2026年02月01日「誰もが神の言葉を」

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聖書の言葉

使徒言行録 19章1節~10節

メッセージ

2026年2月1日(日)熊本教会 朝拝説教

使徒言行録19章1節~10節「誰もが神の言葉を」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 先ほどお聞きしましたみ言葉の5節と6節の二つの節に心が留まりました。5節は、エフェソにいた弟子たちの中の12人ほどのグループが、既に洗礼を受けていたのにも関わらず、もう一度洗礼を受けたという出来事を語ります。そして6節は、その人たちが主イエスの名による洗礼を受けたと同時に聖霊を受けたという御言葉です。

聖霊を受けるとはどういうことでしょうか。そもそも聖霊なる神様は、人間の目には目えないお方、見えない霊であるお方です。また主イエス様がニコデモと言う隠れ弟子に言われましたように、聖霊の神の働きは風に例えることが出来る。風そのものは見えないけれども風が吹いたその結果だけが見えるとされます。ああ、聖霊が今働いたとか働いていないとかを判断することはできません。けれども、初代教会の時代には、神様はまさに目に見える仕方で、今聖霊が与えられたということを人の目に見えるようにしてくださったことが今朝のみ言葉からわかります。それが6節にあることです。異言を話したり預言をしたりした。そのようになることによって、今確かに聖霊が降ったことが、特別な仕方で人の目に見えるようにしてくださったということでしょう。

今の時代には、そのような見える仕方での聖霊の働きは、普通の場合にはなくなりました。今の時代には、すでに聖霊なる神様が、12使徒やパウロたちを含む、使徒たちを用いて神の言葉である聖書を完成させて下さったこと深いつながりがあります。

カトリック教会では使徒の権能の継承ということを主張します。カトリック以外にも使徒権の継承を歌う教会もあります。12使徒たちに与えられた特別な権能、奇跡を行ったり、神の啓示を受けて新しい教義や教えを語ったりすることが出来る、そういう力が引き続いてローマ皇教と司教団。あるいは特別の人に今も受け継がれていると言うのです。しかしプロテスタント教会では、特定の人間が神の権能を行うことを否定します。聖霊のお働きは特別の人に限定されない。しかも聖書の御言葉によって神の御子イエスのお働きは余すところなく示されているので、もはや新しい啓示は必要がなくなりました。信仰を起こすのは見える奇跡や不思議な出来事ではなく、聖書のみ言葉と見えない聖霊の神のお働きです。主イエス様を救い主と信じるとき、間違いなく聖霊がお働きになっている、洗礼を受けると同時に聖霊の恵みも受けている、わたしたちはそのことを信じています。

 さて、使徒言行録を続けて読み進めています。今朝はその19章に入りました。19章から20章は、初代教会の伝道者であり、また主イエス様の12弟子、12使徒とならんで使徒と呼ばれていますパウロのエフェソ伝道の記録です。19章全体、そして20章31節を読みますと、このエフェソの町で、パウロは三年間も伝道しています。けれども19章は、その割には、とてもコンパクトな、ギュッと圧縮したような記録になっています。この前にある18章も、同じくパウロのコリント伝道の、同じような簡潔な記録だったのですが、パウロのコリント伝道の様子は、コリントの信徒への手紙1,2によって、詳しく知ることが出来ました。ところが、パウロが記したとされていますエフェソの信徒への手紙にはパウロのエフェソ伝道の様子があまり書かれていないのです。こういう事情がありますので、この19章はパウロのエフェソ伝道について知る貴重な記録ということが出来ます。

 パウロは、第二次伝道旅行の初めに、アジア州での伝道を聖霊によって禁じられました。そしてマケドニア人の幻を見て、直ちにマケドニアに渡りました。そして、その伝道旅行の終わりに、かつて行くことができなかったエフェソに立ち寄って少しの期間伝道したと18章の終わりに書かれています。エフェソの人々から、もっと長く滞在してみ言葉を聞かせてほしいと頼まれましたが、彼は、「神の御心ならまた戻ってきます」と言って、エルサレム経由で母教会のアンティオキア教会に帰ったのであります。そして、この第三次伝道旅行において念願のエフェソで本格的に伝道することが出来ました。

 そもそもエフェソの町は、アジア州一の大都市です。またローマ帝国の総督が居を構えるアジア州の都であり、大きな港を有する商業の町です。5万人収容の大劇場や、巨大図書館もあったと言われています。また、この後に出てきますが、アルテミス神殿と言う豊穣の女神アルテミスを祭る大きな施設がある街でもありました。

わたしたちが今トルコ観光のための旅行会社のホームページをみますと、アルテミス神殿の遺跡の写真を見ることが出来ます。高さ4メートルの柱一本だけが復元されています。もとの神殿は、高さ19メートルに及ぶ巨大な柱が117本あり、それによって大きな屋根がささえられていました。神殿の中には、沢山の乳房を持つ豊穣の女神アルテミスの像があったと言われます。日本のお伊勢参りのように観光的な要素もあったと思います。参拝する人々は、アジア州だけでなく地中海世界各地からやってきました。19章の後半には、このアルテミス神殿の模型を作って売る銀細工職人の団体がパウロに反対するという事件も起きています。

 エフェソは、このような偶像の威力が力を発揮している町でありました。また同時に、魔術を使う魔術師の集団や、異教の祈祷師たちが人々を魅了しているような、福音の視点から見ると、まさしく魑魅魍魎が跋扈する大都市でありました。今の日本にちょっと似ていると思ったりいたします。

パウロの故郷はキリキア州のタルソスです。アジア州とエルサレムの両方に近い町です。生まれ育ったパウロにとってはアジア州は自分の庭のような地域であったことでしょう。ですから、パウロは、アジア州の都エフェソで福音を伝えたいとずっと思っていたに違いないと思います。

さてアポロが、エフェソからコリントへと移っていたあと、パウロは第三次伝道旅行の起点、アンティオキアからエフェソにやってまいりました。その道筋は船ではなく、内陸を通って、つまり陸路で、かつて伝道した諸教会を途中で訪ねながら旅をしました。エフェソに来たときに出会いましたのが、自分たちも主イエス様の弟子であると自己紹介した12人の男たちです。7節には、「この人たちは、皆で12人ほどであった」とあります。「この人たち」と訳されているギリシャ語は、普通には「その男たち」と訳すほうが良い言葉です。日本語聖書はほとんど、「この人たち」と訳しますが、英語聖書では、12人の「男たち」と訳しているものが多いのです。幾人かの注解者や説教者は、彼らは全員独身である可能性が高く、ある種、禁欲的なグループではなかったかと言っています。

 パウロは、彼らと話しをし、また恐らくある期間、共に信仰生活をしていて、何かが違うと感じたようです。パウロは、彼らに問いかけました。「あなた方は、信仰に入った時、聖霊を受けましたか」

「聖霊を受けましたか」、パウロがこう尋ねると彼らは答えました。「いいえ聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」

パウロは重ねて尋ねます。「それならどんな洗礼を受けたのですか」

主イエス様は、弟子たちに「すべての民をわたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と命じて、天に上げられました。またヨハネによる福音書4章にありますけれども、主イエス様は、サマリアの女と呼ばれている一人の女性にこう宣言なさいました。「わたしが与える水をのむものは決して渇かない。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

この主イエス様が下さる水こそ、聖霊ご自身であり、聖霊の恵みであります。聖霊の名を聞いたことがないというのは、聖霊のもたらす恵みも喜びも知らないということです。パウロは、これはキリスト教会が授けている洗礼とは違うと判断しました。そして尋ねます。「それならどんな洗礼を受けたのですか」彼らは答えました。「ヨハネの洗礼です」

ここでヨハネと言いますのは、使徒ヨハネのことではなく、主イエス様に先立って遣わされた荒れ野の預言者、バプテスマのヨハネです。

18章には、雄弁家アポロのことが書かれていました。パウロから教えを受けていた信徒伝道者のプリスキラとアキラが、雄弁家アポロの説教を聞きながら、何か足りないところがあると感じてアポロにそれを指摘したという出来事です。洗礼については、アポロもまたヨハネの洗礼だけを知っていたと書かれています。けれども、アポロはこの12人の男たちのグループとは明らかに違って、主イエス様の道を正確に知っていた伝道者でした。そして、プリスキラとアキラからさらに正確にその道について学びました。ですから、このヨハネの洗礼だけを受け、聖霊のことを知らないというグループは、アポロがエフェソを去って、コリントに向かって行った後に、エフェソに来たのだと思います。もしもアポロがこの12人と接していたならば、パウロと同じような思いを抱いたと思います。またプリスキラとアキラも必ず彼らを正しく導いたと思います。

洗礼者ヨハネが授けた洗礼は悔い改めの洗礼と呼ばれます。そのヨハネの残党が細々と残っていて洗礼を授けていたのかもしれません。その洗礼は、主イエス様が救いの御業を成し遂げられる前になされていた洗礼です。ヨハネ自身も、わたしの後から来るお方、つまり主イエス様は、聖霊と火とで洗礼を授けるお方だと予言していました。洗礼者ヨハネは救い主イエス様について預言しましたけれど、彼が授けた洗礼は、父と子と聖霊の名による洗礼、つまり主イエス様が命じた洗礼ではまだなかったのです。

パウロは、彼らを説得し、主イエスの名による洗礼を授けました。パウロが授けたとは書かれていません。パウロに従う同労のものが授けたと思われています。その洗礼は、いわば見かけ上は再洗礼ですけれども、始めの洗礼は、ヨハネの洗礼でありますから、キリスト教会の洗礼を二回受けたわけではありません。

再洗礼派というキリスト教会の一つの流れがあります。幼児洗礼の効力を否定したり、最初の洗礼の時にははっきりしなかった信仰がはっきりしたのでもう一度洗礼を受けたいと願う人に洗礼を授けたりすることを許す教えです。この再洗礼派が、証拠聖句とするのが今朝の個所です。しかし、今朝の個所は主イエス様の名による洗礼、すなわちキリスト教会による洗礼を再び授けたのではないことを良く理解すべきです。どんなキリスト信者も洗礼は一生涯に一度しか受けることはできません。

洗礼の後、あるいは洗礼の最中にパウロが彼らの手を置きますと、聖霊が下りました。使徒言行録8章17節に主イエス様を信じ、主イエスの名による洗礼を受けたサマリアの人たちに、ペトロとヨハネが手を置きますと聖霊が降るという出来事が記されています。また、使徒ペトロが、イタリア人の百人隊長コルネリウスの家でみ言葉を語っている時に、聖霊が降って、異邦人が異言を語りだし神を賛美し始め、そののちにペトロがイエス・キリストの名によって洗礼を授けたことが使徒言行録10章44節以下に記されています。

使徒言行録11章16節以下には、このことはペンテコステの聖霊降臨の時に使徒たちが体験したことが、使徒たちの手によって再現され、分かち合われたのだと証ししています。今朝のみ言葉では、ペンテコステのときにはまだ信じておらず、ペンテコステを経験していないパウロであっても、神様がパウロに使徒の権威と力とを授けられたことの証しでもあります。

先礼を受けるためには、主イエス様を救い主として信じるという告白がなされなければなりません。その信仰は、実は人によるものではなく、わたしたちの心を導く聖霊の恵みによるものです。

コリントの信徒への手紙1,12章3節には、「聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」とは言えないのです」という有名なみ言葉があります。洗礼を受ける時にすでに聖霊が与えられているのです。しかし、同時に、正しい手続きを経て洗礼を受けるならば、父なる神と主イエス様から注がれる聖霊が、それ以後も途絶えることなく与えられるようになり、聖霊は、その人の内に住み続けて下さるようになるのです。

ローマの信徒への手紙8章14節から16節にはこう書かれています。「神の霊によって導かれるものは皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、わたしたちは「アッパ父よ」と呼ぶのです。

「アッパ父」と言うのは、幼い子供が父親を頼って呼ぶときの言葉です。神様を父、それもアッパ父と呼ぶことが出来る、言い換えると神様の子どもになる、神の子の特権と恵みを頂く身分は、聖霊によって受けるものです。

「主イエス様を信じて洗礼を受ける」ということは決して儀式的な形の上だけのことではありません。洗礼を受けるよう聖霊によって導かれ、洗礼をひとたび受ければ、神様は、わたしたちに、誰も代わることが出来ないわたしたちの親として特別な愛を注ぎ続けて下さる、その身分を聖霊によって受けるのです。なぜなら、洗礼を受けることは、わたしたちのために死んでよみがえられた主イエス様と結ばれ、一つとなることでもあるからです。洗礼によって、わたしたちは主イエス様の恵みを受け聖霊の確かな恵みの内に置かれ、新しい命に生きるようになりました。聖霊を受けることは、神様の愛、主イエス様の愛を受けることでもあります。この愛から、あらゆる良いものが現れてきます。これは本当に素晴らしい恵みです。すでに洗礼を受け、信仰を言い表した方は、今一度その恵みを思い返しように今招かれていると思います。

今朝のみ言葉の8節から10節は、エフェソの町のユダヤ教会堂、シナゴーグでの伝道が、ユダヤ人の抵抗によって出来なくなり、パウロは、ティラノの講堂に移って伝道し始めたことを記しています。

講堂と言う言葉は、学校と言う言葉です。ティラノ、あるいはツラノと呼ばれる町の指導者が建てた学校を、ある一定時間に限ってパウロが使うことを許されたものと思われます。注目したいのは8節のシナゴーグ伝道の期間が三か月であったこと、そして10節、ティラノの講堂での伝道は二年続いたということです。パウロのエフェソ伝道は、このように長く続けることが出来ましたので、それによって、アジア州全体が神の言葉を聞くことになりました。誰もが主の言葉を聞くことになったと最後の10節に記されています。み言葉ともに働いてくださる聖霊にお委ねしながら、主なる神、イエス・キリストの言葉を誰もが聴くことが出来るように鉈落子と、これgア教会の使命であると思います。祈ります。

主イエス・キリストの父なる神、今この教会と須藤人一人一人に聖霊の恵みを改めて覚えさせてください、一度与えられた聖霊は、その人の中で生きて働きます。語られ聞かれるみ言葉と共に。続けて聖霊の恵みは注がれ続けることを感謝します。御霊によって歩むことが出来ますように、主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。