6月7日説教原稿

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6月7日説教原稿

家庭礼拝のための祈りと説教原稿です

牧会祈祷
恵み深い神様。あなたは天と地と海とその中にあるすべてのものを、み旨のままに創造され、今に至るまで大能の御手をもって支配し、守り導いておられます。この御業をおぼえて、心からあなたを賛美し、栄光をたたえます。
この日、私たちが、この場に集められ、また、なお、ウイルス対策として、それぞれの家庭で、あなたと共に過ごし、み言葉と御霊によって豊かに養ってくださいますから感謝します。あなたは、私たちに聖書を与え、御霊によって解きあかし教えてくださっておりますことを覚えます。
私たちは、イエス・キリストを知り、また、キリストに従って生きる救いの道を示されています。しかし、このような大きな憐れみをいただきながら、なお生まれながらに罪の性質があり、日々罪を犯すものです。いま、私たちは自らの罪を認め、悔い改めます。それゆえ、イエス・キリストによる赦しをお与えください。
私たちが、主イエスが十字架において、ご自身を贖いのささげものとして下さったこと、三日目に復活して、罪と死の縄目から私たちを解放してくださっていることをますます確信させてください。また、このようなあなたの慈しみによって、私たちが新しい命を楽しみ味わうものとしてください。私たちが、この喜びを自らのものとして、その豊かさを、兄弟姉妹と、また、隣人と分かち合い、あなたによって遣わされます日々の生活の中でも、福音を示すものとしてくだいますように。
緊急事態宣言の解除が進み、新型コロナ・ウイルスの感染が、収まりつつあることを感じます。しかし、なお元通りの生活を送る日は見通せていません。どうぞ感染被害を防ぐために労苦しておられる、すべての方を、支えてください。今、感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

使徒言行録2:1-13 「新しい響きをもって」
教会の誕生日?
先週私たちは、ペンテコステをおぼえる礼拝をささげました。弟子たちがどのようにして強められたのか、という事を思いながらヨハネによる福音書を一緒に読みました。しかし、今日はもう一つ別の視点からペンテコステについて考えたいのです。それは、言葉についてです。皆さんが普段使っている話し言葉、私も今このようにして説教で使っている言葉を含めた言葉についてです。ただし、それは普通の言葉とは少々違っているかもしれません。ペテンテコステは教会の誕生日とよく言われますが、それは言い換えれば、新しい言葉の獲得です。それまで持っていなかった言葉が与えられるのです。これこそが教会の誕生に欠かせない出来事です。

教会の役割
そして、そもそも、という事でいえば、教会には独特の役割があります。その役割を一言で言うのは難しいことです。けれどもあえて言えば、おそらく洗礼者ヨハネに与えられた言葉にさかのぼれるかもしれません。ルカによる福音書のヨハネの誕生にまつわる箇所を読んでみます。お聞きください。「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」」(ルカ1:15-17)。ここで、特に注意したいのは、「主のもとに立ち返らせる」あるいは「民を主のために用意する」というところです。教会に何か役割があるとすれば、私たちの教会もそうですけれども、このことを地上でしていくという事のはずです。しかし、そこですぐに、私たちは、どうしたらそんなことができるだろうかと考えてしまうかもしれません。実は今日、皆さんと一緒に考えたいことの中心はそこにあります。人を主のもとに、神様へと立ち返らせる言葉を語るのが教会の役割だ、というのは正論です。そんなことない、とは言えないのです。一方で、じゃあ、そういう言葉を語っていますか、と問われたらどうでしょうか。この点では、ほかでもない説教の言葉を毎週語っている私が一番問われることかもしれません。そして、これに胸を張って「はい」と言えるかどうか、正直なところ我ながら心もとない思いがなくもないのです。

待つこと、祈ること
ただし、そこでです。言い訳をするつもりはありませんが、なお、一つだけ確認したいことがあります。それは、人を神様へと立ち返らせる言葉は、そもそも、どのようにして語られるのか、という問いです。それは、私が、自分の工夫によって、例えば聖書をもともとの言葉であるヘブライ語やギリシャ語で精密に釈義して、分厚い注解書や神学書、聖書辞典を駆使してその意味をたずねて、さらには、文学的表現を駆使して、きれいな説教原稿に仕上げていく、という事によってできるのでしょうか。もちろん、今お話ししたような技術的な作業がいらない、と言いたいのではありません。それはそれで、あってよい、あるいはなくては困る、部分です。しかし、本質的に大切なことは何なのか、を問う場合に、頭の仕事ではない部分があるのではないか、むしろ、そこが中心ではないかという事です。いや、そもそも、このルカによる福音書から、使徒言行録に至る一連の流れの中で弟子たちの姿が示していることこそ、もっとも大切なのではないかと、言いたいのです。では、彼らは、何をしたのでしょうか。彼らがしたことは、単純と言えば、単純です。それは待つこと、祈ることだけです。しかし、彼らが待ちつつ、祈りつつ、それに集中したのは、そもそも、それに先立つイエス様の約束があったからです。

イエスの約束
イエス様は復活された時に、弟子たちにこのように語りかけられました。ルカによる福音書の24章の言葉です。聞いてくださって結構です「 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」特に目を留めたいのは、弟子たちが「証人になる」という言葉であり、また、「力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という命令です。これが、イエス様による約束です。そして、ここでどうしても忘れてはならいのは、この「証人になる」という教会の役割は、自分たちの力で成し遂げることはできない、という事実です。それはただ、「高い所からの力」によって、行われていく、とほかでもないイエス様が言っておられるのです。その意味では、私たちもまた、このことで勘違いをしてはいけないはずなのです。私たちが、自分たちとしてできることを積極的に行う、そのように心がけるのは悪いことではありません。しかし、それに先立つものがある、という事を忘れてはいけないのです。むしろ、私たちの努力を無駄にしないためには、この先立つものに期待する必要があります。そしてそれは必然的に祈りを生み出します。

聖霊によって与えられる言葉
そこで、今日の聖書である2:1の言葉を改めて読んでみます。「 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」すでに、一つ前の1章でも、120人ほどの弟子たちが集まっていた様子が記されていました。おそらくはエルサレムにある一人の弟子の家のようですが、彼らは、イエス様が天に上げられるのを見送った後で、バラバラになるのでもなく、何もしなくなるのでもなく、イエス様から与えられた約束に期待して、集まって祈っていたのです。その意味では、ペンテコステの出来事は、ただその日に、不思議なことがあった、という事ではありません。むしろ、まず約束があって、その約束が実現したのが、ペンテコステの日であり、その約束の実現は、さらに、その後の行動へと弟子たちを押し出していく、という意味で、広く神様のご計画の中の一こまだ、と言えます。しかし、そこで私たちが特に覚えたいことがあります。それは、ここでの不思議な描写ではありません。例えば、炎のような舌が別れ別れに現れて、それぞれの上にとどまった、というような様子は、とても不思議ですし、そのようなことのすぐ後で、集まっていた弟子たちが、多くの国々の言葉を語りだした、というのも、奇跡的な出来事と言えます。しかし、あえて言いますと、これは、彼らがこれから行っていくことを、絵画的に表現したものではないか、とわたしは理解しています。炎は間違いなく聖霊を表していますし、舌は言葉を表しているでしょう。そして、その言葉は、弟子たちにとどまるのです。

与えられて語る
しかし、最も大切なことは、別の所にあります。例えば4節です。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」ここでは、特に「霊が語らせるままに」という言葉に注目します。ちなみに、この場合の言葉はいわゆる異言ではなく、様々な国々の言葉のようですが、いずれにしても、聞いて意味が分かる言葉です。そして大切なのは、そのような言葉が、聖霊によって与えられたというこの事実です。これは何も、頭が乗っ取られて、口が勝手に語りだす、という事ではないはずです。そうではなく、語るべき言葉が与えられるのです。その都度与えられるのです。私たちは、この私たちの教会において、何を語るべきか、ハッキリとした答えを持ち合わせていないものであるかもしれません。しかし、もしそうであったとしても、それは実は大きな問題ではないのです。なぜなら、このようにして、本当にその時に語るべき言葉は、聖霊によって与えられるからです。むしろ、そこでなお問われることがあるとすれば、それは、イエス様の約束を信じつつ、言葉を求めて祈ること、イエス様に向かって呼び求める、そのような祈りではないでしょうか。

音に集まる人々
それから、今日は最後に一つのことを確認して終わりにします。それは、このようなイエス様による約束が教会で実現していく場合には、お客さんもまた、勝手に集まってくるようだ、ということです。今日の聖書では、2節に「突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き」とありました。大きな響き渡る音が、家を満たしたのでした。しかし、それを聞いて驚いたのは、弟子たちだけではありませんでした。むしろ、6節を見ますと「この物音に大勢の人が集まってきた」とあります。その直前には、「天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人」とも書いてあります。神様を信じたい、そのような人たちが、この時、弟子たちの家のそばにすでにいたようです。そして、この物音を聞きつけて家の前に集まりました。このような人たちの前に出て言った弟子たちは、聖霊に教えられるままに、それぞれの国や地方の言葉を語ったと聖書は、告げています。そのことについて、ここでは、二回も、驚いた、という言葉が語られています。一つは6節の「驚き怪しんだ」というところです。ちょっと細かいことを言いますと、この言葉は、我を忘れるほど驚いた、という言葉と、驚き怪しむ、という二つの言葉の組み合わせです。同じようなことが、12節でも繰り返されています。「人々はみな、驚き、戸惑い」これもまた、二つの言葉で、大きな驚きを表しています。

驚きの中身
このようにして、神様の言葉は、人々に驚きを与えていきます。しかし、むしろ、問題はその驚きの中身ではないでしょうか。この所では、一見しますと、弟子たちが、外国の言葉を語った、という以外のことが書かれていないように見えます。しかし、ここで驚いた人たちは、このように言っています。11節です。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」神の偉大な業、それはおそらく、神様がイエス様を通して、弟子たちに実現してくださったすべてのこと、イエス様によって、私たちが神様に近づき、神様の民となることができるようになったこと、それだけではなく、イエス様が、弟子たちに上からの力で満たす、と約束して下さり、それが実現したことを含めて、神様の力ある業が地上で始まっている、という事実全体のことです。この時、集まった人たちは、弟子たちの語る言葉によって、神様の偉大な業の始まりを聞き取ったのです。一方で、同じ言葉が、驚きのゆえに、反発を生んでいます。しかし、それはさらに、弟子たちに語りだす勇気を与えることにつながっていきます。ペテロが、酒に酔ってるのではない、と15節以下で力強く語っている通りです。

新しい響きをもって
いずれにしましても、教会が誕生する、という事は、教会が新しい言葉を、本当に語るべき言葉を与えられることにほかなりません。そして、それはすでに約束されています。私たちにも約束されています。そして、おそらく私たちに必要なのは、勝手に自分で語りだすことではなく、言葉が与えられるという約束に信頼すること、そして、言葉がないのなら、言葉が与えられる時を祈り求めることであり、新しい響きがこの地に与えられる日を待ち望むことです。

祈り
主イエス・キリストの父なる神様。私たちは、あなたが憐れみ深い方であり、また、主イエスにおいて前置を支配しておられ、また、私たちを世界へと遣わしておられる方であることを知っております。しかし、私たちはなお弱く、あなたによって遣わされなければ、何もなしえないものであることを覚えます。どうぞ、私たちにあなたの風の響きを豊かに与え、そして、私たちに新しい言葉を与えて送り出してくださいますように。この礼拝を感謝し、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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