻アリアを迎え入れなさい」。当時の結婚式は、花婿が、花嫁の家に、迎えに行くというものであったようです。言葉通り、お嫁さんを自分の所に連れてくるのです。それまでの生活から引き離して、自分の生活の場に連れてくる、そこから、結婚生活が始まるのです。その際天使の先ほどの語った一言に注目してみます。「恐れずに」とあります。種々に恐れがあるのです。周りの人たちから、何を言われるかわからない、律法にも従っていないように見える、というような恐れが、ヨセフの中には渦巻いていたことでしょう。しかし、たとえそうであったとしても、恐れてはならない、というのです。むしろ、本当に恐れるべきは、別にあるともいえます。本当に恐れるべきは、神様が、といいつつ、実は神様の御心から離れてしまう事です。
私たちの罪?
そこで改めて確認したいことがあります。21節には「この子は自分の民を罪から救う」とあります。罪にはさまざまな事柄が含まれますが、先ほどお話しした通り、神様の御心から離れていく、的外れになってしまう、これが罪の本質です。そして、「自分の民」とありますこともよく考えたいのです。そのまま読めば、イスラエルの民、ユダヤ人たちのことと思われます。一方で、洗礼者ヨハネは、そのユダヤ人たちに向かって、「我々の父はアブラハムだ、などと思ってもみるな」(マタイ3:9)と言いました。血の問題、民族の問題ではない、というのです。むしろ、神様に招かれている人こそが、イエス様にとっての「自分の民」というように考えることができます。そして、そこではっきりとしますことは、そのイエス様の民、それは私たちも含まれていますが、イエス様はその民を「罪」から救う、とある以上、イエス様の民もまた、罪の中にある、という事です。この場合には、私たちもまた、しばしば、的外れなことをするもの、と言われていることになります。そして、私はその通りだと、自分のことを振り返りながら、思わずにはいられません。私たちは、神様のため、教会のため、と思いながら、空回りしてしまっているところがあるのかもしれません。私たちが、自分だけで、こちらが正しい、と考えている限り、いつでも、このような罠が待ち構えているのではないでしょうか。
救うとは?
その意味では、マリアを去らせるしかない、そのように一人で思い詰めているヨセフの姿は、私たちの姿であるかもしれないのです。しかし、そうであるからこそ、神様は、一人きりで突っ走ってしまわないように、夢の中で語りかけてくださいました。そちらの方向ではない、というのです。関係を切っていってしまう、それで正しさを得ていく、という方向ではない、むしろ、その逆にこそ、歩むべき道がある、とみ使いによって語り掛けてくださっているのです。マリアを迎えに行き、生まれてくる子に、イエスという名、主は救いという名をつけるようにというのです。なぜなら、この一連のことは、預言者によって既に知らされていたことだからです。ほかでもない、神様の御心、それは、はるか昔から明らかになっていたのでした。この所で引用されているのは、イザヤ書7章の言葉です。「見よ、乙女が身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。こちらこそが、神様が願っておられることだ、だから、あなたはこちらを選ばねばならない、これが、ヨセフに与えられた夢のすべてです。そして、そのことによって実現するのは、ほかでもない、「インマヌエル」です。この所の解説にありますとおり、それは「神は、我々と共におられる」という意味です。インマヌエルという名の子どもが生まれる時に、神様と、人、人と人とが、つながっていくのです。そして、その転換点となるのがこの時のヨセフです。
聖霊により
ヨセフの思いが変えられています。それはどのように変わったでしょうか。18節を見ますと、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。わざわざ、「聖霊によって」と書いてあります。これは事実を語る言葉です。その意味で、マリアには全く不正がありませんでした。しかし、ヨセフにはそのことがわかりませんでした。実際の所、マリアとヨセフの間で、また、彼らの家族の間でどのようなやり取りがあったのか、この所には描かれていません。ヨセフには、ヨセフなりの、様々な葛藤があったのでしょう。そして、出した結論は、神様を計算に入れないものでした。神様のお働きを勘定に入れず、むしろ、マリアが不貞を働いた、というごく当たり前の、結論に達したからこそ、マリアを去らせる、という決断になったのは明らかです。しかし、夢の中で、天使は改めて「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と言い聞かせるようにしています。そして、ヨセフはこの言葉で思いが変えられるのです。はっとするのです。今までの考えが、百八十度変わってしまうのです。それは一人ではできないことです。一人ではできないことが、神様のお働きによって実現しています。
インマヌエル-迎えに行く勇気
救い、とは、恐らく抽象的なことではありません。何となく、ふわふわとした、感情でもありません。もっと、具体的なものです。「神は我々と共におられる」という事は、私たちのあり方が、変わっていく、という事です。私たちの行動が変わっていくことです。この所では、ヨセフの行動が変わりました。夢から覚めた時、ヨセフはそれまで考えていたのとは、まったく逆のことを始めています。24節に「主の天使が命じた通り」とあります。ここでは、ヨセフはもはや、自分の考えた通りにしていません。自分だけの考えで動いていません。そうではなく、主の天使、主が伝えた言葉、その言葉に従って自分の人生を歩み始めています。それは、一人きりの歩みではなく、神様と共にある歩みです。そして、神様と共にある歩みの中で、神様の御心が実現していきます。その手始めにヨセフがしたこと、それは、マリアを迎えに行くことでした。もはや、回りがどのように見ようとも、また、自分自身のこだわりが、違うと言おうとも、こちらが正しい、と示されたことを行う事へと、ヨセフは一歩踏み出しています。そして、それこそが、インマヌエルという言葉の中身です。神様の御心と共に歩んでいるからです。
助かるとは-イエスという名
そして、神様と共に歩んでいるのならその中で、起きるべきことは必ず実現していきます。今日の最後の所で「その子をイエスと名付けた」とあります。イエスという名は、「神は救い」でした。そして、その救い、助けとは、神様が共にいてくださる、ことでした。そのような救いをもたらす、一人の人、イエス・キリストが、生まれました。そして、まさにその働きを示す、イエスという名前が付けられたのでした。この赤ちゃんが生まれたことから、神様の救いは、もう私たちにとって、手が届くものとなっているのです。
クリスマスに始まったこと
クリスマスは、新しい始まりです。それは、私たちのあり方を百八十度かえてしまう方、イエス様が生まれられたという意味での新しい時代の始まりです。最後に詩編の言葉を読みます。「130:6 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。130:7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。130:8 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。」すべての罪からの贖い、すべての的外れから、正しい方向への転換、それはもう始まっています。
祈り
父なる神様。あなたは、一人子であるイエス様を私たちに遣わしてくださいました。それは、あなたがはるか昔から約束してくださっていた、罪からの贖い、様々な的外れから私たちをご自身へと引き戻して下さることの始まりです。私たちがこの新しい事実に基づいて、この週も力強く歩むことができますように助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。