2026年04月04日「あの方は復活なさった」

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聖書の言葉

マタイによる福音書 28章1節~16節

メッセージ

026年4月5日(日)熊本伝道所朝拝説教

マルコによる福音書28章1~15節「あの方は復活なさった」

1、

 イースターの礼拝にようこそおいでくださいました。おいでになられましたお一人おひとりの上に復活の主、イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように、主の御名によって祈ります。アーメン。

 全世界のキリストの教会、また代々のキリスト教会にとりまして最大の祝日、記念日でありますイースターの礼拝を捧げています。このことを覚えて今年もまたわたくしは白い特別のネクタイをしています。午後からは、花岡山の教会墓地へゆき墓前礼拝を捧げます。

イースターは、主イエス様が十字架の上で死なれたあと三日後におよみがえりになられたことを記念する日です。そしてまた、このことを通して、およそ誰もが避けることが出来ない死というものが、打ち破られたということを改めて覚える日です。

聖書によりますと、人が死ぬのは決して単なる自然現象ではないのであります。死は神様に対して人が犯した罪の結果なのです。パウロと言う初代教会の指導者は「罪の報酬は死である」と言っています。罪を犯し続けるわたしたちは、神の裁きとしての死、あるいは滅びへと向かって行かざるをえない。従って死を味わわないわけにはゆかないのです。しかし、イースターの朝、その死が打ち破られました。神さまとわたしたちとを隔てていた罪の問題が主イエス・キリストの十字架の死、その贖いの恵みによって解決されましたので、死は無力化されました。そしてこのことの証し、命の証しとして主イエス様は復活されたのです。ここにイースターの最大の意義があります。

 先ほどわたくしは、「死がイエス・キリストによって打ち破られた」と言いましたけれども、実際の聖書の言葉に即して正確に言いますと、「天の父なる神によって打ち破られた」、「神の恵みによって無効になった」と言うべきです。どうしてかといますと、聖書においては、主イエス様がよみがえられた、復活したと言う言葉は常に一貫して受け身のかたちで使われているからです。ちょっと活舌の悪い時には言いにくいのですけれども、直訳すると「甦らされた、起き上がらせられた」、そう訳すことになります。天の父なる神様が、主イエス様を復活させた、甦らせたのです。つまり事柄としては、主イエス様の十字架と復活によって、天の父なる神が、わたしたちの死を打ち破って下さった、死から解放してくださったと言うことであります。

わたしたち信仰者の死は、神の裁きでも刑罰でもなく、天上の御国への通過点、入り口となりました。ヨハネによる福音書11章25節に「わたしは復活であり命である」「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものは誰も決してしぬことはない」とある通りなのです。今朝は、改めてマタイによる福音書28章の御言葉を通して、主イエス様の復活の恵みを覚えたいと願います。

2.

 28章1節をお読みします。「さて安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」。聖書は、主イエス様の復活の物語を第三者の視点から描いています。

 ここでまずはっきりと書かれていることは、復活は日曜日の朝、明け方の時刻までに起こったということです。最初の目撃者はマグダラのマリアともう一人のマリアとされています。このマリアはマルコによる福音書とヨハネによる福音書によれば、12弟子の一人であるアルファイの子ヤコブとヨセフの母であるマリアです。更に、他にも何人かの女性の弟子たちがいたことがマタイ以外の福音書に記されています。

 「安息日が終わって」とあります。当時のユダヤではモーセ律法によって週の終わりの日、つまり土曜日が安息日で、この日は一切の労働が禁じられていました。安息日は前日の金曜日の日没から始まって、土曜日の一日を経てその日の日没まで続きます。女性たちは、さすがに夜中は行動できなかったので夜明けを待ち、明け方早くに墓に向かいました。マタイは、彼女たちが墓に向かった目的を記していませんが、他の福音書によれば主イエス様の遺体に香油を塗ってその葬りを完成させるためでした。

 わたしたちが親しい人の死に遭遇した時、葬儀を致します。葬儀は、葬りの儀式です。葬儀においては死んだ人を介して関係者が共に集まることに大きな意義があると思います。悲しみを共有し、慰め合い、そして死んだ人の生涯を一緒に思い起こします。現代の日本では香油を塗ると言うことは致しませんが、写真を掲げ、会場と遺体とを花で飾り、そこに参列し挨拶を交わすのです。多くの場合、人々は無口です。けれども、故人を偲ぶと言う一つの思いを共有しています。そして、火葬という行為を含めて、なきがらを葬ります。しかし人はそれ以上のことをすることが出来ません。これは人間が死に向かってできることの限界を示していると思います。しかし、神様は主イエス様に対してそれ以上のこと、わたしたちの思いや願いを遥かに超えることをして下さったのです。

 復活の最初の目撃者、証人として立てられたのは皆女性たちです。男性の弟子たちは迫害を恐れて姿をくらましていたのです。古代の社会でめったに表舞台に立つことがなかった女性たちが主イエス様の復活という歴史的出来事の証人となりました。

 女性たちが来たとき、墓の入り口は大きな石でふさがれていました。さらに主イエス様に死刑判決を下したユダヤ人たちの指図によって、遺体が盗まれないよう番兵が墓を見張っていました。弟子たちが、主イエス様の遺体を盗み出して復活を偽装することがないためだと、今朝の御言葉の直前に記されています。おそらく、この朝は女性たちが墓に入り香油を塗ることさえ到底許されない状況でした。しかし、思いがけないことが起こりました。入り口の石は地震で転がされ、光り輝く栄光を身に帯びた主の天使が現れ、番兵たちは何も為すことが出来なかったのです。女性たちは天使に促されて墓に入りました。そして、主イエス様の遺体が置かれたところを見ることが出来ました。天使が告げた通り、そこには空でした。主イエス様のなきがらは影も形もなかったのです。

 天使は、まず「恐れることはない」と言って女性たちを落ち着かせます。そして、こう告げています。「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」。「復活なさったのだ」。聖書のもとの言葉は、先ほど触れましたように、ここでも受身形です。つまりこういうことです。「あの方は神によって甦らされた」。すべては神の恵みに満ちた御計画によるものでありました。

 天使は、女性たちに男の弟子たちに二つの伝言を託します。第一に、「主イエス様が復活されたこと」を伝えよ。二つ目は「あなた方より先に、つまり男の弟子たちよりも主イエス様は先にガリラヤへゆく、そこで会うことが出来る」ということでした。

 ヨハネによる福音書やルカによる福音書は、主イエス様はここエルサレムにおいても男の弟子たちの前に姿を現わされます。しかし、マタイはそれを一切省いています。すべての福音書に共通していることは、たとえ主イエス様のお姿を間のあたりにしても弟子たちはまだ半信半疑だったことです。そして、弟子たちは最終的に失意の中でガリラヤへ帰って行きます。主イエス様は、この時すでに弟子たちのガリラヤ行きを知っておられたし、むしろ、そのことに積極的な意義を見出して、彼らのガリラヤ行きを促しておられます。彼らが最初に召しだされた場所から、もう一度始めると言うことです。

 女性たちの心の有様が8節に書かれています。「婦人たちは恐れながらも大いに喜び」。天使が現れる、そして遺体がない、さらに復活という思いがけない出来事に触れた彼女たちはまず恐れたのです。しかし同時に喜んだのです。本当だろうか、確かに番兵や大きな石があったのに遺体がない、もしよみがえって生きておれるなら、どんなにうれしいかと思いました。その直後です。墓を出て、伝言を伝えるために弟子たちのもとに走ろうとした彼女たちに復活の主イエス様が姿を見せてくださいました。主イエス様は彼女たちの行く手に立っておられました。そしてこう言われたのです。「おはよう」。

 この言葉を記しているのはマタイによる福音書だけですが、わたくしは、この「おはよう」と言う言葉に、あまりにも軽すぎるという思いを禁じることが出来ません。けれども、日本語ではそう訳すほかはないのです。ルカによる福音書24章やヨハネによる福音書20章で、その日の夕方に男の弟子たちに現われてくださった弟子たちへの主イエス様の最初の言葉はこうです、「あなたがたに平和があるように」

しかし、マタイによる福音書の復活の主イエス様の最初のことばはそれとは違った言葉です。しかし、どちらも挨拶のことばなのです。「おはよう」と訳されている元のギリシャ語の言葉は、カイロウ、喜ぶと言う言葉の命令形です。カイレテ。「喜べ」と訳すことも可能ですが、実はこれは当時の「こんにちわ」とか「おはよう」という挨拶の言葉でもあります。ギリシャ語の世界では今でも、カイレテといって挨拶を交わしていると言います。一方「平和があるように」、これは「エイレーネ ヒューミン」ですが、おそらくヘブライ語、アラム語のシャローム、つまり平安、祝福を告げる挨拶のことば、そのシャロームであったと思います。

 今朝の個所の主イエス様の挨拶の言葉は、かつての文語訳では「やすかれ」口語訳では「平安があるように」と訳していましたが、その後の新共同訳、新改訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳、すべてが、このカイレテを「おはよう」と訳しています。主イエス様は女性の弟子たちに最初に姿を現わして下さり、もっとも優しい、また親しい仕方で挨拶して下さったのです。

 もうここに至って女性たちは冷静でいることは出来ません。思わずひれ伏し、そして主イエス様の足を抱き、しがみついたのです。ヨハネによる福音書20章では、主イエス様は、「わたしにすがりつくのはやめなさい。まだ父のもとにのぼっていないのだから」とマリヤをたしなめておられますが、マタイはそのことには触れません。そして天使を介して告げた言葉を繰り返します。「恐れることはない。行って兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」

 ここでは、もっと明確に「ガリラヤに行くように言いなさい」と、弟子たちのガリラヤ帰還を促しておられます。

 説教の最初に、主イエス様の復活、とりわけ大切なことは十字架にお架かりになり死んでくださった神の御子の復活、それは天の父なる神の一つのご計画、二つで一つの恵みの出来事であるとをお話しいたしました。それは、わたしたちに罪の赦しと新しく生まれ出る永遠の命、新生の恵みをもたらす一つの出来事です。

 それと同時に、主イエス様の復活には、今に至るまでの教会の歴史、また歴史の中に生きた一人一人の信仰者の歩みにとって大切な意味があります。それは主イエス様が死んだままではおられなかった、復活され、今も生きておられると言うことです。今朝の御言葉の後の、16節以下の主イエス様と弟子たちのガリラヤでの出会いの御言葉の最後にこう記されています。「わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる」

 イースターの日に主イエス様がおよみがえりになられたからこそ、主イエス様は、地上のわたしたちの肉の目で葉見ることが出来ませんけれども、確かに、天におられ、霊において、今もここにおいて下さる、わたしたちと共にいて下さるのです。嵐を静め、病を癒し、5千人を養ってくださるお方が、わたしたちを守り支えてくださること、これほど恵みに満ちたことはありません。イースターおめでとうございます。祈ります。

天の父の右におられる復活の主イエス・キリスト、また父なる神、三つにして一人にいます生けるまことの神、尊い御名を讃美致します。わたしたちは、今も後のイースターの恵みの中に置かれていることを覚えて感謝いたします、あなたにおいて始まった新しい天と新しい地。完成された神の御国の前味を味わうことが出来、ありがとうございます。この週も、この年も、まtアいつまでも、世の終わりまで、どうかわたしたちを守り支えて下さい、あなたの光の中を歩むことが出来ますよう導いて下さい。とりわけ、世界に平和をもたらしてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。