9月20日説教原稿

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9月20日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

「叫びは聞かれる」
区切りということ
私たちの国では、総理大臣が交代しました。それによって何がどう変わるのか、新聞やテレビでは、これからああなるだろう、こうなってほしい、というようなことが様々に語られていますけれども、実際の所、私たちにはこの先どうなっていくのか、はっきりとはわかりません。ただ、このこと、私たちは、自分たちの住むこの国を含めて世界がこれから先、どうなっていくのかわからない、という単純な事実は、私たちの基本的なありかたとして、まずわきまえておくべきなのかもしれません。何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんけれども、あえて繰り返します。私は、先を見る力はありませんし、未来について詮索したり、あれこれと注文を付けることもできないのです。それと矛盾するようですが、例えば創世記には、「ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」(15:16)という言葉があります。興味深いことに、地上の異民族の行動がある点に達するまでは何も起こらない、しかし、ある点に達すると、イスラエルは戻ることになる、という言葉です。

時のしるし
それで、例えば今日の聖書を見ますと「長い年月がたち、エジプト王は死んだ」というように、王の死が淡々と描かれています。しかし、この王の死は、この後のイスラエルの歴史、神様のお働きのあり方をがらりと変える、転換点となっています。ただし、その場合でも、イスラエルの民は、この王の死が、後にすごい出来事に結び付く、という事を少なくともこの時には全く気付いていません。事実、このようにして、王が死んだ、王が交代した時に、何かが変わったのか、と言いますと、少なくとも、この段階においては、ほとんど変化がなかったのです。イスラエルの人たちは相変わらず、以前と同じように、重労働に駆り出されていました。しかし、そうであるにもかかわらず、ここから、すべては変わっていくのです。しかし、そのことは、イスラエルの民にはわからないのです。そして、おそらくこのこと、すなわち、これから起こっていくことについて、全く無知である、ということは、現代に生きる私たちにも当てはまるのです。それは、逆に言えば、神様は、明日からでも、信じられないような、業をなすことができるし、実際にそのようになることは十分にあり得る、ということです。しかもそれは、この状態が、絶対に代わらないだろうと信じ切っている、その所から始まっていくのです。ただし、例えば、今日の聖書を見ますと、この短いわずか3節の間に、3回も「神」という言葉が登場します。それだけではなく、神様の行動を示す言葉が、「聞く」、「思い起こす」、「顧みる」、「心に留める」と、これでもかと、登場しています。

イスラエルの叫び
一言でいえば、神様の存在が前面に出ている、と言えそうです。このことは、一つの事実を示しています。それは、この世界を変えるのは、神様であるという事実です。その一方で、イスラエルの人たちの状況はどうだったかと言えば、基本的には今までとなんら変わっていない、のです。23節で「その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ」と書いてあります。この時代、当然ながら神殿はどこにもなかったのですが、たとえあったとしても、イスラエルの人々は、そのような神殿で礼拝をすることはできませんでした。イスラエルの人たちは、唯々毎日の仕事に追われるだけでした。そして、その苦しい仕事の中で、うめき叫んだといいます。このことはしかし、私たちのあり方と、重なっているのかもしれません。私たちは、確かに週に一度、教会に集まることができます。一緒に礼拝をすることができます。普段の日でも家族と一緒に、或いは、一人で祈りの時間を持つこともあるかもしれません。しかし、そのような時以外はどうでしょうか。いわゆるオンタイムはどうでしょうか。信仰とはかけ離れた状況にある時、急ぎの仕事を頼まれてしまっている時、なぜ、この仕事を、このタイミングで、この締め切りで、と理不尽に感じている時、そんな時、私たちは、心の中で、嘆くという事があるかもしれません。或いは、仕事でなくても、何で今、こんな病が、ですとか、何で今、こんな問題が、という時にも、私たちは心の中で嘆きます。その意味では、この重労働の中でのうめき、という出来事は、私たちにとっても、他人事ではないのかもしれないのです。

神は何をしているのかという問い
その意味では23節の「労働のゆえに助けを求める彼らの叫びは神に届いた」という言葉は、慰め深い言葉です。まさに、その苦しんでいる現場から上がった声が、煙のように神様の所へと昇って行って、そして、神様にしっかりと届いている、ということを、このところは報告しているからです。ただし、そこで、一つ思い出しますのは、このような彼らのうめき、嘆きは、かなりの期間続いていた、という事です。それから、もう一つはっきりとしていますのは、神様は、やがて、かなり雄弁に、むしろ、これでもかというくらいに度々、モーセを通して、イスラエルの人々に語り掛けるようになるのですが、しかし、少なくとも、このところでは、何か言葉を発したり、不思議な業をなしたりしてはいない、という事です。さらに言えば、そもそも、イスラエルの人々は、神様にまで、自分たちの嘆きが届いていることを、ああ、俺たちの声が神様に届いた、というようにしては、知ることができていないのです。最初に、私たちは、先行きを知ることができない、と言いましたけれども、私たちは、今、神様がどのようにされているのか、どのように私たちの声を聞き、これからどうされるのかを、やはり知ることができないのです。それは、ある意味で、辛いことかもしれません。場合によっては、一体神様は何をしておられるのだろう、と思ってしまう事さえあるかもしれません。それで例えば、24節にあります「契約を思い起された」というような言葉も悪くとろうとすれば、そうとれなくもないのです。「神様は、ずっと契約を忘れていたのだけれども、この時、ようやく思い出したのか」というようにです。

神は聞く
しかし、おそらく、そのように考えてしまうこと、神様はいったい何をしているのか、神様は寝ているのではないか、というように考えること、そこにこそ、私たちの限界が現れるているのです。なぜなら、このところで言われているのは、神様は、私たちのうめき、嘆きを、いつでも、どんな時でも、聞いておられる、という事だからです。しかも、ただ、聞いているだけではなく、いつも、ご自身の約束を思い起こしながら、聞いている、というのです。そして、このところで描かれております「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」は、何度も繰り返され、また、更新されていきますが、その土台となるのはおそらく創世記17章の契約の言葉です。今日はそこをもう一度読んでみます。「創17:6 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。 17:7 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」ここでは、繁栄という事が言われていますが、その土台となるものとして、「永遠の契約」が語られ、その実際的な状態として「あなたとあなたの子孫の神となる」という事が言われます。これは、どうでもいいことではなく、むしろ決定的な言葉です。この聖書の神様が、私たちの神様だ、という約束だからです。もちろん、これを逆から言えば、私たちは神様の民となる、となります。

神は思い起こす
イスラエルの民の嘆きを、聞いておられる神は、その嘆きの声とともに、いつでも、彼らがご自身の民であることを、強く意識されていた、そしてそのようなものとして、彼らの声を聞いておられた、のです。それは私たちにとっても同じです。私たちが、苦しい時、或いはうれしい時でも、よいのですが、私たちが、何かを感じて、何かを語る時に、その声は、神様に聞かれているのです。たとえ私たちが、そうと知ることができず、神様に聞かれているはずがない、と感じているとしても、神様は、私たちの声を、注意深く、約束の民の声として、聴いておられるのです。しかし、そうであったとして、例えば、苦しい時の嘆きが、本当に聞かれているとして、すぐに状況が変わらない、という事実は残ります。この場合でしたら、イスラエルの民が嘆いている声は聞かれていたのですが、少なくとも、一つの嘆きのたびに、何かが起きる、というような形で、神様が何かをされるという事はない、というのもまた、事実です。

神は知る
では、そのような時に、神様は何をしておられるのでしょうか。この所では、25節に、「顧み、御心に止められた」、とあります。ここから二つのことがわかります。神様は、私たちを、しっかりと見ていてくださる、というのが一つです。もう一つは、神様は私たちを知っていてくださる、という事です。御心に止める、というところの言葉は基本的には「知る」という意味だそうです。それも、ただ、見て知っている、顔見知りである、というよりも、むしろ、この人は、こんな人で、こんな癖があって、普段からこんな考え方で、と言ったことを含めて、全人格的に、この人はこういう人だ、というような知り方で、知っている、という意味です。それは、ひょっとしたら、私たちが自分で自分を知っている、と思っている、そのような知り方よりももっとよく、私たち一人ひとりを知っておられるのです。そして、私たちが、こうしてほしいと思っているよりも、もっと良いやり方を知っておられ、私たちが、今がその時だ、と思うよりももっと良い時があることを、知っておられるのです。神様は、私たちが、うめいたり、嘆いたりする、その時々の声によって、私たちを深く、深く、自分が思うよりも深く知るようにしてくださっている、のです。たとえ私たちの日常に何の変化もないように思えてしまう時でも、神様こそは、私たちの最も深いうめきを知っておられるのです。そして、それだけではなく、最も良い時に、私たちのために新しいことを始められるのです。

神は動く-叫びは聞かれる
神様はある決められた時、神様が最もふさわしいと決められた時、この出エジプト記であれば、古い王が死んで、新しい王が着任した時、今まで、何も変わらなかった、何の変化もない、と思っている人たちのその中で、新しいことを始められました。その時をイスラエルの人たちも、私たちも自分で決めることはできません。しかし、神様は、確かにイスラエルの人たちの叫び声を聞かれたように、私たちの叫びを聞いておられ、そして、時が満ちれば、私たちが思うよりもはるかに大きなことを、始められるのです。

祈り
主イエス・キリストの父なる神様、あなたのみ名を賛美いたします。あなたはご自身の民の嘆きをつぶさに見て、その嘆きを聞いてくださる方であるゆえに感謝します。私たちもまた、先の見えない時代に生きております。しかし、なお、あなたの守りが確かにあり、また、私たちに与えてくださる日々のしるしの先に、あなたの偉大なご支配があることを覚えます。私たちが、目先の出来事に絶望するのではなく、まだ見ぬ、あなたの王国に期待して歩むことができますように、また、この週の歩みにあなたの希望が豊かにありますようにお願いします。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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