2025年02月09日「パウロの回心」

日本キリスト改革派 熊本教会のホームページへ戻る

聖書の言葉

使徒言行録 9章1節~9節

メッセージ

2019年3月3日(日)熊本伝道所礼拝説教

使徒言行録9章1節~9節「サウロの回心」

1、

御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

今朝の説教題を「サウロの回心」といたしました。実は、別の違う題も浮かんでいました。「サウロの召命」と言う題にしようかと悩んだのです。回心と召命は別の意味を持っています。回心とは、文字通り心が回転することです。生き方が変わる、ただ変わるのではなく、向きが反対になることです。

パウロの場合には、これまで神様に熱心にお従いする道だと思って、キリスト者と教会を迫害する、この世界から抹殺しようとしてきました。その心の向きが180度変わってしまったのです。この世から抹殺しようとしていたキリスト者と教会こそが、本当は神様の御心によって生まれたものであり、イエス・キリストは生きておられるし働いている、わたしが神様に従おうとするなら、むしろそれを助けてイエス・キリストを宣べ伝えるべきことが分かったということです。

日本という国で生きて来た普通の人にとって回心は、また別の意味になります。多くの人にとってはこれまで神様はいるかいないか全くわからない、だから自分中心、自分しか基準になるものがないという生き方をしてきました。そのわたしが、そうでないものに変わるのです。ただ流されるように生きてきた自分が変わるのです。神様は確かにおられる、生きておられる、だから神様中心、イエス様中心、神様のご栄光のために生きるようになる、そう言ってもよいでしょう。

ウエストミンスター小教理問答の有名な第一問はこう問いかけます。「人の主な目的とは何ですか」。答え、「永遠に神を喜び神の栄光を表すことです。」、別の訳ですと「人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです」。エンジョイ、アンド、グロリファイ、ゴッド、フォーエバー。このような生き方に変わることです。これが回心です。単に間違いを後悔するとか改めると言う次元の話ではなくて、心が回るという回心です。

6節には主イエス様がパウロに語った次の言葉が記されています。「起きて町に入れ。あなたのなすべきことが知らされる」。神様から為すべきことを知らされる、あなたはこれこれ、こういうことをしなさいと命じられる。これが神様の召し、召命です。

召命は、命を召すと書きます。英語ではコール、ドイツ語ではベルーフ、神様が呼び出すことです。ドイツ語のベルーフは職業と言う意味もあります。神が与えて下さった務めです。心が神様に向かうように変えられたものは、必ずその生き方、人生全体が大きな意味を持つようになります。ひとそれぞれ具体的なあり方は違うのですが、とにかく神様に喜んでいただくことをして生きる、神を讃美し、神を喜んで生きるようなる。これが究極の人生の目的になります。生きる目当てが与えられる、こんなにうれしいことはないのです。

今回は、パウロの召命ではなく、新共同訳聖書の小見出しに従ってサウロの回心と言う説教題にいたしました。いずれにしても、この物語が聖書の中で大変重要なことであることは間違いありません。ルカは、この物語を後二回繰り返して記します。22章のエルサレムの千人隊長への弁明、そして26章のユダヤのアグリッパ王への弁明です。この二つは、サウロ自身の口から語られる証言です。これが、三度繰り返される物語であることは、聖書全体の中でまれなことであり、わたしたちの信仰と生活にとって大切であることを表しています。さらには聖書の中のパウロの手紙のあちこちにも、この体験のことは記されています。

初代教会の伝道は、まずエルサレムから始まります。やがてユダヤとサマリヤ、そして当時地の果てと言われていたスペイン、ヨーロッパ全土にまで広まります。このことは、この使徒言行録の初めに復活の主イエス様が約束なさったとおりのことです。その個所は、使徒言行録1章の8節です。お聞きください。それは復活して弟子たちに40日間にわたって姿を現してくださった主イエス様が、天に昇って行かれる時に告げて下さった言葉です。

「あなた方の上に聖霊が降るとあなた方は力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。

今朝から、使徒言行録は9章に入って行くのですが、この9章から、主イエス様のみ言葉の通りに、伝道はユダヤとサマリヤの領域を飛び出して進んで行くことになります。ユダヤ人ではない人々、異邦人世界への伝道が始まるのです。この世界伝道は、今もなお継続して進んでいます。教会は使徒言行録の最後の章28章につづく29章を生きていると言われるのです。

その世界伝道、異邦人伝道の最初の器、大きな器として神様が選ばれたのがサウロという人物です。この人はユダヤ人ですが、今日のトルコの南、小アジア半島の付け根のあたりに位置するキリキア州のタルソスと言う町で生まれ育ちました。彼は昔からこの地方に移り住んでいた、いわゆる離散ユダヤ人です。ユダヤ名がサウロ、ギリシャ名はパウロです。離散ユダヤ人たちは、幼いころからユダヤ名とギリシャ名の二つの名前をもっていたようです。

大変面白いことですが、使徒言行録では、ルカは13章9節まではもっぱらサウロという呼び名が使いますが、アンティオケヤを拠点とした異邦人伝道が盛んになる13章13節以降、今度はサウロに代わってもっぱらパウロを使います。ユダヤ人の間ではサウロ、異邦人の間になるとパウロを使う、こう言う使い分けがなされています。

サウロの名前は、この9章で初めて出てきたのではありません。すでに7章58節、ステファノが殉教する場面でサウロは、ちらっと顔を出しております。ステファノが石打ちの刑にあって命を落とそうとしている時、真っ先に石を投げる役割の裁判の証人の上着の番をする若者として紹介されました。サウロは、エルサレムでのキリスト教徒迫害者の仲間であったわけです。

このサウロのキリスト教徒迫害の有様から物語が始まります。

9章1節「さてサウロは、なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた」

口語訳聖書は、「意気込んで」を、原語の「息をする」という言葉の響きを生かして「殺害に息を弾ませながら」と訳しています。新改訳聖書は「殺害しようと息まき」と訳します。サウロの荒い鼻息、のようなものが伝わってきます。

彼は、若者でありましたが、キリスト教迫害の熱心な活動家です。彼の職業は、後のところで天幕造りの職人であると明かされますけれども、このときは、仕事もそっちのけで、いわば迫害の専従者として働いていたのです。

大祭司の手紙とは、サウロをキリスト教徒取り締まりの責任を持つものとして認める、この仕事を委ねるといういわば任命状です。エルサレムとユダヤ、サマリヤでの迫害は依然として続けられていますけれども、彼は、これまで手のついていない離散ユダヤ人のキリスト者を取り締まることに自分の使命を見出しました。同じ離散ユダヤ人として、離散ユダヤ人たちの間にも広まってきたキリスト教を撲滅したかったのです。

ダマスコの諸会堂は、イスラエルと国境を接しているシリアの南の町ダマスコにあるユダヤ教の多くの会堂です。彼らの協力を得ながら、キリスト教に改宗したユダヤ人を見つけ出し、捕らえてエルサレムに連行し、裁判にかけて処刑する権限を得て、ダマスコで活動することが彼の願いでした。9章の2節後半をお読みします。「それはこの道に従うものを見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」

この道に従うものとは、面白い言い方です。道は一人の人の生き方を示します。信仰生活は、命に至る道を歩んで行く人生です。それは恵みの道、喜びの道です。しかしサウロはその道を知りませんでした。

なぜダマスコであったのか、それは明確ではありません。ダマスコは現在でも、ダマスカスと呼ばれるシリアの有力な都市です。そして、古代世界においても伝統ある巨大都市でありました。紀元前5000年にすでにダマスコの町があったという発掘記録があるのです。世界最古の都市とも呼ばれています。ユダヤ人が多く住み、そしてエルサレムから散らされていった弟子たちがこの町で盛んに伝道していたのだと思います。

サウロが、ユダヤのエルサレムで一生懸命していたことが8章3節に具体的に記されています。「一方サウロは、家から家へ押し入って教会を荒らし、男女を問わず引きずり出して牢に送っていた。」

サウロは、大都市ダマスコでも同じようにキリスト教の家の教会を摘発したかったのです。エルサレムは、ユダヤ人の自治国です。しかし、シリアのダマスコは、ローマの十大都市のひとつで、当時はナバテア帝国の支配下にありました。勝手に入って行ってユダヤ人を逮捕することはできません。けれどもユダヤの大祭司からの任命状があるなら、ユダヤ人をエルサレムに連行することが出来たのです。

ダマスコのことを調べていましたら、次の10節に名前の出るアナニアという人にちなむ古い教会が現在のダマスコに残っていることがわかりました。その聖アナニア教会の祭壇画というものが紹介されています。祭壇画は三つあり、一つはダマスコに向かう途上でキリストに出会ったパウロ、二つ目はアナニアから洗礼を受けるパウロ、そして三つめはダマスコの城壁から籠に入れて救い出されるサウロです。

わたくしが注目したのは第一の絵です。サウロは赤い立派な衣装を着て馬に乗り、従者を従えています。そして天からの光が差し込み、彼は馬から落ちて横たわっているのです。サウロは、ローマの市民権を持ち、また確かに大祭司の手紙によって、教会取り締まりの任務を与えられていました。馬にまたがり、人々を逮捕する手下のものを伴ってダマスコの近くまで来たことでしょう。そのとき、天からの光が彼の周りを照らし、サウロは地に倒れました。

ただまぶしかったからというのではなく、この世のものでない力がそこに働いているのです。そして天から声が聞こえました。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」

サウロと言う名はユダヤ名のギリシャ語読みですが、ヘブライ語をそのままに発音するとシャウールだそうです。主イエス様は、このときヘブライ語あるいはアラム語でサウロに呼びかけ、聖書は、そのままの音を伝えています。二度繰り返すのは、神様の関心の高さ、思いの強さを表します。神様に自分の名を呼ばれる、それも二度繰り返して呼ばれることは普通のことではありません。旧約聖書では、創世記22章のアブラハム。出エジプト記3章のモーセ、も同じように二度繰り返して呼びかけられています。

「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。」主イエス様の声であります。しかし、サウロにはすぐにわかりません。「主よ、あなたはどなたですか」、この時の主よという返事は、主イエス様と言う意味ではなく、目上の人に対する敬称の「主よ」、であります。しかも「わたしを迫害する」、と尋ねるのは、いったい誰であろうか、天で語られるお方、ご主人様、あなたはどなたですか。こう尋ねました。

声ははっきりと答えてくださいました。「わたしはあなたが迫害しているイエスである」

これを聞いたとき、サウロは、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたことでしょう。十字架に処刑されたイエス、イエスの弟子たちは、イエスは死から生き返り、今も生きておられる、このお方を信ぜよと伝道している。さうろは、それこそきっと夢か幻か、作り話だと思っていたのです。しかし、天の声ははっきりと「わたしは、イエスだ」と告げているのです。

サウロが迫害したのは、イエスの弟子、イエスを信じるものでした。しかし主イエス様にとっては、それはまさに自分自身なのです。主はぶどうの木であり、弟子たちは枝です。キリスト者は主イエス様と一体です。教会はキリストの体なのです。弟子たちを迫害することはイエスを迫害するものなのです。

そして主イエス様は、サウロに二つのことを命じました。まず起き上がることです。そしてダマスコの町に入れと命じられました。「そうすればあなたのなすべきことが知らされる」

まずは、起き上がること、ダマスコに入ること、そしてこれから神様がしてくださることに身を委ねよと命じられました。

同行していた人たちとは、サウロの従者であり、キリスト者を捕らえ連行するユダヤの軍隊の小さな部隊もしれません。彼らも光に照らされて倒れたことが、26章のパウロ自身の証言で語られますが、彼らはすぐにたちあがったのでしょう。聞こえているのが声であることは分かったけれども、何を言っているのかは分からなかったようです。22章のパウロの弁明では、彼らにはその声が聞こえなかったと語られています。

 サウロは、倒れている状態で目を開けましたが、何も見えなかったと書かれています。ほかの人たちには、そのようことは起きていません。天からの光が強烈であり、それによって目を傷めたというのではありません。神様は、サウロの目を打って、何も見えなくしたのです。それは、サウロが、その声の主の力と権威を悟るためであり、打ちのめされるためでありました。この体験がサウロ自身にとって重大なものであることを示します。

 わたしたちは、しばしば苦難困難の中で、深く物事を思いめぐらします。その試練を通りぬけたとき神様の恵みと力を心から悟ります。すべては神様のご計画なのです。そしてサウロは、人々に手を引かれてダマスコの町に入りました。意気揚々と、息を弾ませながらダマスコにやってきたサウロとは打って変わったみじめな姿です。

 サウロは、直線通りという通りに入り、そこにあるユダという人の家で過ごしました。三日間、目が見えず、食べも、飲みもしなかったと9節にあります。

 11節に、ダマスコの町のキリスト者アナニアに主が語った時、彼は今祈っているとサウロについて告げてくださいました。サウロは、ユダの家で三日間、断食して祈っていたのでした。目が見えず、暗闇にこもるようにしてサウロは祈り続けました。イエス・キリストは間違いなく生きておられ、そして神の権威と力を持っておられる、このことを心に刻み込む祈りでありました。そして、これまでのキリスト者迫害の自分の罪深さを思い知り、そして自分がこれから何をすることを神様は計画しておられるのか、委ね切るための祈りであったと思います。

4、

 パウロは回心しました。主イエス様に対する思いは180度変わりました。ユダヤ教の神に仕えよう、仕え切ろうとして熱心に活動したことは、かえって神の御こころと真逆のことだったのです。主イエス様こそ、今生きておられる神であったのです。そしてサウロは、これから神の召しをいただこうとしています。回心と召命、神様の召しは一体です。信じたものは、新しい使命に生きるようになるのです。わたくしに与えられた神様の召しはフルタイムの伝道者になることでした。しかしそれまでは、一人のキリスト者として別の召しに従っていました。教会の奉仕はもちろんですが、主の日、礼拝の日以外の六日間の仕事、会社の仕事も家族の一員としての家庭の仕事も、神さまから命じられたことでした。また学生であれば、学びの務めのすべてが、神様にお仕えする召命、ベルーフとなります。

 わたしたちを新しく造り替えてくださる神は、わたしたちの毎日の生活の中で神様を喜び、神様の栄光を現わす、神様に栄光を帰すものとなるようにしてくださいます。わたしたちはサウロのように、劇的な回心の体験はないかもしれません。しかし、神様ご自身がわたしたちを召し、救いへと導き、そして新しい人生へと招いてくださることは変わりません。神様に心を向けて歩みたいと思います。祈ります。

天の父なる神様、サウロは生きておられる復活の主イエス・キリストの直接の現われ、啓示によって回心させていただきました。そして世界伝道の召しを受けて働きました。わたしたち一人一人にも与えられた飯があります。生活の全てが神様にお仕えする道です。与えられた務めに積極的田な意味が当てられました。またその働きにおいても、神を愛し隣人を愛するものとして歩ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。