2026年05月03日「使徒パウロの証し2」

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聖書の言葉

使徒言行録 22章6節~16節

メッセージ

2026年5月3日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録22章6節∼16節

1.

 主イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主の名によって祈ります。アーメン。

先週は、黒川豪先生が、説教の奉仕をして下さりルカによる福音書からいわゆる放蕩息子のたとえの個所の御言葉を聞くことが出来ました。今朝は、続けて聞いています使徒言行録に再び戻ります。使徒言行録22章の、使徒パウロのエルサレム神殿での証しの二回目になります。

カルヴァンという16世紀の宗教改革者は、人は天地万物の造り主である神と、その独り子であるイエス・キリストの神を知ることが、真に平安で祝福された生活の前提であると言っています。有名なカルヴァンのキリスト教綱要の初めにカルヴァンは、この二重の神認識を明らかにするためにこの書物を書いたと記されています。今朝の御言葉でありますパウロの回心は、これまでは父なる神を知ってはいたけれども、救い主である神、イエス・キリストを知ることがなく信じられなかった状態から、この父と子という二重の神認識を頂いた記録、証しと言ってもよいのであります。

さて、今朝の場面は、エルサレムに帰ってまいりましたパウロが、清めの儀式のためにエルサレム神殿に入り、神殿の中で礼拝しているところをユダヤ人たちに見つかり、彼らに捕らえられたことに端を発しています。パウロは彼を憎み迫害するユダヤ人たちから集団リンチを受けそうになったのです。22章の前の21章27節にはこう書かれています。

「七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところで誰にでも教えている。その上、ギリシャ人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」

たちまち多くのユダヤ人がパウロを取り囲み、パウロは境内から引きずり出され、今にも殺されそうになったのです。このとき、パウロを救いましたのはエルサレムの町と神殿を警備しているローマの軍隊でありました。千人隊長みずから乗り出して、パウロを保護し、神殿のすぐそばの兵営の中に連れ込もうとしました。

難を逃れたかに見えるパウロですが、彼は千人隊長の許可を得て、兵営入り口の階段の上から自分を殺そうとしたユダヤ人たちに向かって弁明を始めたのです。この弁明は、22章1節から21節まで続いています。まず主イエス様と出会う前のパウロの自己紹介、そして、ダマスコという町に向かう途上で主イエス様と出会って回心したこと、そして、異邦人のための伝道者となったこと、いわばこれまでの劇的な生涯を語るような、上中下の三つの部分に分かれています。

今朝は、その真ん中のところ、6節から16節のみ言葉です。

2、

与えられましたみ言葉は、まさしく劇的の上にも劇的であるパウロの回心の証しです。回心とは、心の向きが変わること、心の変換です。誰でも、主イエス様を受け入れ、信じて歩み始めるときには、心の変換、コンバージョンを経験しています。その鮮やかさの度合いは別にして、この世界には神がおられるという信仰から、その神は救い主イエス・キリストを与える神であり、主イエス・キリストもまた生ける神であることを知った、これがパウロの回心でありました。わたしたちは、今朝のパウロのような劇的な、奇跡的な出来事を通して回心するということもありますが、そうではない仕方で回心がゆっくりと起こされるということもあると思います。

信じるようになった証しをしてくださいと言われても、いつの間にか信じるように変えられた、いわば薄皮をはがすようにして自分は新しくされた、言ってみれば主イエス様の救いを信じている自分を改めて発見したということもあると思います。ある方にとってみれば、回心と言うこと、主イエス様を信じるようにされたことは、何ら劇的なことではなく、いつの間にかそうなっていたと言うことなんですね。でも、そのようにして神様の御手の内に歩んでいることは自分にとって決して否定するようなことではない、むしろこれこそ神様の下さった恵みだと信じたということです。

今申し上げた劇的なことは何もないとおっしゃった方の回心と、今朝の劇的に見えるパウロの回心には実は大切な共通点があるように思うのです。それは、回心、主イエス様を信じるようになるということが、生まれる前から、初めから終わりまで神様に導かれていたということです。つまり自分で道を切り拓いていったということではない、初めから神様がしてくださったと言うことなのです。

熱心なファリサイ派のユダヤ教徒であったパウロは、キリスト者を捕らえるためにダマスコに向かいました。ダマスコは、ガリラヤ湖のずっと北にあるシリヤ州の都です。エルサレムのサンヘドリン、立法評議会からの迫害の許可証を携え、いわばユダヤ教の本山からの使者として、連れの人々と一緒に、おそらく馬に乗って旅をしていたのです。まさしくパウロは職業的なキリスト教迫害者でした。このときもパウロは、いつものように教会を迫害し、この世から抹殺するためにダマスコに向かっています。もちろん自分がキリスト信者になるために、さらに福音宣教者になるためにダマスコに向かっているなどとは決して考えていませんでした。しかし神様が一方的にパウロの人生をひっくり返すようにして導いてくださったのです。

天からの強い光が射しました。それは太陽の光ではないのです。それとは別の強い光、超自然的なまばゆいばかりの光でした。「わたしの周りを照らした」ということですから、太陽以上に明るい光がいわばレーザー光線のように射し込んで、パウロを照らしたのです。一緒にいた人々、パウロの連れの人たちもまたこの光を見ました。そして地面に倒れたパウロに天からの声が聞こえました。「サウロサウロ、なぜわたしを迫害するのか」

今朝の個所はパウロが自分自身の体験を語っているところですが、同じ使徒言行録の9章には、この物語を福音書記者ルカが客観的に物語っているみ言葉があります。一人称と三人称の違いがありますが、同じ出来事が語られています。この天からの主イエス様の言葉は、まったく同じです。「サウロサウロ、なぜわたしを迫害するのか」

9節に「一緒にいた人々はその光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声を聞きませんでした」と記されます。それに先立つ9章7節では、「声は聞こえても誰の姿も見えなかった」とあります。周囲の人々が光を見たこと、それはパウロと一緒だったが、周りの人はパウロに話しかける声は聞こえなかったというのです。その姿が見えなかったことに関しても同じであったと考えられます。

そして22章9節では「私に話しかけた人の声は聞こえなかった」と記されているのですが、ルカが語る9章7節では「人々は声は聞こえても」つまり、「人々にも声は聞こえた」と記されています。これは、「人々にも声は聞こえた」しかし、「何が語られているのか」はわからなかったということでしょう。しかしパウロには、語られた言葉の一つ一つがわかったし、声の主が主イエス様であることもはっきりと分かったのです。このときパウロがその肉の目で復活された主イエス様とお会いしたのかどうかは、ここでははっきりしません。しかし、この後の22章16節17節のエルサレムでの祈りの場面になりますとパウロは主イエス様にお会いしたとはっきり語っています。

この後、26章で、パウロはユダヤの王アグリッパに証しをすることになりますが、その証の中では、主イエス様の語られた言葉がさらに詳しく示されています。開きませんけれども、26章16節、主イエス様の言葉をお読みします。「起き上がれ、自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人とするためである」

今朝のみ言葉では、あまりはっきりしていないのですけれども、この後のエルサレムでお祈りの御言葉、そして26章のアグリッパ王への証しから、パウロはこの時、主イエス様のお姿を見た、つまり主イエス様と会ったことは確かなことと言えると思います。

12弟子たちが、12使徒として遣わされてゆく、つまり使徒と呼ばれるのは、彼らが生前の地上のイエス様と会っただけでなく、復活の主イエス様と会いまみえてからです。復活の主イエス様から福音宣教のために直々に世に遣わされたのです。今同じように、パウロも使徒としての条件をここで満たしたのではないでしょうか。しかし、その瞬間、パウロの目はふさがれました。光の中に住まわれる神、生きておられる主イエス様を見るということは、それほどのことなのです。

 パウロは声の主に尋ねました。「主よ、あなたはどなたですか。」すぐに答えがありました。「わたしはあなたが迫害しているナザレのイエスである」

 パウロは、これまでキリスト者たちが「十字架にかかって死なれた主イエス様はお蘇りになった、この方こそ、イ生ける神の子だ」という証しを信じることが出来ませんでした。死んでしまったただの人を勝手に復活したとか、今も生きておられるとか、偽りばかり言っている輩であり、神を冒涜するものだと判断していたのです。

 ところが、彼らの証し通りに、ナザレのイエスは確かに生きておられ、このようにわたしに現れて下さった、これは間違いないことだったのです。

 さらに、これまでキリスト者たちを迫害して来たパウロですが、主イエス様は、「あなたはわたし自身を迫害して来た」と言われたのです。弟子たちを迫害することは、主イエス様にとっては、ご自分を迫害することなのです。

 聖書のほかの個所にイエス・キリストは教会の土台であり、また教会の頭であると記されています。また、教会はキリストのからだであるとも書かれています。主イエス様を信じる群れ、教会はまさに主イエス様と一つなのであります。

4、

 10節をお読みいたします。パウロの言葉です。「主よ、どうしたらよいでしょうか」と申しますと、主は、「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは。そこですべて知らされる」

8節で、パウロが「主よあなたはどなたですか」と尋ねたときは、天からその御心を示されたお方が誰なのか、半信半疑でした。「サウルサウル、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたとき、この光の中で語られるお方がまさしく天の神であることを確信しながらも、「なぜわたしを迫害するのか」という問いかけの意味するところは何だろうかと不思議に思いました。「もしかすると」と思い、それを確認するために、「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけました。パウロの予想通りにそのお方は答えました。「わたしはあなたが迫害しているナザレのイエスである」

 その答えを聞いて、これまでパウロが迫害して来たキリスト者たちにこそ真実があったと悟ることが出来たのです。地に倒れ、目も見えなくされたパウロは、すべてを主にお任せするしかなかったのです。「主よ、どうしたらよいのでしょうか」。あなたの示される通りにいたします。あなたにおゆだねいたします。

 主イエス様を信じるように心の向きを換えられた人は、皆このように言うのだと思います。主よ、お語りください。み言葉に従います。おゆだねいたします。

 このとき、主イエス様は、パウロに対して直接、こうしなさい、ああしなさい、とはおっしゃられません。「ダマスコに行けば、すべて知らされる」

 使徒言行録9章10節から16節にの同じ場面のルカによる記録では、実は、このころ、主イエス様はダマスコのユダヤ人キリスト者であるアナニヤという弟子に対しても幻の中で現れて、パウロの世話をするようにと命じているのです。

 どうすればよいのかと戸惑い、迷うわたしたちに対して、神様は、ご自身が良しとされる人、私たちの周りの人を用いて、ご自身の御心をあらわしてくださいます。神様は用意周到なお方なのです。わたしたちが信じておゆだねするなら、道は必ず開かれます。

 パウロは、ダマスコに入りました。手を引かれて入ったと書かれています。足元は定かでなく、目もふさがれているパウロです。彼はもう一人で立つことも歩くこともできないのです。

しかし、あの元気いっぱいに迫害に走り回っていたパウロも、本当は自分で立って歩いていたわけではありませんでした。真面目で熱心ではありましたが、結局は、本当は空しい自分自身の力や周囲の評価によって動かされていただけでした。しかし、今、人から見るなら実に頼りない、弱い姿を示しているパウロですけれども、実は、生ける神の言葉に従い、光に向かって歩いているのです。

 ダマスコでは、アナニヤという律法に従って生活する信仰深いユダヤ人、そして主イエス様の弟子である人物がパウロの許に遣わされました。

 アナニヤが、「律法に従って生活する信仰深い人」と紹介されていることに注目したいと思います。エルサレム神殿で今、パウロの弁明を聞いているユダヤ人たちもまた、律法に従って生活する信仰深い人たちです。主イエス様を信じることと、律法に従うこととは、相反することではないことを覚えたいと思います。ユダヤ人たちにとって、律法とは聖書のことです。そして律法の目的は生ける神様を知ることなのです。主イエス様は、聖書、つまり旧約聖書が指し示している救い主です。父なる神を知ることは、主イエス様を知ることと一つのことです。旧約聖書の律法は、主イエス様を知ることによって満たされるのです。だからこそ、主イエス様は、マタイによる福音書5章、山上の説教の八つの幸いと地の塩、世の光のみ言葉のすぐ後で、こう言われたのです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである」

 アナニヤはパウロに手を置いて言いました。「兄弟サウル、元通り見えるようになりなさい」、使徒言行録9章18節によりますと、このときパウロの目からうろこのようなものが落ちたと書かれています。また9章17節では、アナニヤの言葉自体もさらに詳しく記されていました。「主イエスは、あなたが元通り目が見えるようになり、また聖霊で満たされるようにとわたしをお遣わしになったのです」

目からうろこのようなものが落ちて、パウロは見えるようになり、そして目の前のアナニヤを見つめました。聖霊に満たされたパウロに対して、アナニヤは、主イエス様がパウロに語りたかったことを代わりに語ります。少し長くなりますがそのまま引用します。

「わたしたちお先祖の神が、あなたをお選びになった。それは御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの御声を聞かせるためです。あなたは見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となるためです」

アナニヤのここまでの言葉は、パウロが実際に今体験したことの意味であり目的です。「あの正しい方」、まさしくそれは主イエス様のことです。

そしてパウロが、これからすべきことを続けて語ります。これはパウロ自身が、何をしたらよいのでしょうかと主イエス様に尋ねていたことでした。アナニヤは言います。

「何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」

 ユダヤ教では旧約聖書に従って、男子は皆生まれて八日目に割礼と言う儀式を行っています。割礼は、神様が神の民イスラエルと契約を結んでくださることのしるしでした。

この契約を結んだ旧約の神の民は、主イエス様の十字架と復活という神様の救いの御業によって、新約の神の民となります。ちょうど葡萄の枝が接ぎ木されるようにして旧約の契約は、新約の教会に引き継がれることになりました。新約においては神様との契約のしるしは割礼ではなく洗礼です。この旧約新約を貫いている神の契約は、神様がわたしたちの神であり、時満ちて、わたしたちの罪を赦し救ってくださるという恵みの契約です。罪の洗い流し、罪の解決は、この契約の結果として、神様の恵みによって、神様から与えられます。

パウロの回心は、まさに劇的なものでした。しかしそれは初めから終わりまで、主イエス様の御心により、神様の側からの恵みだけによって成し遂げられたのです。私どもの回心も全く同じではないでしょうか。わたしたちを間違いなく真理へと導いて下さり、わたしたちを本当の意味で生かし用いてくださる主におゆだねいたしましょう。

祈ります。

神様、わたしたちの救い、回心は、すべてあなたのご計画の中にあります。主が示してくださることにおゆだねして、歩んで行くことが出来ますよう、すべてを導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。