聖書の言葉 使徒言行録 13章1節~12節 メッセージ 2025年6月15日(日)熊本伝道所礼拝説教 使徒言行録13章1節~12節「偽預言者との対決」 1、 御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 はじめに今朝の説教題のことですが、先週の週報で予告していました説教題は、「キプロス伝道1」でしたが、今朝はそれを変更して「偽預言者との対決」といたしました。バルナバとサウロが第一回宣教旅行に出かけるや否や、最初の宣教地キプロス島でバルイエスと言う名の偽預言者に遭遇したのです。実は、新約聖書では偽預言者という言葉は14回出てきています。また旧約聖書では偽預言者という名詞ではでていませんが、偽りの預言を語るといった動詞形で10回以上記されています。聖書全体がこの偽預言者の問題に大きな関心を持っていることが分かります。 偽預言者は、現代日本でも活発に動いています。そして残念ながら一見すると目覚ましい成果を上げているように思えます。人々が、この世界で生きて行くことの不安や辛さにつけ込んで、現世利益や心の平安を約束し、人々をだまして金銭を得ようとする人たちです。仏教系、キリスト教系、自己啓発やアスピリチュアルなど、いろいろ出てきています。巧みな弁舌と演出によって多くの人の支持を得て金銭を巻きあげるのです。ユーチューブやエックスに氾濫している陰謀論の類もこの仲間に分類できると思います。 偽預言者の教えを分析すると、要するに信じる対象は何でもいい、カリスマ性のある教祖様で良いし、イエス・キリストの再来とかであってもよいのです。信じるなら祝福される、お金も地位も健康も望み通りになると約束します。 キリスト教会においても、たくさんの人が集まっている教会にそのような要素はないでしょうか。かたちとしては礼拝がなされ説教がなされていても、それは「聖書に記されている神の御言葉」を真実に語るのではなくて、この世的な祝福に終始する説教であると言うことも起こり得ます。現代の教会がそうであってはならないと思います。バルイエスは偽預言者でした。使徒言行録の時代にもそのような人がいたことは間違いないことです。 1節から4節に記されていますが、バルナバとサウロは、アンテオキア教会から送り出されて世界伝道に遣わされます。聖霊の神様が直接伝道者に働いた著言うのではなくて、すべては聖霊が教会に働かれると言う仕方でなされたことでした。このことは覚えておかなければならないことだと思います。バルナバとサウロは、最初の宣教地キプロス島で、ユダヤ教のシナゴーグ、会堂で説教し、また、その地の地方総督セルギウスに一生懸命伝道しました。けれども、この偽預言者バルイエスが必死になってそれを妨げたというのです。この偽預言者は、総督セルギウスにうまく取り入っていて親しく交際していたのです。 バルイエスは各地に離散していたユダヤ人の一人でギリシャ語が良くできたと思いますが、キプロス島に住み、地方総セルギウスと交際し、その魔術の力を発揮してセルギウスの保護を受けていたものと思われます。総督がバルナバやサウロの言葉に耳を傾けてしまってはまずいと思ったのです。 バルイエスと言う名前は、ヘブライ語ではイエスの息子という意味です。バルは息子、イエスはヘブライ語のヨシュアのギリシャ語読みですから、バルイエスはヨシュアの息子ということになります。イエス、あるいはヨシュアは、「主は救い」という意味で、ユダヤ人にはよくある名前です。旧約聖書のヨシュア記の主人公の名でもあります。 8節には、この偽預言者の別名として魔術師エリマという名が記されています。魔術師と訳されていのはギリシャ語のマゴスです。マゴスには魔術師、占い師、博士などいろいろな意味があります。手品のことをマジック、手品師はマジシャンですが、マジックの語源ともなった言葉です。ベツレヘムで生まれたばかりのイエス様を訪ねて来た博士たちもマゴスと呼ばれています。もともとはペルシャの密儀宗教の祭司に由来する人たちです。古文書や占星術など多くの知識を持っていて、人知では計り知れないことを予告したり、儀式や不思議な業を行うことを生業にしている人です。エリマという名前は、固有名詞ではなくアラビア語の知者、賢者、先見者ハ-リームのギリシャ語読みだと考えられています。 使徒言行録は、彼を偽預言者と呼んでいます。この人のことを決して良い人物とは記していません。このあと聖霊に満たされたサウロは、バルイエスんついて「偽りと欺きに満ちた者、すべての正義の敵」と呼んでいます。単にバルナバとサウロの伝道を邪魔したからというだけでなく、彼自身が、人々を騙して利得を得ていた邪悪な人物であると思われます。 2 キプロス島は地中海に浮かぶ四国の半分ほどの面積の島です。古代からたくさんのユダヤ人が住んでいました。アンテオキア教会からは海を挟んで200キロ近く離れています。聖霊によって送り出されたと書かれていますけれども、その実際のプロセスは、教会員たちが決定し、二人に手をおいて祝福を祈りました。そして助手としてヨハネと呼ばれるマルコを伴った三人はアンテオキア近くの港であるセレウケアから船に乗りキプロス島に上陸しています。聖霊は教会を用い、また多くの人々を用いて働かれたということが出来ます。そのようにして聖霊が彼らを世界伝道に送りだしました。偽預言者との対決において彼らが勝利することが出来たのもまた彼らが聖霊によって力を頂いたからでありました。主イエス様と天の父なる神様から出る聖霊は偽預言者を決して用いることはなく、最終的に偽預言者を助けることもなさらないのです。 キプロス島。。また助手として一緒に行ったヨハネと呼ばれるマルコもバルナバのいとこであるとコロサイ書4章に書かれています。キプロス島が世界宣教の最初の地として選ばれたのは、バルナバとマルコが関係する土地であり、かつアンテオキア教会からそれほど遠くなかったからでしょう。 教会が離れた別の場所で開拓伝道を始める時、その土地の選定に当たってはいろいろなことを考えなければなりません。人口が多い、少ないとか伝道が進みそうだとかいう点と共に、やはり遣わされる人との関係が重要であることがわかります。伝道者と縁もゆかりもない土地ではなく、土地勘があり、また助けてくれる人々がいると期待できる場所が良いのです。それらすべての事柄を含めて聖霊が三人を送り出しました。 さてキプロス島の東の端の港町、サラミスに着いた一行はユダヤ教の会堂、シナゴーグに向かいました。そこではユダヤ人が集まり神様を礼拝しています。サラミスの町のいくつかの会堂に入り、彼らは福音を語りました。異邦人のための伝道者として立てられたパウロですけれども、まずはユダヤ人に向かって福音を語りました。その後、島全体を巡って神の言葉を告げ知らせたとあります。 実は、使徒言行録11章19節には、ステファノの殺害から始まった迫害から逃れてエルサレム教会の会員たちがキプロス島に行き、そこで福音を告げ知らせたと書いてあります。この島にはバルナバとサウロがくる以前から、イエス・キリストが伝えられていたことになります。小さかったかも知れませんが、キリスト者の群れも存在していたのではないでしょうか。バルナバとサウロ、そしてヨハネ・マルコは、その人たちに助けられながら、キプロス島のあちらこちらを回って伝道を致しました。そして島の東の端の町パフォスに着きました。パフォスはキプロスの首都です。そこには、偽預言者バルイエスがいて、キプロス島の地方総督セルギウス・パウルスと交際しておりました。交際していたと書かれていますのは意訳で、元の言葉は、一緒にいたという言葉です。おそらくバルイエス、魔術師エルマは、首都パフォスの総督官邸の中に住まいを与えられていたと思われます。総督のお抱え魔術師として総督のために占いをしたり、相談相手になったりしていたのだと思います。神の託宣を伝える人、あるいは学者、知識人としてふるまっています。 ローマの多神教文化の中で育ち、真の神様を知らず礼拝もしない総督セルギウス・パウルスにとって、魔術師エルマは、頼りになる存在であったと思われます。魔術師エルマは、自分で偽預言者と名乗っていたのではありません。むしろ総督のために正しく神のお告げを取り次ぐものとして、我こそ真の預言者である、魔術さえも行う力を持つものとして自信満々であったのです。このとき彼はキプロス島総督が公式に認める宗教家であります。富と名誉とをそのことによって得ていました。そして多神教世界、言い換えると人間のご都合宗教の祭司として、支配階級である総督を喜ばせる言葉を語り、祈りをしました。彼は、自分の地位と権力を守るために神の言葉らしいものを語る人であり、真実ではないゆがんだ宗教家でした。ここには国家権力に従属する宗教家の姿があります。 そこに現れたのが、バルナバとサウロです。彼らは、主イエス様の十字架と復活を通して神様の本当の愛を世界に告げ知らせる伝道者です。地方総督セルギウス・パウルスは賢明な人物でした。キプロス島に派遣されてきた二人の宣教師と一人の助手が伝えている福音を自分も聞いてみたいと思うようになりました。そしてついに、彼らを総督官邸に招いて、話を聞こうとしたのです。 魔術師のバルイエスにしてみますと、もし、地方総督がバルナバとサウロの伝えるイエス・キリストに興味を抱き、万が一彼らの福音を信じるようになったとすれば、自分の立場が危うくなります。8節にはこう記されています。 「魔術師エルマは、二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした」 彼が遠ざけようと焦るほどに、セルギウス・パウルスはこの信仰、つまりバルナバとサウロが伝えているイエス・キリストに好意を抱きます。それだけでなく自らイエス・キリストの福音を受け入れようとしていたと思われます。だからこそ、魔術師エルマは必死になったのです。 3、 さて、両者の対決の日がやってきました。サウロはこのとき聖霊に満たされていたと書かれています。別の言い方をすれば、聖霊がサウロを満たしている状態でした。聖霊の神と一つとなったサウロは、魔術師をにらみつけて言いました。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちたもの、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」 ここではバルイエスが、魔術師であるということ以上に、主イエス様の福音を聞こうとする地方総督の前に立ちはだかり、バルナバとサウロに敵対しようとしたことが問題になっています。サウロは、バルイエスをにらみつけ、お前は欺きに満ちたものであり悪魔の子であると宣言します。一人の人が救われようとしている時、これを意図的に妨害するものは本人の意識とは関係なく悪魔の働きをするもの、悪魔の子と呼ばれるのです。 使徒言行録8章を見ますと、エルサレム教会で選ばれた7人の奉仕者の一人のフィリポは、サマリヤの地で宣教しました。この時、その地でフィリポに着き従ってきたのはシモンと言う魔術師でした。この人は、フィリポに向かって自分にも霊の力を与えてほしいと言ってお金を持ってきたと書かれています。フィリポは、お金の受け取りを拒否して、神様の前に悔い改めるように求めています。そうすれば赦してもらえるとも告げています。 しかし、キプロス島の魔術師エルマは、バルナバとサウロの伝道に敵対しています。イエス・キリストの福音の伝道を妨げ、総督にこれまで通り自分の魔術、学識や能力により頼むように求めたのです。そしてこのことから神の懲罰を受けることになりました。 旧約聖書、列王記上18章に預言者エリヤとバアルという異教の神の預言者たちとの対決の物語があります。このとき、イスラエルの王、アハブと王妃イゼベルは450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者と共にいました。預言者エリヤは、その偽預言者たちをカルメル山上に集めて彼らと対決しました。神はエリヤを助けて下さりエリヤは勝利しました。 わたしたちは、キリスト教以外のさまざまな宗教を必ず敵視しなければならないというのではないと思います。その教えの中には主イエス様の教えと共通するものも多くありますし、わたしたちは他の宗教と協力すべきこともあると思います。しかし彼らが明確に福音伝道を妨げ、敵対してくるならば、また教会をまどわそうとするなら、わたしたちもまたひるむことなく自らの信仰を貫いてこれと戦うことが求められるのです。 神様は、サウロを用いて彼に聖霊を満たしてくださり、偽預言者との闘いに勝利させてくださいました。魔術エルマは、神がよしとするときまで活動することが全く出来なくなりました。それだけではなく、サウロが告げた通り、地方総督セルギウス・パウルスの前で、その目はかすみ、すっかり見えなくなって歩き回りながら助けを求めるという醜態をさらしたのです。 サウロとバルイエス、別名魔術師エルマのどちらが真の神の預言者であるかが明らかになりました。神ご自身がそのことを明らかにしてくださいました。これを見た地方総督セルギウス・パウルスは非常に驚き信仰に入りました。信仰に入ったということは、バルナバとサウロの告げるイエス・キリストの福音を受け入れ、洗礼を受けたことを意味しています。このことこそ、魔術師エルマの出来事を通して神様がなそうとされたことでありました。 4 偽預言者は人々に取り入り、神の言葉ではなく、最終的には自分の利益のために人間の言葉を語ります。あるいはまた、福音とは別の政治的な正義感、自分自身が持っている信念を語るでしょう。偽預言者はわたしたちを主イエス様の真実の福音に導くことはありません。 わたしたちは聖書が証しする主イエス様を信じ、神の子主イエス様の十字架を知って自分自身の罪の赦しを信じます。悔い改めて神様に立ち返ります。主イエス様の復活を信じ、今主イエス様が天において生きて働かれることを信じます。 わたしたちはキリスト教会を名乗りながら、実は偽預言者のようになってはなりません。人々を表面的に喜ばせる人間の言葉を語ってはなりません。かえって、わたしたちをそのように誘う、内なる偽預言者と対決しなければなりません。 そのとき、主イエス様の福音は明確になり、聖書の指し示すわたしたちの本当の救いがこの世界に実現してゆくのです。わたしたちが真実にみ言葉に立ち帰り、主イエス様に従ってゆくならば、神様はわたしたちを必ず助けて下さいます。 祈りを致します。 祈り 天におられる主イエス・キリストの父なる神、尊い御名を讃美します。わたしたちは何を頼りとし、何を真実として歩むのでしょうか。わたしたちを愛してやまない主イエス・キリストの真実にこそより頼んで歩ましめてください。教会がまっ直ぐに神の言葉を語ることが出来ますよう導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。
2025年6月15日(日)熊本伝道所礼拝説教
使徒言行録13章1節~12節「偽預言者との対決」
1、
御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
はじめに今朝の説教題のことですが、先週の週報で予告していました説教題は、「キプロス伝道1」でしたが、今朝はそれを変更して「偽預言者との対決」といたしました。バルナバとサウロが第一回宣教旅行に出かけるや否や、最初の宣教地キプロス島でバルイエスと言う名の偽預言者に遭遇したのです。実は、新約聖書では偽預言者という言葉は14回出てきています。また旧約聖書では偽預言者という名詞ではでていませんが、偽りの預言を語るといった動詞形で10回以上記されています。聖書全体がこの偽預言者の問題に大きな関心を持っていることが分かります。
偽預言者は、現代日本でも活発に動いています。そして残念ながら一見すると目覚ましい成果を上げているように思えます。人々が、この世界で生きて行くことの不安や辛さにつけ込んで、現世利益や心の平安を約束し、人々をだまして金銭を得ようとする人たちです。仏教系、キリスト教系、自己啓発やアスピリチュアルなど、いろいろ出てきています。巧みな弁舌と演出によって多くの人の支持を得て金銭を巻きあげるのです。ユーチューブやエックスに氾濫している陰謀論の類もこの仲間に分類できると思います。
偽預言者の教えを分析すると、要するに信じる対象は何でもいい、カリスマ性のある教祖様で良いし、イエス・キリストの再来とかであってもよいのです。信じるなら祝福される、お金も地位も健康も望み通りになると約束します。
キリスト教会においても、たくさんの人が集まっている教会にそのような要素はないでしょうか。かたちとしては礼拝がなされ説教がなされていても、それは「聖書に記されている神の御言葉」を真実に語るのではなくて、この世的な祝福に終始する説教であると言うことも起こり得ます。現代の教会がそうであってはならないと思います。バルイエスは偽預言者でした。使徒言行録の時代にもそのような人がいたことは間違いないことです。
1節から4節に記されていますが、バルナバとサウロは、アンテオキア教会から送り出されて世界伝道に遣わされます。聖霊の神様が直接伝道者に働いた著言うのではなくて、すべては聖霊が教会に働かれると言う仕方でなされたことでした。このことは覚えておかなければならないことだと思います。バルナバとサウロは、最初の宣教地キプロス島で、ユダヤ教のシナゴーグ、会堂で説教し、また、その地の地方総督セルギウスに一生懸命伝道しました。けれども、この偽預言者バルイエスが必死になってそれを妨げたというのです。この偽預言者は、総督セルギウスにうまく取り入っていて親しく交際していたのです。
バルイエスは各地に離散していたユダヤ人の一人でギリシャ語が良くできたと思いますが、キプロス島に住み、地方総セルギウスと交際し、その魔術の力を発揮してセルギウスの保護を受けていたものと思われます。総督がバルナバやサウロの言葉に耳を傾けてしまってはまずいと思ったのです。
バルイエスと言う名前は、ヘブライ語ではイエスの息子という意味です。バルは息子、イエスはヘブライ語のヨシュアのギリシャ語読みですから、バルイエスはヨシュアの息子ということになります。イエス、あるいはヨシュアは、「主は救い」という意味で、ユダヤ人にはよくある名前です。旧約聖書のヨシュア記の主人公の名でもあります。
8節には、この偽預言者の別名として魔術師エリマという名が記されています。魔術師と訳されていのはギリシャ語のマゴスです。マゴスには魔術師、占い師、博士などいろいろな意味があります。手品のことをマジック、手品師はマジシャンですが、マジックの語源ともなった言葉です。ベツレヘムで生まれたばかりのイエス様を訪ねて来た博士たちもマゴスと呼ばれています。もともとはペルシャの密儀宗教の祭司に由来する人たちです。古文書や占星術など多くの知識を持っていて、人知では計り知れないことを予告したり、儀式や不思議な業を行うことを生業にしている人です。エリマという名前は、固有名詞ではなくアラビア語の知者、賢者、先見者ハ-リームのギリシャ語読みだと考えられています。
使徒言行録は、彼を偽預言者と呼んでいます。この人のことを決して良い人物とは記していません。このあと聖霊に満たされたサウロは、バルイエスんついて「偽りと欺きに満ちた者、すべての正義の敵」と呼んでいます。単にバルナバとサウロの伝道を邪魔したからというだけでなく、彼自身が、人々を騙して利得を得ていた邪悪な人物であると思われます。
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キプロス島は地中海に浮かぶ四国の半分ほどの面積の島です。古代からたくさんのユダヤ人が住んでいました。アンテオキア教会からは海を挟んで200キロ近く離れています。聖霊によって送り出されたと書かれていますけれども、その実際のプロセスは、教会員たちが決定し、二人に手をおいて祝福を祈りました。そして助手としてヨハネと呼ばれるマルコを伴った三人はアンテオキア近くの港であるセレウケアから船に乗りキプロス島に上陸しています。聖霊は教会を用い、また多くの人々を用いて働かれたということが出来ます。そのようにして聖霊が彼らを世界伝道に送りだしました。偽預言者との対決において彼らが勝利することが出来たのもまた彼らが聖霊によって力を頂いたからでありました。主イエス様と天の父なる神様から出る聖霊は偽預言者を決して用いることはなく、最終的に偽預言者を助けることもなさらないのです。
キプロス島。。また助手として一緒に行ったヨハネと呼ばれるマルコもバルナバのいとこであるとコロサイ書4章に書かれています。キプロス島が世界宣教の最初の地として選ばれたのは、バルナバとマルコが関係する土地であり、かつアンテオキア教会からそれほど遠くなかったからでしょう。
教会が離れた別の場所で開拓伝道を始める時、その土地の選定に当たってはいろいろなことを考えなければなりません。人口が多い、少ないとか伝道が進みそうだとかいう点と共に、やはり遣わされる人との関係が重要であることがわかります。伝道者と縁もゆかりもない土地ではなく、土地勘があり、また助けてくれる人々がいると期待できる場所が良いのです。それらすべての事柄を含めて聖霊が三人を送り出しました。
さてキプロス島の東の端の港町、サラミスに着いた一行はユダヤ教の会堂、シナゴーグに向かいました。そこではユダヤ人が集まり神様を礼拝しています。サラミスの町のいくつかの会堂に入り、彼らは福音を語りました。異邦人のための伝道者として立てられたパウロですけれども、まずはユダヤ人に向かって福音を語りました。その後、島全体を巡って神の言葉を告げ知らせたとあります。
実は、使徒言行録11章19節には、ステファノの殺害から始まった迫害から逃れてエルサレム教会の会員たちがキプロス島に行き、そこで福音を告げ知らせたと書いてあります。この島にはバルナバとサウロがくる以前から、イエス・キリストが伝えられていたことになります。小さかったかも知れませんが、キリスト者の群れも存在していたのではないでしょうか。バルナバとサウロ、そしてヨハネ・マルコは、その人たちに助けられながら、キプロス島のあちらこちらを回って伝道を致しました。そして島の東の端の町パフォスに着きました。パフォスはキプロスの首都です。そこには、偽預言者バルイエスがいて、キプロス島の地方総督セルギウス・パウルスと交際しておりました。交際していたと書かれていますのは意訳で、元の言葉は、一緒にいたという言葉です。おそらくバルイエス、魔術師エルマは、首都パフォスの総督官邸の中に住まいを与えられていたと思われます。総督のお抱え魔術師として総督のために占いをしたり、相談相手になったりしていたのだと思います。神の託宣を伝える人、あるいは学者、知識人としてふるまっています。
ローマの多神教文化の中で育ち、真の神様を知らず礼拝もしない総督セルギウス・パウルスにとって、魔術師エルマは、頼りになる存在であったと思われます。魔術師エルマは、自分で偽預言者と名乗っていたのではありません。むしろ総督のために正しく神のお告げを取り次ぐものとして、我こそ真の預言者である、魔術さえも行う力を持つものとして自信満々であったのです。このとき彼はキプロス島総督が公式に認める宗教家であります。富と名誉とをそのことによって得ていました。そして多神教世界、言い換えると人間のご都合宗教の祭司として、支配階級である総督を喜ばせる言葉を語り、祈りをしました。彼は、自分の地位と権力を守るために神の言葉らしいものを語る人であり、真実ではないゆがんだ宗教家でした。ここには国家権力に従属する宗教家の姿があります。
そこに現れたのが、バルナバとサウロです。彼らは、主イエス様の十字架と復活を通して神様の本当の愛を世界に告げ知らせる伝道者です。地方総督セルギウス・パウルスは賢明な人物でした。キプロス島に派遣されてきた二人の宣教師と一人の助手が伝えている福音を自分も聞いてみたいと思うようになりました。そしてついに、彼らを総督官邸に招いて、話を聞こうとしたのです。
魔術師のバルイエスにしてみますと、もし、地方総督がバルナバとサウロの伝えるイエス・キリストに興味を抱き、万が一彼らの福音を信じるようになったとすれば、自分の立場が危うくなります。8節にはこう記されています。
「魔術師エルマは、二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした」
彼が遠ざけようと焦るほどに、セルギウス・パウルスはこの信仰、つまりバルナバとサウロが伝えているイエス・キリストに好意を抱きます。それだけでなく自らイエス・キリストの福音を受け入れようとしていたと思われます。だからこそ、魔術師エルマは必死になったのです。
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さて、両者の対決の日がやってきました。サウロはこのとき聖霊に満たされていたと書かれています。別の言い方をすれば、聖霊がサウロを満たしている状態でした。聖霊の神と一つとなったサウロは、魔術師をにらみつけて言いました。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちたもの、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」
ここではバルイエスが、魔術師であるということ以上に、主イエス様の福音を聞こうとする地方総督の前に立ちはだかり、バルナバとサウロに敵対しようとしたことが問題になっています。サウロは、バルイエスをにらみつけ、お前は欺きに満ちたものであり悪魔の子であると宣言します。一人の人が救われようとしている時、これを意図的に妨害するものは本人の意識とは関係なく悪魔の働きをするもの、悪魔の子と呼ばれるのです。
使徒言行録8章を見ますと、エルサレム教会で選ばれた7人の奉仕者の一人のフィリポは、サマリヤの地で宣教しました。この時、その地でフィリポに着き従ってきたのはシモンと言う魔術師でした。この人は、フィリポに向かって自分にも霊の力を与えてほしいと言ってお金を持ってきたと書かれています。フィリポは、お金の受け取りを拒否して、神様の前に悔い改めるように求めています。そうすれば赦してもらえるとも告げています。
しかし、キプロス島の魔術師エルマは、バルナバとサウロの伝道に敵対しています。イエス・キリストの福音の伝道を妨げ、総督にこれまで通り自分の魔術、学識や能力により頼むように求めたのです。そしてこのことから神の懲罰を受けることになりました。
旧約聖書、列王記上18章に預言者エリヤとバアルという異教の神の預言者たちとの対決の物語があります。このとき、イスラエルの王、アハブと王妃イゼベルは450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者と共にいました。預言者エリヤは、その偽預言者たちをカルメル山上に集めて彼らと対決しました。神はエリヤを助けて下さりエリヤは勝利しました。
わたしたちは、キリスト教以外のさまざまな宗教を必ず敵視しなければならないというのではないと思います。その教えの中には主イエス様の教えと共通するものも多くありますし、わたしたちは他の宗教と協力すべきこともあると思います。しかし彼らが明確に福音伝道を妨げ、敵対してくるならば、また教会をまどわそうとするなら、わたしたちもまたひるむことなく自らの信仰を貫いてこれと戦うことが求められるのです。
神様は、サウロを用いて彼に聖霊を満たしてくださり、偽預言者との闘いに勝利させてくださいました。魔術エルマは、神がよしとするときまで活動することが全く出来なくなりました。それだけではなく、サウロが告げた通り、地方総督セルギウス・パウルスの前で、その目はかすみ、すっかり見えなくなって歩き回りながら助けを求めるという醜態をさらしたのです。
サウロとバルイエス、別名魔術師エルマのどちらが真の神の預言者であるかが明らかになりました。神ご自身がそのことを明らかにしてくださいました。これを見た地方総督セルギウス・パウルスは非常に驚き信仰に入りました。信仰に入ったということは、バルナバとサウロの告げるイエス・キリストの福音を受け入れ、洗礼を受けたことを意味しています。このことこそ、魔術師エルマの出来事を通して神様がなそうとされたことでありました。
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偽預言者は人々に取り入り、神の言葉ではなく、最終的には自分の利益のために人間の言葉を語ります。あるいはまた、福音とは別の政治的な正義感、自分自身が持っている信念を語るでしょう。偽預言者はわたしたちを主イエス様の真実の福音に導くことはありません。
わたしたちは聖書が証しする主イエス様を信じ、神の子主イエス様の十字架を知って自分自身の罪の赦しを信じます。悔い改めて神様に立ち返ります。主イエス様の復活を信じ、今主イエス様が天において生きて働かれることを信じます。
わたしたちはキリスト教会を名乗りながら、実は偽預言者のようになってはなりません。人々を表面的に喜ばせる人間の言葉を語ってはなりません。かえって、わたしたちをそのように誘う、内なる偽預言者と対決しなければなりません。
そのとき、主イエス様の福音は明確になり、聖書の指し示すわたしたちの本当の救いがこの世界に実現してゆくのです。わたしたちが真実にみ言葉に立ち帰り、主イエス様に従ってゆくならば、神様はわたしたちを必ず助けて下さいます。
祈りを致します。
祈り
天におられる主イエス・キリストの父なる神、尊い御名を讃美します。わたしたちは何を頼りとし、何を真実として歩むのでしょうか。わたしたちを愛してやまない主イエス・キリストの真実にこそより頼んで歩ましめてください。教会がまっ直ぐに神の言葉を語ることが出来ますよう導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。