毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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牧会祈祷
唯一の不死の存在、近寄りがたい光の中におられる方、誰一人見たことがなく、見ることのできない、王の王、主の主、とこしえの神様。み名をほめたたえます。
あなたは、聖なるおきてを人に与えて、ただしく生きる道を教え、野の草、空の鳥に勝って私たちを愛し、あらゆるよいものをもって満ちたらせてくださいました。
それにもかかわらず、私たちは、アダムにあってあなたに背き、自らの腹を神とし、恥ずべきものを誇り、この世のものばかりを考えるものとなってしまいました。
しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬います。あなたは救い主イエス・キリストとその十字架の死による贖いを信じる者に、罪の赦しを約束してくださいました。願わくば、今、私たちにまことの悔い改めと信仰を与え、主イエス・キリストにあって、あなたの赦しをお与えください。
あなたは、私たちに聖書を与え、御霊によって解きあかし教えてくださっておりますことを覚えます。この日、私たちが、この場に集められ、あるいは、ウイルス対策として、それぞれの家庭であっても、あなたと共に過ごし、み言葉と御霊によって豊かに養われておりますから感謝します。
大きな台風が近づいております。特に沖縄、九州、西日本において、それぞれの町が守られますようにお願いいたします。新型コロナ・ウイルスの感染が、なおおさまらず、世界各地において深刻さは、増し加わっています。当たり前の生活を送る日は見通せていません。どうぞ感染被害を防ぐために労苦しておられる、すべての方を、支えてください。今、感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。
ガラテヤ3:1-5 「はっきりと見たもの」
物わかりの悪い
「ああ、物わかりが悪い」という言葉は、強い言葉です。普通なら使えない言葉です。ちょっと考えてみても、例えば教会の中で、牧師が、信徒に向かって、或いは信徒同士で「君は物わかりが悪いね」と、まっすぐに言うようなことは、ほとんど考えられません。場合によっては、関係が壊れてしまいます。しかし、パウロはあえてこのところでこの言葉を使います。それは、おそらく、パウロとガラテヤの諸教会の人たちの間に、ある共通の理解、それも、素晴らしい出来事として深く心に残るような、共通の体験がある、という事が前提になっているようなのです。いわば強い信頼関係の中で、このような言葉をあえて使っているのです。それは、いわば、目覚ましのような、はっとさせるような、呼びかけの言葉です。何よりも、本当に見るべきものへと目を向けるように、との呼びかけです。
悪い目
本当に見るべきものと、そうでないものがあります。パウロは「誰があなた方を惑わしたのか」と尋ねています。新改訳では「迷わす」と訳しています。どちらでも可能ですが、もともとは、悪い目で見る、という意味の言葉のようです。誰が、とありますから、困った人たち、原因になる人たちがあった、という事です。もちろん、今まで、ガラテヤ書を続けて読んできましたから、すでに、ガラテヤのキリスト者たちの置かれた状況についてお話ししました。そこでごく手短に言いますと、彼らはユダヤ人キリスト者、それも、律法の行いによってより完全なキリスト者になることができる、本物のキリスト者は、ユダヤ人として律法を固く守らなければならない、と言っている人たちでした。そのような人たちの言葉に、ガラテヤの教会に集まっていた人たちは、いわば、魅入られてしまったとパウロは言うのです。そして、本当に見るべきものを見ることができなくなっている、と言いたいのです。それゆえに、パウロはあの強い言葉、「物わかりが悪い」という劇薬のような言葉を使って、目を覚まさせよう、としているのです。では、パウロが言うところの、本来見るべきものとは何かといえば、これもまた、1節に書いてある通りです。
十字架のキリスト
それは、言うまでもなく、キリストの十字架です。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で、はっきり示されたではないか」とありますとおりです。しかし、これは、そのまま読んでしまってよい言葉ではありません。こんなことを言っては何ですが、皆様は、このことが、自分のこととしてピンとくるでしょうか。実は、今日私たちが考えたいことの中心は、このことです。私たちは、イエス様によって罪を赦されました、それは全くその通りです。十字架によって私たちの罪は贖われました、という言葉も全く正しい言葉です。しかし、それだけではないのです。或いは、それで終わりにしてしまってはいけないのです。何しろ、「目の前に」とあります「目」は、ガラテヤの教会に集まっている人たち、一人一人のその両方の目です。そこに、イエス・キリストがはっきり示された、というのです。しかも、十字架につけられた姿だった、というのです。それは、何も、白昼夢を見る、幻を見る、という事ではないかもしれません。しかし、それを、どのように言葉で表現したとしても、私たちには、十字架のイエス様が見える瞬間がある、というのです。それも、うすぼんやりではなく、はっきりと見えるというのです。しかも、それはそれぞれが勝手に見たというのではないのです。なぜなら、続く2節で、「福音を聞いて信じた」という言葉があり、さらに、4節では、「あれほどのことを体験した」という言葉があるからです。
パウロたちが与えたもの
すなわち、ここでパウロが力説しているのは、ただ、キリスト教の教えがそうだから、という事ではないのです。むしろ、パウロ自身が体験した福音、パウロ自身が、受け取った福音を、ガラテヤ地方で、初めて会った人たちに語ったその時に、彼らとパウロの間で、何かがあったのです。その何かの中心にあるのが、イエス・キリストの十字架なのです。パウロはコリントの信徒への手紙でこのように言っています。「1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」パウロが語る言葉の中心にはイエス・キリストの十字架がある、というのです。そしてそれは、パウロ自身が、自分のこととして、それを味わっている、という事実に裏付けられています。先週の個所でしたが、このガラテヤ書では、パウロは「私はキリスト共に十字架につけられています」と語っていました。これは、絵画的に表現するのなら、十字架につけられたイエス様の左右に一緒に十字架につけられた罪人があった、というあの福音書の記事を思わせます。あの十字架のときにイエス様に向かって「御国においでになる時には私を思い出してください」と言った異邦人がいました。彼に対してイエス様は「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」といわれました。おそらく、パウロは、いつも、このような意味で、自分との関係の中において、自分の罪との関係の中で、十字架のイエス様が胸に迫っていたのではないでしょうか。
霊を受ける
そして、そのようなパウロの言葉を聞いた人たちもまた、同じように、自分のために十字架にかかったイエス様と、自分自身もそのわきで十字架にかかっているというような、そのような幻を、説教の言葉と共に、思い描いていたのでしょう。このようにして、ガラテヤで初めて、キリスト教の説教に触れた人たちの中に、十字架のイエス・キリストが、ハッキリと形作られていったのです。そして、パウロもそれが手に取るように分かったのです。そして、そのようなことを成し遂げたのは、決して、これが重要ですが、パウロの話力ではないのです。そうではなく、パウロはここで、霊を受けたといいます。3節に「あなた方に一つだけ確かめたい。あなた方が霊を受けたのは、律法を行ったからですか、それとも、福音を聞いて、信じたからですか」とある通りです。福音を聞いたのです。パウロから聞いたのです。そして、そこに神様の霊のお働きがあったのです。パウロと共に、パウロを用いて福音を語る霊のお働きがあったのです。そして、聞くガラテヤの人たちの中に、イエス様に対する、信頼がはっきりと生まれたのです。福音を聞いて信じる、とはそのことです。そして、そこにおいて、霊のお働きが始まったのです。それは、言い換えれば、きよい霊に捉えられる、といってもよいでしょう。ここから、新しい人生が始まったのです。だからパウロは4節で「あれほどのことを体験した」というのです。これは私たちにとっても同じことです。信仰を持つ、とは、私たちの中で、神様が働き始める、という事です。そして、私たちの中で、ありありと、十字架のイエス様が姿を現していく、ということです。
何で仕上げるのか
そして、大切なのは、これが、私たちの人生の方向性を決定づけている、ということです。一度、この関係に入ったら、私たちの歩みは、イエス様と一緒の歩み、パウロと同じように、キリストと共に十字架につけられ(19節)、「キリストがわたしのうちに生きておられる」という状態がますます強くなっていくもののはずです。今、「はずです」と言いました。実は、パウロがこのガラテヤ書で問題にしていたのは、ガラテヤの教会の人たちが、そうではない方向に行こうとしてたからでした。3節の「「霊」によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」という問いかけは、そのことを言っています。もちろん、仕上げられないのです。この場合の肉によって、というのは、律法の行いのことです。そして律法の行いの特徴は、自分だけを正しいとすること、他の人たちと自分とは違う、という区別、差別を生み出すという特徴がありました。まじわりと愛を破壊するものでした。
無駄にならないように
それでは当然ながら、神様と一緒に、またイエス様と一緒に歩くことにならないのです。むしろ、神様からどんどん離れていくしかないのです。このことは私たちにも重要なことを突き付けているかもしれません。自分で何かをすることで、神様に仕えられる、というように考えていくのであれば、私たちもまた、この罠に捉えられるしかないのです。しかし、あなた方は、自分たちのもらったものを無駄にしてはらなない、とパウロは言うのです。「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。」(3:4)とありますとおりです。わたしたちは、あれほどの体験を、大切に育てなければならないのです。あるいは、まだ、そのような体験が薄いのであれば、むしろ、それがさらにはっきりとするように求めるのです。求めるものに、イエス様は、必ず答えてくださると、ご自身で言われている通りです(マタイ7:7、ルカ11:9)。いずれにしましても、私たちは、いつでも、最初から始めることができます。
聞いて信じる
なぜなら、私たちは、毎週礼拝に参加して、毎週御言葉を聞くことができ、毎週福音を聞いて信じることができるからです。そして、信じる者に、神様は、いつでも、霊を与えてくださいます。そのうえで、一つだけ、5節にあります「奇跡」という言葉についてです。これは、何か目覚ましい、しるし、癒しのようなもののことでしょうか。異言や預言と言ったもののことでしょうか。そのように考えることもできるでしょう。しかし、それ以上のものがあります。それは、そもそも、私たちの中に、イエス様を信頼する信仰が与えられること、そして、自分の罪が明らかにされ、そのために十字架にかかられたイエス様のお姿が、はっきりと示されていくことです。私たちは、いつでもこのところにとどまります。
はっきりと見たもの
私たちは、イエス様が与えてくださった信頼にとどまります。私たちは、イエス様が見せてくださった、十字架にとどまります。私たちがはっきりと見たものにとどまります。それこそが、最も確かな、人生の土台だからです。そして、この土台からそれない事こそが、私たちの人生を完成に導くのです。
祈り
神様、あなたは、私たちを、み言葉を落として、十字架の主イエスに出会わせてくださいますから、感謝します。私たちは、このまったく新しい関係の中で人生の歩みを始めております。しかし、肉の弱さによって、このことが曇らされるかもしれません。どうぞ、私たちが御国の完成にむけ、私たちのうちにおられる主イエスに信頼できますように。この週の歩みにもあなたの導きが豊かにありますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。