2025年05月04日「神の御業が働いて」

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聖書の言葉

使徒言行録 11章1節~18節

メッセージ

2025年5月4日(日)熊本伝道所礼拝説教

使徒言行録11章1節~18節「神の御業が働いて」

1、

御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

5月に入り、最初の主の日を迎えています。4月一カ月を思い返してみますと、墓前礼拝やイースター礼拝、そしてアフリカのガンビアで40年近く奉仕された川島利子姉妹をお招きした春の特別集会というように教会の大切な行事が続いて、大変忙しい月であったと思います。そのすべてが神様の恵みの中で終えることが出来たことを今、感謝をしています。

さきほど、使徒言行録第18章1節から18節の御言葉をご一緒に聞きました。前回、使徒言行録の御言葉を聞きましたのは、イースターの前の4月13日の日曜日でした。そのときは10章の終わりまで読みましたので、今朝はそれに続く11章1節から18節までです。今日のところで10章の始めから続いていました、ローマの百人隊長コルネリウスの回心の物語がようやく終わりを迎えます。このコルネリウスの回心物語は、使徒言行録の中では、ひとつの物語としては最も長くみ言葉が語られている個所です。初代教会とそれから現代にまで続いている教会にとりましてそれだけ大切な、重要な出来事であることを表しています。

さて、この11章1節から18節は、いわばコルネリウス回心の後日談です。まず使徒ペトロの働きとコルネリスの回心が引きおこしたエルサレム教会の不一致、分断の事実から始まっています。エルサレム教会のリーダーの一人である使徒ペトロが、カイザリアまで出向きまして一人の異邦人、ローマの百人隊長コルネリウスに伝道しました。コルネリススは、ペトロの宣教と聖霊のお働きによって主イエス様を信じて洗礼を受けたのですが、そのことがエルサレムの教会に伝わりますと、それはおかしい、間違っているという非難の声が上がったと言うのです。

エルサレム教会の人々は、全員が割礼を受けたユダヤ人でありました。割礼自体がそうなのですが、旧約聖書に記されているモーセ律法に従う生活をすることこそが神を神とする信仰の証しであると信じていたのです。そこから送り出されたペトロですが、そもそもは、リダの町からヤッファへ行き、そこでタビタ、ギリシャ名はドルカス、かもしか、という名の婦人の弟子を生き返らせる奇跡を行いました。その際に急遽、ヤッファからカイザリアに呼び出されました。カイザリアは、カイザル、つまりローマ帝国皇帝の名代であるローマ総督が滞在している町です。この町のローマ軍の百人隊長であるコルネリウスに伝道したのです。エルサレムの教会は、このペトロの行動について、モーセ律法に適わないことだと非難しました。無割礼の異邦人との接触、そして福音を伝えたということを受け入れることが出来なかったのです。そのために不一致、分断が生じたのです。これは一歩間違えばエルサレム教会の分裂にまで発展しかねない深刻な問題でした。

今朝の物語は、その心配な事実から始まったのです。しかし、神様は、この不一致と分断を和解と神様への讃美にまで導いて下さいました。最後の18節にこうあります。

「この言葉を聞いていた人々は静まり、 「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って神を賛美した。」このような恵みの言葉でハッピーエンドを迎えるのです。

最初の11章1節をお読みします。「さて使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。」ここで「神の言葉」と書かれているのは、預言者が語った神の言葉、また、モーセの律法を含む旧約聖書の言葉という意味ではなく、わたしたちが手にしている新約聖書の福音、つまり完成した最終的な神の言葉、主イエス・キリストについての言葉です。従って「異邦人が神の言葉を受け入れた」ということは、イエス様について知らなかった人が心を新しくしてイエス様を信じた、そのしるしに洗礼を受けたということにほかなりません。

ペトロたちが、カイザリアになおもとどまっている間に、この一部始終がエルサレムの母教会に伝わって行ったのです。ところがエルサレムでは、このペトロたちの伝道の成功を聞いて、ああよかった、神様は素晴らしいという話にはならかったのです。むしろ物議をかもすといますが、そんなことをしてよいのかと言う、ペトロ批判の嵐が吹き出したというのです。

特に、あとあとまで問題になるのですが、主イエス様を信じて救われるためには、ただ主イエス様を信じるということだけで不十分である。当然、これまでのユダヤ教、旧約聖書の神の掟をも大切にしなければならないという考えが、このとき姿を現してくるわけです。このような信仰の人たちのことをユダヤ主義キリスト者と言うのですが、その始まりともいえる人達が、ペトロのエルサレム帰還を、満を持して待ち構えていたのです。

「割礼を受けている者たちは彼を非難した」とありますが、このころの教会員は全員ユダヤ人ですから、当然全員が割礼を受けていますけれども、これはエルサレム教会の使徒たちとエルサレム教会の会員の全員がペトロを非難したと言うわけではありません。彼らの中のある人たちがペトロを非難したのです。それは、とくに割礼にこだわる人たちでした。原文では、「割礼者から出た人が彼を非難した」と書かれています。

割礼は、創世記17章に書かれているアブラハムと神様との契約のしるしです。神の契約、恵みの契約を受け入れたしるしとしてアブラハムの家の全員が割礼を受けました。それ以来、アブラハムから出るすべてのイスラエルの民が、神の契約に入れられたしるしとして代々、割礼を受け継いできたのです。割礼は、ユダヤ教の律法、モーセ律法を守りますという誓いのしるしです。これによってユダヤ人は、選びの民、神の民となります。そして割礼を受けない異邦人とは区別されるのです。

彼らが守るべきモーセ律法は、まず道徳律法、十戒を重んじることです。その中には安息日の規定も含まれます。そして祭儀律法として神殿での礼拝や祭り、清いものと穢れたものとの区別、さらには民法刑法に当たる社会律法もあります。特に当時のユダヤ人が厳守していたのが食物規定です。神が汚れたものとされる食物を絶対に食べてはいけないということです。それを食べている異邦人は穢れた民であり、彼らとの交わりは禁止されていたのです。

ペトロが異邦人に福音を語ったこと、コルネリウスが主イエス様を信じたこと、そのこと自体はここでは問題にされていません。問題は、ペトロが無割礼の異邦人の家に入り、交際する、とりわけ一緒に食事をすることでした。ペトロ、あなたは、聞くところでは異邦人コルネリウスの家に入り、さらに数日間滞在し、当然一緒に食事をした、これは問題ではないか、けしからんと責めたのです。つまり、彼らの論理では、主イエス様の福音を異邦人に伝えるならば、それと合わせてモーセの律法を守ることも伝えるべきだ、清い食事をすること、割礼を受けることも勧めるべきなのに、それをしない、それどころか一緒になって穢れたものを食べたのは良くないというのです。

このような割礼派のキリスト者、律法主義のキリスト者は、このあとになって、もっとはっきりとその主張をするようになります。使徒言行録15章のエルサレム使徒会議のきっかけは、異邦人教会であるアンティオキア教会に、ユダヤからやってきた伝道者が「あなたがたもモーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」と兄弟たちに教え始めたことでした。このことについてパウロやバルナバが激しく反対して、使徒言行録15章のエルサレムで使徒たちの会議が開催されることになったのです。

今朝の個所では、彼らはペトロの話をまず聞いたのであります。その結果、強硬派も、これは神がなさったこととして、そのことを受け入れ、一同神を賛美しました。しかし、それは神様が特別に導かれた例外だから赦そう、そうせざるを得ないという理屈でした。いつでも通用する一般的普遍的なこととして、割礼なしの、あるいはモーセ律法なしの救いが根本から受け入れられたのではなかったのです。このあとも、律法主義キリスト者との神学的な戦いは続きました。初代教会の大伝道者であるパウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で、律法主義、とくに割礼を強制するユダヤ人が教会を訪れて混乱を招いたことを記しています。

4節に、ペトロは、ことの次第を順序正しく説明し始めたと記されています。教会の中で意見の違いがあり、論争や対立が起こる時、どうすればよいでしょうか。やはりそれぞれの意見が、よくわかるように順序正しく説明することが大切だと思います。たとえばペトロが、わたしは主イエス様の一番弟子だからと、とやかく言わずに従えともいわず、また、彼を待ち受けていた人が伝聞だけで勝手に結論を下さなかったことをわたしたちは手本としなければなりません。当事者に直接話を聞くと言うことを怠ってはならないと思います。

 5節から17節までが、ペテロが順序正しく語った、今回の出来事の次第になります。実は、これらは、10章の御言葉の繰り返しといってもよい言葉です。しかし、このペトロの説明と10章の聖書のみ言葉とを比べてみますと、いくつか新しいことが明らかにされています。

 一つは、12節に、ペトロと一緒にカイザリアにいったヤッファの町の兄弟たちの数が、出てきています。ここにいる6人とあります。つまりペトロと一緒に今エルサレムに来ている6人と重なる人たちであるということです。カイザリアに行ったのは6人より多かったかもしれないけれども、少なくとも、ここにいる6人の人はコルネリススを訪ねてペトロと一緒に行ったということです。

 二つ目は、カイザリアでコルネリウスに告げられた天使の言葉です。これまでの二回の繰り返しでは出てこなかった、ペトロを招く理由についての言葉が、この三回目では明らかにされています。13節の後半からお読みします。「またその天使たちが、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族すべてを救う言葉をあなたに話してくれる』

 天使から、ペトロという人が「コルネリウスと家族全員を救う言葉を話す」、だから。その人を招きなさい。救いの言葉をその人から聞きなさいと告げられたから、ペトロを迎えに行ったというのです。

 そしてペトロは、このあとコルネリウスの家で何が起きたかを語ります。「わたしが話し出すと、聖霊が降ったのです」。ペトロの話がある程度進んだ後に、聖霊が降ったというのではなく、話始めると降ったのです。これまでのみ言葉と少し違いがあるように見えます。しかし、話し出す、あるいは話始めるといいましても、結局、そのときには話が始まっているので、終わり切らないうちであったことは共通しています。その有様は、聖霊が最初わたしたちに降った時と同じようであったと語ります。つまり使徒言行録2章に記されていた、エルサレムにおける聖霊降臨の出来事が、今度は異邦人の上に起こったのです。

それは、ペトロの話がすべて終わり、聞いた人が理性を働かせて、よくわかったと言う前に起こったと書かれています。この第二の聖霊降臨の後、ペトロはなおも数日間、コルネリウスの家に滞在して、十分に語り、いわば信仰入門講座を開いています。つまり、聖霊降臨は、人間の側の理性的な納得以前に起きています。聞いていた人が納得し、その結果、信じたと言うのではなく、その前に、まったく神様の側からの出来事として起こったのです。

実は、わたしたちが、信仰をいただいたときもこの原理は同じであると思います。そもそも、人間であるわたしたちが、神様がおられるか、おられないかと言うようなことを理性で判別することはできないのではないかと思うのです。完全に分かったというようなことを期待しても、人間の側からはそれは得られないのだと思います。ただ神様が聖霊をくださるということが信仰の始まりなのです。わたしたちが、信仰の道に入るということは、ただ神様の側の恵みによります。

 ペトロからコルネリウスの救いの物語を聞いた人々はこう言いました。

最後の18節です。

「この言葉を聞いた人々は静まり、「それでは神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さったのだ」と言って神を賛美した。

いいかえますと、神は聖霊において、異邦人をも悔い改めに導いてくださったと言っています。聖霊の神のお働きによって異邦人が救われたと結論付けています。

悔い改めとは、向きを変えるという言葉です。それは新しくされることです。神様を知らず、主イエス様の十字架による罪の赦しの恵みを信じない人生から、向きを変えて新しく生きるようになることです。

「悔い改めに」続けて、「いのち」を与えて下さったと言っております。人間は、神様に向きを変えて生きることがなければ、生まれながらの不安と不信と自己中心の中で生きる以外にはないのです。それは実は滅びの道なのです。しかし、神様が生きておられる、主イエス様が救ってくださることを信じ、主イエス様に依り頼む新しい生き方に向きを変えるなら、命へと招かれるのです。

神様が与えてくださる命は、イエス・キリストによる命です。モーセ律法を守ることによってではなく、また人間的にさまざまに考えて、こうすれば神様が喜んでくださるだろうという、人間の側の善、良い業を行うことによってでもなく、ただ恵みによって、イエス・キリストによって命は与えられます。今わたしたちは、神様の恵みを信じます。心も体も、わたしたちの命は、イエス・キリストによって与えられる、このことをしっかりと信じようではありませんか。祈ります。

祈り

天におられるイエス・キリストの父なる神、私たちの父でもある神、御名を崇めます。あなたは、人間の知恵や力によってではなく、霊の力、聖霊の恵みによって主イエス様を救い主として信じる人々を起こしてくださることを覚えて感謝します。また教会が分裂せず、一致して、神様を讃美できますことを感謝します。同じ恵みが熊本教会にも働いておられることを覚えて感謝を致します、あなたに信頼し、喜びと忍耐を通して、御業にお仕えしてゆくことが出来ますようお願いいたします。主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。