毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ガラテヤ3:15-22 「約束は消えない」
なお、律法について
今日の所においても、パウロは律法の役割について、ただし、それを遺言や相続にたとえられた約束と比較して語っています。もうここまでの所で、律法についてはたくさん聞いてきた、と思われるかもしれません。しかし、こう言っては何ですが、このガラテヤ書全体が、律法あるいは、律法をどのように考えるのかという事を大きなテーマにしているともいえます。その場合に律法の影響が大変強い、それも、キリスト教会においてそうなのだとパウロは言いたいようです。ガラテヤの教会は言うまでもなく、異邦人を中心とした、れっきとしたキリスト教会でした。その点では私たちと同じ土俵に立っている教会です。そのごく当たり前の教会の中で、なお、律法の力についてよく考えてみなければならない、とパウロは言うのです。
律法は必要
ただし、パウロは律法なんてどうでもいい、律法はもう終わっている、なくてもいい、というようには言いません。律法には律法の役割なり、良さもあるという事を認めるのです。例えば、今日の19節ではこうなっています。「では、律法とは何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られる時まで、違反を明らかにするために付け加えられたもの」と言います。ここではいくつかのことが語られています。あの子孫というのは、16節にはっきりと書いてありますようにイエス様のことです。そして、今日の所の内容からしますと、律法と並んで、そして律法よりももっと大切なものとして、「約束」という言葉が登場しています。けれども、ひとまずこのことは置いておいて、律法について語っている言葉を確認します。まず、「違反を明らかにする」という事が言われています。何がだめで、何が良いのか、いわば、ルールとしての役割がある、という事で、当たり前と言えば当たり前ですが、これはこれで大切です。それから、もう一つのこととして、期間限定だ、という事が言われています。それはそもそも、付け加えられたもので、しかも、イエス様が来られた時までしか、主役でいられない、そういう性質のものだ、というのです。
罪と律法の起源
そこでまず、ルールという事について考えます。いうまでもなく、私たちは、神様の前でみな罪人です。そしてその罪の内容は、神様の前に誠実でいられない、という意味です。もう少し言い換えれば、神様第一、神様命でいられない、どうしても、やっぱり自分が大切になってしまう、自分のわがままがかわいくなってしまう、ということです。それで、今日の聖書に即して言えば、律法が与えられたのは、出エジプト記のシナイ山の個所でしたが、そもそも、そこで何が起きていたかというと、イスラエルの民の裏切り、という事があったのでした。神様とモーセが山の上にいる間、人々は、不安になり、不満になり、金の子牛の偶像をつくって、遊び惚けて、憂さ晴らしをしていた、という様子が、出エジプト記32章以下に描かれています。このようにして、どうしても神様の前に誠実でいられない人たちが、それでも神様と生きていくために、律法というルールが与えられたとパウロは言います。そして、この意味で、神様の前に、誠実でいられるかどうか、ということについては、実は私たちもまた、問われているのです。そして、もちろん、パウロはそのための道筋として、ガラテヤの人たちをはじめ、すべてのキリスト者にイエス様ご自身と、そのされたことへと目を向けることを願って、この手紙を書いています。
律法と我々
しかし、その話をする前に、もう少し、律法と私たちの関りについて考えてみます。先ほど、律法はルールだ、という事を確認しました。また、私たちは相変わらず、罪の要素を持っているようだ、という事もお話ししました。そして、実際の所、私たちが教会生活をしていきます時に、何でもあり、というわけにはいかない部分があります。キリストの教会として、これだけは守らなければならない、という事は存在します。例えば、イエス様は、神ではない、イエス様は、我々の救い主ではなく、ただ神様を信じる信仰の先輩に過ぎない、と言ったような理解では困ってしまうわけです。あるいは、教会のルールや、牧師の指導と言ったことは、聞いても聞かなくてもいい、という事でも困ってしまいます。それでは教会が正しく神様の教会として成長するのが難しくなります。しかし、そのうえで、ルールには独特の副作用もあるという事を私たちは、十分わきまえたいのです。例えば、今日の聖書にはこんな言葉があります。「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」。これは、ぎょっとする言葉です。聖書こそがわたしたちを不幸にしているというのです。
聖書が罪に閉じ込める?
もちろん、この場合の聖書は、パウロの時代の聖書ですから、現在の旧約聖書、そして、ひょっとしたら、ユダヤ教の言い伝えが文書化されたものが含まれていたかもしれませんが、ごく大まかに言いますと、律法や預言書とその解釈と言ってもよいでしょう。ごく大雑把に言ってしまうのなら、今まで問題にしていた律法と言い換えてもあまり違いません。罪に対処するために与えられた律法が、かえって私たちを罪に閉じ込める、これはどういう事でしょうか。その関連でいえば、先ほど確かめた、教会のルール、私たちの教会なら信仰告白や政治規準と言ったものは、かえって私たちを不幸にするのでしょうか。その答えはおそらく、イエスであり、同時にノーです。あるいは、場合によっては、というのが正しいかもしれません。では、どういう場合に律法や、規則と言ったものは私たちを不幸にしていくのでしょうか。それは、おそらく、律法や規則が本来の役割を越えてしまう時です。規則は当然ですが、一つの生き方のよりどころになります。これはいい、これは悪い、という事の基準になります。それで、例えば、ある人が、ルールに従って大変よく生活したとします。すると、いつの間にか、それが一つの基準になることがあります。昨日読んだ新聞の書評にヘレン・ケラーの罪というようなことが書いてありました。
出来ることは正しいか?
もちろん、ヘレン・ケラーは素晴らしい人です。四重苦と言われる状態から、サリバン先生という導き手を得たとはいえ、その厳しい指導に耐えて困難を克服し多くの業績を残したということを、私たちは知っています。しかし、それゆえに、彼女の後の世代にたいして、障がい者と言えども努力次第で、道は開ける、むしろ、血のにじむような努力をしなければならない、そうして、少しでも健常者に近づき、追い越すような生き方こそが正しいのだ、そのような道を歩まない障がい者は甘えていて、だめな存在だ、という呪いを残したのではないか、という事が書いてありました。これは、教会にも当てはまるかもしれません。ある理想のキリスト者像、あるいは、理想の教会像といったものがあるのは、悪いことではありません。しかし、それが絶対的な基準になってしまったらどうでしょうか。キリスト者は、こうでなければならない、教会とは、理想通りの歩みをしていなければならない、もしそうでないのなら、その原因を追究して、悪い所を取り除かなければならない、というようになっていくとちょっと怖いかもしれません。このようにこうなったらいいな、こうするのが正しいという基準は良いものですが、それが、絶対化してしまう時に呪いにもなるのです。
約束こそ
しかし、これに対するパウロの処方箋は全くシンプルです。彼は最初から、律法は後から出てきたオプションだ、とはっきりと言います。例えば、17節はこうでした。律法はアブラハムへの約束の430年もあとから、罪に対応するためだけに後付されたものだ、というのです。これに対して、16節では、約束こそが本来のものであって、その約束は、子孫であるイエス・キリストにおいて実現している、というのです。さらに言うのなら、最初の15節で言われているのは、この約束が遺言にたとえられて、後から書き換えることはできないものだ、と言います。このようにアブラハムの約束、祝福の約束、神様の約束は、変わることがない、こちらこそが、信仰の中心だ、という事こそ、パウロの強調点です。18節で「しかし、神は約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです」とありますとおりです。しかし、そこでなお、パウロの語りかけにおいて忘れてならないことがあります。それは、この変わらない約束の実現のために、イエス様がおられるということです。
キリストと一つに
最初にも確認しましたように、アブラハムに与えられた約束は、アブラハムと、その一人の子孫に与えられたのでした。そしてこの一人の子孫とはイエス様であったというのがパウロの主張でした。アブラハムへの祝福の約束は、イエス様にまでしっかりと届いているだけではなく、そこにおいて実現しているという事こそ、パウロが言いたかったことです。では、そのような祝福の実現とは、どのような出来事でしょうか。今日は最後に、22節の後半を読んでみます。「それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」。「イエス・キリストへの信仰」とは、イエス様は、完全に信頼することができる、という確信です。そして、そのような確信は、イエス様が全く神様に忠実であって、誠実であって、神様との正しい関係にある、という事への信頼です。イエス様においてこそ、人間の本来あるべき姿、神様にいつでも誠実に向き合って生きる、という事が実現していると、信じることです。そして、そのような方としてイエス様を信頼している人は、すなわち、ここでは「信じる人たち」と呼ばれている私たちには、イエス様を通して、神様の祝福の約束がすでに届いている、とパウロは言うのです。
約束は消えない
私たちは、自分の力で、自分の行動で、アブラハムに与えられた祝福の約束を受ける子孫になることはできません。しかし、イエス様こそが、まったくこの意味でアブラハムの子孫であることに信頼するのなら、私たちもまたイエス様に続くものとして、イエス様と一つにされたものとして、アブラハムの子孫の一人、約束された恵みを受け継ぐものとされるのです。このようにして、私たちがイエス様に信頼していく限り、祝福の約束は、決して消えることがありません。
祈り
神様、あなたは、私たちを、主イエスにあって受け入れて下さり、アブラハムの子としてくださいましたから、感謝します。すでに今、私たちのところに約束された恵みが届いております。私たちはキリストと共にあなたの子とされています。この全く確かな約束の中にあって、この週の歩みをなすものとさせてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。