毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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「よい思いで生きる」
目を覚ましているか?
今日からアドベントになります。もともと「現れる」とか「やって来る」というの意味の言葉です。新しい時が来ている、と言えます。そして今日の聖書を一言で言えば33節の「気を付けて、目を覚ましていなさい」になります。新しい時の中で目を覚ましている、というのです。もちろん、これは、比喩的な言い方です。毎日寝ないでいるという事ではありません。例えば、先ほどの、気を付けて、と訳された言葉は、「見る」という意味もあります。そして、新しい時とは、神様の時と言ってよいかもしれません。そうしますと、私たちを含めて世界は、この神様の時に入っているのです。それで、私たちは、この事実をしっかりと見て、味わうように、と語り掛けられているのです。そうしていることが、そのまま、目を覚ましている、という言葉の意味です。このように語りますと、恐らく今日の説教で語るべき言葉はすべて、語ったといえるかもしれません。そのうえで、応用編、というのでしょうか。もう少し具体的に、「神様の時に生きる」とはいったい何なのかを考えてみたいのです。
神の国は近づいた
そこでそもそも、「新しい時」とはいったい何なのかから考え始めます。今日の聖書では32節に「その日、その時」とあり、さらに33節でも「その時」とあります。この場合の「その時」とは、これからやって来る特別な時です。ただし、それはただ未来の出来事ではありません。私が、「新しい時が来た」と言ったのは、もう既に来ている時を含んでいます。では、もう既に来ている新しい時は何かですが、言うまでもなく、それは、イエス様が来てくださったこと、ただ来てくださっただけではなく、神の国の接近を宣言されたことです。では、神の国はどうやって、私たちに近づいているのでしょうか。より具体的には、イエス様が十字架によって罪をあがなってくださったこと、贖いとは買い取りの意味ですが、それがまず出発点です。そのイエス様の贖いは、誰かひとりのためではなく、私たち一人一人のためであって、しかも、そのイエス様は、2000年前に、天に昇って、それで私たちと関係がなくなったのではなく、今は聖霊において、私たちと関係を持って下さり、そのようにして、私たちが聖霊の働きかけを感じ取って、イエス様を信じる、というあり方で、私たちと神様とを結び付け、神の国に入れてくださる、という独特のあり方です。
イエスと我々
イエス様は、このことをマルコによる福音書の冒頭で、宣言されていますから、そこを読んでみます。「「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」(1:15)そこで、一つ目を止めたいのは、悔い改める、という言葉です。これは、向きを変える、という意味ですが、それは、私たちのあり方の向きを変える、と考えた方がよいかもしれません。心の向き、心の景色、と言ってもよいでしょう。神様と関係なく生きていた時と、神様の方へ、イエス様の方へ向き直ったときとでは、見えているものが違う、のです。これは、そのように具体的な話です。私たちが、イエス様と関係なく歩んでいる時には、私たちは、自分が見たいものだけ、自分に見えるものだけ見て満足していたのです。しかし、イエス様の方へと向きを変えると、なんといってもイエス様の背中が見えるのです。さらには、イエス様の視点からの世界が見えるのです。これが新しい時の訪れです。とはいえ、このような言い方は、少々抽象的に感じられるかもしれません。そこで、さらに今日の聖書の個所の言葉から考えてみます。それは、34節のたとえ話の中に出てくる言葉です。
我々の任務?
このたとえ話は、召使が何人もいるような、それなりに豊かな家の主人が旅にでる、という話です。この主人はいずれ帰ってくるのですが、しばらくは留守になる、という状態です。ルカなどでは、結婚式に招待された主人がほんの一日程度出かける、となっていますが、この所の場合は、商売などでの長旅が想定されているように見えます。ある程度の期間帰ってこないのです。ただし、出かけるにあたって、この主人は、準備をしています。34節ではこうなっています。「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。」。ここで特に目を止めたいのは「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」とあるところです。日本語聖書ではよくわからないのですが、英語の聖書などを見ますと「僕たちに『彼の』仕事を割り当てて」となっています。主人がなすべき仕事、こうしたい、こうしてほしい、と思っている仕事があるのです。それを、出かけるにあたって、僕たち一人ひとりに割り振って、そうして出かけていくという、そのような話の流れです。
僕として
ただし、この話で私たちが注意したいのは、ここでは、特に具体的な仕事、例えばパウロが書いた手紙に登場するような、いわゆる教会の職務論、ある人を使徒、あるひとを預言者、ある人を教師(コリント上12:28)、と言う事まで言っていないことです。むしろ、重要なのは、私たちの日ごろの生活、普段の生活です。イエス様がしようとしていることを取り立ててこれと決めてしまうのではないのです。むしろ、私たちがイエス様を信じていて、イエス様によって、自分は生きているのだ、あの十字架によって自分は神様のものとしてもらっているのだ、という思いの中で生きている、その生き方の中で、見えてくるものがあるはずなのです。私たちがイエス様と一緒に生きているのであれば、物事の判断、例えば、人にどのように接するのか、ですとか、買い物をすること一つにしましても、私たちには、イエス様なら、こうするだろうか、という見方が出てくるのではないでしょうか。そのようにしてイエス様がしたいことが見えてくるのであれば、それを行う事にもなっていくのです。じつは、この所の僕の譬え、というのは、このようなことを語っているのです。私たちは、イエス様の僕としてこの地上を生きるのです。そして、そのように生きることこそが、目を覚ましていることです。
神に申し述べる
しかし、少なくとも、この所の35,36節の言葉は、ある注意を促す言葉であるのは間違いありません。35節では、改めて「目を覚ましていなさい」という命令が語られますし、36節では「主人はいつ帰ってくる変わらない」という事が言われます。このようなところを読みますと、私たちは、これはひょっとして終末のこと、この世界の終わりのこと、その時、みんな神様の前に立つと、聖書に書いてある、あの出来事のことか、というように考えてしまうかもしれません。そして、そのような見方も確かにできるのです。しかし、むしろ私は、これは、もっと個人的に考えてみてもよいように思わされています。もっと、個人的というのは、より具体的には、自分の死です。当然と言えば、当然ですが、今ここにいる方は、誰でも、100年後には現在と同じような姿で、肉体をもっては生きていません。その意味で人間だれでも一度は死を迎えます。先週聖書研究会を久しぶりに開きまして、ローマ書を学んだのですが、その時に印象に残ったのが、14章にある言葉です。「それで、わたしたちは一人ひとり、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(14:12)。これは間違いないことです。とはいえ、これはイエス様を信じた人が、最後に自分の行動について報告をしなければならない、という事であって、そこで滅びるとかいうような物騒な話ではありません。イエス様を信じた人はいずれにしても救われます。しかし、救われる人でも自分の行動について、その責任については、確かめられるというのです。
責任と自由
それでマルコに戻りますが、問題は、36節のこの言葉です。「主人が突然帰ってきて、あなた方が眠っているのを見つけるかもしれない」。この所で「眠っている」というのは、私たちが、イエス様の僕として、生きることをやめてしまっている状態、イエス様と一緒に生きることをやめてしまっている状態、イエス様から任された仕事をやめてしまっている状態です。そして、私たちはこのような生き方から、まったく自由ではないのかもしれません。むしろ、私たちは、「自由」という言葉を勘違いして、自分勝手に生きることをこそ「自由」だと考えてしまっているところがあります。しかし、また先ほどの34節の言葉に戻りたいのですが、そこでは、「責任を持たせて」とありました。これは、「権威を持たせて」とも訳せます。イエス様の後を歩くようになった私たちは、足かせをされた奴隷ではないのです。むしろ、経営者のようだというのです。マタイやルカには、お金の管理を任された僕たちの話が登場しますが(マタイ25:14以下)、まさにあのように、私たちは、この人生をイエス様から改めて与っているのです。自分の裁量と才覚で、イエス様が喜ぶような生き方をする自由を持っているのです。そして、その権威も与えられているのです。
目を覚まして
その意味では、私たちが目を覚ましているべきなのは、自分が何をしているのか、というよりも、このイエス様の僕にされている、イエス様の僕として自由に生きるものとされている、という事実に対してです。すなわち、私たちは、もはや、この国や、この社会、世間といったもの、そのようなしがらみの奴隷ではないのです。もちろん、人を愛することに忠実であれということを、パウロはローマ書の中で語っておりますけれども、それを含めて、私たちには、神様というボスがいて、肉体の死の後にも、命があって、最後には神様の前に出て喜んで結果報告をすることを目指す、そのような生き方を日々重ねることができるものになっている、という事実がしらされているのです。そして、目を覚ましている、とは、自分は、このような者だ、という理解の中で、今日を生きることです。
良い思いで生きる
問題は、今であり、今日です。この一日を、どのような思いで生きているのか、という事が終わりのあり方、最後の神様への報告のあり方を決めていきます。私たちは、日々を、目を覚まして、よい思いで重ねていきたいのです。そして、目を覚ましているという命令は、ただそのことを求めています。
祈り
父なる神様、御名を賛美します。あなたが御子を送ってくださったことにより、私たちはあなたのものとされ、あなたにあって自由なものであり、同時にあなたに全身で仕える僕とされています。私たちが、この身分にいつでも目が開かれ、また、喜んでこの身分を生きることができますように、この週の歩みをアドベントにふさわしく用いさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。