5月31日説教

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5月31日説教

家庭礼拝のための祈りと説教原稿です

牧会祈祷
恵み深い神様。あなたは天と地と海とその中にあるすべてのものを、み旨のままに創造され、今に至るまで大能の御手をもって支配し、守り導いておられます。この御業をおぼえて、心からあなたを賛美し、栄光をたたえます。
このペンテコステをおぼえる日に、私たちが、この場で、またそれぞれの場で、あなたと共に過ごし、み言葉と御霊によって豊かに養ってくださいますから感謝します。あなたは、この御霊によって絶えず私たちに主イエス・キリストを鮮やかに示してくださいます。また、絶えずあなたと共に生き、またあなたによってこの世界に遣わされておりますことを覚えます。しかし、このような大きな憐れみをいただきながら、私たちは、生まれながらに罪の性質があり、今なお、罪を犯すものです。いま、私たちは自らの罪を認め、悔い改めます。それゆえ、イエス・キリストによる赦しをお与えください。
私たちが、主イエスが十字架において、ご自身を贖いのささげものとして下さったこと、三日目に復活して、罪と死の縄目から私たちを解放してくださっていることをますます確信させてください。また、このようなあなたの慈しみによって、私たちが新しい命を楽しみ味わうものとしてください。私たちが、この喜びを自らのものとして、その豊かさを、兄弟姉妹と、また、隣人と分かち合い、あなたによって遣わされます日々の生活の中でも、福音を示すものとしてくだいますように。
緊急事態宣言の解除が進み、新型コロナ・ウイルスの感染が、収まりつつあることを感じます。しかし、なお元通りの生活を送る日は見通せていません。どうぞ感染被害を防ぐために労苦しておられる、すべての方を、支えてください。今、感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

ヨハネ20:19-23 ペンテコステ記念礼拝「ここから始まる」
ペンテコステ-派遣
今日はペンテコステです。イースターから数えて50日目に毎年祝われますこの日ですが、私たち新座志木教会として特別なことは用意していません。しかし、やはりペンテコステは一つの区切だと思うのです。ペンテコステ、それは、この日を境にして、弟子たちのあり方が全く変えられた日、そして何よりもキリスト教会が産声を上げた日です。しかし、それだけではなく、今もなお、イエス様が私たちに呼びかけてくださる日である、とわたしは理解しています。今日はぜひ、皆さんと一緒にイエス様の呼びかけの言葉を聖書から聞きたいのです。

夕暮れに
今日の聖書は、夕方であることをわざわざ確認しています。一日が終わろうとしていました。それは週の初めの日でした。もっとも、これはユダヤ教における数え方ですから、安息日の次の日、現在の暦では日曜日のことです。しかし、ただの日曜日ではありません。この日の朝、マグダラのマリア達は、墓が空になっていることを確認しました。復活したイエス様にお会いしました。そして、これら二つのことを弟子たちに伝えていました。弟子たちは、墓が空であることを確かめました。彼らの中には、イエス様の復活についての信仰が生まれ始めていました。しかし、まだ、決定的な何かが足りませんでした。彼らはこの先どうするのか、という見通しのないままに、長い一日を終わろうとしていました。弟子たちの状態を一言でいうとすれば、それは、自信のなさ、と言えるかもしれません。自分たちが何者で、この先どうしていくのか、彼らには自分を支える土台、背骨のようなものがありませんでした。そして、ただ、そのようなままに、日は暮れていき、一日は終わろうとしていたのでした。

ユダヤ人、ユダヤ教
そして、彼らの問題はかなり深刻でした。今日の聖書には「弟子たちはユダヤ人を恐れて」という言葉があります。この「ユダヤ人」という言葉は、私たちにとっては、ただ、一つの民族の名前、というだけの言葉ですが、ヨハネにとっては、あるいは、この時の弟子たちにとっては、特別な言葉だったかもしれません。よく似た言葉に「ユダヤ教」があります。私たちにとっては「ユダヤ教」は、仏教、キリスト教、いろいろある宗教の一つ、くらいの意味しかありません。しかし、少なくとも、新約聖書が書かれた時代のイスラエルの人たちにとっては「ユダヤ教」は、一つの生き方、それもかなりはっきりとした、生き方でした。例えばそこには律法の問題があります。使徒言行録で、ローマの百人隊長コルネリウスという人が登場します(10章1節以下)。この人は家族そろって神を畏れる人だったとあります。これは、ローマ人ではあるけれども、ユダヤ教的な生き方に改めていた人という意味です。生き方が変わるのです。そして、そのようなユダヤ教的生き方としては、例えば、使徒言行録の同じ個所で、ペテロがコルネリウスに呼ばれるという所がありますが、その少し前、ヤッファという町で祈るために一人でいると、幻が示されます。それは、天から布に包まれた動物が下がってくるというものでした。さらに、天から声が響いて、これを屠って食べなさい、と呼び掛けます。しかし、ペテロはそれを拒んでしまいます。「こんな汚れたもの、絶対に食べられません」。この場合汚れているというのは、よごれて不潔だとか、腐っている、という事ではありません。律法上食べてはいけない、とされているから駄目だ、という意味です。これは、教えが体にしみこんでいて、もはや体が受け付けない状態です。

ルールの前で
わたしたちもまた、現代の日本社会には日本社会なりの、常識やルールがあります。時にそれはひどく窮屈に感じられることもあるかもしれません。そして、何よりも、怖いのは、そのようなルールから外れる時です。少し前ですけれども、神奈川だったと思います。もう少しで自宅だというところで、マスクのひもが取れてしまった人が公園を歩いているといきなり、つかつかと人が近づいてきたので、近づかないでほしい、と身振りで示そうとしたら、相手がいきなり激高して激しく脅された、という事があったと聞いています。これは、少々極端な例かもしれません。けれども、マスクを着けていなければ、ずいぶんと非常識な人、という目で見られてしまう、そこに、一人一人のその時々の事情が入り込む余地はない、という重苦しい雰囲気があるのも、事実ではないでしょうか。そして、これは、ほんの一例です。私たちの社会にも、また、地域にも、職場にも、そうしなければならない、それをしないと肩身が狭い、そんな約束事が山のようにあります。そこでですが、そのような約束の枠からポンと出てしまった状態を想像していただきたいのです。それはかなり不安な状態ではないでしょうか。

扉を閉ざす
実はこの時の弟子たちが恐れていたのは、自分たちがユダヤ教の枠の外に出ていることでした。世間一般の常識となっていた、ユダヤ教、ユダヤ人であるためのしるしに対して、徹底的な批判をしたのがイエス様でした。その弟子である自分たちの立場はこれからどうなるのか、彼らは、この立ち位置に恐怖していたのです。しかも、先ほども確認した通り、ペテロですら、なお、この後、かなりの期間、ユダヤ教のルールに縛られて、そこから抜け出せなかったのでした。これは、かなり苦しい状況です。自分の信じていることと、自分の体にしみこんでしまっているルール、それが一致していないのです。それゆえに、心が揺れるのです。しかし、一方で、イエス様の教えが嘘であったとも思えないのです。自分たちは、なおイエス様の弟子であることをやめる気にもなれないのです。そして、ユダヤ教が、ユダヤ人が怖くなって、扉を固く締めてしまっていたのです。残念ながら、ペテロたちにはこの時、扉の外に向かっていく勇気も、具体的な方法も、何もありませんでした。そのようにして、本当はとても輝かしい日であったはずの、この復活の日曜日は、夕暮れとともに、過ぎ去っていこうとしていたのでした。そこで私たちもまた、考えたいのです。いったい私たちにとって日曜日とは、礼拝とは何でしょうか。私たちは、物理的に、会堂に入ってきた時と同じように、この会堂の扉を開けて出ていくことができます。しかし、私たちがこの扉を開ける時に、はたして希望と、満たされた思いをもって出かけていくことができるでしょうか。おそらく私たちもまた、自分たちの力で希望をもって扉を開けることはできないのではないでしょうか。

イエスの平和-扉が開かれる
しかし、そのようにして、扉を閉ざしているすべての弟子たちの、その扉の内側に、イエス様は入ってこられるのです。そして、まさに恐れに囚われてしまっている人たちのいるところで、神様の平和を宣言されるのです。「あなた方に平和があるように」。これは、ただ口先だけの言葉ではありません。例えば、これは、ちょっと極端な話かもしれませんが、私が、今このところで「あなた方に平和があるように」と、私の言葉として語ったとして、その場合には、「平和があるといいですね」という以上の意味はないのです。しかし、これを語っているのは、イエス様です。そして、イエス様の言葉には裏付けがあります。
イエス様は、徹底して、私たち人間の、それぞれの全くダメなところを引き受けて、神様の前に立つことなどできない私たちの、いわば身代わりとして、ご自身の命を投げ出して、私たちが神様の前にたてるようにしてくれたのです。それが十字架の意味です。そしてそのイエス様がわたしたちといつまでも一緒にいてくれる、これが復活の意味です。この時イエス様は、弟子たちにご自身を示されたのでした。ご自身の手の傷、わき腹の傷の後もそのままに、ご自身を示してくださったのでした。そして、「弟子たちは主を見て喜んだ」と続きます。これは一見、単純なことを言っているようです。イエス様を目で見て確認して、「ああ、本当にイエス様だ、イエス様は死んでしまわなかった」とわかって喜んだ、という事のように見えます。


聖霊による派遣
もちろん、それでよいのです。しかし、あえて言うのなら、大切なのはこの「見てわかる」、ということです。イエス様は死なれていない、イエス様は一緒にいてくださる、イエス様は、私の人生の土台となってくださる、というように、もっと続けることもできるかもしれませんが、一言でいえば、「ああ、イエス様がいる、もう大丈夫だ」という事が腹に落ちてわかるのです。そして、そのような大丈夫だ、という思いから喜びが沸き上がるのです。そして、このような喜びと共にあるものとされた人を、イエス様は扉の外へと送り出されるのです。「あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、私もあなた方を遣わそう」。イエス様は、弟子たちの、そして私たちの、閉ざされた扉を開けるために、神様によって遣わされました。そのイエス様によって、おそれ、不安、固く閉じた心の扉を、開け放ってもらったものは、今度は、イエス様と同じことを、ほかの人たちに向かって行うように、派遣されるのです。しかも、この派遣には、いつまでも変わらない、神様の平和がくっついて来ます。
新約聖書のコリントの信徒への手紙にちょっと不思議な言葉があります。「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」(コリントⅠ10:4)。これは出エジプトの様子を描いたところです。注目したいのは、岩が離れずについてくる、というところです。それがイエス様だというのです。パウロはイエス様をこのようにとらえたのでしょう。

開きに行く我々
私たちが扉を開けて出かけていく時に、私たちの後を、岩であるイエス様がひょこひょことついてくるというのです。ひょこひょこなどというとちょっと軽い感じですが、聖書では岩という言葉は、土台、自分を支えるもの、という意味でした。私はこの岩の上に私の教会を築く(マタイ16:18)とまさにイエス様がいわれました。私たちはイエス様によって派遣されるのですが、しかし、その私たちには、岩であるイエス様、私たちの土台である方がいつも一緒にいるのです。「聖霊を受けなさい」という言葉はまさにその意味です。出かけていく私たちにイエス様がいつでも必ず一緒に命の息としてついてきてくださるのです。そのようにして出かける私たちを、多くの人たちが待っているのです。23節の言葉は、私たちに対する挑戦の言葉だとわたし自身は読んでいます。私たちの前に、赦しを得て神の民とされるはずの人たちがたくさんいるのです。私たちの前に、私たちが行かなければそのままになってしまう人たちがいるのです。それゆえに私たちは神様の赦しをもって出かけていくのです。

ここから始まる
ペンテコステは区切りだと最初にお話ししました。それは、私たちが出かけていくことができるようになっていることを知る、という意味での区切りです。教会のあゆみは、いつでも、私たちが出かけていくことによって始まります。そして私たちが出かけていくその力は、いつでも、イエス様が共にいてくださることを確認する、毎週のこの所の礼拝によって与えられるのです。

祈り
主イエス・キリストの父なる神様。あなたは、主イエスによって弱い私たちを立ち上がらせ、また、私たちをあなたのみ旨によって遣わしてくださいますから感謝します。私たちは、今こそ、自らの扉を開けて出ていきます。どうぞこの週の私たちの歩みを、あなたが祝福し、強めてくださいますようにお願いいたします。
イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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