2025年11月16日「テサロニケの事件」

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聖書の言葉

使徒言行録 17章1節~10節

メッセージ

2025年11月16日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録17章1節∼10節「テサロニケでの事件」

1、

 主イエス・キリストの恵みと平和が、今日、このおられるお一人お一人の上に豊かにありますように、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 先ほど、ご一緒にお聞きしましたみ言葉は、使徒言行録17章1節から10節です。この町を退去する場面である10節を含め、短いみ言葉ですけれども、マケドニア州の州都、「みやこ」でありますテサロニケでの開拓伝道の一部始終が記されています。

この前の16章では、アジア伝道に行き詰まったパウロのもとに、幻の中で一人のマケドニア人が現れ、「マケドニアに来てわたしたちを助けてください、救ってください」とパウロに願いました。パウロはためらわずに直ちに海を渡ってヨーロッパに入って行ったのでした。そこから始まったパウロたちのマケドニア伝道でした。まず、最初の町フィリピに入り、そこでは紫布の商人リディアを中心に小さな群れが与えられました。しかし占いの霊に憑りつかれた女奴隷のことで町の有力者と高官たちの恨みを買って町を出て行かざる得なくなりました。そして彼らはついにマケドニア州の州都であるテサロニケへと進んで行ったのです。

マケドニア州は、その昔はマケドニア王国と呼ばれました。その都であるテサロニケは、紀元前四世紀にマケドニアの王であったカッサンドロスによって建設されました。このカッサンドロス王の妃の名前がテッサロニカで、彼女はローマ帝国アレクサンドロス大王の妹でありました。王妃の名前が町の名前になっています。当時マケドニア州最大の都市であり、ユダヤ人も多く住み、立派な会堂、シナゴーグがあったと思われます。ちなみに現在のテサロニカは、テサロニキと呼ばれていて、アテネに次ぐギリシャン第二の都市であります。

わたしたちがテサロニケという言葉を聞いてすぐに思い浮かべるのは、このお后のことではなくて、使徒パウロが、テサロニケ教会に当てて書きました二通の手紙だと思います。新約聖書にある使徒パウロの手紙のうちで最も古い、最初期の手紙とされています。パウロたち伝道チームは、今朝の御言葉であるテサロニケの伝道においても、この町を追い出される、追放される形で伝道を終えています。彼らはアテネを経由して次はコリントへ行きます。コリントで伝道しながら、テサロニケの教会のためにしたためたのがテサロニケの信徒への手紙です。実は、この手紙からもテサロニケ伝道についての多くの情報を知ることが出来ます。

この使徒言行録におけるテサロニケ伝道の記録で注目すべきことは、前のフィリピ伝道の記録では省略されていたのですが、ユダヤ人に向けて語られたパウロの伝道の言葉、説教の中心的内容が残されていることです。それが3節の短い言葉です。

パウロがここで語りましたことは、イエス・キリストであります。パウロはユダヤ教の会堂シナゴーグで三回の安息日にわたって説教しました。旧約聖書解き明かしてこう言ったのです。「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた。」「このメシアはわたしが伝えているイエスである」

パウロは、イエス・キリストの救いの説明ではなく、イエス・キリストその人を伝えてきたと言っています。その人こそ聖書が告げ知らせていた方、メシア、キリストだと宣言したのです。パウロは、イエス・キリストを救い主、メシアと信じ、この方に従うようにと招いたのです。

2、

 さて、この前の16章にはローマの植民都市フィリピの町から追い出された経緯が書かれていました。パウロとシラスは、ローマの市民権をもつものであるにも関わらず、混乱の中での裁判により公衆の面前でのむち打ちを受け、そしてその傷を抱えたままでの投獄という犠牲を払い、この町から退去するよう求められます。彼らは、聖霊の導くままに西に向かいマケドニア州の州都であるテサロニケに入りました。彼らは、この町でも引き続いて人々に福音を伝えるのです。

 一度や二度、挫折したからと言って教会は決して伝道をやめることはないのです。もうそこでは、無理だ、難しいというのなら、形を変えて、あるいは別のところに移っても福音を伝えます。日本におけるプロテスタントの伝道の歴史は160年を超えています。それにも関わらず、日本の教会は未だ小さく弱い群れであります。その中で、牧師が投獄されたり、世の人々の冷たい視線にさらされたりと言った厳しい試練も経験してきました。けれども、見える成果が大きいか小さいかにかかわらず、わたしたちは倒れてしまうことは決してありません。伝道は神様の御業だからです。何があっても、主イエス様がもう一度おいでになる主の再臨、終末の裁きと救いのときまで、伝道はたゆまず進められてゆくのです。

 16章1節には、マケドニア州の三つの都市の名前があります。フィリピから西へ、当時の街道沿いにアンフィポリス、アポロニア、そしてテサロニケです。これらの町々は、マケドニア州を貫くエグナティア街道と言う立派な道路で結ばれていました。「すべての道はローマに通じる」と言われます。よく整備された道路とギリシャ語という共通の言葉が初代教会の伝道を支えました。それぞれの町はおおざっぱに言って50キロ程度の距離をもって存在しています。徒歩で行くなら三日、あるいは四日をかけてマケドニア州最大の都市、州都でもあるテサロニケに着いたのではないかと思われます。

 フィリピ伝道までは、主語は「私たちは」で、聖書記者ルカも同行していました。しかし、ここではパウロとシラスという二人の名前に主語が変化しています。おそらくルカは、引き続きフィリピに残って伝道し、ルディア一家や看守一家たちを支え続けたものと思われます。

テサロニケまでの途中の町での伝道のことは一切かかれていません。パウロたちは、マケドニア第二の都市フィリピを出たあとは、一路、マケドニア最大の都市テサロニケを目指したのではないでしょうか。1節の終わりにテサロニケにはユダヤ教の会堂、シナゴーグがあったと記されます。元の言葉は、「シナゴーグのある町テサロニケに辿りついた」とあって、テサロニケはシナゴーグを持つ街だと強調されています。パウロとシラスは、テサロニケがマケドニアの都、大都市であることと、そこにシナゴーグがあることを目当てにしてテサロニケに向かったたちのではないかと思われます。

伝道は、鳥や獣に向かってするものではなく、人に向かってされるものです。とにかく人のいるところ、集まるところ、都会から都会へとパウロたちは入って行くのです。そしてシナゴーグに入り旧約聖書で神の民とされていたユダヤ人にまず伝道しています。それは、初代教会の務めでありました。主イエス様ご自身がそうされたからです。異邦人の使徒とされたパウロですが、同族の救いを忘れたわけではありません。そういう意味で、その町のユダヤ人や異邦人の敬虔な共感者たち、神を畏れる人々が毎週集まるシナゴーグこそ、その町で最初に入って行く最適の場所であったのです。

 パウロとシラスは、巡回説教者、旅の教師、ラビとしてシナゴーグで説教しました。「三回の安息日にわたって」と書いてあります。そのことからテサロニケには三週間足らずしかいなかったとする見方もあります。しかし、ここはシナゴーグで説教した安息日、土曜日の数を言っていますから、パウロたちのテサロニケ滞在は三週間とは限りません。

 テサロニケの信徒への手紙1、によるとテサロニケに初めて入ったパウロは、そこで生活のために働いたことや、フィリピ教会からの複数回の経済支援を受けたとされています。フィリピの信徒への手紙4章15節16節にはこうも書かれています。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、物のやり取りで働きに参加した教会はあなた方のほかには、一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときも、あなた方は、私の窮乏を救おうとして何度もものを贈ってくれました。」

ですから、パウロたちは、おそらく数か月以上はテサロニケで暮らしながら伝道した可能性があります。

3、

さて、そのシナゴーグでのパウロとシラスの伝道の様子が、1節後半から3節にかけて記録されています。

彼らは、三回の安息日にわたって、聖書を引用して論じ合い、主イエス様について説明し、論証しました。「聖書を引用して」と言う言葉は原文にはなく、「聖書から」、あるいは「聖書に基づいて」という言葉です。「論じ合う」という言葉は、語り合うとか、対話するという言葉です。説教のあとで、問いを投げかけ、答えがあればそれを吟味して、もう一度問い返す、そういう時間を持ったのです。また説教自体においても、人々に問いかけながら説教する、いわば対話的な説教をしました。

ここで聖書と呼ばれているのは、今日の旧約聖書です。まだ新約聖書は聖書になっていません。旧約聖書は、神様が遣わす救い主メシア、を示していると説教し、そして人々と語り合いました。

旧約聖書は、救い主について語っている、そのお方は、人々を支配して世に君臨する救い主ではないと語りました。そうではなく救い主メシアは、必ず苦しみをお受けになる方なのです。そして私たちの救いのために必ず死んで下さる方、死んだままではおらず必ず復活する、およみがえりになるのです。この聖書の教えに照らして、パウロは、自分たちが伝えているイエス・キリストこそ、救い主、メシアであると説明し、論証したのです。

わたしたちは、伝道のためにいろいろな工夫をして世の人々の関心を引こうといたします。美しい讃美歌、心躍るような現代的なワーシップやゴスペルのコンサート、料理教室、バザー、落語会、とにかくどうすれば人が集まるかと考えます。それは大切なことですけれども、やはり、そこでイエス・キリストの福音が伝えられなければならないのです。

パウロたちのテサロニケ伝道を見ると、とにかくガチガチの正攻法です。正面切ってイエス様こそ、救い主である、メシアであると論じ語り合います。聖書に基づいて説教し、説明し、主イエス様について見たこと聞いたことを証拠として指し示します。気の利いた例話や感動的な体験談はなかったのではないでしょうか。とにかく聖書を語る、そしてイエス・キリストを語ったのです。

現代の日本でそんなことをすれば、人々はすぐに家に帰ってしまって、もう二度と来ないと断言されるような伝道です。しかし、どんなに多くの人々が教会に来たとしても、そこで最終的にイエス・キリストのことが伝えられなければ、伝道と言うことはできないのです。いやこれは種まき伝道です、といっても、蒔かれたものが正真正銘の種、芽を出し、実りをもたらす命のこもった種でなければ、何の意味もないといえるでしょう。

4節は、この伝道の結果がどうであったのかを示します。ユダヤ人の中のある者たちは信じたとあります。そしてパウロたちの仲間となりました。一方、神をあがめるギリシャ人の中で信じたものは多かったと書かれています。その中には、かなりの数の主だった婦人たちも二人に従ったとあります。かなりの数という訳は、何かあいまいな感じがします。元の言葉は「少なくない数の」という言葉です。少なくないというのは二重の反語で、その意味は「多い」「たくさんの」ということです。主だった婦人は、ほかの聖書では上流婦人、あるいは貴婦人と訳されています。

テサロニケ伝道の実りは大きかったというべきでしょう。しかし、反動もまた大きかったのです。従来型のユダヤ教に固執してパウロに反対する人々です。ユダヤ人たちと書かれています。パウロの伝道に対して、会堂の主人であるユダヤ人は妬みの心をもって、パウロたちを迫害しました。

 シナゴーグでの伝道が許されなくなったあとは、彼らはどうしたのでしょうか。彼らは、協力者であるヤソンの家を拠点として伝道を続けました。その結果、シナゴーグから出て、パウロたちに従うものがさらに増えてきたのです。5節から9節は、テサロニケ伝道がもはや終わる、終わらざるを得ないまでになった経緯です。

 ここにヤソンと言う人物が何の説明もなく突然、登場しています。その理由は、当時の使徒言行録の読み手たちが良く知っていた人物だからでしょう。ヤソンは、ちょうど、フィリピ伝道において自分の家を提供したリディアのような役割をしたのです。パウロとシラスがその家に滞在し、集会も開いたのです。大きな家だったでしょう。もしかすると、ちょうど、コリント伝道のときに天幕造りの仕事をしていたアキラとプリスキラ夫婦のように、ヤソンもまた何らかの事業をしていて、経済的にもパウロを助けたかもしれません。

 ローマの信徒への手紙の16章には、沢山の人への挨拶の言葉が記されていますが、ヤソンの名も出てきます。ローマの信徒への手紙16章21節、「わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなた方によろしくと言っています」

 この同胞と言う言葉は、同じ民族と取られますが、さらに狭い意味もあります。同郷の人と言う意味です。ヤソンはパウロとすでに顔見知りであったかも知れません。そこでパウロの語る吹福音に触れて、主イエス様を信じたのではないでしょうか。

ローマの信徒への手紙16章には、ヤソンと並んでソシパトロと言う人の名前も出ています。

この人もパウロの同胞であると書かれています。このソシパトロは、この使徒言行録20章4節に出る「ぺレア出身のソバトロ」と同一人物ではないかと言われています。テサロニケを出たパウロたちは、隣のぺレアに行き、そのぺレアで、やはり同郷のソバトロに会い、彼も主イエス様を信じたのではないでしょうか。これは、ヤソンと言う人に関する推測にすぎませんが可能性はないとは言えません。

4、

 パウロを妬み憎んだユダヤ人たちは、町の広場にたむろしている、ならず者を抱き込んで、パウロたちの活動を妨害しました。徒党を組んで、パウロたちの周りで暴れ、ついには、ヤソンの家を襲って、パウロとシラスを捕らえ、町の当局者たちに突き出そうとしました。当時のテサロニケは、あのアテナイの直接民主主義のように、町の代表者を選挙で選び、統治を委ねるというギリシャ式の政治が行われていました。当局者と訳されていることば、そういう言葉です。ポリス、自治都市の頭、統領とも訳せる言葉です。

 ユダヤ人たちがパウロとシラスを訴えた罪状は二つあります。一つは、彼らはここかしこで、いや世界中で騒ぎを起こすものたちだということ、二つ目は、ローマ帝国の皇帝の定めた秩序に背くものであり、特にイエスと言う別の王がいると宣伝しているということでした。

 町の統領、頭たちは、選挙で選ばれているとはいえ、あくまでローマ帝国の許可にもとに町を治めています。そのローマ帝国の皇帝に背くものをそのままにしてくわけにはゆきません。

 パウロたちは、主イエス様は、旧約聖書に示されたメシアであると人々に伝えました。主イエスの様の救いはこの世的な政治によって成し遂げられる救いではありません。世を超えた権威、天地を治める神の権威によって人救い、世を救います。ローマ皇帝にこの世的な意味で対抗するというような世俗的な王では決してありません。しかし、主イエスの権威はローマ皇帝さえも及ばない神の権威、神の力によるものであることは、その通りです。イエスは、ローマ皇帝とは別の王であるということはその通りですが、しかし、地上の王ではなく、天地万物をご支配しておられる父なる神と並ぶ王、父なる神の右の座に着き、天上天下一切の権能をもつ王です。けれども、町の当局者にしてみれば、この区別がつきませんから、ユダヤ人たちの言葉を聞いて動揺し、何とかしなければならないと判断したのです。

 この時、ヤソンの家にパウロもシラスもいませんでしたので、代わりにヤソンやほかの仲間たちを捕らえて連行しました。そしてこれ以上、パウロたちの面倒を見ないことを約束させ、保証金まで取って釈放しました。そして、彼らはパウロたちに会って、その夜のうちに、さらにエグナティア街道を西に進んだところにあるぺレアの町に送り出したのです。

 おそらく数か月に及んだテサロニケ伝道は終わりを告げました。ヤソンをはじめ、多くの異邦人、特に上流階級の婦人たちを含む、信仰者の群れがこの町に生まれました。しかし、ここでも町の権力者たちから迫害されました。パウロは、次の18章で入っていくコリントの町からこの群れに手紙を書いて彼らの信仰を励ましました。これがテサロニケの信徒への手紙1と2です。

 そこには、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちの信仰の成長を喜ぶと同時に、誤った教えや外からの迫害によく抵抗するようにと書かれています。

「兄弟たち、しっかり立って、わたしが説教や手紙で伝えて教えを固く守り続けなさい」テサロニケの信徒への手玩味1、2章15節のみ言葉です。

教会は、世の終わりまで福音を世に伝えます。そして、伝えられた福音をしっかりと守るようにと勧められています。わたしたち熊本教会に託された使命も同じであると思います。もうすぐアドベントに入ります。クリスマスの季節は世の人々の心が主イエス様に向けられるときでもあります。わたしたちのために苦しみをお受けなった主イエス様を改めて覚えます。わたしたちもまた伝道を続ける中で忍耐を求められるときがあると思います。しかし、わたしたちには、死者の名から復活された主イエス様の命が与えられています。困難な中でも、福音を宣べ伝えてゆきたい、そのように願います。祈りを致します。

天におられる主イエス・キリストと父なる神さま、尊い名を崇めます。迫害を受けても決してめげることなく町から町へと伝道した使徒たちのように、わたしたちもまた、全国、また全世界、至るところで福音を伝えます。どうかあなたが下さる救いの恵み、平安と感謝、そして神様への信頼の中で、福音に生きる教会、また福音を伝える教会とならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。