5月24日説教

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5月24日説教

家庭礼拝用の祈りと説教原稿です。

牧会祈祷
恵み深い神様。あなたは天と地と海とその中にあるすべてのものを、み旨のままに創造され、今に至るまで大能の御手をもって支配し、守り導いておられます。この御業をおぼえて、心からあなたを賛美し、栄光をたたえます。
あなたは、この世において、私たちが見えるところでも、見えないところでも、どこにおいても、豊かな憐れみをもって、私たちに、キリストにある永遠の命を与えてくださっております。しかし、そうであるにもかかわらず、私たちは、あなたと私たちの隣人と、自分自身とに罪を犯しています。私たちは生まれながらに罪深い性質を持ち、また、日々実際に罪を犯し、善をなすことのできないものです。いま、私たちは自らの罪を認め、悔い改めます。それゆえ、ただイエス・キリストによる赦しをお与えください。
どうぞ、私たちに、主イエスの十字架の贖いによる、罪の赦しを確信させてください。また、私たちがあなたにあってすでに永遠の命を、地上において、生き始めておりますことを日々知らせてください。
また、私たちが、この喜びを自らのものとして、その豊かさを、兄弟姉妹と、また、隣人と分かち合い、あなたによって遣わされます日々の生活の中でも、福音を示すものとしてくだいますように。
緊急事態宣言の解除が進み、新型コロナ・ウイルスの感染が、収まりつつあることを感じます。しかし、なお元通りの生活を送る日は見通せていません。どうぞ感染被害を防ぐために労苦しておられる、政府関係者の方たち、行政の方たち、医療従事者、ボランティアなどの活動をされている方に至るまで、あなたが支え励ましてください。今、感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

マタイ28:16-20 「疑いの先に」
コロナについて考える
先週は関西で緊急事態の指定が解除され、いよいよ今週は首都圏でも解除になるというニュースも出ています。少しずつですが、先行きが見えてきたようにも感じられます。もちろん、これからも、すぐにコロナ・ウイルスから完全に自由にはなれないのでしょう。そのうえで、今回のウイルス禍、この大混乱の中で、何か積極的な意味があるかどうか、考えてみましたが、もし一つだけ挙げるとすれば、私たちは、ちょっとしたことでも、倒れてしまうものなのだ、本当に弱い、生身の肉体を持った生き物だ、という事を改めて確認させられたことではないか、と思うのです。それは、さらに、いろいろなところで無理をする必要が本当にあるのか、という問いを生みます。ちょっと調子が悪くても、頭痛薬を飲んで、胃薬を飲んで、眠れなければ、睡眠導入剤を飲んで、鬱になれば、抗うつ薬を飲んで、何が何でも普通にふるまって社会に合わせていく、という事が本当にいいのか、ということです。そんなこと言ったって、とりあえず頑張らなくちゃ生きていけない、と思われる方が、たぶんあるだろうなという事も想像しつつ、しかし、あえて言います。私たちは、実は様々な問題をかかえながら、弱いものとしてしか生きられないし、それぞれのありのままの生き方があっていいのではないでしょうか。今日はこのところの弟子たちの姿から、そんなことを一緒に考えたいのです。

11人である事
そこで、さしあたり、確かめたいのは、今日の聖書の書き出しです。「さて、十一人の弟子たちは」。これをみて、おや、と思われたでしょうか。聖書をよく読んでおられる方なら、なぜこの時の弟子が、11人であったのか、その理由はご存知かもしれません。そもそも、イエス様は、その活動の始まりのころに、12人の弟子を特に選びました(マタイ10:1以下)。彼らは、使徒と呼ばれました。ところが、この特別な使徒の中のひとりであった、イスカリオテのユダは、イエス様を裏切ってしまい、最後は、自らの行動に絶望して、首をつって死んでしまった、という事が、マタイでは27章に(5節)描かれていました。なぜユダがイエス様を裏切ってしまったのか、彼の心の動きは聖書には触れられていません。ただ、私たちが忘れてはならないのは、ペテロや他の弟子たちについても、彼らがイエス様に躓く、イエス様と一緒にいることに失敗するだろう、と予告されていたことと(26:31)、そして実際に彼らは、イエス様が逮捕された時に、我先にと逃げてしまったという事実です(26:56)。しかし、なぜ、彼らは逃げたのでしょうか。もちろん、怖かったからです。何が怖かったのでしょうか。おそらく捕まるのが怖かったのでしょう。さらに言えば、捕まって、ひどい目に合う事、場合によっては命がとられるかもしれず、そうでなくても、かなり不利な状況に置かれてしまうかもしれない事、捕まって恥をかくこと、人生に失敗すること、これが怖くて、弟子たちは逃げ出したのでしょう。そしておそらく、私たちもまた、弟子たちに負けず劣らず、死んでしまったり、そこまでいかなくても、恥をかいたり、損をしたりして、人生に失敗することを激しく恐れているのではないでしょうか。そして、そうならないように、無理をしてでも頑張っているのです。

ひれ伏し疑う-人間らしさ
しかし、弟子の話に戻ります。この時、彼らは一つの言葉に促されて、ガリラヤのある山へと旅をしたのでした。少し前のところでは(28:9以下)何人かの女性が直接、復活のイエス様にお会いした様子が報告されていました。その時、彼女たちは、一つの言葉をいただきました。それは「ガリラヤに行くように、そこで私に会うことになる」(28:10)という言葉です。11人の弟子たちは、この言葉に促されて、おそらくは以前イエス様と一緒に登ったことがある小さな山、あるいは小高い丘、と言った方がよいかもしれない場所、おそらくは、あの山上の教えが語られた、懐かしい場所へと戻っていったのです。そして、その所でまさに、仲間たちから聞いた通りのことが起こりました。突然、復活のイエス様が彼らの前に現れました。思わず彼らは、ひれ伏したようです。しかし、ある者たちは疑った、と続きます。あるもの、と言っても、このところでは11人しかいなかったのですから、かなりの弟子たちが、ひれ伏しつつも心の中に疑いを持っていた、という事になります。イエス様を前にしているのにもかかわらず、心が揺れているのです。そしてこれは、とても身につまされることではないでしょうか。私たちは、信仰の確信、というような言葉を知っています。強い信仰、という言葉を知っています。何があっても、揺らがない信仰というお手本のようなものがどこかにあるのではないか、と憧れています。しかし、私たちが目指すべきなのは、そのような立派な信仰を持った、強い信仰者になるように頑張ることなのでしょうか。むしろ、この弟子の姿、ひれ伏しつつも疑ってしまう、これがありのままの人間の姿ではないでしょうか。

小さな信仰
例えば、マタイによる福音書の真ん中あたり、14章に、五千人がパンをいただいた後、十二弟子たちだけで湖を船で渡る箇所があります。風のせいでなかなか進まない小舟に乗った弟子たちのところに、イエス様が水の上を歩いて近づいてくるのですが、それを見て弟子たちは幽霊かと思って恐れた、というところです。ところが、自分たちに近づいてくるのがイエス様だと分かってほっとしたのでしょうか。今度はペテロが、自分も水の上を歩いてみたいと、言い出します。するとイエス様は、来てみなさい、と呼びかけ、ペテロが足を二歩、三歩と踏み出すと、不思議なことに水の上を歩くことができました。ところが、途中で、波に気を取られてしまいます。そうするとたちまち、ペテロは沈んでしまい、イエス様が手を取って引き上げてくれるのですが、そこでイエス様は、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語り掛けられたのでした。実はこの「なぜ疑ったのか」という言葉は、今日の所の「疑う者もいた」という言葉と全く同じ単語が使われています。湖の上で、ペテロは、イエス様のお言葉に従い、イエス様を見ている間、前に進むことができました。しかし、イエス様ではなく、足元の波を見たとたんに、沈み始めました。しかし、これが、ごく当たり前の人間の姿、私たちの姿ではないでしょうか。私たちは、イエス様が好きです。イエス様を信じたいと思っています。しかし、同時に、足元も気になってしまうのです。明日のお金のことや、仕事の心配事や、そのほか、もろもろあって、イエス様だけを見ていればよいのに、そうせずに、余分なものに心をひかれてしまうのです。しかし、そのような私たちを、イエス様は否定されないのです。ペテロに手を差し出して、「信仰の薄いもの、なぜ疑ったのか」と言いながら、舟へと引き上げてくださるのがイエス様です。

イエスが近づく
同じように、この所でも、イエス様は、ひれ伏しつつ疑っている弟子たちに、ご自身から近づいてくださっています。心が二つに割れてしまっている弟子たちの前に、イエス様の方から、近づいてきて、そして、まったく新しいことが始まっていると、告げてくださるのです。そして、この出来事自体が、まったく、神様らしい、あるいはイエス様らしいやり方です。旧約聖書から、新約聖書に至るまで、神様にとって、貫かれている一つのスタイルがあります。それは、神の民の側に、何か良いところがあったから、神様が選んだわけではない、という単純な事実です。申命記にはこんな言葉があります。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(7:7)。選ばれる理由のないもの、むしろ、神様の前で、イエス様の前で、心が二つに割れてしまって、いつもぐらぐらしているしかないもの、そのようなものを愛して、手を差し伸べる、それこそが、神様の最も神様らしいやり方なのです。そして、これは、この時の弟子たちだけではなく、いつの時代でも、まったく同じことなのです。私たちが、思い悩んでいるその所で、心がぐらぐらしているまさにその所に来て、手を差し伸べて、もう、決定的なことが起きている、と言ってくれる、それが、神様のスタイルなのです。そして、その決定的な言葉こそ、18節で記されているイエス様のお言葉です。「私は天と地の一切の権能を授かっている」です。

イエスの権威-いつもともにある
これは驚くべき言葉です。そして、私たちにとっては、実はよくわからない言葉であるかもしれません。いまだに、核ミサイルが、世界中でにらみ合っている中で、いまだに、プランテーションのために、森林が破壊され、動物の住処が失われてしまっている中で、いまだに、世界中で一秒に数人ずつ、餓死する人がいる中で、そのようなことを知っていて、自分としては何もできることがないように思われる、こんな状態で、本当に神様がいてくださるのだろうか、と思いあぐねている私たちの前に、この言葉が、どんと、置かれているのです。この世界は、わけのわからない力に揺り動かされてしまっているのではない、というのです。むしろ、思わしくない出来事が起きてばかりいる世界の中で、得体のしれない大きな力が支配しているように見える世界の中で、しかし、イエス様は、新しい時代はもう来ている、「わたしは天と地の一切の権能を授かった」と言われるのです。イエス様から、新しいことが、新しい命の道が、たとえ肉体が最期を迎えても、それで終わりではない世界が、始まっている、私と出会った人は、新しい命に生き始め、さらに永遠にその中にとどまるようになる、そんな時代がもう始まった、というのです。私たちが永遠の命と呼んでいるもの、イエス様と共に、生き続ける、日々生き続ける、そこに、神の国が、神様のご支配があるのです。さらに、それはあなたたちによって世界へと、すべての民へと広がるのだと、言われるのです。

弟子であり続ける
そして、この決定的な言葉を理由として、私たちは出かけていくのです。19節の「だから」という言葉は大切な言葉です。私たちが、この週の歩みをする、さらにその次の週も、またその次の週も、この世界と向き合っていく、ただの人ではなく、キリスト者として、イエス様の弟子として、向き合っていく、そのような生き方の根拠は、私たちの側にはありません。私たちが何者かであるのではなく、ただ、イエス様がどのような時も一緒にいてくださるから、キリスト者なのです。たとえ、私たちの思いが二つに分かれてぐらぐらしているとしても、私たちの中に、不まじめで、不徹底で、時に、獣のような部分があることさえ、全部知って下さったうえで、新しく私の弟子を見つけ出しなさい、彼らに洗礼を授けなさい、私の教えを教えなさいと、言ってくださっているのです。

疑いの先に
それゆえ私たちは、自分自身が不完全である事、弱いものである事、すぐに倒れて投げ出してしまいがちであることを、恐れる必要はないのです。私たちは、絶えず疑うものであり続けるでしょう。しかし、それで終わってしまうのではなく、疑い続けるその先があるのです。疑い続ける私たちに語り掛ける言葉があるのです。私はこの世界に対する権威をもって、いつもあなた方と共にいる、だから私の弟子を生み出せ、と呼び掛けてくださるイエス様の言葉があるのです。

主イエス・キリストの父なる神様。あなたのみ名を賛美します。あなたは、主イエスをご自身の右の座につけ、ご自身の権威を与えられ、この世界のご支配を始められました。それは、あなたの言葉を聞くすべての所に届いております。どうぞ、私たちが、あなたの始められた神の国の中にあることを喜びつつ、この週の歩みをなしてくことができますように。あなたの栄光があらわれますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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