毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
お気軽にお問い合わせを
「一度礼拝に出席してみたい。」
「教会に行ってみたい。」
「でもどうしたらよいかわからない。」
そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。
電話でのお問い合わせなら048-474-9237まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。
ガラテヤ4:8-11 「恵みを恵みのままに」
知っていることの大切さ
このところでパウロが強調していることは、神様を知っていることの大切さ、そして、神様を知らないことの悲惨さです。それも、ただそれを一つの考え方として語っているのではなく、あなたはどう生きたいのですか、と問いかけているのです。問われているのは、ガラテヤ地方にあるいくつかの教会の教会員です。キリスト者です。すでに神様を知っているはずのキリスト者に向かって、あえて、これからも神様を知っていたいのですか、それともそこから離れたいのですか、と問うのです。もちろん、そうなってしまう背景があったことは、すでに何度かお話ししました。根本にあったのは律法についての教えをどうするのか、という問題でした。それもまた、ただ、律法をどう考えるか、というよりはもっと実際的なことでした。それは、これからユダヤ人として生きていくと決意するか、どうか、という意味でした。とはいえ、このような短い言葉ではピンとこないかもしれません。そこで、おさらいのようになってしまうかもしれませんが、何が問題であったのか、もう一度振り返ってみます。
別の福音?
ガラテヤ書1:6に「ほかの福音」という言葉があります。もちろんそんなものがあるのではないので、続く7節では、「もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなた方を惑わし」と続いています。パウロは、福音は、キリスト者の人生の土台となる良い知らせは、一つしかない、とはっきりと言います。もちろん、人のあり方はそれぞれでよいのですが、キリストのものとなった人の生き方の土台は、イエス様に従って生きるという事以外にはない、とはっきりというのです。しかし、その後で、「惑わす人たち」の存在が語られています。これがだれであるのか完全に特定するのは難しいのですが、例えば2:11以下では、異邦人伝道の前線基地であった、アンティオキア教会で起きた事件が報告されていました。そこでは、「ヤコブのもとからある人たちが来た」それで大混乱になった、という報告がありました。ヤコブというのはエルサレム教会、この時代の中心教会の代表者です。一番大きくて権威がある教会です。そこにもまたいろいろな立場の人たちがいた様ですが、この時に来た人たちは、キリスト者であるとは、ユダヤ人になることだ、少なくとも、本物のキリスト者になるためには、律法に従ってユダヤ人となっていなければならない、という考えだったようです。その具体的なしるしは、割礼を受ける、という事です。そうであれば、イエス様を信じて生きていく、という事は、同時にユダヤ人として生きていく、という意味になります。そして、多くの人たちが、この考え方に心を動かされたようです。
なぜ離れるのか?
例えば、今日の所に戻って、9節にはこんな言葉があります。「もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」。この言葉を素直に読みますと、強制されていやいやそうしている、というよりは、むしろ、自分から進んで、そうしようとしている、という感じがします。9節の場合に問題になっているのは、偶像礼拝のようですが、しかし、パウロは、異邦人による偶像礼拝の生き方も、ユダヤ人として律法に仕える生き方もどちらも似たようなものだと、考えていたようです。そのどちらも、奴隷のような生き方だ、というのです。そして、あなたたちは自分から進んでそちらに行こうとしているように見える、というのです。なぜでしょうか。一体、ガラテヤの人たちは何を考えていたのでしょうか。そこで、もう一つガラテヤ書から確かめたい言葉があります。それは3:3の後半です。「霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」。
神を知るとは?
霊によって始めた、という言葉は、信仰生活の始まりの意味です。そして、パウロが考えている信仰生活の始まりとは、聖霊による具体的な体験です。それは、あたかも肉眼で見るように、イエス様の十字架が、胸に迫ったという事です。そして、同時に、イエス様が十字架について下さったことが、自分のためであることが分かった、そうして自分は、正しいものとされたし、神様の子とされた、という事が腑に落ちる体験です。パウロが語る、福音の言葉を聞くことによって、様々なイメージが一度に、心に押し寄せてきて、ああ、そういう事だったのだ、これで自分は大丈夫だ、とわかってしまう、そんな体験をもってあなたたちは、信仰生活に入ったのではないか、とパウロは問うのです。ところが、いつしか、そのような最初の感激が薄れてきて、キリスト者であることが、当たり前のようになっていって、そして、もっと、キリスト者らしくなれる方法があると言われると、それでは、という事で、別の福音に身を預けようとしている、というガラテヤの人たちのあり方を指して、パウロは、肉によって完成しようとしている、と鋭く指摘しているのです。
自分から仕える?
その場合に、ガラテヤの人たちは、悪意があってそうしているのではないと言えます。もっと、信仰者らしくなれるかもしれない、という見通しから、ユダヤ人のようになろう、いや、いっそ、ユダヤ人になってしまおう、という道を、説得されたとはいえ、むしろ、自分たちの意志で選び取ろうとしていた、というのが実態だったのではないでしょうか。しかし、パウロは、そのような道を認めません。むしろ、そのように考えてしまっているガラテヤのキリスト者に向かって「物わかりが悪い」と決めつけて非難さえしています。なぜでしょうか。それは、逆説的ですが、パウロが、律法をよく知っていたから、そして、律法とまじめに向き合ってきたからです。律法の役割は、神様の契約の民が、地上を歩むときのルールです。律法というルールに従っていれば、大きく道をそれることがない、そのために、律法は与えられました。そして、それだけなら、特に害はないように見えます。しかし、これは契約であり、神様との約束です。そして、この律法が与えられた時には、祝福と呪いが同時に告げられていました。
律法の呪い
そこで、旧約聖書を一か所読んでみます。申命記27章です。「27:12 あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、民を祝福するために、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ヨセフ、ベニヤミンはゲリジム山に立ち、 27:13 また呪うために、ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリはエバル山に立ちなさい。」これは、エジプトを出てから、荒れ野を40年間も旅したイスラエルの民が、いよいよヨルダン川を渡って、約束の地に入っていこうとするときに、律法の誓いをするようにと命令が下るところです。そこではイスラエル12部族の代表者が、二手に分けられ、それぞれ、祝福と呪いについて、誓いの言葉を語る、という事になっています。そして、この両側から聞こえてくる祝福の声、そして呪いの声、に向かって、イスラエルの民は、それぞれ、「アーメン」本当にそうです、と誓って約束をする、という事になっています。そして、この約束は重い約束です。もし、律法を守り切れなかったら、自分は呪われてもよい、という約束だからです。そして、律法の呪いとはこのことです。もし、不注意にも、何か律法に合わないことがあれば、神様から断絶されてしまう、そして呪いの下に生きることになる、というのです。
無力で貧しい生き方
そのようにして、律法の呪いから逃れようと、一所懸命に生きようとすればするほど、すべては自分が何をするのか次第、自分の行動次第になってしまいます。それはだれも当てにしない生き方です。その意味では、神々をあてにすると言いながら、実際の所、運をあてにして生きていく、世俗の生き方とまるで変わらない、と言えます。これは極端な例かもしれませんが、このところ、児童虐待あるいは、親族による殺人事件のニュースをよく耳にします。その背景にあるのは、子育てをする親、或いは介護をする子どもの、社会的孤立といわれています。そこで、一人ひとりが感じているのは、おそらく、どこにも頼るところがない、誰も当てにできない、という恐ろしい現実です。そして、このことは私たちにとっても全く無関係ではないかもしれません。これは私が考えていることですが、私たち自身のあり方において、神様との近さ、遠さと、人との距離の近さ、遠さは、ある程度関係しているのではないかと、思えるのです。そこで、問われるのは、ほかでもないのですが、私たち自身が何によって生きているのか、何を頼りにしているのかです。
無駄にならないために
パウロがこのところで心配しているのは、このことです。11節ではガラテヤ地方の教会の人々を、恐れている、心配していると、言っています。それは、このあと12節以下で語られておりますが、パウロがガラテヤ地方にやってきて、イエス様の福音を人々に語り伝え、そして人々は、まさに新しい命を得た思いで、その話を聞き、大きな感謝をもって、信仰を受け入れ、そして、最初にお話ししたように、洗礼を受け、聖霊のお働きによって、イエス様と結び合わされた、というあの素晴らしい体験が、実は無駄だった、という事になってしまわないか、という恐れです。キリスト者が、神様から離れてしまわないか、という恐れです。それは、私たちにとっても同じです。私たちもまた、地上に於いて、人間としての限界を持ちながら生きています。長い信仰生活においては、霊的スランプとでもいうべきところを何度も通らされることもあり得ます。しかし、そこで、あるいはそこでこそ、いったい自分が何に頼っているのか、言い換えれば、自分が何者なのかが問われるのです。
恵みを恵みのままに
そこで、道を誤らないように、とパウロは、このところで警告するのです。しかし、それはただの警告の言葉ではありません。なぜなら私たちは、戻るべき場所、頼るべき土台があるからです。それはただ一つのことです。それは9節の言葉です。「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」。大きなことから小さなことまで、私たちの歩みには、苦しみがあります。力のなさを思い知らされることばかりかもしれません。しかし、たとえ死の影の谷という言葉で譬えられるようなつらい日があったとしても、神様がわたしを知っていて下る、という事を私が知っている、神様がいつでも私を見ていてくれている、そして私と共にいてくださる、という恵みからそれないのなら、私たちは絶望しきることなく、先へと進むことができるのです。
祈り
神様、あなたは、私たちを、イエス・キリストにおいて受け入れてくださいますから感謝します。しかし、私たちは、この恵みを恵みとして、知っているにもかかわらず、その価値がわからなくなりやすいものであるかもしれません。しかし、この日改めてあなたに向き直ります。この週の歩みにおいて、私たちが、あなたと共に歩むことができますように、助けていてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。