3月29日の説教です

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3月29日の説教です

家庭礼拝などに用いるために説教原稿を掲載します。聖書箇所を朗読したうえで、この原稿を読んでください。複数人数がいる場合には一人が代表して朗読していただいてもよいと思います。

ヨハネ11:38-44
コロナと死と礼拝と
いよいよ受難節も進んできまして、来週は早くも受難主日ですし、その次の日曜日はイースターになります。しかし、今年はその一方で新型コロナウイルスの流行という特別な状況の中に今も置かれています。多くの行事が中止となり、これから先の様子もまだ見通せていません。このところ、アジアより後から感染が広がったアメリカやヨーロッパでの感染拡大が続いていると報道されています。私もメーリングリストなどで情報に接していますが、例えばドイツのバイエルン地方では、教会における一切の集まりを中止したと聞いています。しかし、それでも、教会は会堂を開き、ろうそくをともし、決まった時間に鐘を鳴らすことを続けているそうです。また、この時代ですから、電子的な方法をつかって家庭で礼拝をするための支援を積極的に行っています。それは、当たり前ですが、伝えたいことがあるからです。今日、この聖書を読みながら考えたいのは、教会がどうしても伝えたいこと、その中身についてです。そして、教会がどうしても伝えたいこととは、今日の所でイエス様が行っておられるラザロの癒し、という不思議な出来事を通してイエス様が行おうとしていたことと一致しているはずなのです。

目的は信仰
そこでまず、このところの全体像を大まかに確認してみますと、11章の初めの所で、イエス様は、弟子たちと旅の途中にあったわけですが、そこに、友人であるラザロの病の知らせが届けられます。しかし、イエス様はあえて、自分が教えを語っていた村にとどまり続けました。そして二日後に弟子たちに、ユダヤに、すなわち、ラザロたちが住む地方に行くことを告げます。ところが、ユダヤ地方のベタニアというラザロとマルタ、マリアの二人の姉妹が住む村まで来ますと、すでにラザロはなくなって四日たっていたことがわかります。イエス様と再会したマルタは、もしあなたがいてくれれば、と言って嘆きますが、イエス様は復活について語ります。そしてマルタは、イエス様こそが神の子、メシアであると今でも信じていると、告白します。私たちがまず目を留めたいのは、この言葉です。マルタは言います「私は信じています」。これはこのところの一つのカギとなる言葉です。
実は、イエス様は、この11章におけるラザロの死に関係する一連の出来事について、二つの目的がある、という事を語っておられます。一つは、11:4です。ラザロの病気を知らされたときに「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。と言ったのでした。では、神の子が栄光を受けるとは、何のことでしょうか。それは、人々の中にある変化が生まれるという意味です。それは、今日の聖書の最後の44節に書かれています。「わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。この言葉をもう少し言い換えますと、父なる神様がイエス様をご自身の代理として派遣するほどに、神様とイエス様の関係は近い、ほぼ、一体的と言っていいほどに、その関係は近い、という事を、みんなが信じることこそ、神様の栄光の表れであり、神の子の栄光である、そして、ラザロの蘇りはそれを目指している、まとめてしまえば、みんながイエス様によって新しいことが起きたと信じる、これが目的です。

何を信じるのか
しかし、それでは一体、ラザロが蘇った、ということが、どうしてイエス様が神の子である事への信仰につながるのか、と問うこともできるかもしれません。その場合に、一つ確認したいことがあります。それは、このところでイエス様は大変怒っておられる、ということです。38節をみますと「イエスは、再び心に憤りを覚えて」とあります。再びですからその前もありまして、33節で、「マリアや周りの人たちが鳴いているのを見て、心に憤りを覚え…」となっています。この憤りは、注解書などをみますと、死の力への憤りだろう、と言ったことが書いてあります。その通りだと思います。イエス様は、死の力に勝つために、死の力と戦って勝利するために来られた、と私たちは信じています。しかし、もう少しこのところについて考えますと、まさに、人々が何を信じているのか、という事が問題になっているように見えるのです。すなわち、マルタが嘆き、そしてマリアが泣いた、周りの人たちもつられて泣いた、という出来事があり、人々はイエス様が死の前で無力であるとささやきあっている、この状況そのものが示しているのは、人々は、イエス様よりも死の力を信じている、という紛れもない事実です。人はだれも死んで、この人生を終わらなければならない、というのは、避けがたい事実として私の目の前に存在しています。

イエスの憤り
しかし、そこでもう少し考えたいのです。私たちが、死こそがすべて、死んでしまえば一切はむなしくなる、一切は終わりである、それゆえ、死に打ち勝つことのできるものはいない、というように信じている、それ以外の考え方ができなくなっているとしたら、それは、まさに死に支配されてしまっている人生という事になります。そして、イエス様は皆が皆、そのような思い込み、あえて言うのなら信仰、死に対する信仰にしか生きていない、というこの事実に対して、憤っておられたのです。そうであるからこそ、イエス様を信じていると告白している私たちが、いったい何を信じているのか、それがこのところで問われるのです。そして、イエス様ご自身は、死を信じる生き方とは全く違った世界に生きておられるのです。ではイエス様の生き方とは、どのような生き方でしょうか。
そもそも、最初に確認しました通り、イエス様は「この病気は死で終わるものではない」と言っておられました。しかし、それは、ただ、ラザロが再び生きている者の世界に戻ってくる、それだけを問題にしているのではない、と私は考えます。むしろ、私たちが目を留めたいのは、このところで、イエス様ご自身が、祈りの中で語っておられることばです。イエス様は、墓穴の前に進み出られました。そして、石をどかすようにと、命令されました。それは、まさに今死んでしまっているという、死そのもの、もはや命を失って、腐敗すら始まっているかもしれない埋葬された人がいる墓穴の前に立つことによって、死と向き合おうとしておられたのです。しかも、そこで勝利を確信しています。

イエスは神の子
イエス様は、墓の前で、目を天に上げて、感謝の言葉を語っておられます。周りの人たちから見れば、それは何かを願っているように見えたかもしれませんが、イエス様は、それをはっきりと否定しています。「父よ、私の願いを聞いてくださったことを感謝します」。「聞いてください」、ではないのです。もう既に聞かれている、というのです。それに続いてこうも言われました。「私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています」。イエス様と神様との間には、とても深くて強いきずながあって、その間に隔たりがないので、祈る前から、すでに神様に願いが届いている、というのです。もっと言えば、天におられる神様と、イエス様との間にはたえることない結びつき、いつもいつもつながっている太いきずながある、というのです。それをイエス様は知っているのです。この所を、ある聖書は「分かっていた」と訳しています。もともとの単語の意味を調べますと、「見る」、とか、「体験する」とも訳せるようです。イエス様は、神様がきっと祈りを聞きあげてくださる、と知識として知っていたのではなく、むしろ、体験的に、いつもそうなっている、だから絶対にそうなるに決まっている、というような経験として、あえて言うなら、肌感覚で、知っていたのです。しかし、このところは、それだけではないのです。その関係は、周りに対して開かれています。例えば、神様とイエス様の間が親密な愛の関係であったとしても、それがそこだけで、すなわち、神様とイエス様との間で、終わってしまうのであれば、私たちとは何の関係もない、ただ、神様とイエス様は仲良し子よしでよかったね、という事になります。しかし、そうではないというのです。

皆が知るように
イエス様は続けています。「しかし、私がこういうのは、周りにいる群衆のためです」。私がわざわざこうして神様と会話をしつつ、ラザロを墓から引き出そうとしている、このことは、自分のためではない、むしろ、周りにいる人たちのためだ、それもただ彼らが慰められたり、驚いたり、喜んだりするためですらない、目的はただ一つ、「あなたがわたしを遣わしている」というこの事実、言い換えれば、神様がイエス様という具体的な姿でみんなの前に立っている、というこの事実、死の世界の中に、死こそが変わりようのない現実だと信じて疑わない、私たちのこの世界の中に、鋭く切り込むように、イエス様が神様と一緒に立っておられる、というこの事実を、「彼らに信じさせるため」、このように続いているのです。この出来事がわたしたちに示そうとしていること、それは、私たちにはすでに、新しい現実が迫ってきている、という事実です。最初に確認しましたように、私たちのこの世界において、死は避けようもない現実です。誰も一度死ななければなりません。そして、それゆえに、私たちは死を恐れ、コロナウイルスを恐れ、右往左往しているのです。しかし、そのような私たちの間に、神様の命が既に届いていることを知らせるのだ、とイエス様は言われたのです。

イエスの命令-自由にされたラザロ
そして、まさに亡骸を治めた墓穴という死の現実の前に立って、イエス様は、「ラザロよ、出てきなさい」と命令しています。すると、ラザロは遺体処理のためにまかれた包帯や、顔を覆う布をつけたままで、墓の中から、生きた人間として外に出てきています。しかし、そこでなお、私たちが特に目を留めたい言葉があります。それは、イエス様が周りの人たちに語った言葉です。「ほどいてやって、行かせなさい」。もちろん、これは、包帯をほどいて上げて、元の生活に戻るようにしなさい、という意味です。しかし、ここでは別の響きもあるように感じられます。それは、死の束縛からほどく、死の呪いから、自由にさせる、というようにです。そしてそれは一つのことを象徴しているように見えるのです。それは、イエス様と出会った人は、死から自由にされる、死の力から解放される、ということです。もちろん、私たちは、イエス様と出会った後でも、なお、この肉体の死から自由になるわけではありません。しかし、イエス様の中に命があることを知る時に、この肉体の死が一切の終わりでないという事にも気づかされるのです。

イエスが来るときには
私たちは、イエス様が神様を体験的に知っているように、私たちもイエス様を体験的に知ることができます。それはまさに礼拝において、聖書の御言葉を通してです。み言葉が読まれ、語られ、聞かれるところで、聖霊によって助けられるなら、私たちは、いつでもイエス様の前に立つことになります。そして、私たちがイエス様と共にいるのなら、そこに命があります。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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