2026年05月17日「死人の復活の恵み」

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聖書の言葉

使徒言行録 22章30節~23章11節

メッセージ

2026年5月17日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録22章30節~23章11節「死者の復活の望み」

1.

 お集まりの方々お一人お一人の上に、主イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主の名によって祈ります。アーメン。

 ただいまお聞きしました、聖書のみ言葉の中で、最もわたくしの心に響いてまいりましたのは、なんと言いましても最後の11節、主イエス様の御言葉です。「勇気を出せ。エルサレムで私のことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。「勇気を出せ」と言う主イエス様の御言葉がわたしの心にも響いてきました。

使徒パウロは、今エルサレムに駐留しているローマ軍の兵営に中に保護されています。エルサレムの最高評議会による裁判が紛糾したために、千人隊長によってもう一度兵営に引き戻されたのです。その夜、主イエス様がパウロのところへ来てくださいました。ここではパウロが幻を見たとか、ただ声だけを聴いたとか、そういったことは記されていません。復活の主イエス様は、確かにパウロの傍らに来て下さり、こう言われたのです。「勇気を出せ。エルサレムで私のことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」

初代教会の指導者でありますパウロは、かつて、まばゆい光の中で、復活の主イエス様に初めて会いました。そのとき、まだパウロは、熱心なユダヤ教ファリサイ派として、キリスト教徒を敵とみなし、迫害のために必死になっていてユダヤだけでなく外国にまで足を延ばしていました。復活の主イエス様は、強い光の中からこう問いかけてこられました。「サウルサウル、なぜわたしを迫害するのか」。

そのときパウロは、主イエス様を確かに見たのに違いないのですが、直ちに彼の目は見えなくなり、地に倒れてしまいます。パウロは、ダマスコの教会のアナニアというユダヤ人キリスト者に介抱してもらい助けられました。彼の目が開かれて、このときはじめて、十字架に架けられて死んだイエス・キリストは確かに蘇っておられる、生きておられるということがわかりました。自分がこれまで迫害して来たキリスト者たちの証しが、真実であったことがわかったのです。

その劇的な出会いから10数年が経ち、その間パウロは、主イエス様の召しにお応えし、三度の伝道旅行をおこない、各地に教会を立てました。そして、今、エルサレムに再び帰りましたが、かつての仲間であったユダヤ人たちから攻撃され、死にそうになるまで迫害され、ローマ軍の兵営に保護されているのです。このとき復活の主イエス様は、十数年前とはまったく違った仕方でパウロに現れて下さいました。その体を伴ったお姿でパウロの傍らに立ち「勇気を出せ」と励ましてくださったのです。。

「勇気を出しなさい」と訳されています元の言葉は、サルセオー、あるいはタルセオーと言う少し珍しいギリシャ語です。実は、この言葉は、新約聖書の中で、この個所を含め、合わせて6回使われています。そのうち、5回が主イエス様のみ言葉であります。「元気でいる、しっかりする、勇気を出す」という意味の言葉です。

恐らく、この時のパウロの心は先の見えない不安に沈み込んでいたのだと思うのです。主イエス様は、そのパウロの傍らに立ってパウロを励まし、さらにはっきりと新しい使命を与えて下さいました。それは、パウロがローマ帝国の都ローマで、主イエス様を証しするという任務です。

「エルサレムでわたしのことを力強くあかししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

実は、パウロは今回のエルサレム行きに先立って、ローマに行くという願いをすでに与えられておりました。使徒言行録19章21節にはこう書かれています。「このようなことがあったのち、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通り、エルサレムに行こうと決心し、『私はそこに行った後、ローマも見なくてはならない』」と言った。」そしてテモテとエラストをマケドニアに派遣したのです。

パウロは広く各地の異邦人教会から募りましたエルサレム教会への献金を携えてエルサレムに届ける、そのようにして、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の一致協力をあらわす。その後で、当時すべての道はローマに通じると言われていたローマ帝国の都ローマに行きたいと願いました。この時の「ねばならない」という言葉は、パウロ自身が語った心の中の願いです。しかし、今、エルサレムの兵営で主イエス様が言われた「ねばならない」は主イエス様の御言葉です。主イエス様のご計画としての「ねばならない」でありました。神の主権によるみ言葉です。「あなたはローマでも証ししなければならない」

さて、主イエス様が、聖書の中で最初に「勇気を出せ」「勇気を出しなさい」という言葉を語っておられるのは、マタイによる福音書の9章2節、そして9章22節です。ガリラヤで伝道しておられた主イエス様のもとに、中風で起き上がることのできない人が床に寝かされたまま運ばれてきました。主イエス様は、その人たちの信仰を見て、こう言われました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」。

同じくマタイによる福音書の9章ですが、今度は、12年間も出血の続く婦人病の女性が癒されたと願い、黙って主イエス様のもとに近づき、後ろから主イエス様の衣に触ったのです。そのとき主イエス様は、すぐに振り返ってこう言われました。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」。この二つの個所で「元気を出しなさい」「元気になりなさい」と訳されている言葉が、今朝の個所で「勇気を出せ」と訳されている言葉です。

マルコによる福音書では、この言葉が二か所出ます。そのうちの一か所6章5節が主イエス様の言葉です。同じくガリラヤでの出来事です。主イエス様はガリラヤ湖で、弟子たちを舟に乗せて向こう岸にわたらせた後、ご自身は、一人山に入って祈られました。そして、湖の上を歩いて弟子たちの舟においでになります。湖の中で幽霊が出たと怯える弟子たちに主イエス様は言われます。「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」この「安心しなさい」と訳されている言葉が、今朝、パウロが聞いた主イエス様の御言葉と同じ言葉です。

主イエス様は、床に寝かされている中風の人に、あるいは、12年間も病に苦しんだ女性に、そして、主イエス様が湖の上を歩く姿を見て恐れ戸惑う弟子たちに、そして行き詰まった伝道者パウロにも「元気を出しなさい、安心しなさい、勇気を出しなさい」と語ってくださるのです。

3、

 さて、使徒言行録22章30節に戻ります。千人隊長は、パウロがなぜこれほどユダヤ人たちから攻撃されているのかを知るため、最高法院を開いて、事柄を明らかにするようユダヤ人たちに求めまsした。エルサレムを警備するローマの千人隊長は、ローマ総督が通常の駐屯地であるカイザリアにいるときは、総督に代わってユダヤ人たちと交渉する権威をゆだねられていました。最高法院は、ユダヤの司法と行政の最高機関です。議長は大祭司であり、祭司長たちとファリサイ派の律法学者、そして民の長老たちと呼ばれる一般人の代表、合わせて71人からなります。パウロは鎖を解かれて、法廷に立ち、発言を求められました。彼は、開口一番、こう語りだします。「兄弟たち、わたしは今日まで、あくまで良心に従って神の前で生きてきました」

 パウロは同じユダヤ人として「兄弟たち」と呼びかけます。十数年前、パウロはこの最高法院からキリスト者をダマスコまで行って迫害する許可証を得て、ダマスコに向いました。最高法院の議員たちは、いわば、かつての仲間であり、同僚です。「兄弟たち」といってパウロは語りだします。

そのとたん、議長である大祭司アナニアは、パウロの口を打つように命じました。ところがパウロは動じることはありません。「白く塗った壁よ。神があなたをお打ちになる。あなたは「律法に従って私を裁くためにそこに座っていながら、律法に背いてわたしを打てと命令するのですか」 「白く塗った壁」という言葉は、かつて主イエス様がファリサイ派を「白く塗った墓」とよんだことを思い起こさせます。しかしここではエゼキエル書13章にある偽預言者に向かって語られた神の言葉を引用しています。エゼキエルは13章10節にこうあります。「平和がないのに、彼らが平和だと言って私の民を惑わすのは、壁を築く時に漆喰を上塗りするようなものだ」。古くてもろくなった壁に漆喰を塗って白くした城壁は、見かけばかり良くてもすぐに崩れるという譬えです。偽預言者は必ず神によって崩れ去るとエゼキエルは預言しました。

 パウロは、旧約律法に精通していますから、大祭司といえども、裁判手続きなしに勝手に被告を罰することが出来ないことを知っています。さらに、周りの議員が、「神の大祭司をののしる気か」ととがめますと、パウロは、「あなたが大祭司とは知りませんでした」と皮肉を言うのです。当時の最高法院では、座っている位置や服装によって地位が明らかになります。会議がすでに始まっているのですから、誰が大祭司なのかパウロが見分けられないはずがありません。しかし、パウロは「確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」こう言って、出エジプト記22章27節のモーセ律法の一節をそらんじて、言葉の闘いを続けるのです。

 わたしたちは、今朝のみ言葉のパウロの証しを読み、ここに最高法院でのすべてのやり取りが記録されていると理解してはならないと思います。例えば、終わりの方で、パウロによって説得されたファリサイ派の一部の議員が、こう言っています。「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か、天使かが彼に話しかけたのだろうか」。「霊か、天使かが話しかけた」というのですから、パウロは、あのダマスコ途上での復活の主イエス様の顕現や、エルサレム神殿でパウロが祈っている時に同じく復活の主イエス様が現れて、パウロに異邦人伝道の使命を与えられたことなどを、熱心に議員たちに証ししたに違いありません。

 6節には、パウロが、最高法院の中にファリサイ派とサドカイ派の議員がいること、そしてファリサイ派とサドカイ派の神学の違いを知っていたので、その違いに向かって投げかけるような弁明を始めました。「わたしは死者が復活すると言う望みを抱いていることで裁判にかけられているのです」

 パウロは、自分は生まれながらのファリサイ派であるといい、自分の抱く望みは、死者の復活の望みであり、この復活の希望と主イエス様を信じることとが深く関係している事を語ります。主イエス様が十字架に架けられて死んだこと、しかし、三日後に復活したこと、そして今も生きておられるということは、私たちの復活の希望を証明することだと言っているのです。なぜなら復活された主イエス様こそが、私たちの復活の初穂であるからです。

 パウロはここで、ただ単に最高法院を分裂させ混乱させるための作戦として、この復活の問題を持ち出したとする意見が根強くあります。しかし、そうではなく、ここでパウロがしたこともまた、主イエス・キリストを証しすること、宣べ伝えることであったに違いないのです。なぜなら、その夜にパウロの許に来てくださった、復活の主イエス様はパウロにこう言っているからです。「エルサレムで私のことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」

 ギリシャ語では、主語が明らかに書かれていないときでも動詞のかたちによって、主語が明らかになります。ここでは、「あなたは、エルサレムで私のことを証しした」「そのように、あなたはローマでもわたしのことを証ししなければならない」と訳すことが出来ます。この次の日に、パウロに対する陰謀が千人隊長に告げられたので、パウロは夜エルサレムを脱出し、聖書に記録されている範囲では、もう二度とエルサレムに来ることはありません。

エルサレムでの最後の夜に現れて下さった主イエス様が、「あなたはエルサレムで私のことを証しした」とおっしゃっているのは、21章のアントニオ城の階段での弁明と、今、今読み進めているこの23章の最高法院での弁明のこと以外にはありません。そのどちらも、パウロは主イエス様を証ししたのです。ただ、今朝の個所では、最高法院のやり取りのすべてが書かれているのではなく、ファリサイ派とサドカイ派の分裂と議場の混乱に焦点が当てられています。そのために、すでに、22章で語られた主イエス様との出会いについてのパウロの証しは、おそらく重複を避けて簡潔にするために、ここでは省略されているのだと思います。

 エルサレムでの最後の夜、パウロのもとに主イエス様は来て下さいました。そして「勇気を出せ」と励ましてくださいました。

 この「勇気を出せ」という主イエス様の言葉は、新約聖書では今朝の個所以外に4か所書かれていると先ほど申し上げました。そのうちの4か所は、既に語りました。残るもう一か所は、ヨハネによる福音書16章33節です。

 ヨハネによる福音書の13章から17章には、主イエス様が、最後の晩餐を弟子たちと一緒に取り、そして弟子たちの足を洗って、わたしがこのようにするように、あなたがたも互いに愛し合い、仕え合いなさいと言われ、そのあとに、長い主イエス様の説教と祈りが記されています。その説教の最後に、こう言われました。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」

 ここで主イエス様が弟子たちを励ましてくださった「勇気を出しなさい」と言う言葉が、今、使徒パウロにも語られたのです。

 今朝の説教題を「死者の復活の望み」といたしました。聖書は死後の世界のこと、天国や地獄をあまり詳しく語ることはありません。最も詳しく語られているのは主イエス様の復活です。使徒信条を毎週の礼拝で唱えています。その第三項目に「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず」とあります。「身体のよみがえりを信ずると」わたしたちは毎週告白しているのです。使徒信条の第二項目は主イエス様について告白していますが、そこには三日目に死人のうちよりよみがえりを信ず」と告白します。第三項目の聖霊についての信仰告白の「身体のよみがえり」は、その主イエス様の復活に続いてわたしたちに起きる、わたしたち自身の復活のことです。端的に言えば、死の克服です。

身体と霊魂との分離が死です。信仰者の霊魂は、死後直ちに天の父、主イエス様のもとに帰ります。一時、身体は墓に置かれますが、主イエス様が再び地上に来られる再臨のとき、再び霊魂と結合し復活します、たとえ骨と化し、塵に帰っていても復活します。主イエス様が罪を赦してくださったからです。わたしたちと結ばれておられる主イエス様がはじめに復活されたからです。

 わたしたちの存在は、死んで終わりではありません。新しい天と新しい地において、本来のわたしたちを完全に表して、永遠に主を崇めて生きるのです。

 確かに。わたしたちが目に見える世界においては、死者は墓の中で朽ち果てて行くように見えます。更に、生まれてから死に至る一人一人の人生、またこの世界全体は多くの欠けに満ち、わたしたちは疲れ果ててしまうようなことが山積みなのです。しかし、復活は必ずあります。

主イエス様は、12弟子に「あなたがたには世で苦難がある」と言われました。しかしそれに続けて「しかし勇気を出しなさい」「わたしはすでに世に勝っている」と言われました。同じ主イエス様は、パウロに言われました。「勇気を出せ」「あなたがエルサレムで証ししたように、ローマでも私を証ししなければならない」

 私たちは、主イエス様と結ばれていて、そしていつまでも共に生きると言う恵みの中で、この世界を歩んでいます。その中で主イエス様の言葉がわたしたちを励まします。

「しかし勇気を出しなさい」「わたしはすでに世に勝っている」。わたしたちは世の人々にこの福音を証しする使命を与えられています。主イエス様の名のもとに一人でも多くの人をお招きしたい、そしてパウロたちや使徒たちが立て上げた教会を受け継いでゆきたい、そのようにして主にお仕えしたいのです。

祈りを捧げます。主イエス・キリストの父なる神。試練の中にあるあなたの教会を守ってください。私たちを励まし強め、勇気を与えて下さい。すでに世に勝っておられる尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。