聖書の言葉 使徒言行録 13章13節~41節 メッセージ 2025年6月29日(日)熊本伝道所礼拝説教 使徒言行録13章13節~41節「罪を赦す方」 1、 御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。先週は九伝協の講壇交換があり小倉伝道所の張先生が説教してくださいました。今朝は続けて聞いています使徒言行録に帰ってきました。与えらました御言葉は13章13節から41節であります。 聖書朗読をお聞きになって、いつもよりも長いと感じられた方が多いかと思います。いつもは10節から多くても20節ぶんくらいのみ言葉をお読みしますが、今朝は合わせて28節、しかも一節一節が長いところも多くて、確かに長いみ言葉でありました。 その中でも16節から41節まで、全体の9割以上が使徒パウロがピシディア州のアンテオキアのユダヤ教のシナゴーグで語った説教の言葉であります。今朝はこれを一気に学ぶことにいたしました。 使徒言行録は、この13章までのところでは、パウロとは呼ばないで、ヘブライ人の名前であるサウロと呼んできました。ところが、今朝の個所から終わりまでは、一貫してパウロというローマ風の名前のほうを使うようになります。やはり、伝道の舞台がエルサレムからヨーロッパへと拡大してゆく中で、そのときに人々から呼ばれている名前を用いているのだと思います。 そして、先週お読みしました13章4節では、バルナバとサウロというように書かれているのですが、今朝の13節からはパウロとその一行となり、14節でもパウロとバルナバというように順序が逆転していまして、この宣教旅行のリーダーがパウロであることが明確になっています。 使徒パウロ、英語読みではポールですが、もともとは、熱心なファリサイ派、律法に忠実な厳格派ユダヤ教徒でありました。そして彼は使徒言行録9章までは、生まれたばかりのキリスト教会を迫害する活動家でありました。教会迫害のためダマスコへ向かって旅をしている時に、復活の主イエス様がパウロに現れました。そして彼を教会の働き手、しかも異邦人への伝道者として召しだし、使徒としての使命を与えられたのです。パウロの回心と呼ばれる事件です。 彼の回心はわたしたちの回心とは少し違います。我々異邦人のように、もともと生きておられる神様のことを知らずに自分中心に生きてきて、自己中心のさまざまな欲望とその罪、またその結果に悩んでいた者が神様の恵みを知り悔い改めて新しくされる、まことの神様を信じるようになるというような、回心とはずいぶん違うのです。パウロの回心は、そうではなく、生まれたときから信じてきた旧約聖書の天地創造の神、このお方の本当のご計画、救い、本来の救いを実現してくださる方が主イエス・キリストだと悟らされて、この方を信じるようになった、そういう仕方での回心です。生きておられる主イエス様を知って、今まで信じていた旧約聖書の読み方がまったく変わってしまったのです。旧約聖書の全体を十字架にかかって死に、よみがえられたイエス・キリストを中心に読むようになった、それがパウロの回心でありました。 前回は、バルナバと彼の助手であるヨハネの出身地、キプロス島での伝道でした。今回彼らは港町パフォスを船出して対岸のベルガにゆき、そこからさらに奥にはいってピシディア州のアンティオキアへと向かいます。 パウロとバルナバを送り出した母教会はシリアのアンティオキアです。同じアンティオキアですが、もちろん別の町です。昔、アンティオコスと言う王様がいて、両方ともその名前を取って造られた町でありました。このときヨハネ、彼らの意に反してエルサレムに帰ttてしまったと書かれています。このヨハネに対する評価がのちにパウロとバルナバが別れてしまう原因にもなりました。このヨハネはヨハネ福音書を書いたヨハネではなく、別名はマルコでマルコによる福音書の著者とされます。コロサイ書4章10節によりますとマルコはバルナバのいとこであったようです。 さて、ユダヤ教の安息日である土曜日、二人はアンティオキアの町のシナゴーグ、ユダヤ教の会堂に入って礼拝します。会堂長たちは、見知らぬ旅人が来ている、しかも見るところユダヤ教のラビ、教師のようであって、確かめるとまさしくそうでありましたので、聖書朗読のあと、パウロのところに来て、何か励ましの言葉、奨励をしてくださいと頼んだのであります。 パウロは、当時のユダヤ教の指導者の一人、長老ガマリエルに弟子入りした律法学者の一人でした。これまでもユダヤ教のシナゴーグで説教した経験があったかもしれません。けれども、今はユダヤ教の教師、ラビとしてではなく、主イエス・キリストを伝える伝道者として、イエス・キリストの福音を語り始めたのでした。 戦前の有名な日本キリスト教会、旧日キの指導者であった植村正久は、説教とは聖書の言葉をただあれやこれやと説明するのではなく、ずばりイエス・キリストを紹介することであると言いました。今日のパウロの説教を読み返してみますと、まさに始めから終わりまでイエス・キリストを語り、伝えています。この説教の中でイエスという言葉はあわせて10回出てきます。それだけでなく、説教全体の構造がイエス・キリストへと向かっています。旧約聖書のイスラエルの歴史からはじまり、洗礼者ヨハネとイエス・キリストの十字架と復活にいたる神様の救いの計画を語ります。そして、最終的にモーセの律法を守るだけでは成し遂げられない罪の赦しと神の義がイエス・キリストを信じるなら与えられると宣言するのです。最後は、旧約聖書ハバクク書1章5節の神の裁きの預言を読みます。こうならないように、今こそ主イエス・キリストを信じなさいと目の前にいる人々を信仰へと招くのです。 2、 説教の第一段落は16節から25節までです。ここでパウロは、神様が旧約時代のイスラエルの民に何をしてくださったかを大急ぎで語っています。聴き手はピシディア州大都会のアンティオキアに住む寄留のユダヤ人それに加えて、神を畏れる異邦人、つまり割礼は受けていないけれども、旧約聖書を読み、天地創造の神に心を向けている異邦人がいました。みなが旧約聖書を読んでいますし、そもそもシナゴーグ礼拝の中心は旧約聖書のみ言葉の説教でした。 神はイスラエルを選び、導き、その反抗を忍耐し、ついにカナンの地を与えて下さいました。そして、この民のためにサウル王についでダビデ王を立て祝福しました。ここまでは旧約聖書の創世記から列王記までの要約です。 イエス・キリストは、このダビデ王の子孫として送られた救い主です。旧約聖書の神の民であるイスラエルは、ダビデ王の時代に物質的にも霊的にも最高潮に達し、その子であるソロモン王の時から衰退に転じます。そのご、ついに南北にわかれ、アッシリヤ、続いてバビロニアによって滅ぼされてしまいます。そして最後はローマ帝国の一部となります。神様は、かつてこのダビデ王に約束されました。それはサムエル記下7章1節から17節、ダビデ契約とも呼ばれる約束で、預言者ナタンによって告げられたものです。それはダビデの子孫からでるものへの祝福であり、その王国をゆるぎないものとし、その王座をとこしえに堅く据えるという約束です。主イエス様の時代のユダヤ人たちは、このダビデを継ぐものを救い主として待ち望んでいました。パウロは、イエス・キリストこそこの約束の救い主だというのです。 説教の第一段落の結びは、洗礼者ヨハネの言葉です。洗礼者ヨハネは旧約聖書の預言者ではありませんが、救い主を告げ知らせるという点では、最後の旧約的な預言者です。彼は自分よりもさらに優れたもの、あなたたちが本当に期待していたお方が来ると予言しました。そして実際にヨルダン川でイエス・キリストと出会い、神の子羊だと喜び、主イエス様に洗礼を授けました。 3、 説教の中ほど、36節でパウロは再び呼びかけます。「兄弟たち、アブラハムの子孫に方々、ならびにあなた方の中にいて神を畏れる人達、この救いの言葉はわたしたちに送られました。」ここから第二段落が始まります。 パウロは聴き手に向かって「兄弟たち」と呼びかけて改めて注意を促します。今から大切なことを話すからよく聞いて欲しいと言うのです。わたしたちも改めて耳をそばだてたいと思います。この段落では、イエスの名が集中的に告げ知らされます。洗礼者ヨハネが告げていた救いの言葉、別の言い方では「救いの出来事」、「救いそのものであるお方」、それがイエス・キリストであると言うのです。 そしてパウロは、自分もその一員であったユダヤ教の指導者たちの罪を語ります。エルサレムに住むユダヤ人たちは、この方を十字架に付け、墓に葬りました。しかし神様はこの救い主イエスをよみがえさせられた、復活させてくださったと証言します。これは旧約聖書のみ言葉の約束であり、イエス・キリストにおいてそれが実現したとパウロは続けています。イエス様の十字架だけでなく主イエス様の復活も聖書のみ言葉の通りになされたことです。そして今や主イエス様は、もはや朽ち果てることのないお方として生きておられるのです。 パウロの説教全体が、イエス・キリストこそ旧約聖書の中心メッセージであると語っていますが、その中でも旧約聖書の中のみ言葉のいくつかを直接引用して、キリスト預言としています。おおざっぱに言って4か所、そのような個所があります。まず22節で、カギ括弧にはいっていますが、 「私はエッサイの子でわたしの心に適うもの、ダビデを見出した。彼はわたしの思うところをすべて行う」このみ言葉は、主イエス様の系図につながるダビデへの祝福ですが、全く同じ言葉は旧約に見いだせず、ここは、サムエル記上13章14節と16章12節詩編89編21節の混合引用と考えられます。 次に33節「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを生んだ」これは。パウロ自身が詩編2編のみ言葉と直接言っているとおり、詩編2編7節です。2編全体は神様が、救い主に王権を授与することを語る詩編です。 そして34節 「わたしはダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える」これにつづく35節「あなたはあなたの聖なるものを朽ち果てるままにしてはおかれない」があります。 後のほうの35節は詩編16編10節で、このみ言葉は、2章、使徒ペトロのペンテコステ説教にも引用されています。わかりにくいのは、その前の34節です。これはイザヤ書55章3節ですが、イザヤ書の新共同訳のその個所は、「わたしは、あなたたちと、とこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」となっています。 実は、このイザヤ書55章と言いますのは、その11節の神のみ言葉の力を証しするところ、「わたしの口から出るわたしの言葉も空しくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの臨むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」が大切なのです。しかし一方で前半の1節から5節も大切であります。神の救いの約束であるからです。特に4節と5節はメシア預言、キリスト預言でもあります。 「見よ、かつて私は彼を立てて」つまりダビデを立てて、「諸国民への証人とし諸国民の指導者、統治者とした」そして5節へと続きます。「今あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国はあなたのもとに馳せ参ずるであろう。あなたの神である主、あなたに輝きを与えられるイスラエルの神のゆえに」 あなたと呼ばれるメシアが、ダビデに匹敵する、いやそれ以上の救いを与えるというのです。 そしてこのイザヤ書55編の1節も、主イエス様の恵みを示しています。「渇きを覚えている者は、皆水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」「穀物を求めて食べよ。来て銀を払うことなく穀物を求め、ぶどう酒と乳を得よ」 来るべきメシア、イエス様はわたしたちにとって、水であり、穀物であり、ぶどう酒であり、乳であり、命のために欠くことが出来ないものとして示されます。 このみ言葉に次に置かれているのが、パウロが引用した3節なのです。3節の全体はこう書かれています。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい」「聞き従って命を得よ」「私はあなたたちと、とこしえの契約を結ぶ」「ダビデに約束した真実の慈しみゆえに」 旧約聖書イザヤ書の「ダビデに約束した真実の慈しみ」というところが、パウロの引用では「ダビデに約束した聖なる確かな祝福」となっています。 「ダビデに約束した確かな祝福」 これはパウロの言い間違いや旧約のみ言葉の記憶違いでもありません。パウロは、当時の旧約聖書のギリシャ語訳、いわゆる70人訳から引用していますし、新共同訳のイザヤ書は、ヘブライ語の旧約聖書から訳していますので、日本語の訳語の違いがより現れやすいのです。 パウロの引用したギリシャ語訳のイザヤ書を確認しますと、実は、ほぼ同じ単語が同じ順で引用されていることがわかります。「聖なる確かな祝福」と「真実の慈しみ」とは、その日本語へ訳し方の違いからきている違いなのです。 元のギリシャ語のホシオス・ピスタ、を新改訳聖書は「聖なる確かな祝福」と訳します。またフランシスコ会訳は「確かな聖なる恵み」と訳します。そして昨年出ました新しい共同訳は「確かな聖なるもの」、新しい新改訳は「確かで真実な約束」です。 鍵は、やはりヘブライ語聖書のイザヤ書です。そこでホシオスはヘセドのギリシャ訳であることが分かります。ヘセドは、通常は恵み、慈しみ、祝福ですが、それらがすべて神の真実な約束によるものであることが重要です。そこでホシオス・ピスタが「確かな祝福」とも「聖なる慈しみ」とも訳せるわけです。 4、 パウロの説教は38節の三回目の呼びかけ、で第三の段落に入り、そこで最終的な結論が語られます。「だから兄弟たち、知っていただきたい」 何を知っていただきたいというのでしょうか。それは39節「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」 義とされる、それは罪が赦されることす。罪あるものが罪なしとされることです。あなたの罪はすでに主イエス様の十字架の血によって確かに償われた。だから安心してよい、わたしたちはやすらぎを得るのです。 わたくしは信仰を頂きました時、この罪の赦しの恵みこそがわたしにとって大きな喜びでした。主イエス様はわたしのために十字架に架かってくださった、命がけでわたしを救ってくださった、これは神の確かな祝福、真実の慈しみです。 かつてパウロは、神の戒め、律法を完全に守り通そうと努力していました。けれどもそこで得られたものは、偽りの自身と他者への裁きの心でした。律法によっては、決して与えられることのない神の義が恵みによって与えられました。それはイエスキリストの義、イエス・キリストの慈しみ、祝福、いやイエス・キリストそのものであります。 パウロは勧めます。神は、このお方を送ってくださった、それゆえに預言者が警告する神様の最終的な裁き、怒りは覆われ、解決された、このお方を信じよう。わたしたちもまた。パウロに聞き従いと思います。祈りを致します。
2025年6月29日(日)熊本伝道所礼拝説教
使徒言行録13章13節~41節「罪を赦す方」
1、
御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。先週は九伝協の講壇交換があり小倉伝道所の張先生が説教してくださいました。今朝は続けて聞いています使徒言行録に帰ってきました。与えらました御言葉は13章13節から41節であります。
聖書朗読をお聞きになって、いつもよりも長いと感じられた方が多いかと思います。いつもは10節から多くても20節ぶんくらいのみ言葉をお読みしますが、今朝は合わせて28節、しかも一節一節が長いところも多くて、確かに長いみ言葉でありました。
その中でも16節から41節まで、全体の9割以上が使徒パウロがピシディア州のアンテオキアのユダヤ教のシナゴーグで語った説教の言葉であります。今朝はこれを一気に学ぶことにいたしました。
使徒言行録は、この13章までのところでは、パウロとは呼ばないで、ヘブライ人の名前であるサウロと呼んできました。ところが、今朝の個所から終わりまでは、一貫してパウロというローマ風の名前のほうを使うようになります。やはり、伝道の舞台がエルサレムからヨーロッパへと拡大してゆく中で、そのときに人々から呼ばれている名前を用いているのだと思います。
そして、先週お読みしました13章4節では、バルナバとサウロというように書かれているのですが、今朝の13節からはパウロとその一行となり、14節でもパウロとバルナバというように順序が逆転していまして、この宣教旅行のリーダーがパウロであることが明確になっています。
使徒パウロ、英語読みではポールですが、もともとは、熱心なファリサイ派、律法に忠実な厳格派ユダヤ教徒でありました。そして彼は使徒言行録9章までは、生まれたばかりのキリスト教会を迫害する活動家でありました。教会迫害のためダマスコへ向かって旅をしている時に、復活の主イエス様がパウロに現れました。そして彼を教会の働き手、しかも異邦人への伝道者として召しだし、使徒としての使命を与えられたのです。パウロの回心と呼ばれる事件です。
彼の回心はわたしたちの回心とは少し違います。我々異邦人のように、もともと生きておられる神様のことを知らずに自分中心に生きてきて、自己中心のさまざまな欲望とその罪、またその結果に悩んでいた者が神様の恵みを知り悔い改めて新しくされる、まことの神様を信じるようになるというような、回心とはずいぶん違うのです。パウロの回心は、そうではなく、生まれたときから信じてきた旧約聖書の天地創造の神、このお方の本当のご計画、救い、本来の救いを実現してくださる方が主イエス・キリストだと悟らされて、この方を信じるようになった、そういう仕方での回心です。生きておられる主イエス様を知って、今まで信じていた旧約聖書の読み方がまったく変わってしまったのです。旧約聖書の全体を十字架にかかって死に、よみがえられたイエス・キリストを中心に読むようになった、それがパウロの回心でありました。
前回は、バルナバと彼の助手であるヨハネの出身地、キプロス島での伝道でした。今回彼らは港町パフォスを船出して対岸のベルガにゆき、そこからさらに奥にはいってピシディア州のアンティオキアへと向かいます。
パウロとバルナバを送り出した母教会はシリアのアンティオキアです。同じアンティオキアですが、もちろん別の町です。昔、アンティオコスと言う王様がいて、両方ともその名前を取って造られた町でありました。このときヨハネ、彼らの意に反してエルサレムに帰ttてしまったと書かれています。このヨハネに対する評価がのちにパウロとバルナバが別れてしまう原因にもなりました。このヨハネはヨハネ福音書を書いたヨハネではなく、別名はマルコでマルコによる福音書の著者とされます。コロサイ書4章10節によりますとマルコはバルナバのいとこであったようです。
さて、ユダヤ教の安息日である土曜日、二人はアンティオキアの町のシナゴーグ、ユダヤ教の会堂に入って礼拝します。会堂長たちは、見知らぬ旅人が来ている、しかも見るところユダヤ教のラビ、教師のようであって、確かめるとまさしくそうでありましたので、聖書朗読のあと、パウロのところに来て、何か励ましの言葉、奨励をしてくださいと頼んだのであります。
パウロは、当時のユダヤ教の指導者の一人、長老ガマリエルに弟子入りした律法学者の一人でした。これまでもユダヤ教のシナゴーグで説教した経験があったかもしれません。けれども、今はユダヤ教の教師、ラビとしてではなく、主イエス・キリストを伝える伝道者として、イエス・キリストの福音を語り始めたのでした。
戦前の有名な日本キリスト教会、旧日キの指導者であった植村正久は、説教とは聖書の言葉をただあれやこれやと説明するのではなく、ずばりイエス・キリストを紹介することであると言いました。今日のパウロの説教を読み返してみますと、まさに始めから終わりまでイエス・キリストを語り、伝えています。この説教の中でイエスという言葉はあわせて10回出てきます。それだけでなく、説教全体の構造がイエス・キリストへと向かっています。旧約聖書のイスラエルの歴史からはじまり、洗礼者ヨハネとイエス・キリストの十字架と復活にいたる神様の救いの計画を語ります。そして、最終的にモーセの律法を守るだけでは成し遂げられない罪の赦しと神の義がイエス・キリストを信じるなら与えられると宣言するのです。最後は、旧約聖書ハバクク書1章5節の神の裁きの預言を読みます。こうならないように、今こそ主イエス・キリストを信じなさいと目の前にいる人々を信仰へと招くのです。
2、
説教の第一段落は16節から25節までです。ここでパウロは、神様が旧約時代のイスラエルの民に何をしてくださったかを大急ぎで語っています。聴き手はピシディア州大都会のアンティオキアに住む寄留のユダヤ人それに加えて、神を畏れる異邦人、つまり割礼は受けていないけれども、旧約聖書を読み、天地創造の神に心を向けている異邦人がいました。みなが旧約聖書を読んでいますし、そもそもシナゴーグ礼拝の中心は旧約聖書のみ言葉の説教でした。
神はイスラエルを選び、導き、その反抗を忍耐し、ついにカナンの地を与えて下さいました。そして、この民のためにサウル王についでダビデ王を立て祝福しました。ここまでは旧約聖書の創世記から列王記までの要約です。
イエス・キリストは、このダビデ王の子孫として送られた救い主です。旧約聖書の神の民であるイスラエルは、ダビデ王の時代に物質的にも霊的にも最高潮に達し、その子であるソロモン王の時から衰退に転じます。そのご、ついに南北にわかれ、アッシリヤ、続いてバビロニアによって滅ぼされてしまいます。そして最後はローマ帝国の一部となります。神様は、かつてこのダビデ王に約束されました。それはサムエル記下7章1節から17節、ダビデ契約とも呼ばれる約束で、預言者ナタンによって告げられたものです。それはダビデの子孫からでるものへの祝福であり、その王国をゆるぎないものとし、その王座をとこしえに堅く据えるという約束です。主イエス様の時代のユダヤ人たちは、このダビデを継ぐものを救い主として待ち望んでいました。パウロは、イエス・キリストこそこの約束の救い主だというのです。
説教の第一段落の結びは、洗礼者ヨハネの言葉です。洗礼者ヨハネは旧約聖書の預言者ではありませんが、救い主を告げ知らせるという点では、最後の旧約的な預言者です。彼は自分よりもさらに優れたもの、あなたたちが本当に期待していたお方が来ると予言しました。そして実際にヨルダン川でイエス・キリストと出会い、神の子羊だと喜び、主イエス様に洗礼を授けました。
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説教の中ほど、36節でパウロは再び呼びかけます。「兄弟たち、アブラハムの子孫に方々、ならびにあなた方の中にいて神を畏れる人達、この救いの言葉はわたしたちに送られました。」ここから第二段落が始まります。
パウロは聴き手に向かって「兄弟たち」と呼びかけて改めて注意を促します。今から大切なことを話すからよく聞いて欲しいと言うのです。わたしたちも改めて耳をそばだてたいと思います。この段落では、イエスの名が集中的に告げ知らされます。洗礼者ヨハネが告げていた救いの言葉、別の言い方では「救いの出来事」、「救いそのものであるお方」、それがイエス・キリストであると言うのです。
そしてパウロは、自分もその一員であったユダヤ教の指導者たちの罪を語ります。エルサレムに住むユダヤ人たちは、この方を十字架に付け、墓に葬りました。しかし神様はこの救い主イエスをよみがえさせられた、復活させてくださったと証言します。これは旧約聖書のみ言葉の約束であり、イエス・キリストにおいてそれが実現したとパウロは続けています。イエス様の十字架だけでなく主イエス様の復活も聖書のみ言葉の通りになされたことです。そして今や主イエス様は、もはや朽ち果てることのないお方として生きておられるのです。
パウロの説教全体が、イエス・キリストこそ旧約聖書の中心メッセージであると語っていますが、その中でも旧約聖書の中のみ言葉のいくつかを直接引用して、キリスト預言としています。おおざっぱに言って4か所、そのような個所があります。まず22節で、カギ括弧にはいっていますが、
「私はエッサイの子でわたしの心に適うもの、ダビデを見出した。彼はわたしの思うところをすべて行う」このみ言葉は、主イエス様の系図につながるダビデへの祝福ですが、全く同じ言葉は旧約に見いだせず、ここは、サムエル記上13章14節と16章12節詩編89編21節の混合引用と考えられます。
次に33節「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを生んだ」これは。パウロ自身が詩編2編のみ言葉と直接言っているとおり、詩編2編7節です。2編全体は神様が、救い主に王権を授与することを語る詩編です。
そして34節
「わたしはダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える」これにつづく35節「あなたはあなたの聖なるものを朽ち果てるままにしてはおかれない」があります。
後のほうの35節は詩編16編10節で、このみ言葉は、2章、使徒ペトロのペンテコステ説教にも引用されています。わかりにくいのは、その前の34節です。これはイザヤ書55章3節ですが、イザヤ書の新共同訳のその個所は、「わたしは、あなたたちと、とこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」となっています。
実は、このイザヤ書55章と言いますのは、その11節の神のみ言葉の力を証しするところ、「わたしの口から出るわたしの言葉も空しくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの臨むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」が大切なのです。しかし一方で前半の1節から5節も大切であります。神の救いの約束であるからです。特に4節と5節はメシア預言、キリスト預言でもあります。
「見よ、かつて私は彼を立てて」つまりダビデを立てて、「諸国民への証人とし諸国民の指導者、統治者とした」そして5節へと続きます。「今あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国はあなたのもとに馳せ参ずるであろう。あなたの神である主、あなたに輝きを与えられるイスラエルの神のゆえに」
あなたと呼ばれるメシアが、ダビデに匹敵する、いやそれ以上の救いを与えるというのです。
そしてこのイザヤ書55編の1節も、主イエス様の恵みを示しています。「渇きを覚えている者は、皆水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」「穀物を求めて食べよ。来て銀を払うことなく穀物を求め、ぶどう酒と乳を得よ」
来るべきメシア、イエス様はわたしたちにとって、水であり、穀物であり、ぶどう酒であり、乳であり、命のために欠くことが出来ないものとして示されます。
このみ言葉に次に置かれているのが、パウロが引用した3節なのです。3節の全体はこう書かれています。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい」「聞き従って命を得よ」「私はあなたたちと、とこしえの契約を結ぶ」「ダビデに約束した真実の慈しみゆえに」
旧約聖書イザヤ書の「ダビデに約束した真実の慈しみ」というところが、パウロの引用では「ダビデに約束した聖なる確かな祝福」となっています。
「ダビデに約束した確かな祝福」
これはパウロの言い間違いや旧約のみ言葉の記憶違いでもありません。パウロは、当時の旧約聖書のギリシャ語訳、いわゆる70人訳から引用していますし、新共同訳のイザヤ書は、ヘブライ語の旧約聖書から訳していますので、日本語の訳語の違いがより現れやすいのです。
パウロの引用したギリシャ語訳のイザヤ書を確認しますと、実は、ほぼ同じ単語が同じ順で引用されていることがわかります。「聖なる確かな祝福」と「真実の慈しみ」とは、その日本語へ訳し方の違いからきている違いなのです。
元のギリシャ語のホシオス・ピスタ、を新改訳聖書は「聖なる確かな祝福」と訳します。またフランシスコ会訳は「確かな聖なる恵み」と訳します。そして昨年出ました新しい共同訳は「確かな聖なるもの」、新しい新改訳は「確かで真実な約束」です。
鍵は、やはりヘブライ語聖書のイザヤ書です。そこでホシオスはヘセドのギリシャ訳であることが分かります。ヘセドは、通常は恵み、慈しみ、祝福ですが、それらがすべて神の真実な約束によるものであることが重要です。そこでホシオス・ピスタが「確かな祝福」とも「聖なる慈しみ」とも訳せるわけです。
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パウロの説教は38節の三回目の呼びかけ、で第三の段落に入り、そこで最終的な結論が語られます。「だから兄弟たち、知っていただきたい」
何を知っていただきたいというのでしょうか。それは39節「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」
義とされる、それは罪が赦されることす。罪あるものが罪なしとされることです。あなたの罪はすでに主イエス様の十字架の血によって確かに償われた。だから安心してよい、わたしたちはやすらぎを得るのです。
わたくしは信仰を頂きました時、この罪の赦しの恵みこそがわたしにとって大きな喜びでした。主イエス様はわたしのために十字架に架かってくださった、命がけでわたしを救ってくださった、これは神の確かな祝福、真実の慈しみです。
かつてパウロは、神の戒め、律法を完全に守り通そうと努力していました。けれどもそこで得られたものは、偽りの自身と他者への裁きの心でした。律法によっては、決して与えられることのない神の義が恵みによって与えられました。それはイエスキリストの義、イエス・キリストの慈しみ、祝福、いやイエス・キリストそのものであります。
パウロは勧めます。神は、このお方を送ってくださった、それゆえに預言者が警告する神様の最終的な裁き、怒りは覆われ、解決された、このお方を信じよう。わたしたちもまた。パウロに聞き従いと思います。祈りを致します。