2025年09月28日「パウロとバルナバの衝突」

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聖書の言葉

使徒言行録 15章36節~41節

メッセージ

2025年9月28日(日)熊本伝道所礼拝説教

使徒言行録15章36節~40節「パウロとバルナバの衝突」

1、

御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

今朝の説教題は「パウロとバルナバの衝突」といたしました。衝突と言う言葉は、先ほど、お読みしました聖書のみ言葉の中の39節から取りました。

もちろん、ただ二人の伝道者が衝突した、そのことについてだけ語るわけではありません。それだけでは、福音を語るべき説教には全くふさわしくないからです。そもそもこの衝突が生まれた背景には、パウロもバルナバも共に持っている福音宣教への情熱があります。また、この衝突の原因となったのは、マルコを伝道旅行に連れて行くかどうかということでした。若くて未熟な伝道者マルコに対する意見の違いがあったのですが、パウロにしても、バルナバにしてもその背後に、この若い伝道者マルコへの愛があったと思うのです。

最初に、ここでパウロとたもとを分かつことになったバルナバとマルコのその後の状態についてお話をしておきます。ここでは激論があり、二人が衝突して別れ別れに伝道するようになったのですけれども、そのままで終わってしまったわけではありません。最終的には、パウロはバルナバと関係を回復しました。またマルコも立派な役に立つ伝道者に成長して行きました。この使徒言行録ではバルナバは、これ以降は姿を消してしまいますので、何か初代教会の働きから脱落してしまったように思えます。しかし、新約聖書全体を見ると、バルナバは、コリントの信徒への手紙1,9章6節に一度だけ登場していることが分かります。そこにはこう書かれています。

コリントの信徒への手紙1,9章4節から6節。「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいと言う権利がないのですか」

ここでパウロは、自分がコリント教会の信徒たちに向かって自分が正規の使徒であることを改めて主張しています。当時テント作りの仕事しながら自給伝道していたパウロと同じようにあの同志バルナバもまた生活の資を得る権利を用いずに働きながら伝道に励んでいる、しかし、わたしもバルナバも、本来は他の使徒たちと同様に教会によって生活を支えられることが前提である、そういう存在なのですと言っているのです。バルナバの名前は、使徒言行録では、この15章以降は、登場しないのですけれども、パウロの愛する同労者としてあちらこちらと宣教旅行に励んでいたことが分かります。マルコについては、後ほど語ります。

さて、初めに二人が衝突したいきさつについて見て行きます。38節と39節にこう記されています。

「しかし、パウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、つれて行くべきではないと考えた。そこで意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって・・」、

ここには「意見が衝突した」と書いてありますKKえれども、原文は「意見」と言う言葉はなく、「衝突が起きて」とだけ書いてあります。意見の違いが原因だったのですが、パウロとバルナバと言う二人の人間の間の衝突、争いになったというわけです。ほかの翻訳を見ますと、新改訳とフランシスコ会訳は、衝突という言葉はなくて、「激しい議論が交わされ」と訳しています。マルコに対する考えの違いから、衝突ともいうべき激しい議論があり、その結果もう一緒に行動できないというところまでゆき、最終的には別々に伝道に行くことになったのです。平たく言えば、喧嘩別れをしたという状況であります。

私たちを愛し、愛し抜いてくださる主イエス様の弟子である教会の仲間、それも使徒パウロとバルナバと言う教会の素晴らしい指導者同士が喧嘩別れをしてしまうというようなことがあり得るのか、そう思う方もおられるかもしれません。

しかし、わたしたちは、主イエス様の恵みにより救いをいただいたのは間違いないことですけれど、それで直ちにクリスチャンの全員がまるで聖人のようになり、人間同士の争いや衝突から無縁のものになったというわけではありません。旧約聖書箴言16章32節に「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる」とあります。新改訳聖書では「怒りを遅くするものは勇士にまさり、自分の霊を治めるものは、町を攻め取るものにまさる」です。わたしたちは、救いを受けたものですけれども、同時にこのような言葉によって諫められる存在でもありということです。

衝突の原因は、今、始めようとしている伝道旅行にマルコという弟子を助手として連れて行くかどうかと言うことでした。

この伝道旅行は、後にパウロの第二次伝道旅行と呼ばれるようになります。実は、この伝道旅行は、主イエス様の福音が、アジア州を超えて広くマケドニア、今のギリシャへと広まり、さらにヨーロッパ全域にまで伝わる足掛かりができたという意味で、教会にとって世界伝道に向けた大変重要な分岐点、節目となるような旅行です。

ところが、パウロは当初は、このような伝道をしようとしていたのではなかったようです。36節をもう一度お読みしますので、お聞きください。

「数日の後、パウロはバルナバに言った。さあ前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って、兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見てこようではないか」

この時点でのパウロの計画は、この前の13章と14章に記されていた、アンティオキアからキプロス島から入り、それからキプロス島の対岸に渡って、彼らが伝道したすべての町をもう一度訪ね、兄弟たちがどうしているか見てこうよというものでした。つまり、パウロとバルナバが以前、訪ね歩いた町々の兄弟たちのフォローアップですね、これをしたいと思っていたわけです。もちろん、15章のエルサレム使徒会議がありましたから、その決議事項を携えて、伝道のアフターケアをしようとしたのです。

ところが、最初から、バルナバとの衝突が起きてしまい様子が変わってきます。バルナバだけがキプロス島に行き、パウロはシラスと言う弟子と一緒に、ちょうど第一伝道旅行とは逆回りで、デルべ、イコニオンへと進むことになりました。その前に立ち寄ったキリキア州は、パウロ生まれ故郷タルソスのある地方で、パウロが復活の主イエス様に出会って劇的な回心を遂げた後、三年間単独で伝道したところです。結果として二つのチームが地中海伝道をするようになりました。

パウロとシラスのチームは、デルべ、リストラ、イコニオンと巡回したところまで良かったのですが、聖霊によってこれ以上のアジア州の活動を阻まれ、さらにはトロアスで幻を見せられてマケドニアへと進むという大転換をします。結果的にフィリピからアテネ、コリントへとヨーロッパへの伝道が成し遂げられてゆくことになりました。もしも、パウロとバルナバとの衝突がなかったなら、こうはならなかったのかもしれません。

神様は、信仰者の歩みを導いて下さり、「ご計画に従って召されたものたちには、万事が益となるように共に働く」という、ローマの信徒への手紙8章28節のみ言葉の通りになるということを思うのであります。

3、

 さてバルナバとパウロの関係は特別なものでした。バルナバと言う人は、伝説によればルカによる福音書10章の、主イエス様がご自分の伝道に先立って町々村々に遣わした72人の弟子の一人だということです。12弟子ではありませんでしたが、主イエス様と一緒に暮らした弟子の一人であり、世界で最初のキリスト教会であるエルサレム教会の創立メンバーであったことは間違いありません。レビ族に属するユダヤ人であり本名はヨセフ、使徒言行録4章には、バルナバ、慰めの子というニックネームで呼ばれていたと書かれています。その名の通り、苦しむ人、苦しむ人に自然に寄り添うことが出来る、そういう賜物を与えられた人だと思われます。パウロにっては、信仰の大先輩です。

 バルナバがパウロに初めて会ったのは、パウロが回心後、はじめてエルサレムを訪ねたときです。エルサレム教会の誰もが、パウロを恐れて近づかない中、バルナバだけが彼の話を聞きました。そして、使徒たちのところへ案内してパウロを仲間として扱うように手引きしてくれたのです。それに先立ってステファノの殉教事件と大迫害があり、エルサレムから散らされていった人々は各地に福音伝え、神さまの恵みによってアンティオキアにも群れが起こさます。そのとき、キプロス島生まれでギリシャ語が出来るバルナバはエルサレムからアンティオキアに派遣されました。

 アンティオキア教会には、異邦人たちが次々と加わります。教会が大きく成長してゆく中で、バルナバは、彼の生まれ故郷で伝道していたサウロを探し出し、アンティオキアに連れてきて協力者にしたのです。13章のはじめには、大きく成長したアンティオキア教会には5人の預言者や教師がいたと書かれています。その中でもバルナバとパウロは、指導者的な地位にある伝道者であったと思われます。バルナバの方が使徒仲間では先輩に当たる、そういう人物です。

バルナバとパウロの二人の関係は、とても深いものです。互いに信頼関係をもって福音伝道の働きに当たっていました。福音を宣べ伝える賜物は、どうやらパウロの方がバルナバよりもまさっていたようです。使徒言行録は、これまで「バルナバとパウロ」と呼んでいたのですが、第一伝道旅行の途中から、一転して、「パウロとバルナバ」と呼ぶようになります。つまり二人の位置が変わってきたのですが、それでも二人に信頼関係は変わることはありませんでした。バルナバは、パウロの賜物を認め、それを受け入れて、リーダーシップを快く譲ったのであります。

バルナバは、本当に謙遜な人であり、自分の地位とか人々の注目度にこだわる人ではありませんでした。神様のために何が必要かと言うことをいつも思っていた人でありました。まさに、慰めの子、励ましの子としての賜物を持つ人であったのです。

 そんなバルナバですけれども、今回は、パウロの激しい意見に直面しました。そしてマルコを連れてゆきたいという意見を引っ込めることはありませんでした。どうしてバルナバは、マルコを連れてゆくことにこだわったのでしょうか。マルコが、バルナバにとって年の離れたいとこであり、二人が親せきだったということもあるかも知れません。それだけでなく、ここではマルコと言う人の人物像を見なければなりません。

 マルコは、ヘブライ語名はヨハネで、ヨハネ・マルコと呼ばれます。使徒言行録12章で、使徒ペトロがヘロデ王の迫害によって投獄されたとき、天使によって牢から救い出されますが、そのとき、ペトロは直ちにマルコと呼ばれるヨハネの母マリアの家に行ったとあります。そこでは、仲間たちが集まってペトロのために祈りを捧げていたのです。このマリアの家は、主イエス様もよく立ち寄った家であり、伝説では、最後の晩餐の場所であるともされます。主イエス様が天に帰って行かれた後、弟子たちが集まって九日間の祈りを捧げていた二階広間のある家だともされています。

つまり、マルコは幼い時から教会の仲間たちから愛されている兄弟であり、しかもキプロス島生まれということから、ギリシャ語にも堪能な若者でありました。第一次伝道旅行のとき、マルコはバルナバ、パウロと助手として、一緒に出発し、キプロス島で伝道します。しかし、キプロス島を出て、対岸のパンフィリア州についたとき、マルコは、理由はわかりませんが、一行と別れてエルサレムに帰ってしまったのです。この別れが、円満なものでなかったことから、今回の問題につながっているわけです。

 おそらく、マルコはパウロから不評を買うような行動をして、いわばバッテンをつけられたのです。バルナバは、マルコに、もう一度一緒に働いてもらい、汚名を返上し、名誉を挽回する機会を与えたかったのではないかと思うのです。いかにも慰めの子と呼ばれるバルナバらしい願いです。

しかし、パウロのほうは、勝手にエルサレムに帰ってしまい、宣教に一緒に行かなかったマルコを赦すことが出来ないだけでなく、彼の伝道者としての未熟さを心配したのだと思います。マルコという若い伝道者を巡る評価の違い、また、伝道旅行という厳しい働きを立派に成し遂げることへの強い責任感のようなものが、パウロをしてマルコへの拒否と言う形をとったのだと思います。

結局、このマルコへの態度を巡って、パウロとバルナバは別れてしまいました。わたしとしては、バルナバとパウロ、どちらの思い、どちらの判断も一理あるもので、どちらも否定することができません。しかし、二人の意見が対立しており、いずれかに決めなければならないのですから、致し方ありません。

宗教改革者のカルヴァンは、このパウロとバルナバの衝突の記事を長く注解しています。そして、バルナバの情に左右された軟弱さと、また最後までパウロに従わなかった頑固さを批判しています。カルヴァンは、ここでバルナバは脱落したとまで言っています。カルヴァンと言う人は、やはり厳しいところのある人、パウロに似ている人だと思いました。

バルナバは、マルコを連れて、キプロス島に向かいます。パウロのほうは、マルコと同じエルサレム教会出身の伝道者シラスを選び、キリキア州に向かいました。シラスは、エルサレム使徒会議の決定をアンティオキアに伝達するために選ばれて、パウロとバルナバに同行した弟子でありました。エルサレム教会で信頼の厚い人物であることがわかります。またシラスは、アンティオキア教会では、預言、すなわち説教をして兄弟たちを力づけ励ましたとされます。み言葉を語る人でもありました。その後のパウロとシラスの第二次伝道旅行の厳しい状況をみると、マルコを拒否し、シラスを選んだパウロの判断は適切であったように思います。

4、

さて、パウロによって拒否されたマルコですが、そのままでは終わっていません。バルナバとキプロスに行き、助言指導を受ける中でしっかりと伝道者としての資質を磨いていったのです。マルコのその後の消息は、その後に書かれたいくつかのパウロの手紙に出てきています。

コロサイの信徒への手紙は、パウロが獄にとらわれている状況でコロサイ教会にあてて書いた手紙ですが、その4章10節には、獄中のパウロの傍らにマルコがいると記されています。そして近々、マルコがコロサイに行くと思うから、以前に伝えているように伝道者として受け入れてほしいと書いています。また同じように獄中のパウロは、フィレモンと言う家の教会の指導者に手紙を書くのですが、そこでもマルコについて、わたしの協力者と言う言葉で紹介しています。さらには、パウロの最後の獄中書簡であるテモテへの手紙2の中で、マルコについてこんな言葉を語っています。第二テモテの4章9節から11節をお読みします。お聞きください。

「是非急いでわたしのところに来てください。デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアにいているからです。ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れてきてください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。」

最後の「よく助けてくれるからです」というところを新改訳聖書は、「彼はわたしの務めのために役に立つからです」と訳しています。はじめは頼りないと思われていたマルコですが、ここに至ってパウロ先生から「役に立つ人」と言われています。素晴らしいことだと思います。このマルコに対する良い評価の裏には、当然、あのとき自分に逆らってもマルコを強く擁護したバルナバを見直す思いもあったことは間違いないと思います。パウロもバルナバも、主イエス様の恵みの中で、以前の仲たがい、分裂の罪を悔い改め、和解し、再び共にはたらくことが出来ました。

主イエス様は、わたしたちの救いのためにご自分の神の命を十字架の上に捧げてくださいました。十字架の上での主イエス様の苦しみと死は、本来、わたしたちが受けなければならなかった罪に対する聖なる神の裁きです。主イエス様は、わたしたちの罪が赦され、神様との和解が与えられ、わたしたちが新しい命に生きることが出来るために、死んで下さり、そしてお蘇りになられました。教会の中で意見の違いがあり、それが衝突、分裂にまでいたってしまうことは、残念なことです。けれども、大切なことは、それがそのままでは終わらずに、主イエス様の天上での祈りの中で、互いの関係が回復されるということではないでしょうか。どこの教会においても、そのような物語があります。主イエス様は、今も生きておられます。祈りを致します。

わたしたちの救い主イエスキリストの父なる神、愛である方。尊い御名を崇めます。パウロとバルナバの衝突と和解、その背後にある主イエス・キリストにおける神さまの救いのみ業を改めて覚えることが出来、感謝を致します。福音伝道の働きをする教会に対して、神様は対立でなく和解、不信ではなく互いを良く知り愛し合うことを求めておられます。これから先もわたしたちの教会、すべてのキリストの教会が主イエス様の愛の中で生きる群れとなりますようあなたG亜導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。