6月28日説教原稿

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6月28日説教原稿

家庭礼拝のための祈りと説教原稿です

牧会祈祷
慈しみと憐れみに満ちておられる、全能の神様。わたしたちは、あなたが天と地を創造し、節理の御業によって絶えず治めておられる御力をおぼえて賛美します。またイエス・キリストにおいて、救いと贖いの恵みを完全に掲示しておられる幸いを感謝し、ほめたたえます。
あなたが、この世において、見えるところ、見えないところ、どこにおいても、豊かな憐れみをもって、私たちに、キリストにある永遠の命を今日も与えてくださっております。しかし、そうであるにもかかわらず私たちは、あなたと私たちの隣人と、自分自身とに罪を犯しています。私たちは生まれながらに罪深い性質を持ち、また、日々実際に罪を犯し、善をなすことのできないものです。いま、私たちは自らの罪を認め、悔い改めます。それゆえ、ただイエス・キリストによる赦しをお与えください。
どうぞ、私たちに、主イエスの十字架の贖いによる、罪の赦しを確信させてください。また、私たちがあなたにあってすでに永遠の命を地上においても先どりつつ生き始めておりますことをますます確信させてください。
また、私たちが、この喜びを自らのものとして、その豊かさを、兄弟姉妹と、また、隣人と分かち合い、あなたによって遣わされます日々の生活の中でも、福音を示すものとしてくだいますように。
日本においては、新型コロナ・ウイルスの感染が、一旦は抑えられつつありますことを感謝します。しかし、なお、感染症は続き、とりわけ世界に目を向ければ、むしろその事態はより深刻になっていることを知っています。私たちが、なお当たり前の生活を送る日は見通せていません。そのような中で変えるべきところを変え、守るべきところを守る知恵を与えてください。どうぞ感染被害を防ぐために労苦しておられる、すべての方を、支えてください。今、感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

ガラテヤ1:6-10 「神の目、人の目」
おどろき
突然重たい話で恐縮ですが、人生には、後から振り返ってここが分かれ目だった、という瞬間がいくつかあるようです。しかし残念ながら、私たちは、実際に、その場にいる時には、全体が見えないのです。そして、うかうかと、歩んでしまうという事があります。実は、今日の聖書で、パウロは、ガラテヤのいくつかの教会で、まさに今、大変なことが起きている、ここがのるかそるかの一大事だ、と外にいるからこそそのことに気が付いて、危機感をもって大きな叫び声をあげている、そんな様子が見て取れるのです。この所では手紙のあいさつもそこそこに、まさに、大声をあげて、叫んでいるように見えます。6節の最後の所「私はあきれ果てています」という強い言葉がそれです。あなたたちは一体何をしているのか、というのです。聞きようによっては、とても厳しい言葉です。しかし、このような厳しさ、激しさをもって、一体パウロが何を伝えたかったのか、今日はパウロが大事にしていたものを一緒に確かめたいのです。

神の招きの外?
それで、パウロが何を慌てているのかと言いますと、そこに書いてある通り、です。「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなた方がこんなにも早く離れて」。キリストの恵み、という言葉はとても大切で、これについても、しっかりと考えたいのですが、とりあえず、ここで問題になっているのは、恵みへと招いてくださった方、という言葉です。これは、言うまでもなく、神様ご自身を指している、としか考えられません。そうすると、ガラテヤにある諸教会の中で、神様から、知らず知らずのうちに離れていこうとしている人たちが、実際に存在している、という事になります。しかも、それは、ほかの福音に乗り換える、そういう仕方だといいます。もっとも、このほかの福音、という事でいえば、7節で、もう一つ別の、本物の福音があるわけじゃない、ただ、ガラテヤ地方の教会にやってきて、彼らを混乱させている人たち、本物の福音を捻じ曲げ、混ぜ物をしようとしている人たち、そういった人たちがいるのだ、と言っています。そして、続く8,9節では、そういった人たちが「呪われればいい」といささか恐ろしい表現まで使って、そのような人たちを批判しています。しかし、それは、先ほども確認しましたように、どうしても、だめ、絶対にダメ、そっちに行ってほしくない、という心の現れとして聞くべきでしょう。

アンティオキアにて-偽兄弟
しかし、一方で、パウロは、このような人たち、パウロに反対して、別の福音を語る人たちと、意外なことに長い付き合いであったようです。9節にこんな言葉があります。「私たちが前にも言っておいたように、今また、私は繰り返し言います」。以前何かがあったのです。以前、ガラテヤ地方の教会に初めて、福音を告げていたころに、パウロが自らの福音を語ったその時に、実は、別の福音らしきもの、そういうことを語る人たちがいるが、そっちではダメだ、という事をあらかじめ、知らせていた、という事です。9節の「私たちが前にもいっておいた」とはそのような意味です。パウロが、ガラテヤ地方の教会に福音を告げていたころに、実は、パウロのいわばライバルともいえるような人たちが存在していたことを示す出来事が、このガラテヤ書の2章に登場します。詳しくは、その所でもう一度お話しすることになるはずですが、とりあえず、2章4節を読んでみます。「潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした」。「偽兄弟」という言い方も穏やかではありませんが、しかし、なお、ここで「兄弟」と言っていることは重要です。教会に属していて、一応は福音を告げようとしている、そんな人たち、しかし、どこかで間違ってしまっている人たち、それがあちらこちらで紛れ込んでいる、とパウロは言いたいのです。

アンティオキアにて-ペテロの間違い
それで、このガラテヤ書2章のアンティオキアでの出来事で何といっても印象的なのは、パウロがペテロをしかりつける、という有名な出来事です。その様子は2章の11-14節に記されていますが、今日はとりあえず、14節だけを読んでみます。「しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」」ここで、パウロがペテロを非難しているのは確かですが、では、何が問題になっているのでしょうか。この時の出来事の概略としては、エルサレム教会による異邦人伝道の前線基地という位置づけだったアンティオキア教会に、ペテロが滞在していて、彼は、普段から異邦人と一緒に食事をしていたのです。それが「異邦人のように生活する」の意味です。ところが、親教会であるエルサレム教会から伝道者が派遣されてきたところ、ペテロは、急に態度を変えてしまったのです。律法では、異邦人は汚れた存在と考えられていました。当然、一緒に食事をすることはできません。ペテロは、エルサレム教会の仲間の目を気にして、身を引いてしまったようです。ところが、それを見たパウロは「何をしているのか」としかりつけた、のです。では、パウロはいったい何に対してそれほど問題を感じ、憤ったのでしょうか。

イエスの生き方
そこで、一つのことを確認します。それは、イエス様ご自身の生き方です。マルコによる福音書2:15~17節を読んでみます。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。これについて、あまり多くのことを言う必要はないと思います。イエス様は、ご自身から、罪人たちの中に入って行かれたのでした。罪人、言い換えれば汚れた人、律法の外にいる人たちです。何よりも、イエス様は、彼らと友達になられた、そして、それを批判された時に語った言葉こそが、端的にイエス様の生き方を表しています。「私が来たのは、罪人を招くためである」。罪人を神様のもとへと招いていく、神様の友としていく、そのために、私は来たのだから、罪人たちと一緒にいるし、一緒に食事をする、それがイエス様の生き方です。そこで思い出していただきたい言葉があります。ガラテヤ書1章6節はこうでした。「キリストの恵みへ招いてくださった方」ほかでもない神様です。その神様はイエス様と一体的に、罪人をご自身へと招いてくださっているのです。

パウロの福音
あるいは、ほかでもないパウロ自身が、自分もまた罪人だけれども招かれた、と確信していたのです。パウロの改心の様子は使徒言行録9章に描かれていて、今日はそれを事細かに振り返ることはしませんけれども、一つ言えることは、あの時パウロは、三日間ほど、あたかも死んだかのように、盲目で、何も食べずに過ごしていました。そしてアナニアという人と出会い、祈ってもらったところ、目からうろこが落ちて、洗礼を受け食事をして、元気を取り戻した(使徒9:19)、と続いてます。これが、パウロの原体験です。福音の原体験です。それはパウロにとって、イエス様と一緒に死んで、イエス様と一緒に復活をした、そのような経験となって、以後の生き方を決定するものとなりました。パウロの生き方、それは、イエス様と一緒に、また、イエス様が生きたように生きる、という事です。そして、パウロの福音の中身とは、まさにこの生き方です。イエス様と一緒に、イエス様のように罪人と一緒に生きる、という事です。

あなた方に告げた
パウロは、ガラテヤの諸教会の人たちに対しても、この自分の経験した生き方、自分が変えられた生き方を伝えたのです。それを端的に伝える言葉が先週の個所ですけれども1節にある「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神」という言い方です。イエス様と一緒に、死に、イエス様と一緒に生きるようになったものには、神様が父になってくださる、というのです。そして、そのような生き方に入っていくのが、キリストの恵みです。そして神様は、そのような生き方へと招いてくださるのです。ガラテヤの人たち、あなたたちは、わたしと同じように、そのような生き方へと招かれたのではないのか、パウロはあえてこのところで、声を大きくして、このように問いかけているのです。そしてそれは実際にあった過去の出来事に根差しています。

伝え、受け取った
1つは8節にありますように、「私たちがあなた方に告げ知らせた」という言葉です。これは、パウロが本気で自分の生き方をガラテヤの人たちに伝えた、ということです。さらに、確認したいのは9節の言葉です。「あなた方が受けたもの」とあります。パウロは自分の体験した福音を、そのままに、ガラテヤの人たちに全身をもって、全力をもって伝えました。そして、ガラテヤの人たちもまた、パウロの言葉を受け取ったのです。ただ、言葉としてではなく、生き方として、イエス様との関係に生きていく、その生き方を受け取ったのです。しかし、いま、そこに問題が起きようとしている、イエス様と一緒にある生き方から、離れようとする人たちが出始めている、本当にそれでいいのか、とパウロは言いたいのです。

神の目、人の目
そして、パウロが最も願っていること、それは、このパウロの言葉を、人間の言葉としてではなく、神様からの言葉として聞いて欲しい、という事です。パウロはあえて言います。自分は人に気に入られようと思っていない、神様の前でいい恰好をしようとも思っていない、もし、そんなことを考えているのなら、自分は、あるいは自分が信じたものは全部嘘という事になる。「今なお人の気に入ろうとしているのなら、私はキリストの僕ではありません」。だから、私の信仰の一切をかけて言う、この言葉を神の言葉として聞いて欲しい、これが厳しくもやさしいパウロの招きの言葉です。

祈り
神様、あなたは、主イエスによって罪人である私たちを、ご自身のもとへと招いてくださいますから、感謝します。私たちは、このような恵みの中にありながら、そこから離れて、自分勝手な歩みを望むところがあります。どうぞ、今こそ、私たちが、あなたから離れるのではなく、主イエスとともに、また、主イエスと同じ歩みをなすものとさせてくださいますように。この週にみに、あなたのご栄光をあらわしてください。この礼拝を感謝しつつ、主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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