毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
お気軽にお問い合わせを
「一度礼拝に出席してみたい。」
「教会に行ってみたい。」
「でもどうしたらよいかわからない。」
そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。
電話でのお問い合わせなら048-474-9237まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。
牧会祈祷
唯一の不死の存在、近寄りがたい光の中におられる方、誰一人見たことがなく、見ることのできない、王の王、主の主、とこしえの神様。み名をほめたたえます。
あなたは、聖なるおきてを人に与えて、ただしく生きる道を教え、野の草、空の鳥に勝って私たちを愛し、あらゆるよいものをもって満ちたらせてくださいました。
それにもかかわらず、私たちは、アダムにあってあなたに背き、自らの腹を神とし、恥ずべきものを誇り、この世のものばかりを考えるものとなってしまいました。
しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬います。あなたは救い主イエス・キリストとその十字架の死による贖いを信じる者に、罪の赦しを約束してくださいました。願わくば、今、私たちにまことの悔い改めと信仰を与え、主イエス・キリストにあって、あなたの赦しをお与えください。
あなたは、私たちに聖書を与え、御霊によって解きあかし教えてくださっておりますことを覚えます。この日、私たちが、この場に集められ、あるいは、ウイルス対策として、それぞれの家庭であっても、あなたと共に過ごし、み言葉と御霊によって豊かに養われておりますから感謝します。
首相が辞意を表しました。その体調をあなたが顧み回復を与えてください。また、私たちの社会が、なお、正義と公正を尊ぶあり方へと、整えられますようにこの国を憐れんでください。新型コロナ・ウイルスの感染が、なおおさまらず、世界各地において深刻さは、増し加わっています。当たり前の生活を送る日は見通せていません。どうぞ感染被害を防ぐために労苦しておられる、すべての方を、支えてください。今、感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。
ガラテヤ2:15-21 「何を信頼するのか」
ユダヤ人の義?
今日の聖書の書き出しは、ちょっとびっくりするような言葉です。「私たちは生まれながらのユダヤ人であって異邦人のような罪人ではありません」。このように真正面から言われますと、ああ、そうですか、悪かったですね、異邦人で、と開き直りたくなります。しかし、この言葉は、パウロのこの時の本音ではありません。むしろ、パウロはその前の所、すなわち、ユダヤ主義的なキリスト者の目を気にして、ユダヤ人的にふるまっていたペテロたちのあり方へのいわば「いやみ」として書かれている、とみて間違いありません。ああ、あなたたちは、そんなに偉いのですか、ユダヤ人らしくあるのがそんなに大切なのですか、という問いかけです。もっとも、この場合ユダヤ人らしい、というのは、現在まで続く人種としてのユダヤ人を問題にしているのではありません。そうではなく、むしろ、律法主義、あるいは、律法から生まれたおきてに拘って、それによって生きようとする、そのようなありかたの問題です。それは例えば、ペテロたちの場合には、異邦人キリスト者と一緒に食事をしない、という態度になって現れました。パウロはこれに対して、強く反対したのでした(2:11)。
律法的生き方
その場合に、なぜ強く反対したのか、について例えばペテロたちが陥ったのは、偽善であり、真理を踏み外す生き方だから、というのが14節までの所で語られていました。しかし、そのことについて、今日の聖書はさらに厳しい言葉で語りなおしている、と言えます。それは、21節の言葉です。ここをもう一度読んでみます。「2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」もし、人が律法のおかげで義とされるとすれば、とあります。もちろん、パウロはこのようなありかたを認めていませんし、信じていません。しかし、律法によって義とされる、というのはなかなか、魅力のあることかもしれません。なぜなら、それは、それで、よくできたシステムだからです。律法という場合には、一応、モーセ五書を指すというのが普通ですが、それ以外にも、様々に言い伝えなどもあったようです。しかし、とりあえず話を簡単にするために、十戒を考えてみてください。あれは、一枚目が神様に対するルール集、二枚目が人に対するルール集と言えます。そして、その内容は、それほど特殊なものではありません。神様の民として、これだけ守っていれば大丈夫、という事が緩く書かれている、と言ってしまってもよいくらいです。そして、もし、このようなルールを守ることに失敗した場合、どうなるのかと言いますと、それで一発アウトではありません。
形式的信仰-キリストを無駄にする
むしろ、イスラエルの祭儀律法には、神殿を根拠にして、様々な罪のための捧げもの規定があります。和解が成り立つのです。ルールを破ってしまったら、和解のルールに従って、ささげものをする、という事ができますし、さらに、年に一度の大贖罪日に、神殿に昇って規定通りの捧げものをすれば、一年の罪が許されるというまことにありがたい決まりまでありました。そうしますと、何か悪いことをしても、律法による儀式によって罪がゆるされ、また、神の民を続け、何か間違ったらまた、ささげものをして、というようにどこまでも続けられる、という事になります。問題は、それを習慣のようにしていく時に何が起きるのかです。もともと、律法は、神様の民として、神様との交わりの中に歩むためのものでした。ところが、罪の贖いを、繰り返し行っていくことで、いつしか、それ自体が目的になっていくということが起こったようです。さらにそれが進みますと、アモス書にあるようなことになります。読んでみましょう。「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ/苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」(アモス8:4-6)
キリストへの信頼
これは、極端な例かもしれません。このアモスの言葉が直接問題にしているのは、ユダヤ人の商人たち、それもそれなりの立場のある商人たちのようです。彼らは、形式的には、律法の義務をすべて果たしているようです。その意味では立派な人たちの中に数えられたでしょうし、死ぬまでそうであったかもしれません。しかし、そこには、律法の精神はまるでありません。神様は憐れみ深い方であるのに、彼らは隣人に対する憐れみを全く持ち合わせていません。しかし、形式的には、この人たちもまた、立派なユダヤ人で通ってしまいます。パウロが問題にしたのは、まさにこのところです。律法の行いによって正しいものであろうとするのなら、それは、ただ、表面的に自分を正しいものとするむなしい業に行きつく、そして、それこそが、キリストの死を無意味にすることになるというのです。なぜなら、キリストこそが、この問題、人間が、どうしても、神様の御心にそって、正しく生きることができない、という問題を、ご自身の死を通して、解決してくださったからです。あの十字架の死によって、すべての人間の罪を背負って、すべての人を神様の前にたてるようにしてくださったのでした。それはただ信じるだけで事実そのようになる、というのがパウロを含め私たちキリスト教徒の信仰です。それは、言い換えれば、キリストへの信頼としてもよいでしょう。しかし、そのようなイエス様のしてくださったことを、簡単にダメにしてしまうことができると、彼は言うのです。それが、信仰に生きない事、イエス様を信頼して生きない事、そして、自分で自分を正しいとしたい、という願いに拘ることです。
パウロの中で起きたこと
しかし、このところでは、パウロは、自分がどうやってそこから抜け出したのか、という事よりもむしろ、そこから抜け出したことを前提として、その後、すなわち、今現在、どのように生きているのか、について語っています。このことは、私たちキリスト者にとりましても、とても気になることではないでしょうか。今日は最後にこのパウロの生き方を、聖書の言葉をたどって確認します。まずは、19、20節をもう一度読んでみます。「2:19わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」、ここで「律法に対しては律法によって死んだ」と言っているのは先ほどのこと、すなわち、律法の行いに拘っている限り、律法の精神から離れ、ますます、神様から遠くなっていってしまう、という事がはっきりと分かった、ということです。律法を極めれば、極めるほど罪が際立ってきて、死に近づくのです。
パウロの十字架
問題はその次です。そのようなことが分かったパウロは、使徒言行録9章にある通り、イエス様と出会って、別の生き方に入れられた、新しく生き始めた、というのは何度も確認してきたところですが、ここでは、そのようなあたらしい生き方として、「キリストと共に十字架につけられています」という言葉があります。これは、福音書においてイエス様が「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マタイ16:24)。と繰り返し言われたことと、対応しているように見えます。そして、重要なことは、これは、一度きりの出来事を言っているのではない、という点です。イエス様と出会って、突然まぶしい光に包まれて、目が見えなくなって、自分を造り変えられて、あの時、劇的な十字架体験したのも、今はいい思い出だよ、というのではないのです。むしろ、あの時からずっと、イエス様と一緒に十字架につけられていると言いたいのです。
新しく生きる
しかもそれは、ただ、死んだ、という事でないのは続く言葉によって明らかです。むしろ、ぱうろは、キリストと一緒に生きている、というのです。それも、イエス様が別の所にいて、自分は自分でいて、別々に無関係に生きているのではなく、むしろ、私の中にイエス様がいる、という形で生きている、というのです。それは、いわば、生まれ変わり、のようなものです。イエス様と一緒に十字架につけられ、しかし、イエス様と遺書に生きるようになって、それ以来、自分の中にイエス様が居続けている、というのです。もちろん、これを神学的に言えば、聖霊において、臨在している、という事ができます。イエス様が聖霊を派遣してくださって、聖霊がわたしたちの中に住み込んでくださって、というように言うことはできますが、大切なのは定義ではありません。しかも、パウロは、理念とか哲学と言ったことを言っているのではないのです。なぜなら、彼は、肉において生きている、と言っているからです。私たちと同じ、もろくて、すぐに調子を崩し、すぐに気分が変わり、気まぐれで、欲深くて、自己中心的で、悪い思いにとらわれやすい、弱いこの肉体として今を生きている、というのです。しかし、そのような弱い私の体の中で、新しいことが始まっていて、そのイエス様の新しい働きに信頼して、一日一日生きている、とパウロは言うのです。
何を信頼するのか
これは、私たちに対して、問いかける言葉です。あなたは、以前、何を信頼しましたか、あなたは、今、何に信頼していますか、あなたはこれから何を信頼して生きていきますか、と問いかける言葉です。勿論パウロが願うのは、私たちの中で始められた、イエス様の命を決して無駄にすることなく、これからも、イエス様に信頼し、イエス様と一緒に生きていくことです。
祈り
神様、あなたは、私たちを、主イエスの贖いのゆえに、御前に立つものとしてくださいましたから感謝します。私たちはなお弱い肉において生きています。どうぞ、私たちが、肉の思いに戻ることなく、主イエスに信頼して歩むものとなれますように、この週の歩みにもあなたの導きが豊かにありますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。