2026年03月15日「神のものとされた教会」

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聖書の言葉

使徒言行録 20章25節~38節

メッセージ

2026年3月15日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録20章25節~38節「神のものとされた教会」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 受難節第四主日を迎えています。今朝は、先週に続いて使徒言行録20章の使徒パウロのミレトスでの決別説教の第二回目です。パウロの説教の後半部分、20章の25節から38節、20章の最後のところまで読み進めてまいります。

 このミレトスの説教は、三つの点で特別であると、前回お話ししました。第一に、これはパウロの遺言のような説教、別れの説教であるということです。このような説教はほかにはないのです。第二に、説教の聴き手がエフェソの町とその周辺の「家の教会」の指導者である、つまりすでに主イエス様を信じ受け入れ、イエス様のために熱心に奉仕している教会のメンバーであり指導者であるということです。特別に貴重な説教です。そして第三に、パウロと言う人の信仰、生身の人間としてのパウロの言葉が強く語られているという点が、ほかの多くの説教と違っているのであります。

 実は、この使徒言行録20章は、牧師が他の教会に移って行くときの「お別れ説教」としてよく語られみ言葉であります。いわばその教会で語る最後の説教の定番のみ言葉だと言われています。わたくし自身もそのような特別の礼拝で語ったことがあります。けれども、このみ言葉を読めば読むほど、そんな生易しいものではないと強く思わされるのです。パウロは、自分がエルサレムに行けば必ず殺される、あるいは投獄されると予測していました。ちょうど説教の真ん中のところで、パウロはこう語っています。「あなた方は、もう二度とわたしの顔を見ることがないと分かっている」。「あなた方は、もう二度とわたしの顔を見ることがないと分かっている」。この言葉を聞いてエフェソの幾つもの家男教会の長老たちは驚き、涙を流して悲しんだのです。

 説教が終わりますと、パウロはひざまずいて祈りました。その祈りが終わるや否や、人々はパウロのところに殺到して、皆、激しく泣いたと36節に記されています。ある者は、パウロに別れの口づけをし、あるものは感極まってパウロの首を抱いて離さなかったのです。

パウロは三年間にわたって、エフェソの教会、つまり幾つもお家の教会を巡回しながら神の国の恵みを宣べ伝えました。涙を流すようなつらい迫害や悲しみに耐えながら、三年間、共に働いた、このわたしの顔をあなた方はもはや見ることはできない、こう断言したのでした。それはパウロにとっても、長老たちにとっても悲しいことでした。パウロとエフェソの教会リーダーたちとの絆の強さがよくわかります。もちろん、原始教会、初代教会の伝道と言う特別な時代だったのですが、しかし、イエス・キリストにある教会の交わりは、この世のどのような交わりとも違う霊的な交わりなのです。

 幾人もの学者たちは、このパウロの特別な説教は、当時の「遺言の言葉」の構造を持っていると指摘しています。

 最初に自分の人生の振り返りがあります。パウロは、これまでの人生に悔いはないとまず語りだしました。主イエス様のために競技場で走る陸上選手のようにレーストラックを走りぬいてきたのです。そして、ここエフェソにおいても、神様のご計画、その恵みの御業を余すところなく伝えたので、もう自分にはこれ以上の責任はないのだとまで言います。26節27節をお読みします。

「だから今日、特にはっきり言います。誰の血についても私には、責任がありません。わたしは神のご計画すべてをひるむことなくあなた方に伝えたからです」

 フランシスコ会訳聖書は、「誰の血についても」と言うところを「誰の滅びについても」と訳しています。神様の言葉、救いのご計画はすべての人に告げ知らせられなければなりません。昔、旧約預言者のエゼキエルは、神様から神の民イスラエルに向かって神様の救いの言葉と裁きの警告を語れと命じられました。エゼキエル書33章です。それは神の民のための見張りの務めだと言われました。

そして神様は、もし、このわたしが告げる警告をあなたが語らないなら、あなたは人々の血の責任を取らねばならないと言われました。そうではなく、必ず語らなければならない。見張りが鳴らすべき角笛をしっかり吹き、民への警告をきちんと語るなら、その血の責任はあなた自身には降りかかることはなく、聞いた人自身が取ることになると告げられました。預言者エゼキエルは、人々に悔い改めて神に立ち返るようにと語りました。

 わたしたち現代の教会もまた、イエス・キリストの福音を世に伝える責任を負っています。それは教会にゆだねられている預言者の務めです。福音の言葉は、同時に、裁きの言葉ともなります。「主イエス様を信じれば救われます」。それは同時に、「信じないなら、自分の罪のゆえに必ず滅びるのです」ということの裏返しでもあります。教会の伝道とは、その責任を果たす務めです。 パウロは、自分は、レースを走りとおした、つまり、与えられたその務めを果たし切ったと振り返ります。

次に、遺言の言葉の特徴として、パウロは自分の後継者の指名をしています。パウロが世を去ろうとしているとき、エフェソの諸教会、その群れの責任は誰にゆだねられるのでしょうか。長老たちの中から、だれかがパウロの後継者として指名されるということなのでしょうか。そうではありませんでした。パウロは言いました。32節をお読みします。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなた方をゆだねます」

神ご自身が、群れを守ってくださる。さらに言うなら、神の恵みの言葉、つまりイエス・キリストの福音の言葉が教会を守るというのです。それこそが、パウロが三年間にわたって心を尽くして教えてきた大切なもの、「神の恵みの言葉」なのです。

 パウロは、主イエス様から直接召されたキリストの使者、使徒として教えると同時に、長老たちを群れのリーダー、監督者として立て、そして彼らを育ててきました。教会は、神ご自身と、その神の恵みの言葉によって導かれます。しかし、その上で、群れに立てられた長老たちが仕え人として働くことになります。まさしく遺言を語るようにパウロはエフェソの長老たちに語ったのです。

 パウロや、他の使徒たちは、原始教会を立ちあげ、福音宣教の礎を据えました。彼らは、現代にまで続くキリスト教会全体の創立者、ファウンダーです。彼らが次々とこの世を去って行った後、残されたものは聖書のみ言葉です。聖書に書きしるされている「神の恵みの言葉」、これこそが、教会を世の終わりまで正しく誤りなく導きます。使徒たちが世を去ったあと、教会は、神の恵みの言葉にゆだねられたのです。

 教会は常に聖書のみ言葉に立ち帰らなければなりません。なぜなら、人間は基本的に罪人であり、主イエス様によって救われたのちも、これは変わらないからです。罪の残りは、この世に生きる限り完全に消えることはないのです。常に神のみ言葉に立ち帰り、悔い改めてまた新しく歩き始めます。

 神の言葉には霊的な力があり、聖霊がそれをもたらします。29節で、パウロはこう言っています。「わたしが去ったあと、残忍な狼どもがあなたがたのところに入り込んで来て群れを荒らすことがわたしにはわかっています」

 この狼と言うのは、もちろん実際の動物の狼ではなく、目に見えるイメージとして語られているものです。主イエス様と教会は、羊飼いと羊の群れに例えられています。旧約聖書の神の民イスラエルにとって、生きて働かれる神は、牧者、羊飼いでした。現実の羊たちの大敵はオオカミです。羊を襲って食べてしまうからです。群れが荒らされる時、羊飼いは羊を守るために杖と鞭とでオオカミと戦います。教会のリーダーたちは、いつも目を覚ましていなければなりません。イエス・キリストは羊のために命を捨てる良い羊飼いです。教会のリーダーたちは主イエス様に導かれて働きます。

 日本キリスト改革派教会は、教会史的に言えば、教会改革者のジャン・カルヴァンに発する教会です。カルヴァンは、中世のカトリック教会の誤りに対して、聖書的で純正な教理と生活を求めて働きました。ウエストミンスター信仰基準を作成した英国のピューリタンたちは、昔ながらの儀式や迷信から抜け出せず、人間の修行に価値を置くような、当時のカトリックに立ち戻ろうとする国王や貴族と戦いました。そして、徹底的な教会改革を推し進めました。

パウロの時代には、ユダヤ教的な律法主義者たちが、群れを荒らすオオカミでした。

 テモテへの手紙1,2は、エフェソに遣わされたパウロの弟子テモテに向かって、異なる教えに対する警告を繰り返し書き綴っています。ユダヤ教の律法をイエス・キリストの恵みに置き換えてしまう誤りがある、作り話や系図に夢中になってしまう誤りがある、それと戦うようにとテモテに勧めています。あるいは、結婚を禁じたりある種の食べ物を禁止したりする偽りの預言者が来て、まことの信仰から人々を脱落させようとすると警告しています。

 教会を迷わせる誤りは、教会の外からだけでなく、教会の中からも現れてきます。パウロは、30節でこう警告します。

「また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」

テモテへの手紙1と2には、エフェソの教会でパウロに敵対するようになった人として、ヒメナイとアレクサンドロ、そしてフィレトという人の名が記されています。

 これはコロナ以降、特に激しくなってきたと思いますが、インターネットによる聖書メッセージや礼拝動画が数多く配信されています。インターネットの世界には、多くは、正統的な教会を背景とするものであり、現代という時代に合わせて真剣に福音を伝えたいと言う動機でなされています。しかし、中には、人々の注目を集める自体を狙ったり、場合によっては再生回数を稼いで収益に結び付けることを目的にしたものもあります。異端的、あるいはそれに近いものもあります。本当によくできているもの、華やかな讃美や興味深い語り口で人々を引きつける力があるものもあります。すべてが良いものではないと考えて注意する必要があります。目を覚まし、常に聖書本来の教え、正統的な教理と照らしてみる必要があります。

 聖書的に記されている説教は、語る人がその存在や人格をかけて語る言葉であり、これ手紙の場合も同じです。しかし、ネットの動画が本当にそれに代わる力を持っているかどうか、疑わしい思いがします。

 いずれにしても、聖書に記されている真実の神の言葉、また、それを告げる言葉は、私たち一人一人を造り上げる力を持っています。また、世の終わりのときに与えられる恵みをすべて受け継ぐようにしてくださる力も持っています。だからこそパウロは言います。32節です。

「神とその恵みの言葉とにあなた方をゆだねます。この言葉は、あなた方を造り上げ、聖なるものとされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです」

 「造り上げる」と訳されている言葉は、家を建てるという言葉です。エフェソの信徒への手紙2章22節のみ言葉をお読みします。

「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」

「共に建てられ」ということが大切だと思います。個人的に信仰が成長すると同時に、私たち一人一人が神様の教会の中にしっかりと組み込まれて、教会と言う神様の家を造り上げるのです。これは私たちが生きて人生を歩んでいる地上の生活において、神様の御言葉によって成長する、成長させられることです。 一方、恵みを受け継ぐときは、今の時ではなく、世の終わり、地上世界が天上の世界へと移行してゆくときのことをあらわしています。世の終わりの救いの完成の希望を抱きながら、今の時を生きてゆくのです。

 「神のものとされた教会」という今朝の説教題は28節から取りました。パウロは、エフェソの教会の指導者、リーダーたちにこう語っています。「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」、その教会を建て上げ、支え、守るために聖霊があなたがたを選んだと言うのです。教会は牧師や監督の者でもなく、また信徒たちのものでもないのです。神に属し、神が所有しているのですから、わたしたちの使命は神様が託して下さっている教会を大切にしなければならないと思います。

4、

 さてパウロは、説教の最後に主イエス様の御言葉を引用しました。35節の後半をお読みします。「主イエスご自身が、受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出しなさい。

この主イエス様の御言葉は、主イエス様のご生涯と教えとを伝える四つの福音書のどれにも出てこない貴重な言葉です。おそらく、弟子たちに伝えられてきた言葉をパウロもまた教えられたのでしょう。「思い出しなさい」と言っているのですから、エフェソの長老たちもまた他の使徒から教えられていたのでしょう。この主イエスの言葉を思い出して、弱い者を助けるようにいつも心がける。パウロ自身もそうしてきたし、あなた方はそれを見て来たのだから、あなたがたもそうしなさいと言うのです。

 教会が神の言葉に堅く立つとき、そこには主イエス様の愛が必ずあふれ出します。教理と生活の両方が神の言葉によって導かれて行くのです。

 エフェソの長老たちを任命したのは,パウロであったかも知れませんけれども、パウロは、聖霊があなた方を任命したと断言します。そして、教会は父なる神ご自身が、独り子である主イエス様の血潮によって買い取った、買い取ってくだったものであり、パウロ自身のその神の器として用いられるに過ぎないとも語ります。父なる神と御子イエス・キリストと聖霊の神、三位一体の神が教会を愛し、支えて下さいます。

 コロナウイルスの災いを通った教会ですが、その影響は今も消えていないと思います。更に、いっそう危機を深める世界の情勢があります。どうすれば平和がもたらされるのでしょか。そういう意味で世界中の教会が試練の中にあります。けれども、教会は決してなくなることも、滅びることもありません。なぜなら教会は神の愛の中に支えられています。

祈りを致します。

 主イエス・キリストの父なる神さま、世界は危機の中にあります。いくつもの戦争が同時に起こり、人々の命が失われています。この戦争の背後に、何らかの宗教的な思惑があるとも言われています。そういう意味でも教会は試練の中にあります。神の教会を守っていてください。また兄弟姉妹方の信仰生活をしっかりと支えて下さい。主エス様の御名によって