毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ガラテヤ5:1-6 「自由は終わらない」
この自由-キリストのしてくれたこと
今日の聖書を見ますと、1節だけが前の段落にくっついています。それは、当然と言えば当然ですが内容がはっきりと続いている、ということです。そしてその連続というのは「自由」についてです。1節を見ますと「この自由」という書き出しです。これは、ギリシャ語聖書を見ましても同じです。こういう書き方を倒置文と言ったりするようです。強調したい言葉を前に押し出して、普通は前に来る言葉を後ろにもっていくやり方です。この所でいえば、「イエス様は私たちを自由へと解放してくださった」と書くのが普通のやり方です。しかし、そうしないのです。そうではなくあえて「この自由」とたたきつけるように最初に書いているのです。それは、一つ前の段落にあった、「私たちは自由の女から生まれた子どもだ」(31節)というあの自由です。さらに言えば、私たち、このようにして集まっています私たち、イエス様のものとされたものはみな、イエス様と一緒に神様の子どもとされていて、今既に、イエス様と同じような自由の身分にしてもらっている、私たちを縛ろうとする、いろいろなものからもう、自由になって生きることができるようになった、という意味です。
しっかり立って屈しない
これがわたしたちが物事を考える時の大前提です。私たちはイエス様と一緒に自由な身分になっている、それだから、そこから外れてはいけない、とこう続いています。1節で「しっかりしなさい」と訳された言葉は、口語訳聖書では「堅く立って」となっていました。立ち位置をころころと変えてはいけないのです。しかし、逆に言えば、私たちは、立ち位置が変わってしまう可能性がある、という事にもなります。そして、その場合には、わたしたちは、もう一度、奴隷の身分に逆戻りになるというのです。奴隷の軛に二度とつながれてはならない、という勧めは、その意味です。パウロは私たちを取り込もうとする力が働いているといいます。おそらく、このガラテヤ書で具体的に考えられていたのは、以前からお話ししていますが、ファリサイ派的な、あるいは律法主義的なキリスト教理解を持った人たち、律法を行う事で、とりわけ、律法全体に従って生きることを誓う意味で、割礼を受けて、完全なユダヤ人になることを求めてくる人たちのことです。それを、ああそうですか、と受けてしまったら、元の木阿弥、以前、異邦人として、偶像に仕えていた時と全く同じ、何かに支配された状態に逆戻りなのだ、とパウロは、これまでも語ってきました。
奴隷という言葉と日本
そこでパウロの言葉が独特なのは、律法によって生きることと、偶像に従って生きることが同じだ、と彼が言っていることです。同じようなことは、4:3にもありました。「同様に私たちも、未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」という言葉です。ガラテヤの人たちは、たしかに世を支配する諸霊に仕えていた、と言えるでしょう。一方、パウロは、わたしたち、とも言います。ユダヤ人である自らを省みて、以前のパウロの生き方、律法を守ることで、自分の力で自分の正しさを確立しようとする生き方も、これに含めて語っています。これは、ユダヤ人も、神様から与えられた律法によって生きようとしたけれども、結果としては、偶像礼拝をしている人たちと、同じように奴隷のようなものであった、と言っていることになります。そうしますと、いわゆる律法主義と、律法を持たず、まことの神様以外を崇めるあり方とは、ある共通性がある、という事になります。そしてそれは、私たちが住んでおります、この日本社会の問題でもあります。なぜなら、日本は明治以来、150年間キリスト教に少しずつ触れつづけながらも、社会全体としては本気でキリスト教を、とりわけ福音、救い、と言ったことを相手にしてこなかったからです。これはある本に書いてあったのですが、日本では、キリスト教が何かの役に立つかどうか、という視点から受け止められてきたと言います。
奴隷という言葉と日本-続き
そうしますと、まずは自分たちというものがあって、この自分たちによって、どんな意味を持っているか、役に立つのか立たないのか、という見方で宗教と向き合っている、という事になります。そしておそらく、日本に根付いているように見える他の宗教、例えば、神道にしろ、仏教にしろ、それらもまた、このような枠組みから出ていないように見えます。変わらない「私たち」というのがまずあって、その私たちの道徳心や、宗教心を満たしてくれて、社会的な営み、いわゆる冠婚葬祭に格好がついて、それ以上うるさいことを言ってこない、という線で、日本では宗教がとらえられているように見えるのです。そうであるからこそ、日本人はほぼ仏教徒に属するはずですが、それは名目的なものになってしまっているのでしょう。そうしますと、一般的日本人は、どのような信仰に対しても、誠実に向き合うのではなく、まず自分と自分を取り囲む世間が大切で、場合によってはお国が大事で、そこから一歩も出ない、という範囲でしか、信仰を持たない、という事になるのかもしれません。
別れる可能性
そこでなお、問題になるのは、私たちキリスト者のあり方です。私たちが、もしも、このような意味で日本人的に歩むのであれば、それは、日本に囚われてしまっているのであって、日本の奴隷になっているのであって、そしてもしそうであるのなら、イエス様のしてくださったことは、私たちにとって、意味がない、という事になります。パウロが4節でこう書いています。「5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」このところで「律法」という言葉はいくらでもほかの言葉に入れ替えることができます。私たちが、まことの神様、イエス様以外の何かに頼って、安心しようとしているのなら、自分を正しいとしようとしているのなら、その人はだれであっても、イエス様とは関係ないし、当然ながら、自由にされた、という恵みからも離れていくことになる、という警告の言葉です。そして、この点につきまして、私たちは、あれもこれも、間を取って、というものは存在しません。完全に、イエス様に頼るのか、それをやめてしまうのか、どちらかだとパウロは言います。そして、まさに、この点において、堅く立って、妥協をするな、というのが1節のパウロの勧めでした。
希望に生きる
しかし、この言葉はなお、矛盾をはらんでいるように見えます。なぜなら、私たちが、自分に拘って、自分の力に頼って、イエス様の弟子でいよう、とするのであれば、それもまた、自分中心、自力中心であって、律法主義とあまり変わらない、という事になってしまうかもしれないからです。しかし、パウロは、この所で、私たちには、導き手があるということを言います。5節の言葉です。これももう一度読んでみます。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」ここでは、霊により、とありますがおそらく聖霊なる神様のことです。私たちのうちに働いてくださる神様によって、私たちの中に、神様への信頼が生まれ、そして、それは、義の実現を確信させていく、と言います。その場合の「義」とは、神様との完全な一致です。心に何のわだかまりも曇りもなく、ただ神様を喜んでいる、そんな状態です。それを言い換えれば平安になります。それがわたしたちが目指すべきところで、そこに至ることができることを、聖霊なる神様がいつでも教えてくれる、というのです。
愛に生きる?
しかも、それだけではありません。私たちが、完成に向かうということは、日々の生活を生きていく、何気ない日常の積み重ねの先にしかないという現実があります。そして、その何十年かをどのように生きるのかは、日々問われるのですが、そこでもまた、私が何とかして、という事をやめてよい、とパウロは言っていると私はこのところを理解しています。もちろん、私たちの人生は私たちが生きるのですが、しかし、そこでいわゆる頑張りによって生きるのではないのです。ではどういうことかと言いますと、6節にある言葉がカギになります。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」ここで特に注目したいのは、「愛の実践を伴う信仰」とある言葉です。これは以前の口語訳では、「愛によって働く信仰」となっていました。もちろん、愛の実践という事は大切なのですが、むしろここで目を止めたいのは「働く」という言葉です。私たちが愛に生きる、信仰からくる愛に生きる、という場合に、それもまた、私たちが、こうしなくてはという事ではないはずなのです。
キリストが働く
そこで、この「働く」という言葉を使ったほかの聖書を読んでみます。「ロマ7:5 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」これは残念な例です。しかし、言わんとすることははっきりしています。欲情が、こうありたい、あれも欲しい、これも欲しい、これもしたい、というような強い思いが、私たちの全身に働いて、私たちを突き動かしている、というイメージではないでしょうか。しかし、霊において、イエス様と信仰によって結ばれているのなら、私たちの中に、これとは逆の回転が生まれるのです。欲情ではなくて、霊からくる信頼と希望がわたしたちのうちに働き、私たちの中で、イエス様が働いてくださるのです。イエス様に結ばれていれば、外側の条件がどのようなものであれ、この力がわたしたちのうちに働き始めて、そして、愛を実現し、私たちが希望している場所、神様との平安が実現する場所へと連れて行ってくれる、とパウロは言うのです。
自由は終わらない
もちろん、私たちの日々の暮らしは、一足飛びに理想に使づくわけではありません。生活の煩い、目の欲と言ったことから、いつも完全に自由になれるわけではないかもしれません。しかし、それらのものから、自由になっていく権利を、立場を私たちは与えられています。そして、私たちが、この希望に立ち続ける限り、日に日に自由にされ完全な自由に至るのです。
祈り
神様、あなたは、私たちを約束の相続人、自由な身分のものとしてくださいました。それゆえに、私たちはあなたの子として生き、また、あなたの子らしく日々変えられていくように招かれていることを覚えます。どうぞ、実際のこの週の歩みの中で、あなた方私たちの中で働いて下さり、善きもので満たして、私たちが愛の行いをなしていくことができますように。この週もあなたの祝福が豊かにありますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。