聖書の言葉 使徒言行録 18章1節~11節 メッセージ 2025年12月14日(日)熊本伝道所朝拝説教 使徒言行録18章1節~11節「恐れるなかたり続けよ」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 使徒言行録18章の前半は、使徒パウロのコリント伝道、コリントの町での伝道について記しています。コリントは現在のギリシャの南部、アカイア州にある大都市です。今朝は11節までのみ言葉にご一緒に聴いてまいります。説教題は、9節のみ言葉から取りました。この9節とそれに続く10節の御言葉は、主イエス様が幻の中で使徒パウロに語られたものですけれども、これは全ての教会が世の終わりまで聞き続けるべき御言葉ではないかと思います、「恐れるな、語り続けよ、黙っているな、わたしがあなたと共にいる」、この言葉につづいて主イエス様はこう言われました。「この町には、わたしの民が大勢いるからだ」 どの町にも神様は、わたしたちの知らないところでご自身の民を用意して下さっている、だからこそ、伝道を止めてはいけない、御言葉を語り続けなさいと、わたしたちを励まして下さるのです。 さて先ほどお読みしましたみ言葉の最後のところですが、11節をもう一度お読みします。 「パウロは1年六か月の間、ここにとどまって人々に神の言葉を教えた。」 わたしたちは、使徒言行録の後半部の始まりである13章からずっと、使徒パウロの1回目、二回目の伝道旅行のみ言葉を読んできました。その中で、パウロが、一つの町に一年半もとどまって伝道したというのは、これまでになかったことです。実は、このコリント伝道は、パウロが伝道旅行のために費やした日数のなかで、次に出てまいりますエフェソ伝道に次いで長い期間が費やされています。 そもそも17章で伝道したアテネと言う町が、文化と芸術、そしてギリシャ哲学に代表される学問の都であるのに対して、当時のコリントは政治と経済の町でした。アテネとコリントは、関西の京都が学問や文化の町であるの対して、大阪が商業の町であるような関係です。実際には、コリントの繁栄ぶりといいますのはもっと目立っていて、コリントは言ってみれば東京と大阪を合わせたようなアカイア州きっての大都市でありました。ここには、ローマの地方総督が滞在していました。コリント自体が港町でしたが、周辺にもレカイオンとケンクレアイという有数の二つの大きな貿易港がありました。またいくつもの異教の神々を祭る神殿があり、多くの人が参拝しに来ていたということです。この世の富や幸いを求めて多くの人が行き交う町、これがコリントでした。パウロhアここに一年半とどまって伝道しました。 教会が、伝道の計画を立てる時に、伝道地としてどこを選ぶのか、それは大切なことです。普通に考えれば、まずその国の中でもっとも栄えている町、大都市に先ず入るのだと思います。もちろん、そのような人間的な思い、作戦とは別に、あえて田舎に入って行く宣教師もいます。戦後間もないころに阿蘇に来られて、現在の高森キリスト教会を開拓されたユーレエラ・スプア先生という女性宣教師のことも思い浮かぶのです。伝道は、神様からの召し、召命によりますから、それも一つの生き方です。けれども、まだ伝道がされていない土地に入る場合には、まずは、人口の多い大都市で伝道することが普通ではないかと思います。パウロは、マケドニアに入ってヨーロッパ伝道に踏み出した時から、アカイア州の大都市コリントのことを考えていたのではないでしょうか。 コリント伝道の終わりを告げている18節に、パウロは、一年半経過後、なおしばらくの間ここに滞在してから兄弟たちに別れを告げて船でシリア州に旅立ったとあります。ですからパウロは、おそらく1年7か月くらいは、コリントに滞在したと思われます。また、第三次伝道旅行の時にも三か月滞在していますから、コリントには、合わせて2年間くらい住んだことになります。 先ほども触れましたが、第三次伝道旅行のエフェソを別にして、パウロが、これほど長く一か所にとどまって伝道した町はコリント以外にありません。その結果、神様はこの開拓伝道を大いに祝福して下さいまして、コリント教会と言う大きなそしてエネルギーに満ちた教会がコリントに立つことになりました。 使徒言行録は、パウロのコリント伝道について、ほかの町と同じくらいの小さな分量でしか語っていません。けれども、わたしたちは、コリントの信徒への手紙、1,2と言う、パウロが、後になって、コリント教会に宛てに出した二通の手紙によって、コリント教会の様子を詳しく知ることが出来ます。それによると、コリント教会は、この後、実に問題だらけの教会になったようです。しかし一方でエネルギーに溢れる活動的な教会であったこともわかります。コリント教会は、大都市ならでは道徳的退廃や、いろいろな伝道者がこのあと次々と入ってくることによる分裂や混乱という問題を抱えながら、その悔い改めの実を結んでゆく神の教会として歩んで行くことになります。 2、 パウロは、この町でアキラとプリスキラというユダヤ人のクリスチャン夫婦に出会いました。プリスキラと言う名は、パウロの手紙にしばしば登場するプリスカのことで、愛称がプリスキラです。この夫婦は、最近イタリアからコリントに引っ越してきた人たちで、パウロと同じ職業であったと2節と3節に書かれています。彼らがイタリアを出てきた理由は、当時のローマ皇帝クラウディウスのユダヤ人追放令でした。ローマの古代の歴史書によりますと、クラウディス帝は紀元41年に即位していて、この追放令は、紀元49年ごろに出されたようです。ユダヤ人たちがローマの町でクレストゥスのことが原因で騒動を起こすので追放したということです。このクレストゥスの騒動は、クリストス、つまりイエス・キリストのことではないか、問題になった騒動は。キリスト教徒とユダヤ教徒の争いではなかったかと言われています。そうなりますと、すでにこの時には、ローマにも教会が生まれていて、アキラとプリスキラはその会員であったということになります。 パウロは、このアキラとプリスキラの助けを得ながら、コリントでの伝道を開始します。同じユダヤ人であり、キリスチャン同士、さらに同じ職業の仲間ということで、すぐに協力体制ができました。パウロは、平日は彼らと一緒に天幕造りの仕事をします。そして、安息日になると、これはいつものことですが、まずはユダヤ教のラビ、巡回伝道者としてこの町のユダヤ教の会堂、シナゴーグに入って伝道しました。「安息日ごとに」と言いますのは、ある一定期間すべての安息日と言う言葉です。会堂に入り、会堂で論じ、人々の説得に努めたと4節に記されています。「論じ」と訳されている言葉は、テサロニケでのシナゴーグ伝道でも使われていたものです。言葉の成り立ちは、共に語るという言葉です。一方通行ではなく、語り合って論じるのです。説得に努めたという言葉は、説得し続けたとも訳せる言葉で、新改訳聖書では、「説得しようとした」と訳されています。しようとしたけれども結果的には出来なかったのであります。 シナゴーグでのユダヤ人の反応は芳しくありませんでした。コリントのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人と同じようにパウロの伝えるイエス・キリストの福音に対して反抗的でありました。 さて、そんな中、同じ伝道者仲間のシラスとテモテがパウロの後を追ってコリントに到着しました。そうすると、パウロはみ言葉を語ることに専念したと5節に書かれています。このあたりの事情は、フィリピの信徒への手紙4章15節によって明らかになります。フィリピの信徒への手紙にはこう書かれています。 「わたしが福音の宣教のはじめにマケドニア州を出たとき、もののやり取りで私の働きに参加した教会はあなた方のほかには一つもありませんでした。」 パウロは、フィリピやテサロニケのあるマケドニアからアテネに入りました。そしてコリントに来ていますが、そのとき、フィリピ教会はパウロのために伝道資金を送ってくれたというのです。おそらく、パウロがアテネで二人を待っていた時、テモテとシラスは、べレアの町からフィリピに行ったん戻り、そして伝道資金を受け取り、アテネではなくコリントでパウロと合流したものと思われます。 コリントに来ると、パウロはアキラとプリスキラに出会い、そこで何のためらいもなく自給伝道を開始しました。テント造りをしながらの伝道でした。それ以来、自給伝道はテントメーカー伝道と呼ばれます。しかし、フィリピ教会からの資金を受け取ると、今度はすぐに福音宣教に専念します。生活のための経済的なことにおいては、パウロは本当に自由なのです。今日、牧師不足が言われ、一方では、教会が十分な生活資金を用意できないという問題もあります。パウロのコリントでの伝道のあり方は、その自由さという点で見習うべきものであると思います。しかしパウロ自身は、別のところで、伝道者は本来、福音によって生活することが原則であって、それは主イエス様の指示であると明確に語っています。コリントの信徒へ手紙1,9章13節14節の御言葉です。 「あなた方は知らないのですか。神殿で働く人は神殿から下がるものを食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前に与かります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには、福音によって生活の資を得るように指示されました。」。けれども、パウロは続けて、コリントやテサロニケなどほかのところでは、「わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。」とも書いています。コリントの教会に入り込んできた論敵の伝道者たちが、パウロは偽使徒であって本当はお金のため、生活のために人々をだましていると言ったので、パウロはあえて権利を行使しなかったのだとも書いています。 聖書は、テントメーカー伝道を決して禁止していません。そこには自由があります。けれども、そうかといって、それが本来の姿であるとも言っていません。献金と言う仕方で、信徒の一人一人が伝道者の生活を支えることは、教会の福音伝道に共に参加することだからです。 3、 テモテとシラスが資金を持ってきてくれたために、パウロは、天幕造りの仕事をせずに良くなりました。そこで、仕事を休む安息日だけでなく、平日も伝道に邁進することが出来るようになりました。前よりも一層熱心に、旧約聖書が待ち望んでいたメシヤ、救い主はイエスであると論証しました。この証しは、復活の主イエス様と出会ったという自分自身の体験を証しするだけではなく、証拠を示すという意味の言葉でもあります。旧約聖書の預言と主イエス様の様々なご性質と言葉と働きをもって、メシヤは主イエス様だと証しした、こういうことです。 しかし、コリントのユダヤ人たちは、ますます反抗しました。ついには神を冒涜する言葉さえ語ったという意味にも訳せる言葉が、ここに使われています。その結果、パウロはもうはやこれまでとはっきりと方向を切り替えるんですね。 「わたしは異邦人の方へ行く」と言って、ユダヤ人への説得を中止し、シナゴーグとは別の場所に拠点を移して伝道するようになりました。それが、ティティオ・ユストの家でした。なんとその家は、ユダヤ教の会堂の隣にあったというのです。シナゴーグの集会、礼拝に対抗するかのように、すぐ隣で、イエス・キリストを伝えたというのです。その結果、会堂長のクリスポと言う人の一家は、家族を含めて家のもの一同が主イエス様を受け入れ、信仰を持ちました。これは全くあり得ないような神の奇跡と言って良いと思います。、彼らだけでなくこの出来事を通してコリントの町の人々も多くの人たちもまた、主イエス様を信じ洗礼を受けたと記されています。隣のユダヤ会堂の人々は、これを見て、おそらく大いに動揺し、また怒りをあらわにしたのではないでしょうか。このことが、次のユダヤ人たちのパウロに対する迫害へとつながって行くのです。 パウロは、ユダヤ人たちへの決別のしるしとして、着ていた上着を振り払って、こう言いました。「あなたたちの血は、あなたたちの頭の上に降りかかれ、わたしには責任がない」。自分は、十分に語った、それにもかかわらずあなたがたが信じないならば、その責任はわたしにはない、あなたたちが滅びるその血の責任はあなたたち自身にある、こう言っているのです。 これは裏から見るならば、もし私たちが福音を十分に世に語らないなら、わたしたちは、福音を語らなかったがゆえに、その滅びの責任を自分に引き受けねばならないということにもなります。わたしたちには、語る責任がある、伝道する責任があります。 4、 パウロの異邦人伝道は成功し、会堂長一家さえ信じ、大勢の異邦人も洗礼を受けました。そのさなかで、パウロは幻の中で主イエス様から励ましのみ言葉を受けました。「恐れるな、語り続けよ。黙っているな」 普通に考えますと、伝道が進展し大勢の人が信じて洗礼を受けるという状況の中で、この主イエス様の励ましは、場違いのような思いがいたします。もしこの時、パウロが恐れと不安の中にいたのであれば、この励ましの言葉はぴったりくるのですが、客観的な状況は決して悪くはなかったのです。 確かに、パウロがコリントで伝道している期間の中で、パウロが恐れと不安で心がいっぱいだった時があります。パウロがコリントを離れて他の町で伝道し、再びコリントに入った時の手紙、コリントの信徒への手紙1,2章3節にこうあります。 「そちらに行ったとき、わたしは衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」 パウロが不在の間に偽預言者と呼ばれる別の伝道者がやって来てパウロを中傷したのです。そのコリントに再び入ったパウロは、そのとき恐れと不安で満ちていました。しかし、主イ今朝の御言葉で、主イエス様が、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と励ましてくださったのは、その時ではなく、むしろ伝道がどんどん進み始めたときでありました。 しかし、わたしの感覚としては、伝道が順調に進んでいる時、教会の状況が願っていたように変わって行く時こそ、伝道者の恐れと不安は増してゆくのです。一種の高所恐怖症なのです。昔、星野仙一という阪神タイガーズの監督が優勝を目前にチームが快進撃を続けて行く時が一番、不安だった、もう毎日が卒倒しそうだったと語るのを聞きました。2013年のことでしたが、実は、男山教会で、その年のクリスマスに成人受洗志願者が一度に四人与えられました。わたしの牧師人生の中で、その時ほど心配な時はなかったのです。心は恐れと不安でいっぱいになり毎日祈り続けていました。 教会がこの世に立てられている事、福音を語り続けているということ自体が、人間的に見るならば、まさにあり得ないことのような思いがいたします。弱さと罪に対抗して教会は戦い続けなければなりません。今にも中断しそうな教会の歩みの中で、わたしたちはいつも心細い思いになります。神様の祝福の中、不信仰にも、それ自体が不安でならず、今にも落ちてしまいそうな思いに満たされる時があるのです。 けれども、わたしたちは、どんな時も主イエス様の励ましの言葉を聞かなければならないのだと思います。 「恐れるな、語り続けよ、黙っているな」その理由について主イエス様はこう言われます。「わたしがあなたと共にいる、危害を加えるものはいない」、そして「この町にはわたしの民が大勢いるからだ」 いつも、主イエス様の、このみ言葉を聞きましょう。「恐れるな、語り続けよ、黙っているな」 祈りを致します。 天におられる救い主主イエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。初代教会の時代から、教会は、どのような状況にあっても、イエス・キリストの福音によって生かされ、この福音を世に宣べ伝えてきました。わたしたちの熊本教会もまた、どんな時でも伝道に励んで行くことが出来ますよう、すべてを導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。
2025年12月14日(日)熊本伝道所朝拝説教
使徒言行録18章1節~11節「恐れるなかたり続けよ」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
使徒言行録18章の前半は、使徒パウロのコリント伝道、コリントの町での伝道について記しています。コリントは現在のギリシャの南部、アカイア州にある大都市です。今朝は11節までのみ言葉にご一緒に聴いてまいります。説教題は、9節のみ言葉から取りました。この9節とそれに続く10節の御言葉は、主イエス様が幻の中で使徒パウロに語られたものですけれども、これは全ての教会が世の終わりまで聞き続けるべき御言葉ではないかと思います、「恐れるな、語り続けよ、黙っているな、わたしがあなたと共にいる」、この言葉につづいて主イエス様はこう言われました。「この町には、わたしの民が大勢いるからだ」
どの町にも神様は、わたしたちの知らないところでご自身の民を用意して下さっている、だからこそ、伝道を止めてはいけない、御言葉を語り続けなさいと、わたしたちを励まして下さるのです。
さて先ほどお読みしましたみ言葉の最後のところですが、11節をもう一度お読みします。
「パウロは1年六か月の間、ここにとどまって人々に神の言葉を教えた。」
わたしたちは、使徒言行録の後半部の始まりである13章からずっと、使徒パウロの1回目、二回目の伝道旅行のみ言葉を読んできました。その中で、パウロが、一つの町に一年半もとどまって伝道したというのは、これまでになかったことです。実は、このコリント伝道は、パウロが伝道旅行のために費やした日数のなかで、次に出てまいりますエフェソ伝道に次いで長い期間が費やされています。
そもそも17章で伝道したアテネと言う町が、文化と芸術、そしてギリシャ哲学に代表される学問の都であるのに対して、当時のコリントは政治と経済の町でした。アテネとコリントは、関西の京都が学問や文化の町であるの対して、大阪が商業の町であるような関係です。実際には、コリントの繁栄ぶりといいますのはもっと目立っていて、コリントは言ってみれば東京と大阪を合わせたようなアカイア州きっての大都市でありました。ここには、ローマの地方総督が滞在していました。コリント自体が港町でしたが、周辺にもレカイオンとケンクレアイという有数の二つの大きな貿易港がありました。またいくつもの異教の神々を祭る神殿があり、多くの人が参拝しに来ていたということです。この世の富や幸いを求めて多くの人が行き交う町、これがコリントでした。パウロhアここに一年半とどまって伝道しました。
教会が、伝道の計画を立てる時に、伝道地としてどこを選ぶのか、それは大切なことです。普通に考えれば、まずその国の中でもっとも栄えている町、大都市に先ず入るのだと思います。もちろん、そのような人間的な思い、作戦とは別に、あえて田舎に入って行く宣教師もいます。戦後間もないころに阿蘇に来られて、現在の高森キリスト教会を開拓されたユーレエラ・スプア先生という女性宣教師のことも思い浮かぶのです。伝道は、神様からの召し、召命によりますから、それも一つの生き方です。けれども、まだ伝道がされていない土地に入る場合には、まずは、人口の多い大都市で伝道することが普通ではないかと思います。パウロは、マケドニアに入ってヨーロッパ伝道に踏み出した時から、アカイア州の大都市コリントのことを考えていたのではないでしょうか。
コリント伝道の終わりを告げている18節に、パウロは、一年半経過後、なおしばらくの間ここに滞在してから兄弟たちに別れを告げて船でシリア州に旅立ったとあります。ですからパウロは、おそらく1年7か月くらいは、コリントに滞在したと思われます。また、第三次伝道旅行の時にも三か月滞在していますから、コリントには、合わせて2年間くらい住んだことになります。
先ほども触れましたが、第三次伝道旅行のエフェソを別にして、パウロが、これほど長く一か所にとどまって伝道した町はコリント以外にありません。その結果、神様はこの開拓伝道を大いに祝福して下さいまして、コリント教会と言う大きなそしてエネルギーに満ちた教会がコリントに立つことになりました。
使徒言行録は、パウロのコリント伝道について、ほかの町と同じくらいの小さな分量でしか語っていません。けれども、わたしたちは、コリントの信徒への手紙、1,2と言う、パウロが、後になって、コリント教会に宛てに出した二通の手紙によって、コリント教会の様子を詳しく知ることが出来ます。それによると、コリント教会は、この後、実に問題だらけの教会になったようです。しかし一方でエネルギーに溢れる活動的な教会であったこともわかります。コリント教会は、大都市ならでは道徳的退廃や、いろいろな伝道者がこのあと次々と入ってくることによる分裂や混乱という問題を抱えながら、その悔い改めの実を結んでゆく神の教会として歩んで行くことになります。
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パウロは、この町でアキラとプリスキラというユダヤ人のクリスチャン夫婦に出会いました。プリスキラと言う名は、パウロの手紙にしばしば登場するプリスカのことで、愛称がプリスキラです。この夫婦は、最近イタリアからコリントに引っ越してきた人たちで、パウロと同じ職業であったと2節と3節に書かれています。彼らがイタリアを出てきた理由は、当時のローマ皇帝クラウディウスのユダヤ人追放令でした。ローマの古代の歴史書によりますと、クラウディス帝は紀元41年に即位していて、この追放令は、紀元49年ごろに出されたようです。ユダヤ人たちがローマの町でクレストゥスのことが原因で騒動を起こすので追放したということです。このクレストゥスの騒動は、クリストス、つまりイエス・キリストのことではないか、問題になった騒動は。キリスト教徒とユダヤ教徒の争いではなかったかと言われています。そうなりますと、すでにこの時には、ローマにも教会が生まれていて、アキラとプリスキラはその会員であったということになります。
パウロは、このアキラとプリスキラの助けを得ながら、コリントでの伝道を開始します。同じユダヤ人であり、キリスチャン同士、さらに同じ職業の仲間ということで、すぐに協力体制ができました。パウロは、平日は彼らと一緒に天幕造りの仕事をします。そして、安息日になると、これはいつものことですが、まずはユダヤ教のラビ、巡回伝道者としてこの町のユダヤ教の会堂、シナゴーグに入って伝道しました。「安息日ごとに」と言いますのは、ある一定期間すべての安息日と言う言葉です。会堂に入り、会堂で論じ、人々の説得に努めたと4節に記されています。「論じ」と訳されている言葉は、テサロニケでのシナゴーグ伝道でも使われていたものです。言葉の成り立ちは、共に語るという言葉です。一方通行ではなく、語り合って論じるのです。説得に努めたという言葉は、説得し続けたとも訳せる言葉で、新改訳聖書では、「説得しようとした」と訳されています。しようとしたけれども結果的には出来なかったのであります。
シナゴーグでのユダヤ人の反応は芳しくありませんでした。コリントのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人と同じようにパウロの伝えるイエス・キリストの福音に対して反抗的でありました。
さて、そんな中、同じ伝道者仲間のシラスとテモテがパウロの後を追ってコリントに到着しました。そうすると、パウロはみ言葉を語ることに専念したと5節に書かれています。このあたりの事情は、フィリピの信徒への手紙4章15節によって明らかになります。フィリピの信徒への手紙にはこう書かれています。
「わたしが福音の宣教のはじめにマケドニア州を出たとき、もののやり取りで私の働きに参加した教会はあなた方のほかには一つもありませんでした。」
パウロは、フィリピやテサロニケのあるマケドニアからアテネに入りました。そしてコリントに来ていますが、そのとき、フィリピ教会はパウロのために伝道資金を送ってくれたというのです。おそらく、パウロがアテネで二人を待っていた時、テモテとシラスは、べレアの町からフィリピに行ったん戻り、そして伝道資金を受け取り、アテネではなくコリントでパウロと合流したものと思われます。
コリントに来ると、パウロはアキラとプリスキラに出会い、そこで何のためらいもなく自給伝道を開始しました。テント造りをしながらの伝道でした。それ以来、自給伝道はテントメーカー伝道と呼ばれます。しかし、フィリピ教会からの資金を受け取ると、今度はすぐに福音宣教に専念します。生活のための経済的なことにおいては、パウロは本当に自由なのです。今日、牧師不足が言われ、一方では、教会が十分な生活資金を用意できないという問題もあります。パウロのコリントでの伝道のあり方は、その自由さという点で見習うべきものであると思います。しかしパウロ自身は、別のところで、伝道者は本来、福音によって生活することが原則であって、それは主イエス様の指示であると明確に語っています。コリントの信徒へ手紙1,9章13節14節の御言葉です。
「あなた方は知らないのですか。神殿で働く人は神殿から下がるものを食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前に与かります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには、福音によって生活の資を得るように指示されました。」。けれども、パウロは続けて、コリントやテサロニケなどほかのところでは、「わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。」とも書いています。コリントの教会に入り込んできた論敵の伝道者たちが、パウロは偽使徒であって本当はお金のため、生活のために人々をだましていると言ったので、パウロはあえて権利を行使しなかったのだとも書いています。
聖書は、テントメーカー伝道を決して禁止していません。そこには自由があります。けれども、そうかといって、それが本来の姿であるとも言っていません。献金と言う仕方で、信徒の一人一人が伝道者の生活を支えることは、教会の福音伝道に共に参加することだからです。
3、
テモテとシラスが資金を持ってきてくれたために、パウロは、天幕造りの仕事をせずに良くなりました。そこで、仕事を休む安息日だけでなく、平日も伝道に邁進することが出来るようになりました。前よりも一層熱心に、旧約聖書が待ち望んでいたメシヤ、救い主はイエスであると論証しました。この証しは、復活の主イエス様と出会ったという自分自身の体験を証しするだけではなく、証拠を示すという意味の言葉でもあります。旧約聖書の預言と主イエス様の様々なご性質と言葉と働きをもって、メシヤは主イエス様だと証しした、こういうことです。
しかし、コリントのユダヤ人たちは、ますます反抗しました。ついには神を冒涜する言葉さえ語ったという意味にも訳せる言葉が、ここに使われています。その結果、パウロはもうはやこれまでとはっきりと方向を切り替えるんですね。
「わたしは異邦人の方へ行く」と言って、ユダヤ人への説得を中止し、シナゴーグとは別の場所に拠点を移して伝道するようになりました。それが、ティティオ・ユストの家でした。なんとその家は、ユダヤ教の会堂の隣にあったというのです。シナゴーグの集会、礼拝に対抗するかのように、すぐ隣で、イエス・キリストを伝えたというのです。その結果、会堂長のクリスポと言う人の一家は、家族を含めて家のもの一同が主イエス様を受け入れ、信仰を持ちました。これは全くあり得ないような神の奇跡と言って良いと思います。、彼らだけでなくこの出来事を通してコリントの町の人々も多くの人たちもまた、主イエス様を信じ洗礼を受けたと記されています。隣のユダヤ会堂の人々は、これを見て、おそらく大いに動揺し、また怒りをあらわにしたのではないでしょうか。このことが、次のユダヤ人たちのパウロに対する迫害へとつながって行くのです。
パウロは、ユダヤ人たちへの決別のしるしとして、着ていた上着を振り払って、こう言いました。「あなたたちの血は、あなたたちの頭の上に降りかかれ、わたしには責任がない」。自分は、十分に語った、それにもかかわらずあなたがたが信じないならば、その責任はわたしにはない、あなたたちが滅びるその血の責任はあなたたち自身にある、こう言っているのです。
これは裏から見るならば、もし私たちが福音を十分に世に語らないなら、わたしたちは、福音を語らなかったがゆえに、その滅びの責任を自分に引き受けねばならないということにもなります。わたしたちには、語る責任がある、伝道する責任があります。
4、
パウロの異邦人伝道は成功し、会堂長一家さえ信じ、大勢の異邦人も洗礼を受けました。そのさなかで、パウロは幻の中で主イエス様から励ましのみ言葉を受けました。「恐れるな、語り続けよ。黙っているな」
普通に考えますと、伝道が進展し大勢の人が信じて洗礼を受けるという状況の中で、この主イエス様の励ましは、場違いのような思いがいたします。もしこの時、パウロが恐れと不安の中にいたのであれば、この励ましの言葉はぴったりくるのですが、客観的な状況は決して悪くはなかったのです。
確かに、パウロがコリントで伝道している期間の中で、パウロが恐れと不安で心がいっぱいだった時があります。パウロがコリントを離れて他の町で伝道し、再びコリントに入った時の手紙、コリントの信徒への手紙1,2章3節にこうあります。
「そちらに行ったとき、わたしは衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」
パウロが不在の間に偽預言者と呼ばれる別の伝道者がやって来てパウロを中傷したのです。そのコリントに再び入ったパウロは、そのとき恐れと不安で満ちていました。しかし、主イ今朝の御言葉で、主イエス様が、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と励ましてくださったのは、その時ではなく、むしろ伝道がどんどん進み始めたときでありました。
しかし、わたしの感覚としては、伝道が順調に進んでいる時、教会の状況が願っていたように変わって行く時こそ、伝道者の恐れと不安は増してゆくのです。一種の高所恐怖症なのです。昔、星野仙一という阪神タイガーズの監督が優勝を目前にチームが快進撃を続けて行く時が一番、不安だった、もう毎日が卒倒しそうだったと語るのを聞きました。2013年のことでしたが、実は、男山教会で、その年のクリスマスに成人受洗志願者が一度に四人与えられました。わたしの牧師人生の中で、その時ほど心配な時はなかったのです。心は恐れと不安でいっぱいになり毎日祈り続けていました。
教会がこの世に立てられている事、福音を語り続けているということ自体が、人間的に見るならば、まさにあり得ないことのような思いがいたします。弱さと罪に対抗して教会は戦い続けなければなりません。今にも中断しそうな教会の歩みの中で、わたしたちはいつも心細い思いになります。神様の祝福の中、不信仰にも、それ自体が不安でならず、今にも落ちてしまいそうな思いに満たされる時があるのです。
けれども、わたしたちは、どんな時も主イエス様の励ましの言葉を聞かなければならないのだと思います。
「恐れるな、語り続けよ、黙っているな」その理由について主イエス様はこう言われます。「わたしがあなたと共にいる、危害を加えるものはいない」、そして「この町にはわたしの民が大勢いるからだ」
いつも、主イエス様の、このみ言葉を聞きましょう。「恐れるな、語り続けよ、黙っているな」
祈りを致します。
天におられる救い主主イエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。初代教会の時代から、教会は、どのような状況にあっても、イエス・キリストの福音によって生かされ、この福音を世に宣べ伝えてきました。わたしたちの熊本教会もまた、どんな時でも伝道に励んで行くことが出来ますよう、すべてを導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。