2025年04月06日「使徒ペトロ、福音を語る」

日本キリスト改革派 熊本教会のホームページへ戻る

聖書の言葉

使徒言行録 10章24節~43節

メッセージ

2025年4月6日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録10章24節~43節「使徒ペトロ、福音を語る」

1、

御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

今朝の御言葉の中心部分は、使徒ペトロが、ローマ軍の百人隊長のコルネリウスと言う異邦人の家を訪ね、そこで集まった人々に語った、いわば説教の言葉と言って良いと思います。実は使徒言行録の中では、この個所こそ、初代教会がユダヤ人以外の異邦人に向けて伝道した最初の場面なのです。先週の説教でもお話ししましたが、主イエス・キリストの福音が、今日のように全世界に広がってゆく最初となる記念碑的な出来事でありました。

お読みしました御言葉の前半、24節から33節は、初めて会った二人が互いにここに至る経緯を語っているところです。共に、見えない神の導きがあったことを確認しています。まずコルネリウスに神の天使が現れ、ヤッファの町に逗留しているペトロという人を家に招くようにとお告げがありました。異邦人でありながらユダヤ教に理解を持ち、神を敬う人でありましたコルネリウスは、お告げの通り、直ちに使いの者をペトロに差し向けます。

翌日には、ペトロに対しても幻が与えられて、これまでユダヤ人にとって汚れているとされている動物を食べるようにと神御自身が促し、たった今到着した三人の人と一緒にコルネリウスの家に向かうようにと命じられるわけです。

初代教会の指導者の一人である使徒ペトロが、初めて会った異邦人にどのような言葉で福音を語ったのか、わたくしは大いに興味があります。また、周りは主イエス様を信じていない異邦人ばかりという中で、福音を伝えようとしているわたくしたち皆にとっても大切な個所ではないでしょうか。

わたくしには、小さいころからお世話になったおばさんがいます。亡くなった私の母の妹ですが、今はすでに95歳くらいになっています。

昔のことで詳しい場面はよくおもいだせないのですが、その叔母さんと一緒に電車に乗っていた時に、本当に真剣なおももちでわたしの顔を除きこむようにしてこんなことを言ったのです。そのころわたしは神学校を卒業したばかりだったと思います。

「ねえ、キリスト教っていうのは、やっぱりイエス・キリストなの」

考えてみますとなんだか変な質問です。イエス・キリストという名前、言葉は有名で誰も知らない人はないくらいですが、キリスト教ということになると、おばさんとしてはその内容はあまりよくわからない、そこで、「やっぱりイエス・キリストなの」と言う話になったのだろうと思います。わたしは答えました。「そうです、そう通りだよ、おばさん。」

 お手元の聖書には、34節の前に小見出しがあります。「ペトロ、コルネリウスの家で福音を告げる」と書いてあります。「福音を告げる」と書かれています。34節から43節まで、その言葉の内容が記録されているのですが、やはりイエス・キリストのことが語られています。10節の間に8回イエスという言葉が出てきています。この福音、良き訪れの知らせこそ、イエス・キリストその人なのです。

2、

 実は、先ほどお読みした、今朝のみ言葉は34節から43節まで、ほとんど全部がペトロが語りました説教の言葉です。教会で語られた説教ではなく、使徒ペトロがカイザリアという遠くの町まで出向いて語りました説教であります。もちろん、それは、テープ起こしをするように、ペトロの語った説教、メッセージをそのまま写し取ったものではありません。そもそも600字くらいのものですから、これだけなら2分くらいで読み終わってしまいます。

 ペトロ先生は何を語ったのか、そのメッセージをギュッとまとめたものです。このときの説教は、教会ではなくコルネリウスの屋敷で語られました。

コルネリウスは、ローマの百人隊長でありました。ローマ帝国の軍隊はレギオンと言う連隊、そしてその下の千人隊、さらにその下の百人隊から成り立ちます。コルネリウスは、その百人隊の隊長、責任者です。ユダヤ人ではありません。ローマ人であったと思われます。ローマ皇帝から派遣されて、一家でカイザリアというユダヤの町に住んでいます。ユダヤを治めるローマ総督が住まいを置いた町であるカイザリアの治安を守る百人隊は、軍人たちの中でもかなりのエリートであったと思います。

 この人は、現地のユダヤ人が信じるユダヤ教に興味を持ち、旧訳聖書を読み、またユダヤ人の会堂であるシナゴーグにも出入りしていたようです。新約聖書の中には、このようなユダヤ人でない信心深い外国人が幾人も紹介されています。ユダヤ教に共感する異邦人たちは割礼を受けたり、豚肉を決して食べなかったりといったユダヤ教の戒律を守ることまでは強勢されないのですが、旧約聖書の神の恵みを信じ、天地を造られた神様がおられ、このお方により頼んで人生を送ることを好ましいことと思っていたのです。

 このコルネリスが、どうして自分の屋敷に初代教会の指導者のペトロを招いたのか、それは、ペトロにも、コルネリウスにも神様の特別の導きがあったためでした。

 使徒言行録の時代から現代にいたるまで、教会はイエス・キリストの福音を何とかして世界に伝えようと福音宣教の歴史を刻んできました。この熊本伝道所の始まりは、1974年12月、今から50年前ですね、当時、熊大の先生でありました常葉謙二兄の自宅で行われた家庭集会です。説教者は長丘教会牧師の岩崎洋司先生です。1978年に大会直轄の伝道所としてなり、宮崎彌男教師が派遣されます。今年で伝道開始47年です。日本にある多くの教会は。その開拓時代を見ると、普通の家に集まって礼拝を始めています。

 使徒言行録10章の、このコルネリウスの家の集会は、そのような集会のモデルとなるものだと思います。どうしてかと言いますと、招く方にも、招かれる方にも神様の特別な導きがあるということが、はっきりと記されているからです。

 ペトロにも、コルネリウスにも、天使の導きと言う神様の特別な働きがありました。ペトロには、カイザリアに行ってコルネリスの家に行くように、コルネリウスには、ヤッファに今滞在しているペトロを招くように、それぞれ別々にお告げが与えられるのです。今朝、もしこの場所に新しい方や久しぶりの方が、おられるなら、それは間違いなく、神様の特別な導きによるものである、そう信じることが出来ます。おられないとしても、それはまた次の伝道のための礼拝に備えるための、わたしたちに対する神様の導きであります。

3、

 ペトロの説教の中心はなんでしょうか。もちろん、イエス・キリストです。

まず説教の実際の初めのところ36節のこう語られています。「イエスキリスト、この方こそ万民の主です。」

イエス・キリストこそすべての人の主、万民の主でありますと宣言します。そして、終わりの43節には、イエスを信じるものには、誰でも罪の赦しが受けられる、この方を信じるようにという招きがあります。

「また預言者たちも、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられると証ししています」

そして、この二つに挟まれるようにしてペトロが、語ったこともまた、イエス・キリストなのです。

日本のキリスト教の歴史に名を遺した植村正久という明治時代の牧師がいます。この人は、教会で語られる説教とは何かと言う問いかけをしまして。それはイエス・キリストを世の人々に紹介することだといました。説教とは、道徳的な教えでもなく、また牧師個人の主張や意見の披歴でもなく、ましてや体験談でもなく、イエス・キリストを紹介することだというのです。

今朝、わたしたちが目の前にしているペトロの説教は、まさにその通りの説教であります。ペトロは語ります。

38節「イエス・キリストは、ユダヤ全土で苦しむ人を助け、悪魔の業から人々を解放し、癒されました。」

新約聖書の最初の四つの書物は、福音書と呼ばれます。それらは皆例外なく、主イエス・キリストが人々を癒し助けたことを告げ知らせます。しかも普通の医者たちやボランティアのような助け方ではなく、奇跡としるしによって人々を癒し助けました。口のきけない人や目の見えない人を癒し、嵐を静め、空腹の人に有り余るパンを与えます。

聖書の中には奇跡物語がたくさん出てくるから、現代の科学技術の時代にはとても信じるに値しないと言われる方がいます。確かに、科学技術や医学が発達したことによって、わたしたちの生活は大いに助けられました。しかし、科学や技術、あるいは医療というものは、あくまでわたしたちが用いる道具であります。わたくしは、科学や技術の進歩の背後には神様の恵みがあると信じる者です。同時に私自身は、科学や技術それ自体をイエス・キリストを信じ崇める、頼りにするように、信仰することはありません。また、それはできないことです。科学や技術は人間の業です。そして、それ自身感謝すべき神様の恵みでありますけれども、そのような人間の業を超える神様のみ業というものがあるのです。イエス・キリストがなされた奇跡はイエス・キリストが人間と言う存在を超えたお方であることを証ししています。奇跡を行うお方だからこそ、信仰の対象となることが出来るのではないでしょうか。

ペトロは続けます。そして39節から41節、イエス・キリストの死と復活が語られます。まとめるとこう語っています。

「しかし、人々は、この方を十字架に架けてしまいましたが、しかし、なお、イエス・キリストは三日目に復活してわたしたちの前に姿を現して下さり、わたしたちをそのことの証人としたのです。」

イエス・キリストの癒しと救いの業に続いて、イエス・キリストが死んでよみがえられたことを語っています。神の力を用いて人々を救う人、一種の聖人が地上に現れ、この方を信じる集団が起こり、やがて一つの宗教集団になる、そういうことは現代に至るまで普通におきていることでしょう。モハメットや釈迦牟尼、その流れをくむ様々な宗教集団があります。天理教や幸福の科学、またキリスト教から出てきた新興宗教もたくさんあります。神と霊的な交流をすることが出来ると公言し、自ら教祖となって活動するグループもあります。

「ねえ、キリスト教って、やっぱりイエス・キリストなの」と真剣に問いかけた叔母さんもまた、そういった一人の教祖のような人として、イエス・キリストを見ていたのかもしれません。

ペトロと言う人は、イエス・キリストの弟子でありますが、イエス様が、自分がやがてエルサレムに行って十字架に掛けられて死ぬと言われたときに、「何を言われるのです、そんなことがあってはなりません」と立ちふさがりました。そのペトロが、自分は主イエスが確かに死んだこと、そして、よみがえられたことの証人だと告げて回っているのです。

死んだ人は、普通はよみがえることはありません。しかも、衆人環視の中で十字架にかけられ、槍でわき腹を突き刺され、墓に葬られて三日もたったというかたちでイエス・キリストは死んだのです。ですからその死は、完全な死であります。そのイエス・キリストが弟子たちの前に蘇られて現れたからこそ、弟子たちは、驚き、そして、この方にこそ希望があると信じたのです。

死んでよみがえられた、まるで手品や曲芸のようなことをほんとうにしたので、イエス・キリストを信じようと言っているのではありません。

イエス・キリストは神であり人である特別なお方です。ペトロは説教のまとめとして、このお方を信じる者は、だれでも罪の赦しをいただくと告げています。罪の赦しとは何でしょうか。

世界にまだ何もなかった時に、神様は、光と闇から始まって、太陽と月と星、陸と海、そこに生きる生物、植物、動物を造って、最後に人間をつくりました。人間はエデンの園で神のもとにあって祝福されながら生き始めました。人間はその性質として霊魂を与えられており、神のかたちを持ち、善悪を判断する力と自由を与えられて神と暮らしました。

ところが最初の人間は、その自由を悪用し、神様が禁じていた、たった一つのことを行ってしまいました。禁じられた木の実に手を出しました。それは人間が神よりも上に立つという誘惑によるものでした。人間の最大の罪は、神に反抗すること、神を信ぜず、神を超えて生きようとすることです。すべてを思い通りにしたい、そこに究極の罪があります。

創世記のアダムとエバの物語は、形としては非常に神話的であり、おとぎ話のようだと感じる方もおられるかもしれません。聖書の言葉の中には、非常に厳密に年代を辿る歴史として語られている個所もありますし、ヨブ記やルツ記のような物語として語られている個所もあります。イエス・キリストとは誰か。その教えを紹介する福音書もあります。その中でも、旧約聖書の創世記の初めの9章までは、特に物語という性質が強い形でわたしたちに大切なことを告げようとしています。わたしたちはアダムとエバの物語という大変に物語性の強い御言葉、ある意味では神話のようなみ言葉ですけれども、その背後に何らかの歴史的な根拠があると言うことを受け入れるべきであります。そしてそこには、このような物語のかたちでこそ、神様がわたしたちに伝えたいと願っておられる。そしてわたしたちにとって必要な、確かな真理があるのです。

人間は、初めに神様によって造られた時、神の祝福の中で、死ぬことのない存在でありました。しかしエデンの園から追われたときには、死ぬべき存在となっておりました。神に背き、したがわないなら神の怒りと裁きをうけなければならないからです。

今、わたしたち人間の全員は、生まれながら状態として、神の完全な祝福を失い神の怒りと裁きを受けるものとして生きています。それこそが人生の苦難、社会の闇、不合理、不条理の根源です。神様がおられるなら、どうしてこの世は天国のように理想的な世界になっていないのかと問う方がおられるでしょう。しかし、人は神のごとき存在ではなく、不完全な破れたものだからこそ、この世には不幸が満ちているというべきでしょう。神が聖なるお方であって、人間の罪と悪をお裁きになる方であるからこそ、人は死ななければならないし、その死に向かって、欠けて破れた器として人生を送るのです。

イエス・キリストと言うお方は、普通の人間ではありません。神の子と呼ばれる方で、本当に神ご自身です。それゆえに本来なら唯一死ぬことから免れたお方です。そのお方が死なれた目的はただ一つです。人間の罪が赦されるためです。贖いと言う言葉があります。あるいは償いと言う言葉があります。この世で、犯罪を行ったなら、だれでもその罪を償わねばなりません。それは罪を犯した人自身がつぐなわなければなりません。身代わりに償いをすることは現在の法においては認められません。しかし、刑事事件では認められないことであっても、民事事件ならそれ可能となります。代わりに借金を帰したり損害賠償したりする人が現れるなら、損害を与えた人、借金をした人は、もう何をする必要もありません。

身代わりに刑罰を受ける、このことが、唯一イエス・キリストとわたしたちの間にだけには成り立つのです。神ご自身がそれを認めてくださるのです。神様が人と世界を愛されるがゆえに、その救いのご計画を成し遂げて下さったのです。

この後、聖餐式に与かります。マタイによる福音書26章28節、主イエス様は弟子たちと最後の晩餐をされたとき、ぶどう酒をお取りになってこう言われます。「この杯は罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

ここで主イエス様は、ご自身が、罪びとの罪の赦しのために十字架にかかるとおっしゃっておられます。

イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに結ばれる人は誰でも、罪を赦され、イエス・キリストの復活の命、永遠の命に生きることが出来ます。そこには平安があり、神の祝福と恵みがあります。

そして今日のみ言葉で、説教のまとめとして最後に告げられることは、イエス・キリストの審判のことです。42節です。「イエスは、生きているものと死んだ者の審判者です」、と言うのです。審判者と言う言葉は聞きなれない言葉ですが、裁きを行うものと言う意味です。善を善とし、悪を悪として分けるのです。イエス様ご自身が審判をなさいます。神の前に罪を犯すわたしたちの審判、最後の審判の時が来る前に、イエス・キリストを見出し、心に迎え入れること、それがわたしたちにとって、救いの出来事となります。

ペトロの結論の言葉は43節です。

43節をお読みします。「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じるものは誰でも、その名によって罪の赦しがうけられると、証ししています。」

イエス・キリストの復活は、このお方が救い主であることの神の証しです。そして、イエス・キリストは今生きておられることの根拠です。旧約聖書が指し示し、証ししたお方の救いはついにきました。これこそが、イエス・キリストの福音です。お祈りをして説教を終わります。

祈り

天の父なる神さま、救い主である神の子、イエスキリストのめぐみの中で日々過ごすことが出来ますこと感謝します。どうか教会が力強く、また主なる神の喜ばれる言葉で福音を伝えて行くことが出来ますよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アー