毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ガラテヤ4:21-31 「約束の子」
もう一度産む?
先週読んだところで、パウロが自らを母親の役割にたとえて、「もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます」(4:19)と書いてあるところがありました。それほどパウロは深い愛情をもってガラテヤのキリスト者たちに寄り添っていた、と言えます。しかし、一方で、もう一度産む、という事は、ガラテヤの人たちは、ある意味ではあまりよい状態にいない、と言えるかもしれません。そして確かに、先ほど読みました21節では、いささか厳しい調子で、「私にこたえてください、律法の下にいたいと思っている人たち」と呼び掛けています。それは、言い換えますと、あなた方は自分が何者なのか、本当に律法に従っていきたいのか、そもそも、律法を理解しているのか、しっかり考えてほしい、という問いかけです。それはまた同時に私たちにとっも問いかけになっています。あなたは、何者ですか、何に頼って生きたいですか、という問いかけです。
ハガルとサラの物語
そこでパウロは、改めて、律法の代表として、創世記に記された出来事を語り始めます。これによって、律法が何を言っているのか、しっかりと確かめてみよう、というのです。ここでは、創世記の16章に始まり、21章において一つの結論に至る、ハガルというサラの女召使、ここでははっきりと女奴隷、という心が痛む言葉で書かれていますが、このハガルと彼女がアブラハムとの間に設けたイシュマエルという子どもについての物語を語りなおしています。「アブラハムには二人の息子があった」、というのはまさに、イシュマエルとイサクですし、「一人は女奴隷、もう一人は自由な身の女」というのは、ハガルと、そしてアブラハムの妻、あえて言えば正妻であるサラのことです。そもそも、アブラハムには神様によって、子どもが与えられる、という約束がありました。創世記15章では、神様が直接アブラハムに語り掛けるところがあります。今日は開きませんけれども、そこで語られた神様の約束の言葉はこうでした。「15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」」アブラハムはいささか恨みを込めて、神様、あなたは私に子どもをくれませんでした、というのですが、神様は、いや、子どもは生まれる、というのです。そして実際にその通りになっていくのですが、それはなかなか信じがたい言葉です。
前提と信頼
アブラハムがまだ、神様の言葉によって出発する前、創世記の11章を見ますと、サラのこと、当時の名はサライでしたが、そもそも彼女は不妊で、子どもができなかった、とはっきり書いてあります(11:30)。そして、ハランというところから出発をしたのちも、二人が老人となってもなお、子どもができることはありませんでした。先ほどの、アブラハムの「子孫を与えてくれませんでした」という言葉は、そのような人生の長い体験に基づいた言葉です。普通に考えたら、これから子どもが生まれる、という事は考えにくいのです。しかし、子どもは与えられると、神様が約束しておられるのです。そこで、問題になるのは、このような言葉を信じられるのかです。それは、あり得ないことを信じる、という事です。そして、妻のサラは、たぶんそのような不安な状態を続けていくことに耐えられなかったのでしょう。ある時、夫を呼んで言うのです。私の召使によって子どもを得るのが良いでしょう。そしてアブラハムもこの申し出に従って、やがて召使ハガルによってイシュマエルという子どもが生まれた、というのは最初にお話しした通りです。ところで、パウロはこのイシュマエルのことを「肉によって生まれた」と言います。
肉によってとは?
パウロは、「肉によって」という言葉をどちらかと言えば否定的な意味で使う場合が多いのですが、しかし、それは、何も肉体的なことがすべて悪い、と言っているのではありません。サラもまたイサクを産むことになりますが、それは、当然ながら普通の意味での妊娠によって、肉体を通して、肉体を持つものとして生まれたのですし、その意味では、イエス様もまさに、マリアの肉体を通して、まったく当たり前の人間として、生まれられたのです。しかし、この「肉によって」という言葉について、もう少しよく考えてみたいのです。その際、23節の後半はこうなっています。「自由な女から生まれた子は、約束によって生まれたのでした」。ここでは、「肉によって」と「約束によって」とが対比されています。そうしますと、この場合の「肉によって」とは、人間の知恵によって、人間の意志によって、という意味と言えそうです。実際の所、このプランはサラによって提案されたのでした。彼女はこう言っています。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(創世記16:2)。サラは、神様を否定するつもりはなかったでしょうし、神様の祝福そのものを否定したかったわけではないのかもしれません。しかし、約束を信じ切ることができませんでした。そして、自分たちが良いと思う方法で、神様の約束を先どって実現しようとしたのです。
教会の催し?
実はパウロが言う「肉」とは、このことを指しているようなのです。そしてこのサラが選んだような肉による選択、これは私たちにとっても罠です。私たちは、キリストの教会に属しています。神様の救いの約束を信じてその中で生きています。しかし、実際の教会生活において、このような時はこうする、というようなことまで聖書には書いてありません。そこで、実際の教会生活、教会の活動をどうするのか、ということについては、聖書を読みつつ、信仰の常識を働かせて考えていかなくてはならない、という事になります。今日という一日をどうしようか、という事から始まって、今度のクリスマスは、来年の活動は、というように考えるべきことはたくさんあります。その場合に、私たちには何といっても、約束の言葉があります。例えば、今日の聖書ではイザヤ書54章(1節)の預言がほぼそのまま引用されています。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」。これは、神様から退けられていたイスラエルの民が、再び祝福される、という預言ですが、ここではもっと広く、神様の恵みから遠いと思われていた人たちが、かえって祝福される、という意味でつかわれています。私たちは、基本的に、祝福を受ける、多くの実りが与えられる、というのが変わることのない約束です。そして、それを実現してくださるのもまた神様です。そうであるからこそパウロは、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(Ⅰコリ3:6)という事が出来ました。
天のエルサレム-自由な女、自由なイサク
そのような私たちは、天に属している、とパウロは言います。26節にあります「天のエルサレム」という言葉です。パウロは、ガラテヤの人たち、また、私たちもそこに含まれるのですが、キリストに信頼する私たちは、こちら側の人間なのだ、と宣言しています。一方、これと対照的に示されているのが、律法の奴隷となっている今のエルサレムです。そして、こちらの側に立っている限り、それはいつでも、自分の行いで、自分の力で、自分の計画で何とかしなくては、という思いに縛られているという意味で奴隷のようだ、というのです。それはもっと言えば、自分自身の奴隷、目の前にある悩みを解決したら、また次の問題へと限りなく追いかけられていく状態です。しかし、そこでパウロは、立ち止まってみてはどうか、というのです。あなた方は、もはや、自由な身の女を母として持っているのではないか。あなた方はもう、あれも、これも自分で何とかしなくてはならない、という恐れから自由になっているのではないか、というのです。そして、この点においてパウロは全くぶれることがありません。だから28節では、「兄弟たち」と改めて呼びかけ、ガラテヤのキリスト者にしろ、私たちにしろ「イサクの場合のように「約束の子」です」と言い切るのです。また、最後の31節でも「自由な身の女から生まれた子なのです」と繰り返しています。
迫害する者とは?
しかし、そのように自由になったはずの私たちに、なお、迫害がある、という事が、29節に書かれています。もう一度読んでみます。「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。」。この所の題材となったのは、創世記21章(9節)でハガルの子イシュマエルが、幼いイサクをからかっているのを見て、サラがひどく腹を立てて、ハガルたちを追い出してしまう、という出来事です。しかし、ここではすでに、そのような元々の出来事を離れて、ガラテヤの人たちが、約束の子として歩もうとするときに、思わぬ妨害がある、という事実を示そうとしているようです。それは、この時のガラテヤの教会においては、律法主義的な考えを持つ、ユダヤ人キリスト者たちの存在でした。一方、私たちにとって、このような約束の子としての歩み、神様の約束に信頼して生きることを妨げるような存在とは何でしょうか。それは例えば、世俗主義、とか現実主義に立つ人たち、と言った人たちでしょうか。しかし、よく考えてみますと、そのような考え、いわゆる世間の常識と言ったものに左右されているのは誰でしょうか。それは自分自身の心であるかもしれません。そうしますと、私たちにとって問題なのは、具体的なだれかというよりは、むしろ私たち自身の中にあって働き続ける私が何とかしなくては、という肉の思いではないでしょうか。
約束の子として
そして、そうであるからこそ、パウロは、ガラテヤの人たちに、また、私たちにもまずは自分が何者か、改めて確認するように言うのです。「要するに、」実際の所、あなたたちは、神様によって新しく生まれた「兄弟・姉妹たち」ではないか、そのような「わたしたちは」、いつでも、自分が何とかしなくては、と焦っている、自分の力をあてにしているという意味での「女奴隷の子ではなく」、「自由な身の女から生まれた子なのだ。」これがパウロの呼びかけです。イエス様を信じた時に、私たちはみな、決定的に変わってしまっている、約束の子となっている、このことをかみしめながら歩んでほしい、というのです。
祈り
神様、あなたは、その昔、パウロに働きかけ、また、ガラテヤの人たちをはじめ、多くの生徒たちに働きかけ、そして今私たちをご自身のものとして召し出して下さっていますから、感謝します。私たちは、イエス・キリストにあって、あなたの子とされています。このことをますます明らかに知っていくことができますようにお願いいたします。何よりも、あなたの子としての自由の身分に信頼して、この週も過ごせますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。