4月5日説教原稿

日本キリスト改革派 新座志木教会のホームページへ戻る

4月5日説教原稿

家庭礼拝用の説教原稿です。

マタイ21章1-11節「平和の始まり」

近づいた!
今日の聖書の最初に記された言葉「エルサレムに近づいた」。今日私たちが特に目を留めたいのは、この言葉です。さらにこれに合わせて、マタイによる福音書の3章(2)で洗礼者ヨハネが語り、また4章(17)でイエス様ご自身が語られた言葉があります。それは「神の国は近づいた」です。どちらも共通するのは「近づいた」という言葉です。もちろん、このところの「近づいた」は、エルサレムに近づいたという意味です。しかし、それは同時に、エルサレムにおける特別な時が近づいた、というようにも考えられます。今更のようですが今日は受難主日です。今週の金曜日は受難日です。イエス様が十字架で苦しみを受けられたという意味で「受難」というのはその通りですが、しかし、そこでなお考えたいのは、このエルサレム入城は、ただイエス様が苦しむためになされたのか、それも、逆らえない運命のようなものに引きずられ、不幸な最期を遂げられたというような理解でよいのか、です。この点についてなら、わたしは、それは間違っている、と言いたいのです。

最後の一週間?
もし、私たちが、イエス様の逮捕、裁判、十字架の上での死という一連の出来事を、ただの悲劇とみているとしたら、それはおそらくどこかで何かを見間違えているのです。この受難週は、最後の一週間という悲劇的な時間なのではなく、むしろ、新しいことが始まる、それも決定的なことが始まっていく、そのための一週間というように私は考えています。そして、そのことは、先ほど確認しました「近づいた」という言葉、とりわけ「神の国は近づいた」というあの言葉と深く結びついているのです。エルサレムに、イエス様がやって来るのです。それも、王としてやってこられるのです。この所での入場行進が、たとえどれほどの規模のものであったにしろ、例えば、ルカによる福音書では、叫び声をあげているのは弟子たちだけのようですが、たとえそうであったとしても、このところで「ホサナ」、「救いたまえ」という叫び声が響き、そして群衆がイエス様を迎え、驚き、「これはナザレから出た預言者イエスだ」という告白の言葉が語られたという事実、そしてまた、ゼカリヤ書に描かれたまさにその通りに、イエス様が、ロバの背に揺られて、柔和な王として、城門への道を歩んだ、そして、エルサレムの町が震えた、というその事実において、ここに、まったく新しいことが始まっている、と私はこのところを読みたいのです。そして、その新しさは、私たちの今のこの時代へと直接つながっているのです。

あなたの王
その場合に、もう一つ特別に目を留めたい言葉があります。それは、5節の聖書引用の言葉です。「お前の王がお前の所においでになる」。これはゼカリヤ書に預言された、ほぼその通りの言葉です。これはもともと、エルサレムに新しい高ぶらない王が来る(ゼカリヤ9:9)という、あの言葉を指しているのは間違いありません。しかし、この高ぶらない王、マタイでは「柔和」と訳された言葉は、イエス様がマタイ11章で「私は柔和で謙遜な」と語られたあの「柔和」です。「イエス様ご自身が、あなたの王として、あなたの所に来る」という事をこの言葉は、ただ、エルサレムの人たちばかりでなく、また、弟子たちにばかりでなく、私たちに対しても語り掛けている、言葉ではないでしょうか。イエス様は、柔和な王として、私たちのところに来てくださるのです。それは、この後エルサレムで起きる一週間を通して、とりわけあの十字架の遜りによって、私たちの罪を負うことによって、実現します。イエス様は、私たちの罪、神様を理解せず、自分を神のように、言い換えればどこまでも自分を中心にしか物事を考えられない、という罪、あるいは、そもそも、自分がそのようなものだという事にすら気が付かない、という罪の真ん中にきて、私たちの王となることで、私たちを自由にしてくださいます。この行進はその始まりなのです。

派遣されること
しかし、いささか話が先に進んでしまいました。今日、このところから、今の私たちにとって、是非聞き取りたいことがもう一つあります。それは、このところでイエス様が二人の弟子を遣わした、という単純な事実です。実は、イエス様は、マタイ10章でも、弟子たちを遣わしておられました。彼らにイスラエルの家の失われた羊の所に行き「神の国は近づいた」という先ほどイエス様ご自身が語られた、あの言葉を語るようにと、託したのでした(10:5以下、特に6節)。あの10章の出来事は、もちろん、十字架よりも前のことですけれども、28章で語られることになる、12弟子たちの派遣を先取りしているといえます。もっと単純に言ってしまいますと、弟子というものは、派遣されるものと言えます。イエス様によって、神の国の訪れという事実を託されて、遣わされていく、それが弟子であることです。その点において、12弟子たちと私たちの間で何の違いもありません。私たちもまた、この礼拝において、祝祷を受けます時に、イエス様から、派遣されて、この世の生活の中へと、遣わされていく者たちです。しかし、話を21章にもとしますと、このところで二人の弟子たちには、一つの特徴的な言葉が託されていました。それは「主がお入り用なのです」という言葉です。主と言った場合、イスラエルでは、神様ご自身のことです。神様が必要としているのです。それも、神様ご自身が語られた言葉がまさに今実現するために、必要としている、その準備のために派遣されるのがこの二人の弟子たちなのです。

言われた通りに
そして、彼らは、出かけて行って、首尾よくロバを連れてくることに成功し、イエス様は、そのロバの上に乗って行進をされて、ここで旧約聖書の御言葉がまさに語られた通りに実現しています。しかし、それは、ただ、聖書の言葉が、出来事としてなぞられた、という事ではありません。むしろ、神様が人々をご自身のもとに集めるための王の訪れのしるし、としてこの行進があったということは、先ほど確認した通りです。しかし、今は、もう一つ別の言葉に聞きたいのです。それは、6節の「弟子たちは行って、イエスが命じられた通りにし」とあるところです。弟子たちは、イエス様が命じた通りにした、そして、イエス様が言われた通りのことが起こって、すべてがうまくいった、という事をこのところは示しています。もちろん、私たちは、現代において、隣町に行ってロバを引いてこい、というような命令を受けることはありません。しかし、イエス様の言葉に従って、その通りに行動する、という事について、私たちは、私たちなりの仕方で、出来ることがあるはずです。そして、多くの場合、私たちがなすべきことは、それぞれの状況において、また、毎週語られる御言葉を通して、その時にかなって示される、と考えられます。しかし、そのことをわきまえたうえで、今日は、もう一つこのところの言葉に聞いてみます。

派遣すること
それは、イエス様によって派遣されたものは、つながれたものを解いて、イエス様の所へと引いていく、という、このところに描かれた、弟子たちの行動についてです。弟子たち従った言葉が語られたのは、2節でした。その所をもう一度読んでみます。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。」。特にこの後半の「ほどいて、私のところに引いてきなさい」というところです。ごく実際的なことを言っている箇所と言ってよいかもしれません。轡を懸けられ、手綱を柱か何かに結ばれているロバをほどいて連れてくる、それだけと言えば、ただそれだけのことです。しかし、これは、少し読みこみすぎであるという事を自分でも感じますが、あえて言いますと、これは、現代においてなお、教会がなすべきことを示しているようにも思えるのです。解くということは、自由にする、とも読めます。そうしますと、弟子たちが託された仕事は、つながれているものを自由にして、イエス様の所へと引き出す、ことになります。私たち自身もまた、そもそも、何かにつながれていたのです。今も何かにつながれているかもしれないのです。そして自分で自分を縛るものを解くことができない、かもしれないのです。

柔和な王と共に
ただ、私たちは、互いに励ましあい、礼拝へと、集い続けることで、もっとも、現在の状況では、集まることもまた、ままならないのですが、しかし、私たちが一つのキリストの体として、時を同じくして、神様を礼拝し、祈り続けることにおいて、私たちはそれぞれに、イエス様の前に引き出されるのではないでしょうか。そいて、イエス様の前に引き出された私たちは、この王者の行進の列に連なるのです。イエス様をまことの王として、列の前を行くものも、後ろを行くものも、「ダビデの子にホサナ」、「救いたまえ」という声に、声を合わせることができます。柔和な王であるイエス様を取り囲むようにして、イエス様と共に歩みながら、「救いたまえ」ととなえて、私たちが進んでいく先に、新しいことが起きていきます。それは、この時エルサレムにおきた一つの異変によって示されているような変化です。10節に「都中のものが『いったいこれはどういった人だ』と言って騒いだ」とあります。大変大げさに聞こえなくもありません。しかし、イエス様がはじめられたことは、それほどのことです。

新しい出来事-平和の始まり
この行進が進んでいく先には、響きが、騒ぎが、揺れ動くことが、巻き起こるのです。そして、ただ騒ぎがあるだけではなく、そこにはある気づきが生まれます。この所では、イエス様こそが預言者である、という真実が群衆の口によって語られています。しかしあえて言えば、イエス様は預言者以上の方であり、平和の王です。そして私たちは、今既に、このところで、イエス様と共に歩む者、地を揺るがし、そののちに、この地にも平和をもたらす、その行進に加わるものの一人とされています。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

お気軽にお問い合わせを

「一度礼拝に出席してみたい。」

「教会に行ってみたい。」

「でもどうしたらよいかわからない。」

そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。

電話でのお問い合わせなら048-474-9237まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。