毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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牧会祈祷
恵み深い神様。あなたは天と地と海とその中にあるすべてのものを、み旨のままに創造され、今に至るまで大能の御手をもって支配し、守り導いておられます。この御業をおぼえて、心からあなたを賛美し、栄光をたたえます。
この日、私たちが、この場に集められ、また、なお、ウイルス対策として、それぞれの家庭で、あなたと共に過ごし、み言葉と御霊によって豊かに養われますから感謝します。
昨日は前の戦争で日本が敗北し、戦が終結したことを覚える日を過ごしました。75年の節目に当たりますが、私たちは、なお、自分たちの中に罪と憎悪、思い上がりのあることを覚えます。かなわぬことを願い、望むべきでないことを望み、真実や正義よりも実利をむさぼる思いがいつでも争いを起こします。
それはみな、生まれながらに罪の性質からくるものです。いま、私たちは自らの罪を認め、悔い改めます。それゆえ、イエス・キリストによる赦しを豊かにお与えください。
私たちに、主イエスが十字架において、ご自身を贖いのささげものとして下さったこと、三日目に復活して、罪と死の縄目から私たちを解放してくださっていることをますます確信させてください。あなたは、私たちに聖書を与え、御霊によって解きあかし教えてくださっておりますことを覚えます。このようなあなたの慈しみによって、私たちを、新しい命を楽しみ味わうものとしてください。私たちが、この喜びを自らのものとして、その豊かさを、兄弟姉妹と、また、隣人と分かち合い、あなたによって遣わされます日々の生活の中でも、福音を示すものとしてくだいますように。
新型コロナ・ウイルスの感染が、世界で、また日本でも増加しております。この事態には、多くの忍耐と知恵が必要であることを覚えます。どうぞ感染被害を防ぐために労苦しておられる、すべての方を、支えてください。今、感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。この日も体調を崩している方たち、ご高齢の兄弟姉妹たちの生活を顧みてください。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。
「ひそかに正義を行うもの」
若い時
今年は夏の終わりに学生会の方たちと修養会でしばらく一緒のときを過ごすことになっています。今から楽しみにしつつ、お話しの準備を進めています。その一方で、ちょっと気後れしなくもありません。何しろ、私が若いころは、五十歳過ぎのおじさんたちについては、すごいおじいさんくらいにしか思っていなかった記憶があるからです。今の学生さんたちによっては私も立派なおじいちゃん、かもしれません。けれども、そのような若者たちも、十年経てばまた、別の見方をするようになってくるはずで、その意味では、何事も順番なのですが、私が言いたいのは、その時どきで見方は変わるという事、もっと言えばある時にならなければ、実は本当のことは見えてこない、などというとなんとなく偉そうですが、私たちが期待したり、思い描いたりしている未来と、世界の動きは違っているかもしれないけれど、しかし、実はしっかりと神様が働いてくださっているという事がどうも本当のことなのではないか、そんなことをこのところの聖書を読みながら感じたのです。
三つの出会い
このところは、青年になったモーセが、三つの出会いを経験する、その様子を描いています。もっとも、正確な年齢はわかりません。使徒言行録7章にあります、ステファノの説教の中では(7:23)40歳となっています。しかし、このところでは、ざっくりと成人したころとしかありませんので、もう少し若い感じがしなくもありません。三つの出会いとは、一つは、エジプト人として、王女の養子として、かなり特別な身分、良くも悪くもそれは特殊なものでしたが、すなわち彼は、王族のような服装をしていたようですが、しかし、いわゆる御つきのものと一緒に外出する必要はなかった、言い換えれば、おつきものをつけてもらえなかったようです。そうだからこそ、このように自由に、労働者の現場に出向くことができたのでしょうが、ユダヤ人ではあるけれども、半分はエジプト人貴族のようでもある、そんな中途半端な身分として出かけていき、ユダヤ人を撃ち殺そうとする、エジプト人と出会っています。その次に、仲間割れをしてしまう、ユダヤ人と出会っていますし、最後には、エジプトを逃れた先で、ミディアン人たちと出会っています。そして、モーセはこの一連の出会いを通して、その人生を大きく変えていくことになります。エジプトの王宮の中における守られた生活、大国の中で、どちらかと言えば日陰者として暮らしている状態から、自分の足で立つ羊飼いへと、その身分を変えていくことになります。そして、それは、長い目で見ますと、モーセがやがて神様によって与えられる身分を得るために、不思議な導きによってエジプトを脱出した、というように見ることもできます。
幾つかの先取り
そして、不思議な導きという事では、彼は、ここで、いくつか、やがて神様によって導かれる先で自分が体験することを先取りしている、と言えそうです。モーセはこのところの、三つの出会いにおいて、いずれも、悪と戦っています。最初の出会いにおいては、ユダヤ人を撃ち殺そうとしているエジプト人を、打ち殺しています。これは、後に、神様の手によって、ユダヤ人たちを抑圧しつくしてきたファラオが打たれることを、先取りしているように見えます。一方で、仲間のユダヤ人同士のけんかを仲裁し、正義を実現しようとしていますが、その働きは、そもそも、神様が、イスラエルに与える律法において、正義が求められていることの先取りにも見えます。さらに言いますと、三つ目の出会いにおいても、モーセは、横取りをしようとする羊飼いたちを撃退して、異邦人から感謝されていますが、これは、後にイスラエルが民として、敵を打ち、異邦人を自らの中に受け入れていくことを先取りしているように見えますし、少し後戻りしまして、ユダヤ人に向かって正義を語っているにもかかわらず、むしろ、反論を受け、正統性を疑われ、従ってもらえない、という状態は、出エジプト記の中でしばしばみられることであり、さらにはユダヤ人が神様にいい逆らうという姿を先取りしている、というように見ることもできます。
モーセの決意
とはいえ、これらのことが、出エジプト記において、本当に実現していくのはこの時よりもはるかに後のことになります。そして、今日、私たちが特に注目したいのは、21節の言葉です。「モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた」。この場合の彼とは、言うまでもなく、ミディアンの祭司レウエル(18節)のことです。もっとも、後では(3:1、4:18、18:1以下)彼の名は「エトロ」となっています。今となっては、このどちらが正しかったのか実はよくわからないようです。それから、父親が、娘を一族の仲間になった若い男に与える、という書き方も、少々時代がかっていますけれども、これもまた当時の習慣ですから、その辺にあまり目くじらを立てていては、このところはうまく読めません。むしろ、このところで注目したいのは、モーセに与えられた、子どもの名前がゲルショムである、という事です。この名前の由来として、ゲール=寄留者という事が言われています。モーセはとうとう自分は、ここに根を下ろした。自分はエジプトの王宮で育ち、しかし、ユダヤ人をこそ、本当の兄弟姉妹と知って、彼らを助けたいと願っていたけれども、それもうまくいかず、今はこのミディアンの地にまで逃れてきた、そして、寄留者としての人生を始めようとしている、このようなこと一切を若いモーセは、その若さの中で考えて、選び取ったのでしょう。「この人のもとにとどまる決意をした」という言葉は、若いモーセが、一つの人生の選択をした、その決定を下した、この地で生きる覚悟を決めた、という事にほかなりません。そして、実際の所、私たちが、人生の夏の時期と考えるような時代、結婚をして、子どもを得て、その子が一人前になって、独立していく、という時に至るまで、モーセは、この異郷の地で平凡な羊飼いとして過ごしていくことになります。
実現するべきこと
しかし、そこで私たちは、一つのことを確認したいのです。3章以降で詳しく見ていくことになりますけれども、モーセはやがて、神様に直接語り掛けられることになります。ただ語り掛けられるだけではなく、神様の御心を実現するために派遣されることになります。それは、神様の民を、エジプトから導き出し、神様の民として、約束の地に導いていく、という役割であることは、私たちが、すでに知っている通りですし、これからたどっていくことになる、出エジプト記の、この後の記事において、何度も確かめることになる事実です。しかし、何といっても私たちが知るべきこと、それは、そのような神様の御心がモーセに語られる場所、それは、エジプトではなく、むしろ、このミディアンの荒れ野であった、ということです。さらに言うのなら、神様とイスラエルの民が改めて契約を結ぶのもまた、エジプトの地ではなく、このミディアンの地に近いホレブの山であったという事実です。イスラエルが、イスラエルになるべき場所は、荒れ野であって、それ以外ではないのです。そして、モーセは、まったく知らないうちに、そのような場所、いわば始まりの場所へと導かれていたのです。しかし、そこにおいて、モーセは、なお、長い年月を、待たなければなりませんでした。このことから、私たちは、二つのことを理解できるかもしれません。
モーセの役割-長い下積み
そこでちょっと話がずれるようですけれども、少し前、テレビのコマーシャルで、ピークを知る男、と言った言葉が流れていました。芸能人で、かつて売れに売れて忙しかった人が登場し、今はちょっとピークを過ぎた、でも今の方がいい、と言うようなことを語る内容のコマーシャルで、要するに、時差出勤してくださいね、という事なのでしょうが、問題は、この人生のピークという考え方です。私たちは、自分たちの人生のピークや、教会のピークをどのように考えているでしょうか。あるいは、もっと言えば、私たちは、自分たちが頑張ることで、人生にしろ、教会にしろ、ピークを作り出すことができるのでしょうか。私は、そうではないかもしれない、と言いたいのです。これはもう、聖書のお家芸と言ってもよいかもしれませんが、アブラハムが出発したのは70歳になってからでした。この後出エジプト記7章を見ますと、モーセとアロンがファラオにエジプトから出かけたいと語った時の年齢は、それぞれ80歳と83歳だったとなっています(7:7)。額面通りに取りますと、もうかなりのおじいちゃんで、これから一仕事、あるいはこれからが人生の本番、といわれても、ちょっと大変な気がしますが、重要なのは、私たちが、今こそ、と思っている時と、神様がご計画されている時とは、かなり違っているかもしれない、ということです。
救いは神によってなる
それから、もう一つのことは、モーセが三つの出会いを通して、実現しようとした正義、それは、神様の手によってこそ、実現されるという事実です。モーセは、ひどい仕打ちをするエジプト人を撃ち殺して、仲間を助けようとしました。しかし、それはうまくいきませんでした。けれども、エジプトを脱出した時に、あの葦の海を越えた時に、神様によって導かれたモーセはこのように語ることができました。「出14:13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。出14:30 主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。」モーセは、もはや自分の手で、正義を実現する必要はありませんでした。そうではなく、むしろ、神様が民を救ってくださり、神様が、抑圧するものを打って下さり、神様が、救いを実現してくださったのでした。
ひそかに実現する正義
私たちは、神様の約束がいつ実現するのか、今このところで知ることができません。しかし、そうであるからと言って、神様の約束、神様の正義が、存在しないわけではありません。わたしたちが、日々の暮らしの中で、不器用に、正しく生きようとし始めている、そのつたない歩みの先に、もっと素晴らしい完成のときが待っているということを、この出エジプト記は教えています。私たちは今この場所で大きな成果を目にすることはないかもしれません。しかし、そうであるにもかかわらず、ひそかに、神様の正義は、私たちの日常生活のすぐ隣で、実現に向けて日々進んでいるのです。
祈り
主イエス・キリストの父なる神様、あなたのみ名を賛美いたします。あなたはご自身の民の嘆きをつぶさに見て、その嘆きを聞いてくださる方であるゆえに感謝します。私たちもまた、先の見えない時代に生きております。しかし、なお、あなたの守りが確かにあり、また、私たちに与えてくださる日々のしるしの先に、あなたの偉大なご支配があることを覚えます。私たちが、目先の出来事に絶望するのではなく、まだ見ぬ、あなたの王国に期待して歩むことができますように、また、この週の歩みにあなたの希望が豊かにありますようにお願いします。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。