2025年10月26日「主が心を開かれた」

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聖書の言葉

使徒言行録 16章11節~15節

メッセージ

2025年10月26日(日)熊本伝道所礼拝説教

使徒言行録16章11節~16節「主が心を開かれた」

1、

御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

昨年の初めでけれども、神戸改革神学校の同窓生で、日本同盟基督教団理事長を務められた朝岡勝先生が「説教の聴き方」という本を出されました。牧師や教会学校の先生向けに説教を語る方法や心構えについての本は多くありますけれども、説教の聴き方に焦点を当てた本はあまりないので興味を持って読みました。考えてみますと説教者が会堂に独り立って、御言葉を語ったとしてもそれは説教の練習にはなるかも知れませんけれども、そこでは説教は成立しないのですね。やはり聴き手がいて、しかも教会という信徒の群れに向かってみ言葉の解き明かしがなされる、そこで始めて説教が説教になります。そういう意味で聴き手の態度や心構え、さらには説教をふさわしく聴く方法が論じられることは大切なことだと思います。

先ほどお聞きしました今朝の御言葉の14節後半部のところに心が留まりました。もう一度、14節の後半のみ言葉をお読みします。

「神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」。このあと、15節になりますと、リディアとその家のものたちが主イエス様を信じて洗礼を受けております。

わたくしが興味を持ちましたのは、「主が彼女の心を開かれた」という神様の恵みの出来事が「彼女がパウロの話を注意深く聞いた」ということにつながっていると言うことです。ここでは聴く側の状態、そこに働く神様の出来事が、説教が救いの言葉として力をもって働く条件になっています。

さて先ほど11節から16節のみ言葉をお読みしました。パウロとシラス、そしてテモテの三人を中心にした宣教チームがヨーロッパの最初の町フィリピに到着し、福音を伝え始めたという物語です。パウロの第二次伝道旅行の中心は、このフィリピから始まるエーゲ海添いの各都市での伝道でした。パウロは、18章の終わりで再びアンティオキアに帰りつくまで、約3年間をかけて、福音を伝えることになります。そのヨーロッパ伝道の最初の働きの場所が、フィリピでした。フィリピからテサロニケといったマケドニア州の各都市で伝道します。そこは、パウロがトロアスで見た、あのマケドニア人からコール、召しを受けた土地です。パウロはその後、さらに南のアテネからコリントというギリシャの町々で伝道します。最後にエフェソに行ってエルサレム経由で出発地点のアンティオキアに戻ります。エフェソは、そもそも聖霊によって禁じられた小アジアの大都市でありました。

さて今朝の御言葉の中で14節後半部の御言葉に心が留まりました。もう一度、14節の後半のみ言葉をお読みします。

「神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。」こののち、15節では、リディアとその家のものたちが洗礼を受けております。

私たち牧師は、毎週日曜日の礼拝の中で説教を致します。そのときにいつも考えていることは、第一に、正しく聖書の御言葉を解き明かすことです。それと同時に、その解き明かされたみ言葉を、どれだけ聞いてもらえるかと言うことも考えます。途中で聴かれなくなってしまわないことです。そのために筋の通った話、また耳を傾けて下さる話になるように心がけます。しかし、最終的には神様ご自身がその人に働いてくだされなければ、それは救いのために、また信仰の成長のために効果を発揮すると言うことがないと、信じています。

スポルジョンという有名な英国の説教家が回心したのは、ある雪の日曜日に普段の教会に行くことが出来ず、とおりかかった小さな教会の信徒説教者のたどたどしい勧めを聞いたときでした。主がお働きになって、はじめて説教が有効に用いられるのだと信じています。この熊本教会も神様が立ててくださった教会ですから、今朝も神様が働いてくださると信じます。

2、

 使徒言行録15章のエルサレム使徒会議のあと、アンティオキア教会は、パウロとシラスを第二次宣教旅行に送り出しました。リストラではテモテが加えられました。そして使徒言行録にはルカの名は一切出ないのですが、しかし間違いなく使徒言行録の著者ルカも、都有からの加茂宇正が高いのですが、この伝道旅行に加わっています。ルカがどこから加わったのかははっきりしませんけれども、少なくとも、このフィリピの町ではルカが一緒にいることは明らかです。なぜなら、16章11節12節に「わたしたちは、トロアスから船出して‥間を略しますが、・・フィリピに行った」「わたしたちは」と書かれています。これを使徒言行録における「わたしたち章句」と呼びます。ルカが、パウロの宣教旅行に同行していたことを示しています。

ルカはそのあと、16章19節の、パウロとシラスが捕らえられるところで姿を消します。そこからは三人称での語りになります。おそらくルカは投獄を免れたのでパウロと一緒にいることが出来なかったのでしょう。このあとパウロは18章18節で第二次宣教旅行を終えてアンティオキアに帰りつき、そして、これはもう息つく暇もなく第三次宣教旅行に旅立ちます。その第三次宣教旅行の途中20章6節から再び「わたしたちは」という言葉が登場します。おそらくルカは、それまではフィリピの教会を中心に働いていたのではないかと思います。そしてルカは、20章6節、トロアスでパウロと合流して最後の28章のパウロのローマ行きまで一緒におりました。

 教会の歴史、教会史を紐解きますと福音はエルサレムから始まり、その後西へ西へと広まって、紀元313年のローマ皇帝のキリスト教公認に至りました。そしてローマ帝国全体がキリスト教国となるに至ります。キリスト教会は中東やアジアよりもヨーロッパの宗教となって行きます。

 私たちが生活している世界は、五大陸、五つの大陸に分けることが出来ます。アジア、アフリカ、北アメリカ、南アメリカ、そしてヨーロッパの五つです。アジアから出発した教会がもしもヨーロッパに広まっていなかったとすると、人類の歴史は今と違う道をたどったかもしれません。

 ヨーロッパで最初に伝道が行われた町、そして最初に教会が立てられた都市、それがフィリピです。私たち日本の教会が、最初に立てられたプロテスタント教会として横浜海岸教会を思い浮かべるように、ヨーロッパの人たちは、フィリピの教会を神様への感謝と共に思い浮かべると言います。

16章の初めで、パウロたちは、アジア州での伝道を禁じられました。そしてアジア州の東の果ての港町トロアスで、ある幻を見せられるました。一人のマケドニア人が、マケドニアに、つまりヨーロッパに来てくださいと招いたのです。そこで、彼らはただちにトロアスから船出しました。舟は極めて順調に進み、一日で100キロを航海してサモトラケ島に着き、そこで一泊し、翌日も100キロを航海してネアポリスの港に着きました。

 11節ではフィリピの町のことを、マケドニア州第一区の都市と呼んでいます。口語訳聖書、新改訳聖書では、この地方の第一の都市となっていましたので、少し変えられています。実は当時マケドニア州第一の都市は、17章1節に出るアンフィリポスでありました。また、マケドニア州の都、首都はテサロニケです。紀元前2世紀にローマ帝国がマケドニアを征服したときに国を4つに分けました。聖書は、その第一地区に属するフィリピの町と言っているのです。今回、新共同訳は「第一区の都市」と正しく訳しました。新改訳2017は「その地方の主要な町」と訳しています。いずれにしても、パウロたちが、ヨーロッパ伝道の最初の一歩を記しましたのは、最初の上陸地である港町ネアポリスではなく、さらに内陸の大都市フィリピでありました。神様のご計画の中でパウロと紫布の商人ルディアの出会いから始まったフィリピ伝道は、力強く進んで行き、フィリピ教会は、その後もパウロの伝道を支え続けてゆくことになります。聖書の中のパウロの手紙であるフィリピの信徒への手紙は、パウロとフィリピ教会の親しい関係を余すところなく示ししています。

3、

 フィリピは、ローマの植民都市であると書かれています。植民都市では、ローマ市民は本国で生活するのと同じか、あるいはそれ以上の特権を得て生活できます。イタリア人が多く住み、また本国の利権を守るために軍人も多くいたということです。ユダヤ人は決して多くなく、従って、シナゴーグも立てられていなかったのです。パウロたちは数日間にわたって、この町について調べました。そして安息日には、シナゴーグではなく、ユダヤ人たちの祈りの場に出かけて行きました。それは町の門の外にある川べりであり、しかも主として婦人たちが集っていたようです。「祈りの場所があると思われる」というのは、そこが祈りの場所かどうか行ってみないとわからないということではなくて、あらかじめ、そう思うことが出来たその場所と言う意味です。事前に情報を得ていたのです。

 「祈りの場所」と訳されているギリシャ語は単に「祈り」という言葉です。この言葉にはまた、ユダヤ教の会堂、シナゴーグと言う意味もあるそうです。しかし、ここでは川岸の静かな場所をユダヤ人たちが礼拝の場所としていたのだと思います。伝統的なラビのように、パウロは川岸の木立のそば、木陰に座って、パウロを囲むようにして人々はみ言葉を聞きました。強い日差しは遮られ、川からは涼しい風もわたってきます。

 パウロとシラスはユダヤ教のラビの資格もありましたので、話をしたのですが、それはもちろん伝統的なユダヤ教の話ではなく、旧約聖書が証しした救い主イエス様の話でした。何人もの婦人たちがいましたが、その中の一人の婦人の心を主であるお方、すなわちイエス・キリストがその霊である聖霊によって開いてくださったのです。

 このリディアと言う婦人は、ティアテラ市出身の紫布を商う人です。ティアテラは聖書地図の8番にありますが、トロアスから南西に150キロくらいの場所にあり、貴重な植物の根や貝の分泌物から取れる紫染料の生産地であったということです。おそらくそこで染めた紫布を加工して販売する仕事を大都市フィリピで行っていたと思われます。現代でも、ファッション関係の仕事では女性が多く活躍しています。古代においてもそのようなビジネスウーマンがおり、ルディアはその中の一人でありました。おそらく未亡人で、フィリピの町に店と住居とを兼ねた屋敷を持っていたのでしょう。15節を見るとその家には店のスタッフやその子供たち、また当時のことですから家事を行う奴隷の身分の使用人もいたことが想像されます。紫布は身分の高い人たちが身に着けるもので、当時は非常に高価なものでした。おそらくリディアは、非常に裕福な婦人であったと思われます。

 彼女は、神をあがめる人と呼ばれています。異邦人でありつつ、ユダヤ教に帰依する人のことです。それゆえに、安息日には、仕事を離れて、町の門の外にある祈り場でみ言葉を聞き、祈りを捧げていたのです。

 主が彼女の心を開かれたので、パウロの語る福音の言葉が彼女の心に入って行きました。おそらく、何回かの安息日の礼拝を経て、彼女は救い主としてイエス・キリストを信じ受け入れるように導かれたのだと思います。彼女はパウロから洗礼を授けられました。教会で福音が語られる時、そこには必ず神様の恵みの霊がお働きになるとわたしは信じています。今この時もそうであります。

「注意深く聞いていた」ということは、ぼうっと聞いていたのではない、ちゃんと聞いていたということでしょう。皆さんもまたこの説教を注意深く聞いておられます。しかし、ここは、単に聞き方、説教中の態度ということではないのです。語られている言葉をリディアが注意して聞いただけではなく、それが心に届いたことが大切なことだと思います。

新改訳聖書の訳では、「主は彼女の心を開いてパウロの語ることに心を留めるようにされた」と訳されています。こちらの方がふさわしい訳だと思います。

「主が彼女の心を開かれたので」・・、とあります。ですから、その開かれた心にパウロの語る福音がすっと入いり、そこにとどまって救いが起こされたのです。リディアは、パウロの語る福音を信じ、受け入れ、洗礼を受けました。ヨーロッパ最初の受洗者、福音宣教の実りはこのようにして与えられたのです。

説教者は、単に聖書のみ言葉を正しく忠実に解き明かすために立てられているのではないと信じています。説教の目的は、聖書のみ言葉が生きて働き、聞く人の心にとどまることです。聞いた人が、福音を心に受け入れ、福音によって生活するようになることを目指して説教致します。主が、聞く人の心を開いてくださるとき、語られた言葉は救いの出来事、恵みの出来事を引き起こすのです。主が、心を開いてくださるなら、そのことが間違いなく起こる、それが聖書の言葉と聖霊の働きであると思います。

洗礼を受けたのは彼女だけではありませんでした。15節では「家族のものも」とあります。元の言葉は「彼女の家の人たちも」です。るでぃに家族がいたかどうかは分かりませんが、家族や使用人のことをこう呼ぶのです。

 何回かの安息日に福音を心に受け入れるルディアの姿を見て、その家の人たちもやがて信じるようになり、一緒に洗礼を受けたのだと思います。このあと、リディアは、これは本当に大きなことですが、パウロたち伝道団の宿舎として家を提供することを申し出ます。そしてそれが家の教会として働きを始めるのです。パウロもシラスもテモテ、そしてルカも、ルディアの家で寝泊まりし、フィリピの町で伝道活動を致しました。

 このあと彼らは、この次の16節以降にありますが、この町で占いの霊に取りつかれている女奴隷を巡る事件に巻き込まれ、騒動を起こした罪で牢獄に捕らえられます。しかしパウロもシラスもローマの市民権を持っていたことで釈放されました。そのとき彼らが戻っていったのが勝手知った、家の教会となっていたあのルディアの家でした。この事件のあと彼らは、無理矢理にフィリピの町を追われることになりました。そのときにはもう、ルディアだけでなく、ほかの信者も多く与えられていたことがわかります。40節にこうあるからです。

「牢を出た二人はリディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。」リディアの家は、このとき小さいながらもヨーロッパ最初の教会として働き始めていたのです。

4、

 わたしたちは、日本という世界でももっとも伝道が困難と言われている地で福音を伝えています。わたしたちは、よくこうつぶやきます。「日本には、全人口の1%しか信者がいない。」

 確かにその通りです。一億に千万人の人口、信者はすべて合わせても100万人と言われています。しかし、別の言い方もできると思います。主が100万人もの人の心を開いてくださった。そしてこれからも神は働いてくださると。

1868年、はじめて日本本土に足を踏み入れた宣教師ヘボンとブラウン、そしてバラたちは、横浜に日本で最初の礼拝所、教会堂を立てました。1872年、年の初めの祈祷会が日本人求道者を交えて開かれ、その初週祈祷会は聖霊の導きによって三か月間続き、彼らの心が主によって開かれ、三月に至って9人の日本人信者の洗礼式が行われたのでした。

フィリピ教会が誕生したとき、ヨーロッパには主イエス様を信じる人は、ルディアの家の人とパウロたち宣教チームだけでした。しかし、神はその後も力強く働いて下さり、ついにはローマ帝国全土にイエス・キリストの福音が広まっていたのです。

神は、これまでも人々の心を開いてくださったし、これからも開き続けて下さる、このことを信じて諦めず、熱心にみ言葉を宣べ伝えてゆこうではありませんか。

祈ります。

天におられる主イエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。