聖書の言葉 ルカによる福音書 2章1節~21節 メッセージ 2025年12月21日(日)熊本伝道所朝拝説教 ルカによる福音書 2章1~21節「飼い葉おけの救い主」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が、豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは、イエス・キリストがお生まれになった日を記念する教会の祝日であります、しかし同時に、それは私たちにとって大きな恵みの日でもあります。先ほどご一緒にお聞きしましたルカによる福音書2章11節には、こう書かれております。「今日、ダビデの町であなたがたのための救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 天使は羊飼いに向かって「あなたがたのための救い主」と告げました。この「あなたがた」には、羊飼いだけではなく、地上に住むすべての人が含まれています。クリスマスは、私たちのための救い主がお生まれになった日であります。 クリスマスに実現された主イエス様の救いの中心は、一体何かといいますと、それは神様が人間の罪、人間が犯すすべて罪を主イエス様によって赦してくださるということです。さらに、私たち自身のことも含めまして、この罪から生まれていた悪しきものの一切をこのお方が解決してくださるということであります。それは、例えばスーパーマンのような超自然的な力によって解決してくださるということではないのです。そうではなくて、ただ神の御子の十字架という不思議な仕方で罪の問題を解決してくださるのであります。それによって、神と人間との和解、再結合がなされるのであります。それこそがクリスマスの恵みの中心です。 クリスマスは変わることなく世界中で祝われております。世の中には、自分は信者でもないので、いったい何がめでたいのかわからないという人もおられるかもしれません。ポリティカルコレクトと言うのでしょうか。最近ではキリスト教だけに通用するメリークリスマスではなく、ハッピーホリデイと呼ぶことも多くなってきました。多くの人々はあまり真剣に考えずに冬の季節の一大イベントとして、また食事や買い物の動機付けの一つとして、クリスマスを迎え、お祝いしています。わたくしは、キリスト教会の牧師として、そういった信仰の思いからは程遠いクリスマスのことを批判することは決して致しません。毎日の生活の中で心が緊張し、或いは不安に満たされる、そういう人生から逃れさせてくれる、何か心に温かいことを人々は求めているのです。飾り付けがなされ、クリスマスキャロルが流れる、わたくは、むしろ、そういった町の雰囲気を一緒に楽しんでおります。そのうえで、このクリスマスの季節に、もう一歩踏み込んだクリスマス、聖書がわたしたちに示しております、本当のクリスマスに心を向けて下さったらよいなあと思っているのです。 2、 さてお読みしました短い聖書の個所ですが、はじめに出てまいりますのは、皇帝アウグストゥスです。1節に皇帝アウグストゥスから勅令が出たとあります。ズグストゥスの本名は、聞いたことがおありになると思いますが、オクタビアヌスといいます。彼は、かの有名なユリウス・カイザーの妹の孫でした。ローマは共和制で、独裁を避けるために三頭政治という合議制の政治でした。しかしユリウス・カイザー一人が実質的に国を治めるようになりました。紀元前46年ごろと言われます。この人は戦さに強かったのです。このあたりのことは、世界史を勉強する人は必ず覚えさせられることですね。「賽は投げられた」「ルビコン川を渡る」とか「来た、見た、勝った」とか、・・ユリウス・カイザー、カイザルという人は逸話に事欠かないひとです。 ユリウス・カイザーは自らを皇帝と名乗ることはなかったそうですけれども、実質的に独裁者としてローマ帝国を治めました。この統治を受け継いだのがオクタビアヌス、つまりアウグストゥスです。カイザーの妹の孫であります。 アウグストゥスのローマ帝国の統治は、紀元前27年から紀元後14年、あわせて41年間です。ちょうどイエス・キリストの誕生を挟んでいます。このアウグストゥスという名は、尊厳なる者と言う意味です。ローマ元老院から送られた栄誉ある称号です。つまり今朝の聖書の個所には、当時最高の地位にあった人の名がまず初めに出てきているということになります。 もう一人の偉い人はシリア総督のキリニウスです。そしてユダの国も当時はローマの植民地であり、シリアの総督がこれを治めていました。この人は紀元6年から9年にかけてのシリア総督です。この人が、ローマ皇帝のもとでシリアとユダヤを治めていて、人口調査を命じたのです。そのためにヨセフとマリアは、出産が間近いというのに長旅に出なければなりませんでした。 私たちは一人一人、生まれも育ちも違います。熊本で生まれた人もいれば、よそから転勤や結婚によって引っ越して来た人もいます。そういう一人一人の人生は、決して自分一人で決められるものではないのだと思います。この後に出てきますヨセフとマリアと同じように、世界の情勢、歴史の中のいろいろな出来事と深く関係しています。戦争があったり、災害があったり、国が栄えたり衰退したり、その中で一人一人は人生を歩みます。あの時、こうしていたらということはありますが、うまくゆかないのです 3、 2節に「シリア総督キリニウスによる最初の人口調査」とあります。ローマ帝国の勅令を背景に、現地の総督の命令によって人口調査が始められました。人口調査は税金や労役、徴兵などの基礎資料をつくるために行われます。支配者たちにとっては、自分の持つ支配地域の有様を知るためのものであり、重要なものでした。人口調査には時の権力がむき出しになっているのだと思います。 マリアの婚約者であったヨセフは、ダビデの家に属するものと書かれています。ダビデ王は、もともとはベツレヘムの羊飼いエッサイの末の男の子でした。ダビデは、後にイスラエルの王に就きます。ベツレヘムはダビデの出身地、故郷ですからダビデの町と呼ばれています。ルツ記の舞台もこのベツレヘムです。ルツ記が旧約聖書におさめられているのは、主人公のルツの死んだ夫がベツレヘム出身であって、そしてその故郷に帰ってきたナオミがボアズと結婚し、その孫が、ダビデの父エッサイであったからです。 クリスマスには、つぎのようなフレーズが、よく語られます。「イエス・キリストは、王侯貴族の宮殿ではなく、ベツレヘムという名もない村にお生まれになった。」 けれども、ベツレヘムは決して名もない村ではなくて、旧約聖書に親しんでいるはずのユダヤ人ならば知らないはずのない町、「ダビデの町」でありました。旧約聖書のミカ書5章に、救い主、メシアはダビデの町であるこのベツレヘムから出ると預言されていました。由緒あるこの町で主イエス様が生まれたことは、旧約聖書の預言の実現なのです。 ローマ皇帝やシリア総督という旧約聖書とは無関係な偉い人の人口調査という企てが、聖書のみ言葉が歴史の中で実現していくための重要な働きをしています。貧しい若夫婦であったヨセフとマリアはその人口調査のお陰でベツレヘムに行きました。 ミカ書5章1節から4節をお読みします。聞いていただくだけで結構です。 1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 5:2 まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。 5:3 彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。 5:4 彼こそ、まさしく平和である。 ヨセフは、ナザレからは80キロ近くの道のりを旅してベツレヘムへ行きました。身ごもっている、いいなづけのマリアがこの80キロもの旅に同行することは、当時としては決して普通のことではありません。登録は、代表者であるヨセフ一人が行けばよいことでありました。しかし、マリアは、たとえ、両親や親戚が面倒を見てくれるとしても、一人ナザレに残ることが出来ませんでした。どうしてかと言いますと、人々から冷たい視線を浴びていたからです。正式な結婚の前に妊娠したからです。生まれてくる子が、実はヨセフとマリアの間の子ではなく、聖霊によって、神様の力で、救い主として生まれるもの、いと高き方の子、つまり神の子であるということは村の誰もが知らないことです。ヨセフとマリアだけが知っていました。ヨセフは、告発しなかったし、結婚も取りやめることはありませんでした。普通であれば、マリアは、姦淫罪で死刑です。マタイによる福音書では、ヨセフにも天使のお告げがもたらされていました。人口調査をきっかけに2人は、一緒に村を出て、ベツレヘムに旅立ちました。 そういうわけでヨセフとマリアとは旅先で臨月を迎えることは、ある程度予測していたと考えられます。ベツレヘムへの旅は一週間程度で終わるとしても、大混雑の中で登録に時間がかかることは予測できました。 4 6節をもう一度お読みします。 「6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、」 「ベツレヘムにいるうちに」と書かれています。ベツレヘムに到着し住民登録のためにたぶん一か月二か月と順番を待っているその中に彼らもいました。7節の「宿屋」と訳されている言葉も、もとの言葉では、きちんとした宿屋ではなくて仮住まいの小屋、今で言えば、ちょうど大災害のときの避難所や仮設住宅のような場所を指す言葉です。単純に「部屋」と訳している聖書もあります。おそらく、そういった急ごしらえの臨時宿泊所にもヨセフとマリアの居場所はなく、やむをえず、彼らは家畜小屋の一隅に滞在していたのだと思われます。そんな場所での生活は苦痛であったはずであり、悲しいことだったと思います。 さて、8節からは一転して舞台はベツレヘムから遠く離れた、羊飼いたちが野宿している寂しい所に変わります。オアシスからオアシスへ、草地から草地へと彼らは羊を連れて何日も旅をするのです。家畜小屋で暮らすヨセフとマリア以上に過酷な生活です。街中とは違い、何の明かりもない、夜は星や月の光でかろうじてあたりが見えるような砂漠のような場所であったと思います。その羊飼いたちの頭上に主の栄光が現れました。 旧日本キリスト教会の牧師で、高倉徳太郎の弟子であったある石島三郎という説教者は、9節の「主の栄光が周りを照らした」ということと、主の天使が開口一番「おそれるな」と語ったことに注目します。つまりこの主の栄光は、ここまで御言葉が綴って来た世界の暗さ、その闇を引き裂く稲妻のような光ではなかったかと言うのです。実は以前に四年間ほど兵庫県北部の田舎で牧会しました。夜は、本当に真っ暗です。時々、車で走っているその前に鹿が現れます。鹿は車のヘッドライトを浴びるや否や固まって動かなくなってしまいます。ですからよく事故が起きるのです。羊飼いたちも突然の光に体がかたまってしまったと思います。そして最初に聞こえたのは「恐れるな」という声でした。そここには地上の暗さ、闇と対立するような鮮やかなまぶしい光があります。わたしたちを恐れおののかせるよう光を伴って神は語られました。「恐れるな。」 主の天使は、ベツレヘムで救い主が生まれになったと告げ知らせました。「今日ダビデの町であなたがたのための救い主がお生まれになった」。告げられた大きな神の喜びは、生まれたばかりのベツレヘムの村里でお生まれになった主イエス様を指し示します。「今日ダビデの町であなたがたのための救い主がお生まれになった」 クリスマスの季節、街には数々のLEDライトで飾られたクリスマスツリーやオーナメントがたとえつかの間のことであったとしてもわたしたちの心を照らしていると思います。しかし、本当の意味でわたしたちの光であるお方がおいでになりました。ベツレヘムの家畜小屋、その一角の飼い葉おけに寝かされていた救い主は、やがて、わたしは世の光であると宣言なさるお方でありました。暗き世に光が遣わされたのです。 クリスマスにわたしたちが真に心を向けなければならないお方は、神の御子であるお方、わたしたちのすく主であるお方です。主イエス・キリストがお生まれになりました。クリスマス、おめでとうございます。 祈り 神様、あなたに深い配慮の中で、救い主である主イエス・キリストはお生まれになりました。あなたの永遠のご計画が一つ一つ間違いなく実現して行くことを覚えて感謝をいたします。すべての苦難、災いもまたあなたの御手の内にあります。闇を貫く光として主イエス様がおいでになったことを感謝します。あなたは世界と教会を助けてくださる方、恵みに満ちたその御心を実現されるお方であることを覚えさせてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2025年12月21日(日)熊本伝道所朝拝説教
ルカによる福音書 2章1~21節「飼い葉おけの救い主」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が、豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは、イエス・キリストがお生まれになった日を記念する教会の祝日であります、しかし同時に、それは私たちにとって大きな恵みの日でもあります。先ほどご一緒にお聞きしましたルカによる福音書2章11節には、こう書かれております。「今日、ダビデの町であなたがたのための救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
天使は羊飼いに向かって「あなたがたのための救い主」と告げました。この「あなたがた」には、羊飼いだけではなく、地上に住むすべての人が含まれています。クリスマスは、私たちのための救い主がお生まれになった日であります。
クリスマスに実現された主イエス様の救いの中心は、一体何かといいますと、それは神様が人間の罪、人間が犯すすべて罪を主イエス様によって赦してくださるということです。さらに、私たち自身のことも含めまして、この罪から生まれていた悪しきものの一切をこのお方が解決してくださるということであります。それは、例えばスーパーマンのような超自然的な力によって解決してくださるということではないのです。そうではなくて、ただ神の御子の十字架という不思議な仕方で罪の問題を解決してくださるのであります。それによって、神と人間との和解、再結合がなされるのであります。それこそがクリスマスの恵みの中心です。
クリスマスは変わることなく世界中で祝われております。世の中には、自分は信者でもないので、いったい何がめでたいのかわからないという人もおられるかもしれません。ポリティカルコレクトと言うのでしょうか。最近ではキリスト教だけに通用するメリークリスマスではなく、ハッピーホリデイと呼ぶことも多くなってきました。多くの人々はあまり真剣に考えずに冬の季節の一大イベントとして、また食事や買い物の動機付けの一つとして、クリスマスを迎え、お祝いしています。わたくしは、キリスト教会の牧師として、そういった信仰の思いからは程遠いクリスマスのことを批判することは決して致しません。毎日の生活の中で心が緊張し、或いは不安に満たされる、そういう人生から逃れさせてくれる、何か心に温かいことを人々は求めているのです。飾り付けがなされ、クリスマスキャロルが流れる、わたくは、むしろ、そういった町の雰囲気を一緒に楽しんでおります。そのうえで、このクリスマスの季節に、もう一歩踏み込んだクリスマス、聖書がわたしたちに示しております、本当のクリスマスに心を向けて下さったらよいなあと思っているのです。
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さてお読みしました短い聖書の個所ですが、はじめに出てまいりますのは、皇帝アウグストゥスです。1節に皇帝アウグストゥスから勅令が出たとあります。ズグストゥスの本名は、聞いたことがおありになると思いますが、オクタビアヌスといいます。彼は、かの有名なユリウス・カイザーの妹の孫でした。ローマは共和制で、独裁を避けるために三頭政治という合議制の政治でした。しかしユリウス・カイザー一人が実質的に国を治めるようになりました。紀元前46年ごろと言われます。この人は戦さに強かったのです。このあたりのことは、世界史を勉強する人は必ず覚えさせられることですね。「賽は投げられた」「ルビコン川を渡る」とか「来た、見た、勝った」とか、・・ユリウス・カイザー、カイザルという人は逸話に事欠かないひとです。
ユリウス・カイザーは自らを皇帝と名乗ることはなかったそうですけれども、実質的に独裁者としてローマ帝国を治めました。この統治を受け継いだのがオクタビアヌス、つまりアウグストゥスです。カイザーの妹の孫であります。
アウグストゥスのローマ帝国の統治は、紀元前27年から紀元後14年、あわせて41年間です。ちょうどイエス・キリストの誕生を挟んでいます。このアウグストゥスという名は、尊厳なる者と言う意味です。ローマ元老院から送られた栄誉ある称号です。つまり今朝の聖書の個所には、当時最高の地位にあった人の名がまず初めに出てきているということになります。
もう一人の偉い人はシリア総督のキリニウスです。そしてユダの国も当時はローマの植民地であり、シリアの総督がこれを治めていました。この人は紀元6年から9年にかけてのシリア総督です。この人が、ローマ皇帝のもとでシリアとユダヤを治めていて、人口調査を命じたのです。そのためにヨセフとマリアは、出産が間近いというのに長旅に出なければなりませんでした。
私たちは一人一人、生まれも育ちも違います。熊本で生まれた人もいれば、よそから転勤や結婚によって引っ越して来た人もいます。そういう一人一人の人生は、決して自分一人で決められるものではないのだと思います。この後に出てきますヨセフとマリアと同じように、世界の情勢、歴史の中のいろいろな出来事と深く関係しています。戦争があったり、災害があったり、国が栄えたり衰退したり、その中で一人一人は人生を歩みます。あの時、こうしていたらということはありますが、うまくゆかないのです
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2節に「シリア総督キリニウスによる最初の人口調査」とあります。ローマ帝国の勅令を背景に、現地の総督の命令によって人口調査が始められました。人口調査は税金や労役、徴兵などの基礎資料をつくるために行われます。支配者たちにとっては、自分の持つ支配地域の有様を知るためのものであり、重要なものでした。人口調査には時の権力がむき出しになっているのだと思います。
マリアの婚約者であったヨセフは、ダビデの家に属するものと書かれています。ダビデ王は、もともとはベツレヘムの羊飼いエッサイの末の男の子でした。ダビデは、後にイスラエルの王に就きます。ベツレヘムはダビデの出身地、故郷ですからダビデの町と呼ばれています。ルツ記の舞台もこのベツレヘムです。ルツ記が旧約聖書におさめられているのは、主人公のルツの死んだ夫がベツレヘム出身であって、そしてその故郷に帰ってきたナオミがボアズと結婚し、その孫が、ダビデの父エッサイであったからです。
クリスマスには、つぎのようなフレーズが、よく語られます。「イエス・キリストは、王侯貴族の宮殿ではなく、ベツレヘムという名もない村にお生まれになった。」
けれども、ベツレヘムは決して名もない村ではなくて、旧約聖書に親しんでいるはずのユダヤ人ならば知らないはずのない町、「ダビデの町」でありました。旧約聖書のミカ書5章に、救い主、メシアはダビデの町であるこのベツレヘムから出ると預言されていました。由緒あるこの町で主イエス様が生まれたことは、旧約聖書の預言の実現なのです。
ローマ皇帝やシリア総督という旧約聖書とは無関係な偉い人の人口調査という企てが、聖書のみ言葉が歴史の中で実現していくための重要な働きをしています。貧しい若夫婦であったヨセフとマリアはその人口調査のお陰でベツレヘムに行きました。
ミカ書5章1節から4節をお読みします。聞いていただくだけで結構です。
1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
5:2 まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。
5:3 彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。
5:4 彼こそ、まさしく平和である。
ヨセフは、ナザレからは80キロ近くの道のりを旅してベツレヘムへ行きました。身ごもっている、いいなづけのマリアがこの80キロもの旅に同行することは、当時としては決して普通のことではありません。登録は、代表者であるヨセフ一人が行けばよいことでありました。しかし、マリアは、たとえ、両親や親戚が面倒を見てくれるとしても、一人ナザレに残ることが出来ませんでした。どうしてかと言いますと、人々から冷たい視線を浴びていたからです。正式な結婚の前に妊娠したからです。生まれてくる子が、実はヨセフとマリアの間の子ではなく、聖霊によって、神様の力で、救い主として生まれるもの、いと高き方の子、つまり神の子であるということは村の誰もが知らないことです。ヨセフとマリアだけが知っていました。ヨセフは、告発しなかったし、結婚も取りやめることはありませんでした。普通であれば、マリアは、姦淫罪で死刑です。マタイによる福音書では、ヨセフにも天使のお告げがもたらされていました。人口調査をきっかけに2人は、一緒に村を出て、ベツレヘムに旅立ちました。
そういうわけでヨセフとマリアとは旅先で臨月を迎えることは、ある程度予測していたと考えられます。ベツレヘムへの旅は一週間程度で終わるとしても、大混雑の中で登録に時間がかかることは予測できました。
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6節をもう一度お読みします。
「6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、」
「ベツレヘムにいるうちに」と書かれています。ベツレヘムに到着し住民登録のためにたぶん一か月二か月と順番を待っているその中に彼らもいました。7節の「宿屋」と訳されている言葉も、もとの言葉では、きちんとした宿屋ではなくて仮住まいの小屋、今で言えば、ちょうど大災害のときの避難所や仮設住宅のような場所を指す言葉です。単純に「部屋」と訳している聖書もあります。おそらく、そういった急ごしらえの臨時宿泊所にもヨセフとマリアの居場所はなく、やむをえず、彼らは家畜小屋の一隅に滞在していたのだと思われます。そんな場所での生活は苦痛であったはずであり、悲しいことだったと思います。
さて、8節からは一転して舞台はベツレヘムから遠く離れた、羊飼いたちが野宿している寂しい所に変わります。オアシスからオアシスへ、草地から草地へと彼らは羊を連れて何日も旅をするのです。家畜小屋で暮らすヨセフとマリア以上に過酷な生活です。街中とは違い、何の明かりもない、夜は星や月の光でかろうじてあたりが見えるような砂漠のような場所であったと思います。その羊飼いたちの頭上に主の栄光が現れました。
旧日本キリスト教会の牧師で、高倉徳太郎の弟子であったある石島三郎という説教者は、9節の「主の栄光が周りを照らした」ということと、主の天使が開口一番「おそれるな」と語ったことに注目します。つまりこの主の栄光は、ここまで御言葉が綴って来た世界の暗さ、その闇を引き裂く稲妻のような光ではなかったかと言うのです。実は以前に四年間ほど兵庫県北部の田舎で牧会しました。夜は、本当に真っ暗です。時々、車で走っているその前に鹿が現れます。鹿は車のヘッドライトを浴びるや否や固まって動かなくなってしまいます。ですからよく事故が起きるのです。羊飼いたちも突然の光に体がかたまってしまったと思います。そして最初に聞こえたのは「恐れるな」という声でした。そここには地上の暗さ、闇と対立するような鮮やかなまぶしい光があります。わたしたちを恐れおののかせるよう光を伴って神は語られました。「恐れるな。」
主の天使は、ベツレヘムで救い主が生まれになったと告げ知らせました。「今日ダビデの町であなたがたのための救い主がお生まれになった」。告げられた大きな神の喜びは、生まれたばかりのベツレヘムの村里でお生まれになった主イエス様を指し示します。「今日ダビデの町であなたがたのための救い主がお生まれになった」
クリスマスの季節、街には数々のLEDライトで飾られたクリスマスツリーやオーナメントがたとえつかの間のことであったとしてもわたしたちの心を照らしていると思います。しかし、本当の意味でわたしたちの光であるお方がおいでになりました。ベツレヘムの家畜小屋、その一角の飼い葉おけに寝かされていた救い主は、やがて、わたしは世の光であると宣言なさるお方でありました。暗き世に光が遣わされたのです。
クリスマスにわたしたちが真に心を向けなければならないお方は、神の御子であるお方、わたしたちのすく主であるお方です。主イエス・キリストがお生まれになりました。クリスマス、おめでとうございます。
祈り
神様、あなたに深い配慮の中で、救い主である主イエス・キリストはお生まれになりました。あなたの永遠のご計画が一つ一つ間違いなく実現して行くことを覚えて感謝をいたします。すべての苦難、災いもまたあなたの御手の内にあります。闇を貫く光として主イエス様がおいでになったことを感謝します。あなたは世界と教会を助けてくださる方、恵みに満ちたその御心を実現されるお方であることを覚えさせてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。