4月19日説教

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4月19日説教

お祈りと説教本文です

牧会祈祷
天と地と海と、そこに満ちるものすべてを造られ、今も全能の御力によって治めておられる主イエス・キリストの父なる神様。あなたの尊いみ名を賛美します。ご自身の一人子を世に遣わし、十字架において罪に対して勝利を勝ち取らせ、また、墓の中から永遠の命へと蘇らせ、私たちの新しい命の初穂としてくださいましたゆえに感謝いたします。
すぐる週において、私たちは御子の復活の喜びを味わい、死に勝利されたあなたの御力に思いを寄せました。しかし、なお、この世界の厳しさに翻弄され、重たい気持ちをもって過ごした時があったことを告白します。また、集まって礼拝できないのみならず、兄弟姉妹のことを思い、とりなすことにおいて不十分であったかもしれません。けれども、あなたはそのような私たちを、主イエスのみ名において、ご自身のもとへと招いてくださいます故に感謝いたします。どうぞこの復活を覚えるうれしい週の初めの日に、みずらかの暗さを悔い改め、私たちが主にあってすでにあなたのものとされておりますことをますます確信させてください。
また、私たちが、この喜びを自らのものとして、その豊かさを、兄弟姉妹と、また、隣人と分かち合い、あなたによって遣わされます日々の生活の中でも、福音を示すものとしてくだいますように。
新型コロナウイルスの感染拡大が日ごとに伝えられ、なお先行きが見えない中におります。被害を防ぐために労苦しておられる、政府関係者の方たち、行政の方たち、医療従事者、ボランティアなどの活動をされている方に至るまで、あなたが支え励ましてください。感染が身近なところにまで迫っていることを覚えます。今、感染に苦しんでいる方たちに、癒しを与えてください。残念ながら家族を失った方たちをねんごろに慰めてください。また、今はそれぞれの所で礼拝を持つ兄弟姉妹をあなたが格別に覚えて顧み、それぞれの家庭にあって支えてくださいますように。今日も勤労に従事なければならない方たちをささえていてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。


ヨハネ20章19-31節「イエスの名によって」
震災後にむけて
依然として、新型コロナウイルスの感染が広がっています。このような中で不用意に感染終息について語ることはは、なんとなくはばかられますが、しかし、新しい薬やワクチンの開発も以前よりも早く行えるようになっているようです。そして、何よりも確かなことは、それが、半年後か、一年先かはともかくとして、このような事態はいずれ終わるということです。以前のように集まって礼拝をする時は必ず来ます。そしておそらく、今こそは、わたしたちが集まって礼拝することの意味、そもそも教会とは本来どのようなものであったのかについてよく考える時なのではないでしょうか。その意味では、今日の所はまさに、教会が生まれる、そのリアルな現場の様子を伝える箇所と言ってよいでしょう。そしてそれは、今ウイルスの恐怖におびえる私たちにとっても、なにをどのように始めていくか、を改めて教えてくれるかもしれないのです。

閉ざされた戸
このところはイエス様が復活された日の夕方から始まっています。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、戸に鍵までかけて、まさに引きこもっていたと書いてあります。この場合のユダヤ人とは、人種というよりは、ヨハネによる福音書で、イエス様に反対していた人たちのことですが、いずれにしても、弟子たちは十字架刑を求め、それを実現させた側の人たちを恐れて何もできなくなっていた、これが彼らの現実であったのです。それは全くの行き詰まりです。丁度今私たちが、ウイルスの感染に対して無力であり、家の中にとどまっていることしかできないように、弟子たちもまた、一つの家の中で、恐怖に震えていることしかできなかったのです。しかし、そこにイエス様がやってこられます。この所でも、また、一週間後の様子を語る26節でも同じですが、家の戸は閉じられているのです。しかし、イエス様はそこに来られるのです。その時何があったのか、どちらの個所も具体的なことは一切語りません。けれども、確かなことは、イエス様は閉ざされた戸の中にいた弟子たちの真ん中に立たれているという事実です。これは、ある意味では比ゆ的な表現であるかもしれません。黙示録においてイエス様は「ダビデの鍵を持つ方」と呼ばれています。どこにでも入り、また閉じることができる方という意味です。私たちは、様々な困難によって、あるいは、多くのつらい体験によって、日頃、自分が傷つかないように心をかたく閉ざして、生きているという事があるのではないでしょうか。そして、そのような私たちのあり方は、自分の力で変えることはできないのです。しかし、そのような私たちの閉ざされた心の中にも、イエス様は入って来ることができるのです。あるいは、その意味で、イエス様によってしか、私たちの心は、変えられることができない、という事こそ、このところは示しているようにも見えるのです。

イエスの平和
そのようにして私たちの中に入ってこられたイエス様は、大きな声で、平和を宣言されるのです。「あなた方に平和があるように」。この平和とは、言うまでもなく、神様による平和です。ヘブライ語のシャロームという言葉は、あいさつの言葉でもありますが、それは「争いがない」という以上の意味を持ちます。先ほど、私たちの心、ということを言いました。私たちは、心が壊れないように、守ろうとして、心を閉ざします。しかし、どれほど、心を守ろうとしても、すでに心には、どこかしら、カケがあるものです。そのかけの最も大きなものは、聖書で罪と呼ばれているものです。それはもう少し具体的には、偏り見る、ことです。例えば、心を守るといいます。私たちは、人から傷つけられたことは、よく覚えています。ちくしょう、という思いを抱え込んで生きていたりします。そして嫌な目に合わないように守りに入ります。けれども、その一方で、自分が人を傷つけたことを、どれほどはっきりと意識しているでしょうか、むしろ、そんなことはまるで気が付かない、気が付きたくもないと思っている、あるいは相手が悪いから懲らしめたのだ、などと合理化していたりする、それが私たちの心のあり方です。そんなアンバランスで身勝手な、あえて言えばでこぼこした私たちの心を、イエス様は、神様の平和を与えることで、充実した欠けのない心へと作り替えてくださるのです。

イエスの派遣
そして、21節をみますと、イエス様は、この「平和があるように」という言葉を土台として、弟子たちを派遣しておられます。しかもそれは、父なる神様が、イエス様を遣わしたのと同じように、神様の御心を地上において実現していく、という役割を伴った派遣です。そして、さらに具体的には、23節にあるように、罪の赦しを具体的に、この世界で実現させていくこと、言い換えますと、信じる人が増え広がることを目指しています。そして、最初にお話ししましたが、教会に究極の目的があるとすれば、このこと以外ではないのです。教会の目標はただこの一点です。地上において、罪の赦しが語られ、実際に罪を赦され、神様の民となる人が、その時々に起こされ続けていくこと以外ではないのです。しかし、そのような私たち教会の歩みは、ただ、私たちがそれに向けて努力をする、というものではありません。なぜなら、このイエス様の派遣には、もう一つ大切なことがあったからです。それは、22節で描かれている聖霊の存在です。「彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい』」。このことはすぐに、創世記の言葉を思い起こさせます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)。この所で行われているのは、新しい人の創造です。弟子たちも、私たちも地上にあるもの、地上に生きるものとしての限界の中に生きています。そして、そのままでは、すでに確認した通り、罪の中でしか生きられないものです。しかし、この新しい人への創造において、聖霊において、いつでも神様と共にある、神様の息と一緒に生きていく、ということによって、私たちには全く別の可能性が開かれています。

派遣されるのはだれか?
ところで、今日は、少し欲張りまして、この23節までの所と一緒に、この次の週の出来事を示す29節までと、そして、そもそも、このヨハネによる福音書がなぜ書かれたか、という全体の目的を示す31節までを一度に読むことにしました。福音書が書かれた理由は、実は先ほど教会の究極の目的としてお話ししました、世々に信じる人が起こされる事、と全く同じであることが、31節をみますと明らかです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」。ここで目を留めたいのは「あなたがたが」とあるところです。「あなた」ではなく、「あなたとあなた」でもなく「あなたがた」です。そして、おそらく、トマスについて、語られている24節からの段落が描かれた理由は、このことと関係しています。そしてそれは、私たちの新座志木教会においてもまったくそのまま当てはまることです。それは一言でいえば、私たちは、それぞれに違っていて、個性的であってよいのですが、ただ、最も基本的な信仰においては、同じ一つの形を持つものとして、この世界に派遣されているだろう、ということです。24節をみますと、復活の日の夕方に、なぜかトマスだけは別行動をとっていて、その場に居合わせなかったようです。そして、そのためにトマスだけは、イエス様と会えなかったのですが、このところでは、トマスは頑なに、見ること、触って確かめること、を主張しています。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

トマスの存在
これは、ある意味では面倒くさい人と言えるかもしれません。みんなが、「イエス様は復活された」、「イエス様は俺たちと会ってくださった」と言って喜んでいるところで、いや、俺は信じない、と言い張っているからです。しかし、むしろ、このような様子が描かれている事実にこそ、私たちは注目したいのです。この後の方の段落では、イエス様は、弟子たちにも表れてくださいますけれども、その会話の内容は、トマスが語った言葉への応答です。イエス様は前の週と同じように平和を宣言された後で、トマスが一週間前に宣言した言葉を、その通り、自分に対して行うように求められます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」。しかし、結果として、この命令は実行されていません。それは実行する意味を失ったからです。なぜでしょうか。ここでは二つの鍵になる言葉があります。一つはイエス様が、トマスに向けて語られた言葉です。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」。

一人の人、1つの信仰
これは、明らかにトマスに向かって一つの決断を迫っている言葉です。そして、このことは、いつ、どんな時でも、神様の前に立つものが迫られる決断の言葉です。このことと併せて、旧約から神様の言葉を一か所読んでみます。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」(申命30:15)これは、40年の放浪の後、約束の地に入っていこうとするイスラエルの民に向かって、改めて契約を結ぼうとする神様によって、モーセに対して語られた言葉の一部です。この時に至るまで、神の民であるはずのイスラエルは、神様がどのような方であるのかを悟る心を持たなかったというのです。しかし、今この時こそ、正しいものを選び取るようにと、迫っているのです。この言葉の締めくくりはこうなっています。「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」(申命30:19,20)。「あなたは命を選べ」。これが神様がご自身の民に向かって語られた言葉です。

新しい出会い
そして、この「命」は、イエス様という一人の人の姿として、具体的にトマスの前に、そしてまた、私たちの前に示されているのです。そして、ただこのこと、すなわち、イエス様と出会う事こそが大切なのです。思い出していただきたいのですが、トマスの主張は、いちいち、イエス様の手の傷、わき腹の傷を観察して、そこを手で触って確かめて、というものでした。しかし、彼は、それをこのところで放棄しています。もう、そのような、科学実験のまねごとをする必要はない、とわかったのです。トマスは、イエス様と、人格と人格として、出会ったのです。そして、その出会いによって口をついて出た言葉が、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)という一言の叫びでした。おそらく、信仰という事が何か、と尋ねたられたら、これだ、この出来事だ、というべき事がこの時、起きています。そして、私たちが、どうしても一致して持つべき信仰もまた、このことに尽きるのです。

イエスの名によって
コロナウイルスと、そこで引き起こされた様々な出来事、集まって礼拝できないという事実、中会や、修養会が開催できないという現実、家に閉じこもってばかりであったり、仕事に不安を感じたりしたことは、いずれ過去の思いでになります。私たちには、その先があります。私たちが、イエスの名によって出かけていく時は必ず来ます。その時に、私たちは、ただ、私たちと共にあるイエス様に促されて、出かけていくのです。

祈り
主イエス・キリストの父なる神様。私たちがなお困難な中にあって、日々あなたに支えられていることを覚えます。そればかりでなく、あなたは御霊において今も私たちを顧み、御子と引き合わせてくださいます。私たちがトマスの叫びに声を合わせ、イエスを我らの主、我らの神とたたえて、この週を過ごし、また、それぞれの所であなたのご栄光をあらわすものとされますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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