12月13日説教原稿

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12月13日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです。朗読などで使用してください

ルカ1:26-38 「人生丸ごと」
もやもやのわけ
今日の個所もまたクリスマスには良く取り上げられる箇所です。記録によりますと2年前にもアドベントの時期に説教していまして、おそらく私がこの教会に赴任してからこれで4回目だと思います。ただ、毎回思うのですが、この箇所の説教は正直に言いますとあまり得意ではありません。何となく語りにくさをおぼえます。その理由はいろいろなことが言えるかもしれません。ただ、はっきりとしておりますのは、この所は、女性の出産が問題になっているという事です。もっとあからさまに言いますと、性の問題が関わっています。教会において、もっともスキャンダルになりやすいのが性に関わることです。今日の所でもマリアは天使の言葉に戸惑っています。しかし、そのような意味で最も動物的であり、また、罪との関わりで捉えられやすい人間の性を神様がご自身のために用いてくださっている箇所という事もできます。ここでは、マリアの存在、マリアの肉体、マリアの人生、それが神様によって用いられている、そのように読むのが正しいのでしょう。そしてそれは、私たち自身の人生について考えることにもつながるはずです。

パウロにとっての生むこと
とはいえ、このようなところを読みます時に、特に男性である私には、もう一つ戸惑いがあります。それは、産む、という体験をなかなか自分のこととして理解できない、という問題です。それはある意味では仕方がないと言えます。ただし、そのように考えながら思い出したのはパウロの言葉です。パウロは今年アドベントの直前まで読んでおりましたガラテヤ書で、ガラテヤのキリスト者たちに向かって、あなたたちをもう一度産もうとしている、と書き送っていました。それはこんな言葉です。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(ガラ4:19)。もちろん、これは比ゆ的な言い方です。ガラテヤの人たちが、初めてイエス様を知った時に受け取った、純粋で真実な信仰からそれようとしている、その時に、パウロはもう一度、あの神様との麗しい関係に戻ってきてもらいたいと願い働きかけていたのでした。そのことを彼は「産む」という言葉で表しています。いわば、原点に戻ることです。それをパウロは「生む」と例えたのでしょう。それは一人ひとりのキリスト者の側からすると「生まれる」体験と言えます。私たちも、皆様も、ある時、教会に導かれて、或いは、教会の子どもとして育って、そして、自らイエス様と出会ったことによって、新しく生まれたはずなのです。そして、実は、この生まれるという事が今日の個所を理解するために、とても大切なのではないかと考えています。

産む前に必要なこと
この所では、マリアは、実際的、肉体的にも、子を産むことになるのですが、しかし、それ以前の問題として、まずはマリア自身が、神様の前に新しく生まれているのではないか、というように、私はこのところを見ています。マリアは変化しています。マリアは生まれ変わっています。その生まれ変わったマリアは、神様のご計画に従って、イエス様を産むことになるのです。そうしますと、産むことの前に、まず生まれることがある、はずです。そして、それは、マリアだけに限らず、教会に集まるキリスト者である私たち一人ひとりにも言えることではないでしょうか。私たちは、パウロと同じ働きをすることはできないかもしれません。しかし、パウロが、「もう一度あなたたちを産もうと苦しんでいます」と言ったように、わたしたちもまた、この教会において、新しく生まれる人のために何かをしたい、と願うのであれば、具体的な一つひとつの奉仕について吟味することも大切ですが、同時に、私たち自身が、この所で示されております、神様のマリアへの働きかけ、そこで、何が起きて、マリアがどうなったのか、マリアのあり方が全く変わっていくというそのあり方について、よく確かめるのが近道です。私たちが新しく神の国に入る人を生み出すために、まずは、そもそも、新しく生まれるとはどのようなことなのかを、この所から確認したいのです。

何という幸い
今日の聖書は、前の段落での出来事、すなわち、マリアの親類にあたるザカリア夫妻に子どもが与えられた時から六か月後に、ナザレの町に住むマリアのところに天使ガブリエルが突然現れて挨拶をする、というところから始まっています。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共にいる」と最初に告げています。マリアは、これはいったい何のことなのか、考え込んだと次の29節で書いてあります。このマリアの戸惑いはよくわかります。天使が現れるという事自体、当たり前のことではありません。さらに、あなたは恵まれた方だ、と言われても、一体何のことなのか、と思うのも仕方がないように見えます。しかし、この言葉は、とても味わい深い言葉であるかもしれません。「恵まれた方」という言葉は、もう少し丁寧に言い直しますと「神様の恵みを授けられた人」となります。恵みが向こうからやって来るのです。神様が一緒にいてくださって、神様が恵みを上から嫌というほど、注いてくださる、という感じです。旧約聖書の創世記では、ヤコブが、み使いと相撲をとって、「恵んでくださるまでは決して放しません」と無理に恵みを受け取ろうと格闘した様子が描かれていまして(創32:27)、あれはあれで一つのあり方なのでしょう。しかし、この所では、マリアは、そもそも、そのようなことは考えていないのです。

行き違いこそ
特に何かを求めているわけではないマリアのところに、むしろ神様の使いが押しかけてきています。恵みが向こうからやって来るのです。その恵みの内容は、はるか昔、ダビデ王に与えられた約束の、思いがけない仕方での実現、ダビデの王座を継ぐばかりでなく、終わることのない支配を確かにする男の子がマリアによって生まれる、それも今すぐにそれが始まる、というものでした。これに対してマリアはすぐに言い返しています。「どうしてそのようなことがあり得ましょう。私は男の人を知りませんのに」。それは絶対にあるはずのないこと、あるいは、あってはいけない事でした。ここで改めて確認したいのは、この知らせは、マリアが望んだのではないということです。神様の祝福は、マリアが望むような形で、マリアが受け取りやすいようなあり方で、やってきたのではありませんでした。むしろ、マリアが思ってもいないあり方で、突然告げられても困ってしまうようなあり方で、目の前に現れたのでした。そして何よりもはっきりとしているのは、マリアはこの言葉に納得していない、という事実です。このこともまた、大切な気づきを与えてくれます。それは、神様の恵みが開かれる時に、そして、私たちが新しくされる時に、それは、私たちの想像を超えている場合がある、私たちが、是非そうなってほしい、あるいは、このようにしてほしい、という事を越えて、神様の恵みは動いていくものらしい、ということです。

聖霊に包まれて
もう少しはっきりと言いますと、私たちが、新しく生まれるという場合には、それは私たちの力では足りないのです。私たちが作り変えられるためには、わたしたちは全く無力ですらあるかもしれないのです。そして神様は、まさにそのような私たちに働きかけてくださるのです。35節の天使の答えは丸ごとよく味わいたい言葉です。「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」。「聖霊があなたに下さり、いと高き方の力があなたを包む」という言い方は、ほぼ同じ出来事の言い換えです。神様が聖霊なる神を遣わしてくださるのです。そして、その聖霊なる神は、この場合には、マリアを包み込むようにして一緒にいてくれるし、そのようにして、実際にマリアの心と体に変化をもたらす、というのです。それは、この地上において、私たち人間に、神様が共にいて働きかけてくださる、というあり方です。そして、それは、マリアだけのことではありません。なぜなら、私たちもまた、洗礼を受けて、聖霊のお働きを私たち自身に受ける物となっているからです。そして、そのような聖霊のお働きは、なにも、マリアのように、不思議な形で子どもの母になる、という事に限りません。むしろ、それは、その次に語られております、老人となっていたエリサベトの妊娠と同じように、不可能に思えることが実現する、という見本の一つです。

突然の変化
それゆえ、私たちは、この天使の言葉と真剣に向き合う必要があります。「神にできないことは何一つない」。とはいえ、私たちは、この言葉をなかなか素直に信じられないところがあります。神様はわたしの人生を本当に顧みてくださっているのだろうか、神様は、この教会に本当に働いてくださっているのだろうか、なぜ、日本の教会には力がないのだろうか、なぜ、伝道はなかなか進展しないのだろうか、なぜ、神様の約束は、実現していかないように見えるのか、と考えます。しかし、わたしたちが、そのように考えている、そこに問題の本質があるのかもしれません。問題の本質、それは、私たちが、いつでも、こうあるべきだ、こうなるべきだ、こうあってほしい、という事から離れられないという点にあります。しかし、神様は、そこを変えてくださるのです。少なくとも、この時のマリアにおいては、そうでした。マリアには、急激な変化が訪れました。三度目の天使の言葉の後で、マリアが願ったのは何だったでしょうか。それは、自分の願いが実現することではありませんでした。むしろ、その逆です。マリアは言います。「お言葉通り、この身になりますように」。私の願いではないのです。私の願いではなく、神様の御心の通りになりますようにと言えるものへと、マリアは変えられたのです。

僕になる
さらに彼女は、この所で決定的な言葉を語っています。それは、「私は主のはしためです」という宣言です。「はしため」という言葉は、女性差別的な響きがあるように感じますが、意味としては僕です。召使です。別に女性だけの話ではありません。ここで私たちの立場が、決定的に変わるという事が言われています。それは、僕の立場に立つ、それも、自分から、堂々と宣言して、神様の僕の立場に立つ、というあり方です。そしてそれは、私たち自身の思いによる宣言ではなく、神様によって、分からせていただく、という仕方での宣言です。神様によって、新しく生まれた人が、改めて、自分は神様に仕えるものだ、神様の召使だ、と気づいて口にする言葉です。そして、神様の僕となった人に、神様の約束がなっていくのです。マリアこそはその先駆けです。

人生丸ごと
このようにしてマリアの人生は、丸ごと神様のものとなりました。しかし、それは、負けでも、悲惨でもなく、むしろ、最も幸福な立場であり、最も自由な立場に入れられることです。神様の僕であることは、この人生丸ごと神様の手の中に守られている状態だからです。私たちが、このような自分の立場にますます目が開かれていくのなら、私たちを通して、ますます神様は、約束を実現してくださるはずです。そして、私たちは、本当に、神様に不可能なことはない、という言葉を理解するものにされていきます。

祈り
父なる神様。アドベントの季節を共に生きております。あなたの訪れを待っています。しかし、私たちは本心からあなたのものとなりたいと願っているかと疑う時があるかもしれません。どうぞ私たちを顧みて下さり、私たちをあなたの光と力で包んで下さり、ご自身の僕としてたて上げて下さい。クリスマスに向かうこの週の歩みにあなたのご栄光が現れますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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