聖書の言葉 使徒言行録 11章27節~29節 メッセージ 2025年5月18日(日)熊本伝道所礼拝説教 使徒言行録11章27節~30節「兄弟たちへの援助」 1、序 御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 使徒言行録11章の最後となるみ言葉を聞いています。この11章では、当時の地中海世界において屈指の大都会であったアンティオキアに教会が生まれたことが記されています。アンティオキア教会は、これまでは主としてユダヤ人だけを伝道の対象としていた初代教会が広く地中海世界に打って出て、世界中の異邦人たちに福音を宣べ伝える、その最初のステップとなった教会です。前回までの説教では、このことは今日まで続いている世界のキリスト教の歴史にとって大きな意味を持つと申し上げたと思います。 今朝の御言葉は、このような福音の伝道、教会の成長発展といったこととは違った側面のことを教えています。それは教会と教会との交わりの問題、また、一致の問題です。さらには捧げもの、献金についても教えています。今朝の御言葉の29節の「援助の品」とさ訳されている元の言葉は、ディアコニアというギリシャ語です。それは今日の教会が大切にしている愛の実践としての教会のディアコニア、困窮している人々への奉仕、執事的働きまでつながってゆく御言葉であります。 今朝の説教の準備のためにわたしたち改革派教会のクリソストモス、名説教者と呼ばれた榊原康夫先生の注解書に興味深いことが書かれていました。それは教会、ギリシャ語のエクレシアという語の使い方です。 今朝のみ言葉の11章26節の中ほどにこう記されています。 「二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。」ここには教会、エクレシアという言葉が使われています。実は、この11章までに、教会、エクレシアという言葉は6回出てきます。ところが、そのすべてがエルサレム教会、あるいはその傘下の群れの人びとを指していたというのです。この11章26節ではじめて、エルサレム教会とは違う、そこの土地の教会、つまりアンティオキアの教会という呼び方がされているというのです。榊原先生は、この26節は、エルサレムの教会、エルサレムのエクレシアと並ぶ、もう一つの教会、エクレシアが生まれたことを示していると言っておられます。 それまでは教会はエルサレム教会ただ一つでありました。そこから使徒たち弟子たちが伝道していって集会が出来るという形です。所属集会、所属伝道所です。アンティオキアには、エルサレム教会から各地に散らされて、大都会のアンティオキアに辿りついた弟子たちがギリシャ語で人々に伝道し、一つの群れが出来ました。主に立ち帰った者の数は多かったと記されています。それは彼らが特別の伝道戦略を立てたからでもなく、能力的に優れていたからでもありません。21節にこう記されています。「主がこの人々を助けられたので」。この伝道には、特別な神様の恵みの御手が働いたというのです。この情報を聞きましたエルサレム教会は、教会代表としてバルナバを派遣します。この聖霊と信仰に満ちた立派な伝道者バルナバが加わったことによって伝道はますます進み、神様の恵みの御手によってついにエルサレム教会とは別の教会が誕生したというわけです。これまでの各地に生まれたエルサレム教会の支店、あるいは所属伝道所のような群れとは違うもう一つの教会が、誕生したのです。今朝の御言葉は、そのようにして生まれた教会と教会との間の関係、愛の交わりを現わしているのです。 2、 この町の名前のアンティオキアは、ローマ帝国がヨーロッパを統一するまでに栄えていたシリアのセレウコス王朝の有名な王様アンティオコスにちなむものです。アンティオコスの息子が偉大な父を記念してこの町を造ったと言われています。同じ名を持つ町はほかにもあり、聖書にはピシディア州のアンティオキアと言う町も登場します。 当時の地中海世界を見てみますと、アンティオキアはローマ帝国の首都ローマ、エジプトのアレキサンドリアに次ぐ大きな町でありました。古い時代のことですので正確なことはわからないのですが、当時ローマとアレキサンドリアは人口100万人の大都市、アンティオキアはそれにつぐ規模で当時の人口は50万人とも80万だったともいわれています。 さすがにローマは永遠の都と呼ばれるだけあって、今もパリやベルリンとならぶ大都市ですけれども、アンティオキアのほうは、長い歴史の中で衰退してしまい今はトルコのアンタキアという地方都市になっています。 この当時の三大都市のうちでユダヤのエルサレムにもっとも近い場所にあるのがアンティオキアです。それでも500キロも離れていますが。ここには旧約聖書の時代から世界各地に離散していったユダヤ人も多く住み、それ以外にもギリシャやエジプトなどからも多くの人が集まっていました。ここにユダヤ人以外の異邦人の教会がはじめて誕生したのです。 エルサレムとアンティオキア、この二つの教会は、多くの点で違いがあります。第一に、アンティオキアの群れの人びとの多くは異邦人でありました。神を敬う異邦人、つまり旧約聖書に親しんでいた異邦人だけでなく、旧約聖書を知らなかった人々も多くいたと思われます。そしてそこではギリシャ語による礼拝が行われていたことでしょう。ユダヤ人であった主イエス・キリストに従うユダヤ人の弟子たちが復活の主イエス様と聖霊の恵みによって設立したエルサレム教会とは違い、ローマ帝国の大都市アンティオキアで、迫害から逃れて散らされていった無名の弟子たちの中のギリシャ語の堪能な人々の伝道からこの教会は生まれました。しかし、この二つの教会の土台は一つです。どちらも主イエス・キリストを信じる信仰、それを生み出す聖霊と主イエス・キリストの上に立てられているのです。 わたしたち熊本教会は、日本キリスト改革派教会の大会、全体教会の祈りによって今から45年前に生まれました。改革派教会の属する89の教会、48の伝道所、合わせて137の教会は、毎日曜日、それぞれ別々の場所で礼拝を捧げています。それらの群れ同士の一致と交わりはどのようにしてなされるのでしょうか。わたくしがすぐに思い浮かぶことは伝道援助金です。熊本教会、熊本伝道所は今は70万円ですが、それまでは毎年200万円前後の金銭的援助を頂いてきました。それによって伝道者が立てられ、牧師の生活や礼拝の施設が支えられてきました。また合同の小学生キャンプ夏期学校や学生青年の交流による励まし合い助け合いもあります。定期的に行事を行い、それぞれの信仰がますます成長するように交流を続けています。信仰の一致の上に一体性が生まれています。それはこの世的な交わりとははっきりと違うものだと思います。主イエス・キリストにおける交わりであり、それを確認する機会となっています。3月には九州沖縄4教会の信徒修養会が八女で開催されました。わたしたちのような小さな群れが、他の群れに触れることによって、神様の大きな恵みを肌で感じて大いに励まされるのです。 エルサレム教会とアンティオキア教会の間にも様々な交流がなされています。まず人の交流があります。バルナバはエルサレム教会から遣わされました。パウロもまた呼び寄せられました。彼らは丸一年間、アンティオキアにとどまって福音を伝えました。さらに、今朝のみ言葉では、預言者アガボがエルサレムからやってきています。初代教会には、預言する賜物を与えられた一群の人びとがいたのであります。彼らは、聖霊の特別な恵みを受け、神様から直接、こののちに起こることについての預言をいただき、それを人々に語りました。彼らはチームを組んで教会から教会へと巡回していたようです。預言者アガボは、使徒言行録21章にも登場します。そこではアガボは、カイサリアに現れてパウロがエルサレムで捕らえられることを予言しています。 また、今朝のみ言葉の最後のところを見ますと、それとは反対に、アンティオキアからエルサレムへと向かう動きも示されています。バルナバとサウロが、援助金を携えてエルサレムに向かってゆくのです。このような人の交流を通して、両教会の絆は深まって行きます。 3 わたしたちの教会では、来月6月22日に九州沖縄地区伝道協議会の講壇交換があります。10月19日にも予定されています。説教者を交換し合って交わりをします。バルナバのように丸一年と言うような期間ではなく、一年に一回か二回のことですが、互いに安否を問い、まさにバルナバが「堅い決心をもって信仰にとどまり続けるように」と勧めたように、互いに信仰の戦いを戦い抜こうと決意をあらたにするのです。このような講壇交換ができるのは、同じ信仰に立っているという信頼と安心感があるからです。 そして、これは今朝のみ言葉の中心テーマとなっていることですが、援助の品がアンティオキアからエルサレムに届けられています。教会同士の交わりは、物のやり取りを通しても深まって行きます。わたしたちの教会がこれまで大会、中会の援助金を受け続けてきたことは、教会が一つであることの証しなのであります。 アガボの預言は、大飢饉が世界中に起こるというものでした。これはアガボが、星を見たり、雨の降り方や気温の高低を計ったりして予測したものではありません。当時の中東世界には、当方の博士たちのように、そのような学者たちがいた可能性はあります。しかし、アガボは、そうではなく預言する賜物によって神の啓示を受けて語ったのです。 この預言を聞いた兄弟たちは、心配し祈りつつ、そのような出来事が起きたときのことを考えて準備をしていたと思います。そしてそれは実際にクラウディウス帝の時に起こったのです。ローマ皇帝クラウディウスは、紀元41年から54年まで皇帝としてローマ帝国を治めました。世界中の飢饉は、この時に起こっていませんが、パレスチナ地方は紀元47年か8年に飢饉が起きたことが記録に残されています。 エルサレムの教会は使徒たちが共有財産を分け合って暮らしていました。その後、大迫害のために信徒たちが国外に散らされていったという事情があります。そして、ユダヤ当局の迫害は断続的に続いていました。そんな中でパレスチナ全域を襲った飢饉によって教会は、いよいよ生活に困窮をきたす状態になったと思われます。この知らせを聞いて救援計画を立てたのは、恐らくバルナバであったろうと思います。バルナバはエルサレム教会出身であり、彼のいとこは使徒ペトロの通訳と言われたヨハネ・マルコでありました。29節には、援助の品を送ることに決めたと書かれています。援助の品、原文では、奉仕、支援、援助という意味を持つディアコニアという言葉です。ディアコニアを送ることを決めた。ディアコニアは、たいてい愛の奉仕、あるいは執事的奉仕と訳されることが多いのですが、実はもっと広い意味を持つことがわかってきました。ここでは教会から教会への支援、奉仕それ自体を指しています。援助の品とありますが、何か救援物資を届けたということではなく、おそらく教会内で献金をして、集まったお金を届けたと考えられます。と言いますのは、この各地の教会がエルサレム教会を支援するというディコニアの行為は、パウロがこの先伝道してゆく多くの教会で継続的になされてゆくからです。そして、たいていはエルサレム教会への金銭的な援助のことを指しています。それは、結果として各地の教会から母教会、エルサレムにいる使徒たちへのささげものとなりました。いわば教団本部への負担金のような意味があったと考えられます。 4 この献金は、アンティオキア教会の兄弟たち自身の経済によって捧げられました。日本では年末年始の共同募金と言うものがあります。共同募金には、学生団体や福祉団体が動員されて、大きな駅の駅頭や町の広場で募金活動がおこなわれます。いわゆる慈善活動です。わたくしは、25歳の時に初めて教会にいったものですが、教会に関心を持つ前の私は、教会とは、そのような数多くある慈善団体のひとつのような印象をもっていました。教会は世のため、人のために尽くす団体だと考えていたのです。救世軍のイメージがあったのでしょうか。 しかし、教会に行ってみて、それは大きな誤解であったことがわかりました。教会は、人を助ける慈善団体ではなかったのです。そうではなく救われなければならない人々が神の救いを受ける場所でした。救いをいただく場所であったのです。そしてすべての人は、本当は救われなければならない欠けある人、罪びとなのです。救われた人は、今度は周りの人にこの救いを伝えたいと願います。これが福音伝道です。さらに地域や世界の困窮した人々のために祈り援助を致します。教会が他の教会や団体、兄弟姉妹を助けるために金品を送る時は、これは違った意見もあるかもしれませんが、やはり自分たちが受けたものの中から、自分たちの懐から捧げたものを用いるべきであると思います。信仰をもって互いに助け合う、支え合う、あるいは神様からいただいた賜物の分ち合い、愛の行いとして捧げてこそふさわしいのです。 教会が、他の教会から援助を受けることは、決して恥ずかしいことでも、良くないことでもありません。むしろ感謝して受け、群れが成長してゆき受ける教会から与える教会へとなることが出来るように励みたいと思います。 さらに、ディアコニアの働きとして、教会とは別の社会の中で困窮している人に対する愛の働きがあります。しかし、ここでアンティオキアの教会がしたことは困窮したエルサレム教会への援助です。それは違った場所で礼拝し活動する違う教会であっても、同じイエス・キリストの恵みに生きている一つの教会の群れであることを互いに確認するものなのです。 29節に、「弟子たちはそれぞれの力に応じて」とさりげなく書かれています。これは大切なことだと思います。それぞれの力に応じて捧げる、これはささげものの大原則です。初代教会の大伝道者、指導者であった使徒パウロはコリントの信徒への手紙2、8章3節でこういっています。マケドニア州の教会は、「力に応じて、また力以上に、自分から進んで聖なるものたちを助ける慈善の業に参加させてほしいと願い出たのです。」 また使徒ペトロも、ペトロの手紙2,4章10節から11節でこう言っています。「あなたがたはそれぞれ賜物を授かっているのですから、紙の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を活かして互いに仕えなさい。語るものは神の言葉を語るのにふさわしく語り、奉仕をする人は神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それはすべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神が栄光をお受けになるためです」 ささげものを、誰かから何か割り当てのように強いられてではなく、神様のご栄光が表されるように祈りつつ、自ら進んでするときにこそ、神さまに喜ばれるものとなります。力のある人がこれを出し惜しみしてはなりませんし、力がないことを恥じて、人の前で、見せかけのために無理をしてもならないのです。 エルサレムの教会に、このささげものを届ける役目を担ったのは、アンティオキア教会の中心的な働き手であったバルナバとサウロでした。そして、これを受け取ったのは、エルサレム教会の長老たちでした。この長老とは、教会で指導的な地位を担う人々のことです。エルサレム教会では使徒たちも長老として数えられ、使徒以外の長老もいました。 最初期のエルサレム教会では、田畑や財産を売って得たお金が使徒たちの足元に置かれたと使徒言行録4章35節に書かれています。今や、バルナバとサウロの援助を受け取ったのは長老たちです。いわば、かつての時よりもいっそう組織化された教会の姿がここにあると思います。教会は、人の交流、金銭や援助の品による交流を通して、その一体性を確かめます。 礼拝する場所は違っていて、また歴史やなりたちは違っていたとしても、イエス・キリストの教会は一つです。まして同じ教派教団であるならなおさらです。互いに一つのからだの部分のように助け合い、愛し合うのです。 献金は、ディアコニア、奉仕であることを覚えたいと思います。教会につながっている人の中で、献金を全くしていない方は一人もいないと思います。神様にお仕えする、奉仕としての献金を神様は喜んで受けてくださいます。それぞれが力に応じて捧げることによって、信仰が形を持ったものとして姿を現わすのです。祈りを致します。 天の父なる神さま 御名を讃美します。アンティオキアの教会は、その地方を襲った飢饉に苦しむエルサレム教会に捧げものを集め、それをバルナバとサウロに託して届けました。それは主にある交わりの現われであり、また信仰の表れでありました。わたしたち熊本教会は自分たちだけで立っているのではなく、多くの他の教会からの愛の捧げものによるところが多いことを改めて覚えさえてください。そのことを通して生ける神に栄光を期すことが出来ますように、またわたしたち自身も互いを覚えて、信仰と愛とを形に現わすことが出来るようお導きをお願いします。主イエス様の御名によって祈ります、アーメン。
2025年5月18日(日)熊本伝道所礼拝説教
使徒言行録11章27節~30節「兄弟たちへの援助」
1、序
御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
使徒言行録11章の最後となるみ言葉を聞いています。この11章では、当時の地中海世界において屈指の大都会であったアンティオキアに教会が生まれたことが記されています。アンティオキア教会は、これまでは主としてユダヤ人だけを伝道の対象としていた初代教会が広く地中海世界に打って出て、世界中の異邦人たちに福音を宣べ伝える、その最初のステップとなった教会です。前回までの説教では、このことは今日まで続いている世界のキリスト教の歴史にとって大きな意味を持つと申し上げたと思います。
今朝の御言葉は、このような福音の伝道、教会の成長発展といったこととは違った側面のことを教えています。それは教会と教会との交わりの問題、また、一致の問題です。さらには捧げもの、献金についても教えています。今朝の御言葉の29節の「援助の品」とさ訳されている元の言葉は、ディアコニアというギリシャ語です。それは今日の教会が大切にしている愛の実践としての教会のディアコニア、困窮している人々への奉仕、執事的働きまでつながってゆく御言葉であります。
今朝の説教の準備のためにわたしたち改革派教会のクリソストモス、名説教者と呼ばれた榊原康夫先生の注解書に興味深いことが書かれていました。それは教会、ギリシャ語のエクレシアという語の使い方です。
今朝のみ言葉の11章26節の中ほどにこう記されています。
「二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。」ここには教会、エクレシアという言葉が使われています。実は、この11章までに、教会、エクレシアという言葉は6回出てきます。ところが、そのすべてがエルサレム教会、あるいはその傘下の群れの人びとを指していたというのです。この11章26節ではじめて、エルサレム教会とは違う、そこの土地の教会、つまりアンティオキアの教会という呼び方がされているというのです。榊原先生は、この26節は、エルサレムの教会、エルサレムのエクレシアと並ぶ、もう一つの教会、エクレシアが生まれたことを示していると言っておられます。
それまでは教会はエルサレム教会ただ一つでありました。そこから使徒たち弟子たちが伝道していって集会が出来るという形です。所属集会、所属伝道所です。アンティオキアには、エルサレム教会から各地に散らされて、大都会のアンティオキアに辿りついた弟子たちがギリシャ語で人々に伝道し、一つの群れが出来ました。主に立ち帰った者の数は多かったと記されています。それは彼らが特別の伝道戦略を立てたからでもなく、能力的に優れていたからでもありません。21節にこう記されています。「主がこの人々を助けられたので」。この伝道には、特別な神様の恵みの御手が働いたというのです。この情報を聞きましたエルサレム教会は、教会代表としてバルナバを派遣します。この聖霊と信仰に満ちた立派な伝道者バルナバが加わったことによって伝道はますます進み、神様の恵みの御手によってついにエルサレム教会とは別の教会が誕生したというわけです。これまでの各地に生まれたエルサレム教会の支店、あるいは所属伝道所のような群れとは違うもう一つの教会が、誕生したのです。今朝の御言葉は、そのようにして生まれた教会と教会との間の関係、愛の交わりを現わしているのです。
2、
この町の名前のアンティオキアは、ローマ帝国がヨーロッパを統一するまでに栄えていたシリアのセレウコス王朝の有名な王様アンティオコスにちなむものです。アンティオコスの息子が偉大な父を記念してこの町を造ったと言われています。同じ名を持つ町はほかにもあり、聖書にはピシディア州のアンティオキアと言う町も登場します。
当時の地中海世界を見てみますと、アンティオキアはローマ帝国の首都ローマ、エジプトのアレキサンドリアに次ぐ大きな町でありました。古い時代のことですので正確なことはわからないのですが、当時ローマとアレキサンドリアは人口100万人の大都市、アンティオキアはそれにつぐ規模で当時の人口は50万人とも80万だったともいわれています。
さすがにローマは永遠の都と呼ばれるだけあって、今もパリやベルリンとならぶ大都市ですけれども、アンティオキアのほうは、長い歴史の中で衰退してしまい今はトルコのアンタキアという地方都市になっています。
この当時の三大都市のうちでユダヤのエルサレムにもっとも近い場所にあるのがアンティオキアです。それでも500キロも離れていますが。ここには旧約聖書の時代から世界各地に離散していったユダヤ人も多く住み、それ以外にもギリシャやエジプトなどからも多くの人が集まっていました。ここにユダヤ人以外の異邦人の教会がはじめて誕生したのです。
エルサレムとアンティオキア、この二つの教会は、多くの点で違いがあります。第一に、アンティオキアの群れの人びとの多くは異邦人でありました。神を敬う異邦人、つまり旧約聖書に親しんでいた異邦人だけでなく、旧約聖書を知らなかった人々も多くいたと思われます。そしてそこではギリシャ語による礼拝が行われていたことでしょう。ユダヤ人であった主イエス・キリストに従うユダヤ人の弟子たちが復活の主イエス様と聖霊の恵みによって設立したエルサレム教会とは違い、ローマ帝国の大都市アンティオキアで、迫害から逃れて散らされていった無名の弟子たちの中のギリシャ語の堪能な人々の伝道からこの教会は生まれました。しかし、この二つの教会の土台は一つです。どちらも主イエス・キリストを信じる信仰、それを生み出す聖霊と主イエス・キリストの上に立てられているのです。
わたしたち熊本教会は、日本キリスト改革派教会の大会、全体教会の祈りによって今から45年前に生まれました。改革派教会の属する89の教会、48の伝道所、合わせて137の教会は、毎日曜日、それぞれ別々の場所で礼拝を捧げています。それらの群れ同士の一致と交わりはどのようにしてなされるのでしょうか。わたくしがすぐに思い浮かぶことは伝道援助金です。熊本教会、熊本伝道所は今は70万円ですが、それまでは毎年200万円前後の金銭的援助を頂いてきました。それによって伝道者が立てられ、牧師の生活や礼拝の施設が支えられてきました。また合同の小学生キャンプ夏期学校や学生青年の交流による励まし合い助け合いもあります。定期的に行事を行い、それぞれの信仰がますます成長するように交流を続けています。信仰の一致の上に一体性が生まれています。それはこの世的な交わりとははっきりと違うものだと思います。主イエス・キリストにおける交わりであり、それを確認する機会となっています。3月には九州沖縄4教会の信徒修養会が八女で開催されました。わたしたちのような小さな群れが、他の群れに触れることによって、神様の大きな恵みを肌で感じて大いに励まされるのです。
エルサレム教会とアンティオキア教会の間にも様々な交流がなされています。まず人の交流があります。バルナバはエルサレム教会から遣わされました。パウロもまた呼び寄せられました。彼らは丸一年間、アンティオキアにとどまって福音を伝えました。さらに、今朝のみ言葉では、預言者アガボがエルサレムからやってきています。初代教会には、預言する賜物を与えられた一群の人びとがいたのであります。彼らは、聖霊の特別な恵みを受け、神様から直接、こののちに起こることについての預言をいただき、それを人々に語りました。彼らはチームを組んで教会から教会へと巡回していたようです。預言者アガボは、使徒言行録21章にも登場します。そこではアガボは、カイサリアに現れてパウロがエルサレムで捕らえられることを予言しています。
また、今朝のみ言葉の最後のところを見ますと、それとは反対に、アンティオキアからエルサレムへと向かう動きも示されています。バルナバとサウロが、援助金を携えてエルサレムに向かってゆくのです。このような人の交流を通して、両教会の絆は深まって行きます。
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わたしたちの教会では、来月6月22日に九州沖縄地区伝道協議会の講壇交換があります。10月19日にも予定されています。説教者を交換し合って交わりをします。バルナバのように丸一年と言うような期間ではなく、一年に一回か二回のことですが、互いに安否を問い、まさにバルナバが「堅い決心をもって信仰にとどまり続けるように」と勧めたように、互いに信仰の戦いを戦い抜こうと決意をあらたにするのです。このような講壇交換ができるのは、同じ信仰に立っているという信頼と安心感があるからです。
そして、これは今朝のみ言葉の中心テーマとなっていることですが、援助の品がアンティオキアからエルサレムに届けられています。教会同士の交わりは、物のやり取りを通しても深まって行きます。わたしたちの教会がこれまで大会、中会の援助金を受け続けてきたことは、教会が一つであることの証しなのであります。
アガボの預言は、大飢饉が世界中に起こるというものでした。これはアガボが、星を見たり、雨の降り方や気温の高低を計ったりして予測したものではありません。当時の中東世界には、当方の博士たちのように、そのような学者たちがいた可能性はあります。しかし、アガボは、そうではなく預言する賜物によって神の啓示を受けて語ったのです。
この預言を聞いた兄弟たちは、心配し祈りつつ、そのような出来事が起きたときのことを考えて準備をしていたと思います。そしてそれは実際にクラウディウス帝の時に起こったのです。ローマ皇帝クラウディウスは、紀元41年から54年まで皇帝としてローマ帝国を治めました。世界中の飢饉は、この時に起こっていませんが、パレスチナ地方は紀元47年か8年に飢饉が起きたことが記録に残されています。
エルサレムの教会は使徒たちが共有財産を分け合って暮らしていました。その後、大迫害のために信徒たちが国外に散らされていったという事情があります。そして、ユダヤ当局の迫害は断続的に続いていました。そんな中でパレスチナ全域を襲った飢饉によって教会は、いよいよ生活に困窮をきたす状態になったと思われます。この知らせを聞いて救援計画を立てたのは、恐らくバルナバであったろうと思います。バルナバはエルサレム教会出身であり、彼のいとこは使徒ペトロの通訳と言われたヨハネ・マルコでありました。29節には、援助の品を送ることに決めたと書かれています。援助の品、原文では、奉仕、支援、援助という意味を持つディアコニアという言葉です。ディアコニアを送ることを決めた。ディアコニアは、たいてい愛の奉仕、あるいは執事的奉仕と訳されることが多いのですが、実はもっと広い意味を持つことがわかってきました。ここでは教会から教会への支援、奉仕それ自体を指しています。援助の品とありますが、何か救援物資を届けたということではなく、おそらく教会内で献金をして、集まったお金を届けたと考えられます。と言いますのは、この各地の教会がエルサレム教会を支援するというディコニアの行為は、パウロがこの先伝道してゆく多くの教会で継続的になされてゆくからです。そして、たいていはエルサレム教会への金銭的な援助のことを指しています。それは、結果として各地の教会から母教会、エルサレムにいる使徒たちへのささげものとなりました。いわば教団本部への負担金のような意味があったと考えられます。
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この献金は、アンティオキア教会の兄弟たち自身の経済によって捧げられました。日本では年末年始の共同募金と言うものがあります。共同募金には、学生団体や福祉団体が動員されて、大きな駅の駅頭や町の広場で募金活動がおこなわれます。いわゆる慈善活動です。わたくしは、25歳の時に初めて教会にいったものですが、教会に関心を持つ前の私は、教会とは、そのような数多くある慈善団体のひとつのような印象をもっていました。教会は世のため、人のために尽くす団体だと考えていたのです。救世軍のイメージがあったのでしょうか。
しかし、教会に行ってみて、それは大きな誤解であったことがわかりました。教会は、人を助ける慈善団体ではなかったのです。そうではなく救われなければならない人々が神の救いを受ける場所でした。救いをいただく場所であったのです。そしてすべての人は、本当は救われなければならない欠けある人、罪びとなのです。救われた人は、今度は周りの人にこの救いを伝えたいと願います。これが福音伝道です。さらに地域や世界の困窮した人々のために祈り援助を致します。教会が他の教会や団体、兄弟姉妹を助けるために金品を送る時は、これは違った意見もあるかもしれませんが、やはり自分たちが受けたものの中から、自分たちの懐から捧げたものを用いるべきであると思います。信仰をもって互いに助け合う、支え合う、あるいは神様からいただいた賜物の分ち合い、愛の行いとして捧げてこそふさわしいのです。
教会が、他の教会から援助を受けることは、決して恥ずかしいことでも、良くないことでもありません。むしろ感謝して受け、群れが成長してゆき受ける教会から与える教会へとなることが出来るように励みたいと思います。
さらに、ディアコニアの働きとして、教会とは別の社会の中で困窮している人に対する愛の働きがあります。しかし、ここでアンティオキアの教会がしたことは困窮したエルサレム教会への援助です。それは違った場所で礼拝し活動する違う教会であっても、同じイエス・キリストの恵みに生きている一つの教会の群れであることを互いに確認するものなのです。
29節に、「弟子たちはそれぞれの力に応じて」とさりげなく書かれています。これは大切なことだと思います。それぞれの力に応じて捧げる、これはささげものの大原則です。初代教会の大伝道者、指導者であった使徒パウロはコリントの信徒への手紙2、8章3節でこういっています。マケドニア州の教会は、「力に応じて、また力以上に、自分から進んで聖なるものたちを助ける慈善の業に参加させてほしいと願い出たのです。」
また使徒ペトロも、ペトロの手紙2,4章10節から11節でこう言っています。「あなたがたはそれぞれ賜物を授かっているのですから、紙の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を活かして互いに仕えなさい。語るものは神の言葉を語るのにふさわしく語り、奉仕をする人は神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それはすべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神が栄光をお受けになるためです」
ささげものを、誰かから何か割り当てのように強いられてではなく、神様のご栄光が表されるように祈りつつ、自ら進んでするときにこそ、神さまに喜ばれるものとなります。力のある人がこれを出し惜しみしてはなりませんし、力がないことを恥じて、人の前で、見せかけのために無理をしてもならないのです。
エルサレムの教会に、このささげものを届ける役目を担ったのは、アンティオキア教会の中心的な働き手であったバルナバとサウロでした。そして、これを受け取ったのは、エルサレム教会の長老たちでした。この長老とは、教会で指導的な地位を担う人々のことです。エルサレム教会では使徒たちも長老として数えられ、使徒以外の長老もいました。
最初期のエルサレム教会では、田畑や財産を売って得たお金が使徒たちの足元に置かれたと使徒言行録4章35節に書かれています。今や、バルナバとサウロの援助を受け取ったのは長老たちです。いわば、かつての時よりもいっそう組織化された教会の姿がここにあると思います。教会は、人の交流、金銭や援助の品による交流を通して、その一体性を確かめます。
礼拝する場所は違っていて、また歴史やなりたちは違っていたとしても、イエス・キリストの教会は一つです。まして同じ教派教団であるならなおさらです。互いに一つのからだの部分のように助け合い、愛し合うのです。
献金は、ディアコニア、奉仕であることを覚えたいと思います。教会につながっている人の中で、献金を全くしていない方は一人もいないと思います。神様にお仕えする、奉仕としての献金を神様は喜んで受けてくださいます。それぞれが力に応じて捧げることによって、信仰が形を持ったものとして姿を現わすのです。祈りを致します。
天の父なる神さま
御名を讃美します。アンティオキアの教会は、その地方を襲った飢饉に苦しむエルサレム教会に捧げものを集め、それをバルナバとサウロに託して届けました。それは主にある交わりの現われであり、また信仰の表れでありました。わたしたち熊本教会は自分たちだけで立っているのではなく、多くの他の教会からの愛の捧げものによるところが多いことを改めて覚えさえてください。そのことを通して生ける神に栄光を期すことが出来ますように、またわたしたち自身も互いを覚えて、信仰と愛とを形に現わすことが出来るようお導きをお願いします。主イエス様の御名によって祈ります、アーメン。