10月4日説教原稿

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10月4日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

ガラテヤ3:23-29 「私たちの絆」
既に相続人
今日の聖書から確認したいのは、私たちはすでに良いものを得ている、という事実です。それは例えば29節の言葉では「約束による相続人」です。この約束は、アブラハムに与えられた祝福の約束です。それが今やイエス様によって現実のものとなって、わたしたちはイエス様といっしょに、この相続人になっているというのです。しかし、パウロがこのことをわざわざ書いておりますのは、意外にも私たちがこのような大切なことが見えなくなりがちだからかもしれません。キリスト者はもう既にいいものをもらっている、いいものに取り囲まれているはずなのだけれども、うっかりそれを忘れてしまうことがある、だから、是非事実をしっかりと見てほしいとパウロは、このところで語りかけています。

自分が見えない
ところで、ある本に乗っていたことなので、ご存知の方はよく知っておられるかもしれませんが、ある実験を今やってみます。まず、この会堂の中にある黒いものを捜して覚えてください。30秒くらいでいいでしょうか。よく覚えていただきましたか。では、問題です。会堂の中にある、赤いものがいくつあるか見つけてください。いかがでしょうか。すぐに見つけ出すことができましたでしょうか。これは、意地悪をしているのではありません。何をしたのかと言いますと、人間は、自分がこれと思っているものばかりに注意を向けてしまい、それとは違うものを見ようとしてもなかなか、見えてこない、という事を確かめただけです。これは、何も注意力だけのことではありません。私たちは、信仰の分野でも自分がこれと思っているものばかりを見てしまうという事があります。例えば、今日の聖書の23節では、こんな言葉があります。「信仰が現れる前には、わたしたちは、律法のもとで監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました」。信仰とは、言うまでもなく、イエス様によって開かれた、信仰です。そしてそれが既に来ている、それで私たちは自由になった、という事こそパウロが、このガラテヤ書で繰り返し語っていることでした。ところが、私たちは、どうも古い癖が抜けないようなのです。小象を鎖でつないで育ていると、大人になって、実は鎖をちぎることができるようになっても、鎖の届くところより先に行かないようになってしまう、というようなたとえが注解書に書いてありました。私たちも、自分でこうだと思いこんでいると、いつしかイエス様が下さった信仰ではなく、自分が見たいもの以外考えなくなってしまうのかもしれません。

すでに啓示されている
しかし、23節には素敵な言葉があります。それは、「信仰が啓示される」という言葉です。イエス様が、私たちの目を開かれてるのです。イエス様は全く信頼するに足りる方であり、イエス様に信頼することで私たちは神の子になることができる、と言ったようなことは、私たちが、ありのままの自分でいては見えてこないことです。しかし、そのような自然には見えてこないことが、いわば奥義のようなことが、分かるようになった、というのです。ところで、この啓示という言葉は、「覆いがとられる」とも訳せます。このことでは、パウロはコリントの信徒への手紙で面白い言い方をしています。そこでコリント書を一緒に開いて読んでみましょう。「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。」(コリントⅡ3:14-16)彼らとはイエスらエルの民のことです。せっかく神様の民として律法を聖書を与えられていても、覆いがあってなかなか意味がつかめないのです。しかし、イエス様の方へと向き直れば、覆いは取り除かれる、もうその時が来ている、とパウロは言うのです。

キリストに結ばれて(キリストの中で)
25節の「しかし、信仰が現れたので、私たちは、このような養育係のもとにいません」というのはこの意味です。イエス様がわたしたちに示されたので、覆いのかかったような、心を鈍らせるような状態にいなくてよくなったというのです。むしろ、それに代わって何が起きるかと言いますと、26節にあることが起きるのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」。この所を、以前の口語訳聖書では「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである」と訳していました。どこが違うかと言いますと、新共同訳聖書の「キリスト・イエスに結ばれて」という部分は実は言葉を補っていまして、口語訳の「キリスト・イエスにある信仰」の方が素直な訳です。そして、私はこちらの方がいいような気がします。それは、イエスにある、イエスとともにある、イエスの中にある、そんな広がりを感じるからです。イエス様を信頼し、イエス様の中にどっぷりとつかっている、そんな感じでしょうか。神の子であるイエス様に包まれて、私たちもまた、神の子であるイエス様の兄弟姉妹となっている、そういう様子をイメージしたいのです。例えば小さな子どもが、親に抱っこしてもらってまったく安心している、そんな感じでイエス様に抱っこされて安心している、もうそうなっているというのです。

キリストを着る
そしてこのようなことがわかってくると、私たちにもう一つ別の変化が訪れてきます。それは、27節にあります「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方はみな、キリストを着ているからです」というところです。とりわけ注目したいのは、皆、ということであり、そして、「キリストを着る」という言葉です。ここでは、洗礼を受けてキリスト者となった人はみな、例外なく、とあります。だれでも、このようになっていくし、なることができるものとして、「キリストを着る」という事が言われています。この言葉もまた、イメージ豊かな言葉です。皆さんよくご存じの聖書の話に、放蕩息子の譬えがあります。ルカによる福音書15章にありますが、今日は開かなくて結構です。あのたとえ話では、好き勝手な生き方を貫こうとして、財産をもって出かけた弟息子が、無一文になって帰ってる、というのが前半のクライマックスでした。それを遠くから待ち受けていた父親は、息子を見るなり走り寄って口づけをして喜んでいますが、その父の愛を象徴する行為の一つとして晴れ着を着せる、という事が言われていました。「ルカ15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」。これは、息子としての身分の回復です。

キリストに生きる
しかし、この「着る」という言葉には、さらに別の意味合いもあります。それは、その昔、洗礼は、実際に水の中に身を沈める形で行われていました。その洗礼に先立って古い衣は脱ぎ捨てられ、洗礼用の衣に着替え、洗礼が終わると今一度新しいキリスト者としての衣に着替える、という事をしていたようです。そこで意識されているのは、やはりキリストを着る、ということです。キリストを着たものは、キリストの生き方へと入れられていくのです。さらに、この「着る」という言葉には、「演じる」という意味合いもあります。もちろん、それは偽りを生きる、という事ではありません。むしろ、イエス様と一緒に、神の子という私たちの役割を、地上において、熱心に生きていく、そのような意味が込められていると見て良いでしょう。それは言い換えますと、私たちはだんだんイエス様に似たものにされていく、という事です。イエス様を着たものは、イエス様っぽくなっていくのです。それはまたお互いによく似たものになっていく、ということでもあります。

一つにされる
その時には、私たちにはさらにもう一つ変化が起きると、パウロは言います。それは、私たちがあらゆる違いを超えて一つにされていく、という出来事です。最後に、28節を読んでみます。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」。ここでは、人種、社会的地位、性差という、昔から、今に至るまで、差別を生み出してきた、三つの組み合わせが取り上げられています。そして、この三つがわたしたちと、私たちの社会に及ぼす影響はとても強く、今でも、この三つの分野のいずれにおいても、差別が確かに存在しています。そして、これと戦うための、理論と実践も、様々に展開されています。今日、このところで、一つ一つの差別について、私たちがどう考えられるのか詳しく見ていく時間はありません。差別は確かに存在する一方で、私たちは、ひょっとしたら、差別が身近にあることにすら、なかなか目が開かれないのかもしれません。けれども、私たちが、差別問題をどのように見ていようと、確実なことは、差別は暴力を生み、暴力は人を傷つけ、社会の中に戦いを生み、社会をゆがめていく、生きにくくしていく、ということです。しかし、それに対して私たちは、決定的な武器を持っています。それは、キリストを着ているという事実です。キリストを着たものは、このような差別を乗り越えて、一つにされていくことができる、とパウロは言います。

私たちの絆
それはただのきれいごとではありません。私たちは、この戦いに招かれています。ただし、それは、誰かを排除したり、無理やりに考え方を改めさせたりするような戦いではありません。それは、愛の戦いであり、私たち自身が教会において身をもって、私たちの絆を結び合わせていく、そのことによって、神様の愛が本当に生きて働いていることを示していく、という意味での戦いです。私たちが、イエス様を身にまとって、ますます神様の子どもらしくなっていくことによって、また、私たちが、互いを主にある一つの体として受け入れ合っていくことにおいて、人々を教会へと勝ち取っていく、そのような戦いです。

祈り
神様、あなたは、主イエスにおいて約束を実現して下さり、私たちを約束を受け継ぐ相続者、キリストと共にあなたの子としてくださっております故に感謝します。私たちは、キリストと共に死に、キリストと共に生きるものとされ、すでにキリストの体の一部とされております。どうぞ、この教会においても、私たちの絆が強められ、一つのキリストの体の地上の現れとして、貴く用いられることができますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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