毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ガラテヤ3:6-14 「神を信じるとは」
アブラハムの子
今日、皆様とともに確認したいことは一つだけです。それは、私たちはみなアブラハムの子である、という事実です。そのように言いますと、驚かれる方もあるかもしれません。もちろん、私たちは、人種的な意味でユダヤ人ではありません。しかし、そうであるにもかかわらず、やはり私たちはアブラハムの子だ、と言いたいのです。それはこのところでパウロがこのように言っているからです。「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」とあります。これは、あくまで知ることの勧めです。自動的にそうなるとか、民族的にどうとかいうのではないのです。そうではなくて、むしろ、ああ、そうだったのか、あるいは、ああ、そうだったのだ、とわきまえることだとパウロは言うのです。
ヨハネの警告
その場合に、福音書の洗礼者ヨハネの言葉が参考になります。彼は洗礼を受けに来た人々に向かってこのように言いました。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイ3:7-9、ルカ3:9)ここでは二つのことが語られています。一つは、民族としてのイスラエル、ユダヤ人であることは、何の保証にもならない、ということです。「我々の父はアブラハムだ、などと思ってもみるな」というのは、その意味です。もう一つは、「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」とあることです。もう少し言いますと、アブラハムの子は、造り出されるもの、あるいは、後から生まれて来るものだ、というのです。そして、パウロがこのガラテヤ書で語っておりますのもまさに、このこと、すなわち、新しくアブラハムの子として生まれる、そのことにほかなりません。そしてそのためには、はっきりとした道筋がある、というのです。私たちが、アブラハムの子になるための道筋、あるいは、こっちに行ったらアブラハムの子ではなくなってしまう道筋、その両方があるというのです。いわば、祝福と呪いというような、申命記に描かれているようなことが、私たちにも直接関係するというのです。
呪いと義
呪い、という事でいえば、このところで登場しますアブラハムへの最初の約束の言葉に、こんなものがありました。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創12:3)。パウロは、今日のガラテヤ書の8節で、この後半部分を引いて、とりわけ、異邦人にもただ信仰によって祝福が及ぶ、という事を語っています。しかし、その前に、この創世記の前半について、もう少し考えてみます。「あなたを祝福する人を、私は祝福し、あなたを呪うものを私は呪う」という言葉はどのような印象を受けるでしょうか。この言葉を考えます時に、一つ絶対に忘れてはならないのは、これが、祝福の約束の中で語られている、ということです。そして、その場合の祝福とは、単に何かいいことがある、ラッキーというような意味ではなく、神様が共にあるという意味です。それを言い換えますと、義になります。正しい状態です。これもまた、私たちは聖書を読みます時によくよくわきまえたいのですが、聖書における義とは、私たちが、自分で判断する、良い悪いの基準ではありません。もちろん、それは実際には、いわゆる善悪、道徳的な意味とかなり近い所にありますが、むしろ、私たちが、あなたはいい人だ、悪い人だ、という判断をする以前の問題として、まずは神様との関係が良好である事、神様と一致していることを指しています。これに対して呪いはこの逆の意味です。神様との関係が欠落している、ということです。
信仰に生きることの困難
このような意味で、アブラハムは、義であり、平和であるという意味での祝福に入ったのです。では、アブラハムは、何によってそのような状態に入ったのか、と言いますと、これもまた、創世記に書かれている通りですが、それは信仰によるのでした。「 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創15:6)という創世記の言葉が、今日のガラテヤ書の6節でも繰り返されています。この神様に信頼すること、という一見単純なことこそが、一切の鍵だとパウロは言うのです。しかし、それは、言葉としては単純ですが、なかなか、実現しないことです。或いは、長い間実現しなかった、と言った方がより適切かもしれません。なぜなら、このような人間のあり方は、実は私たち自身によってはどうしても作り出すことができず、むしろ、そこからそれていくしかなかったからです。そして、これもまた、私たちにとりまして他人事ではないのです。教会に生きる、キリスト者として生きる、という事は、信仰者として生きることを意味します。それで例えば、信仰に生きる、という言葉を聞いたときに、私たちは、これをどのように受け止めるでしょうか。俺は信じるぞーと、自分に言い聞かせるのでしょうか。それとも信じているような具体的なしるしを、行動で示そうとするでしょうか。信じることができますように、とひたすらお祈りをすればいいでしょうか。一つ一つを否定する必要はないかもしれません。ただ私たちは、決定的なことに気づく必要があります。それは、私たちが、律法の呪いのもとにいる、という事です。13節に、「キリストは、わたしたちのために」という言葉があります。ほかでもないパウロ、エリートユダヤ人であった彼を含めて、キリストが必要だった、というのです。
律法の呪い-律法に生きる民族ではなく
なぜでしょうか。今日のガラテヤ書の10節でパウロはこのように言います。「律法の実行に頼るものはだれでも呪われている」。これを読む場合にいくつか注意することがあるかもしれません。そもそも、律法は神様がご自身の民が、正しく、先ほどお話ししました言葉でいえば、義であるために、神様との正しい関係にとどまるために、与えてくださったものだという事実があります。その意味で、律法自体は悪いものではなく、むしろ良いものです。しかし、ここで特に注意したいのは、パウロが「実行に頼る」と言っていることです。律法を行う事に信頼する、という意味です。律法を行う事に信頼すると何が起きるのか、と言いますと、ガラテヤ書の12節に書かれていることが起きるのです。律法は信仰をよりどころとしていません。律法に頼っていくと、いつの間にか、信仰、神様への信頼を第一にしなくなる、というのです。ではどうなるかと言いますと、続きにある通りですが「律法の定めを果たすものは、それによって生きる」と続いています。律法はあくまで、神様との良い関係にとどまるための手段であるはずでした。ところが、律法の定めを果たそうとすると、いつしか、律法を守ることが目的になって、それが生きがいになってしまうというのです。実際にイスラエルの民は「律法の書に書かれている、すべてのことを、絶えず守らないものは呪われている」という教えを絶対化して、律法に拘ればこだわるほどに、神様から離れていきました。この事実こそが、まさに律法の呪いです。そして、それは、「正しいものは、信仰によって生きる」という言葉のまさに正反対の状態です。
呪いを受ける
イスラエルの民であれ、そうではない私たちであれ、自分で、自分を何とかしようとする、このような思いにとらわれている限り、同じように律法の呪いのもとにある、と言ってよいでしょう。そして、私たちは、誰も、自分の力で、この呪いから逃れることができません。そして、少なくとも、ここまで確かめましたことからしますと、私たちは、誰であれ、アブラハムの子になる資格はありません。なぜなら、私たちは、アブラハムのような神様への信頼性に生きることが、どうにもできないものであるからです。しかし、そこで、すでに、決定的なことが起きた、とパウロは言うのです。それは、「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖いだしてくださいました」という13節の言葉です。イエス様は、木にかけられたものとなった(申命記21:23)、という申命記の言葉が、引用されていますが、これは、言うまでもなく、十字架のことです。あの十字架において、私たちの運命を変えることが起きた、とパウロは言いたいのです。それは「贖い」だといいます。買い取り、とも訳すことができます。お金を払って、私たちを買い取った、という事です。私たちは、律法の呪いから自由になれないのです。しかし、その律法の呪いそのものを、イエス様はご自身の身に受けることによって、私たちを解放されたのです。
霊を受ける
それで、私たち自身は何も変わっていないのですが、相変わらず、依怙地で、自分のルールが大好きなものなのですが、そうであるにもかかわらず、そのような依怙地さから、自由にされる道が開かれて、アブラハムのようにされる道が開かれて、神様から、霊をいただけるようになった、のです。「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちに約束された霊を信仰によって受けるため」とあります。この霊は当然ながら、エゼキエルに「お前たちの中に新しい霊を置く」と約束された霊であり、復活のイエス様が弟子たちに向かって「父が約束されたもの」と言われた、あの聖霊のことです。そして私たちは、この霊を、ただイエス様によって、イエス様に信頼することによって受け取ることができます。或いは、イエス様を信頼するものと、されることによって、というのがより正確かもしれません。この霊の働きによって、はじめて、私たちは、「信仰によって生きるもの」になっていきます。
神を信じる
そして、信仰によって生きるものは、アブラハムの子なのでした。そうであれば、生まれつきのユダヤ人であろうと、そうでなかろうと、問題は、このことにつきます。私たちは、新しく、信仰に生きるものにされる限りにおいて、誰であっても、アブラハムの子ですし、信仰によって生きなければ、どれほどユダヤ人の血が濃くても、アブラハムの子ではありません。そして、言うまでもなく、私たちは、信仰に生きる限り、変わることなくアブラハムの子なのです。
祈り
神様、あなたは、私たちを、時にかなってご自身のもとに招いて下さり、御霊を与え、信仰を与え、あなたの民、信仰の父であるアブラハムの子としてくださいましたから、感謝します。どうぞ、私たちがこの新しい霊に導かれ、あなたへの信頼のうちに、この週も生きることができますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。