4月26日説教

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4月26日説教

説教原稿とお祈りです。家庭礼拝でお使いください。

牧会祈祷
唯一の不死の存在、近寄りがたい光の中に住まわれる方、誰一人見たことがなく、見ることのできない「王の王、主の主」、とこしえの神様。あなたの尊いみ名を賛美します。あなたの御子の復活を共に喜んでから、すでに二週を過ごしました。たとえ、このような状況の中にあっても、なお、私たちが、復活の主の命を信じ、そこに私たちの命を見出していくことができますことを覚えて感謝いたします。
しかし、ウイルスの危険は私たちの身近に迫り、それだけではなく、私たちの生活の糧となる職業や、日常生活を支える様々な経済活動にも影を落とし始めています。また、多くの兄弟姉妹と会えない中で、孤独を感じ、ふさいだ気持ちをもって過ごし、互いを愛し、とりなすことにおいて不十分であったかもしれません。けれども、あなたはそのような私たちを、主イエスのみ名において、ご自身のもとへと招いてくださいます故に感謝いたします。どうぞこの日の礼拝においてもまた、あなたが共におられることを豊かに表して下さり、私たちが主にあってすでにあなたのものとされておりますことをますます確信させてください。
また、私たちが、この喜びを自らのものとして、その豊かさを、兄弟姉妹と、また、隣人と分かち合い、あなたによって遣わされます日々の生活の中でも、福音を示すものとしてくだいますように。
今も、ウイルス感染拡大の中で、多くの方たちが労苦しておられます。政府関係者の方たち、行政の方たち、医療従事者、ボランティアなどの活動をされている方に至るまで、あなたが支え励ましてください。また、今この時も、感染の症状に苦しんでいる方たちをいやし、励ましてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。


ルカ24:13-35 「夢をこえて」
失望から喜びへ
今日の聖書もまた、イエス様が復活された日の夕方について語るところです。しかし、あえて言いますと、このところで語られているのは、弟子たちのあり方と言えるかもしれません。弟子たちの生き方に再び希望が与えられ、生き生きとする、それも単にこのところで登場した二人の人だけが、生き生きとするのではなく、一つの群れ全体、例えば私たちであればこの新座志木教会に関わる人たち全体が、幸せになる、改めて、その交わりが深まり、愛と喜びが深まって、生き生きとする、そのようなことがイエス様によって起きるという事を伝えています。しかし、その始まりは、あまり明るい雰囲気ではないのです。そもそも、この二人がなぜエマオというエルサレム近郊の村へ旅立ったのか、理由は書かれていません。しかし、少なくともこの二人は、夢破れて、群れから離れて、ある意味では、交わりから身を引いて、とぼとぼと旅をする、そのような人たちとして登場しています。この書き出しは間違いなく群れの危機を示しています。そしてまた、彼らの気分の落ち込みについては、例えば17節にあります「二人は暗い顔をして立ち止まった」という言葉において既にはっきりと表れています。私たちもまた、コロナ・ウイルスの影響で、希望をそがれ、社会全体が互いを監視して批判しあうような、嫌な雰囲気を感じることがあります。しかし、私たちは、このような互いを非難しあうところにとどまらなくてもよい道を見つけ出したいのです。そのために、今日の御言葉を丁寧に読みたいのです。

二人の見ているもの
このところでは、二人の弟子が論じあいながらエマオへの旅をするところから始まっているのは先ほども確認した通りです。しかし、この二人が互いに論じ合い、語り合う言葉は、残念ながら、互いに良い影響を与えるものとはなっていなかったようです。彼らは語らずにはいられないのです。語り合うことによって、何かから逃れたい、語り合う事で、新しい何かを見つけ出したい、その意味では、お互いに何かを言っていなければやっていられない、そんな感じであったかもしれません。しかし、いくらあの時は、あの出来事は、と言っていても、そこには何か新しいことは出てこないのです。なぜなら、この二人、一人はクレオパという名前であり(18節)、もう一人の名前はわかりませんが、いずれにしても彼らは、一つのものの見方に凝り固まってしまっていたからです。全く個人的なことで恐縮ですが、私はもともと、あまり片付け、整理整頓が得意ではありません。ものをよくなくします。どうも、注意欠陥的な性質があるようです。ひょいと手に持っているものを、その辺においてしまうことがあります。しばらくは覚えているのですが、それをそのまま忘れてしまうこともあります。そうすると、例えば、ボールペンなら、そのひょいと置いたボールペンがどこにあるのか、分からないということになります。そして、あたふたとして、どこだ、どこだ、と探し回ることになるのですが、時々愕然とするのは、本当は見えているはずなのに、探しているときにはそれが見えなくて、妻に、ほら、ここにあるよ、と指摘されて、あれ、となった時です。見える場所にあるのです、見える場所にあるものを、ない、ない、と言って探しているのです。それは、見れども見えず、という言葉そのままです。

見えないという事
あるはずのものが、ないと信じ込んでいると、あっても、目に入らない、見ているはずなのに、目の前にあるはずのものが、目に映らない、認識されない、これはつまらない話ですけれども、実は、私たちは、多くのことについて、自分がないと思っているものは、目にはいらない、という事があるようなのです。それは例えば、このところの16節で、「二人の目は遮られていて、イエスだとはわからなかった」とある通りです。いくら何でも、イエス様が目の前に現れてくださっているのに、それがわからないとは、普通ならあり得ないだろうと、私たちは、考えます。しかし、実際にこの時、この二人には、目の前にいるイエス様が見えませんでした。いや、人がいることはわかっていたのですが、より正確には、その人がイエス様であるとはわからなかったのです。なぜでしょうか。聖書は「彼らの目が遮られていた」と言います(16節)。では、何によって遮られていたのでしょうか。おそらく、それは、彼ら自身の思い込みによってです。

見えなくて当たり前-見ているものが違う
では彼らの思い込みとは何でしょうか。いろいろと挙げることができるかもしれません。しかし、ここでは一つのことを確かめたいのです。まず19節です。「この方は、…(真ん中を飛ばして)預言者でした」。続いて、20節「引き渡して十字架につけてしまいました」、続いて、21節「私たちは、望みをかけていました」。実は厳密に言いますと、最後の望みをかけていたという言葉は、文法的にちょっとニュアンスが違うようなのですが、細かいことを抜きにしますと、ここで言われていることははっきりします。それはすべて「でした」なのです。もう終わっているのです。自分たちとしては、あのイエス様に望みをかけていたし、今もちょっと未練があるけれども、もう終わったんだ、すべては失敗したんだ、イエス様は死なれたんだ、だから、こうして旅をしているのだ、これこそが、彼らの心を支配していた思いです。一切はあの十字架で終わってしまって、もはや、イエス様にかけていた望みは、どうにもなりはしない、このことを固く信じているからこそ、イエス様がせっかく一緒に歩いて下さっているにもかかわらず、彼らにはイエス様が見えないのです。しかし、そのように考えてみますと、私たちもまた、同じように、イエス様を見逃してしまっているのかもしれないのです。イエス様は昔の方だから、イエス様は今は天におられると聖書に書いてあるから、イエス様は私には感じ取れないから、だから、今このところにいる私とは関係ない、会えないし、触れられないではないか、と私たちは、ついつい考えてしまうのかもしれません。しかし、それはひょっとしたら、私たちが、イエス様を見失ってしまっているだけかもしれないのです。

寄り添うイエス
今日の聖書の15節にはこうあります。「イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた」。弟子たちは、ただただ、自分たちの体験について語り合う事ばかりに気を取られているのです。私たちもまた、普段の生活において、自分のことで手一杯で、自分が関心を持っていること以外には、ほとんど何も注意を向けていない、そもそも、そんな余裕がない、という事がよくあるのかもしれません。けれども、たとえ私たちの側が、どのような状態であれ、イエス様は、ご自身から近づいてこられ、また、私たちと一緒に歩き始められるとこのことは、語っています。そして、実は、このことが、とても大切なのです。二人は、最初に確認しましたように、自分たちの体験を、互いに、あの時はこうだった、あの時は何でこうなってしまったのだろう、と議論をしていたのですが、それは、実は、お互いがよく知っていることを、ただ、堂々巡りに、言葉にしているだけなのかもしれないのです。そして、そこからは、何も新しいことは生まれないのです。けれども、そこにイエス様が割って入ってこられたのです。そして、彼らが当然だと思っていることについて、それは何ですか、と尋ねているのです(17節)。そして、改めてこの問いかけを受けた時に、二人は「暗い顔をして立ち止まった」のですが、それは、彼ら自身が改めて、自分たちが考えていることの暗さに気づかされる時となったのではないでしょうか。このようにして、イエス様は、出口のない議論の場所に入ってきて、そこにあるものがなんであるのかをはっきりとさせてしまうのです。しかし、それは、ただ弟子たちを貶めるためではありません。

聖書から語られる
確かにこのところでは、少々厳しい言葉が使われています。「心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられないものたち」と25節にあります。ちなみに、このところで「預言者たちの言ったこと」というのはおそらく、聖書全体くらいの意味です。というのもこの後をみますと、イエス様は「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」(27節)とあるからです。そして、その続きにはこのように書かれています。「ご自身について」、すなわち、イエス様についてです。聖書全体からイエス様について語ることができる、あるいは聖書全体が、そもそもイエス様について証言している、それをほかでもないイエス様がご自身で明らかにしている、とこのところは示しています。しかし、弟子たちは、この時に至るまで、このことを信じられずにいたのでした。「預言者たちの言ったことすべてを信じられない」という言葉は、言い換えますと、聖書が、誠に喜ばしいイエス様の存在についてあちらこちらで語っているにもかかわらず、それを受け取って信じることができていない、という意味です。これは、いくら聖書を読んでも、ピンとこない状態です。

イエスは終わっていない
なぜ、そうなってしまうのでしょうか。答えは既にはっきりとしています。それは、この時の二人の弟子たちは、イエス様はすでに終わった人だ、という世界観に捉えられていたからです。イエス様は終わっていて、自分たちの夢も終わってしまった、そのような目をもって世界を見、また、聖書と向き合っていても、そこから、イエス様の喜ばしい訪れを聞き取ることはないのです。しかし、そのような二人の弟子を、イエス様はそのままにしておくのではなく、二人に近づき、一緒に歩み、そして、聖書について語り聞かせ、そして、最後に、食卓において、二人の目を開いてくださいました。11節に「すると二人の目が開け、イエスだと分かった」とある通りです。これは、ただ単に聖書が分かるようになった、という事ではなく、むしろ、まったく新しい事実、すなわち、イエス様は終わっていない、むしろ、イエス様は自分たちと一緒にいてくださる、このことに対して、目が開けた、ということです。そして、このことを理解した時に、弟子たちには、新しい希望が湧きおこったのです。そして、改めて、イエス様に語り掛けてくださったときのうれしさを思い起こすようになったのです。「私たちの心は燃えていたではないか」。イエス様と共にある喜び、それは、「心が燃えるような喜び」です。そしてこの喜びを抱えて二人の弟子たちは、仲間たちの所へと走り戻り、さらには、同じ喜びを味わったペテロたちと飽きることなく、自分の体験を分かち合ったのです。

夢をこえて
最初に確認しました通り、二人は夢破れて、ほかの弟子たちとの交わりを投げ捨てて、孤独な旅へと出かけていきました。しかし、イエス様は、この二人の希望を新たに生き返らせて、また、ほかの弟子たちの希望も生き返らせて、同じ希望に生きるものとして、新しい群れをたて上げてくださいました。私たちの教会が目指したいのも、この希望です。自分のこだわりによって作り上げられた脆い夢ではなく、イエス様が与えてくださった新しい希望を互いに持ち寄って、一つの希望に生きたいのです。

祈り
主イエス・キリストの神様。私たちは、主イエスの弟子とされながら、なお、主イエスとともに歩む恵みについて、目がふさがれていることがあったかもしれません。けれども、そのような私たちのすぐそばに、イエス様が共にいて下さり、私たちの目を開いてくださいます故に感謝します。私たちがこの週も、この明るい見通しと喜びをもって歩んでいくことができますように、また、たとえ離れていても、互いに執り成し、喜びを分かち合って行けますようにお導き下さい。感謝して主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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