聖書の言葉 コリントの信徒への手紙一 12章12節~40節 メッセージ 2025年1月26日(日)熊本伝道所礼拝説教 コリントの信徒への手紙12章12節~27節「キリストの体、教会」 Rev.SHOICHI NEZU 1、 御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 今朝は特別に、続けて聞き続けています使徒言行録の御言葉を離れて、今年の教会標語となっているみ言葉、コリントの信徒への手紙1の12章の御言葉に聞くことにいたしました。その理由は、2025年度の定期会員総会が本日礼拝後に開かれると言うことです。わたくしは会員総会の日の説教は、いつもその年の標語聖句の御言葉を語ることにしているからです。 2025年度の教会標語は、すでに1月最初の週報から第一面に掲げているとおりです。コリントの信徒への手紙1の12章27節です。「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」 毎年の教会標語は、前年の11月と12月の伝道所委員会で協議して決定しています。その決定は、やはり牧師のイニシアチブといいますか主導権に負うところが大きいのが実際のところです。わたくしが、伝道所委員会でいつも複数の候補を挙げまして委員の方々と話し合って、その中から最終的に決めています。昨年の標語は、まだ前の壁に掲げていますが、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」第二テモテのみ言葉です。 昨年は、教会の外に向かって為すべき使命に励む、折が良くても悪くても熊本伝道所は、伝道の使命を果たしてゆくという福音宣教に関わる御言葉を選びました。家族や友人知人、地域の方を主イエス様のもとに招き続ける、その心意気を込めて、この「伝道のみ言葉」を掲げていたと思います。それに対して今年は、外に向かってのものというよりも、そのための体制を整えるということ、あるいは教会が神様の求めている本来の姿として建て上げられてゆく、そういう方向性の御言葉を選んだのであります。 昨年、一昨年と熊本伝道所は神様の恵みの中で新しい人が加えられて、教勢、つまり教会の数字的な面では目に見える祝福を頂きました。コロナの災いが始まる前後から10人前後でのささやかな礼拝になっていたのですが、昨年は平均16名、多い時には20名の方が神様によって集められました。それでも小さな教会であることには変わりがないわけで、経済的、政治的な独立には未だ道遠しという状況です。道遠しなのですが、コロナの頃とは打って変わって、ただただ神様の恵みと導きの中で、わたしたちはそのことを喜んでいますし、何となく前向きの思いで過ごしているわけです。 けれども小さな教会に新しい人が加えられるという状況の中で、神様から与えられる新たな課題というものもあります。昨年から始めました「コイノニア会」、小グループでの主にある交わりの会というものも、その課題を意識しているものだと思います。教会に集う兄弟姉妹、仲間の間での交わりが課題になっているのです。今年の標語は、そのような中で選ばれた標語であります。「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」この聖書のみ言葉を神様がわたしたち自身に語ってくださった言葉として受け止めたいと思います。 2, さて、先ほど第一コリント書12章12節から27節までをお読みしました。教会標語としていますのは27節です。けれども、聖書を良く見ますとあることに気が付きます。12節から始まった段落が26節でいったん切れていることです。27節からは新しい段落に入っていることが分かります。27節からの新しい段落は、26節までの、キリストの教会は、一人の人間の体のようであるという段落を受けたもので。そこから新たな主張が始まっています。 それは、教会に立てられる様々な奉仕の役割に関することです。当時の教会に立てられていた使徒や預言者、教師、奇跡をおこなう人と続いている、合わせて8つの奉仕の役目が記されています。それぞれ違った役割であって、その役割を担う人には神様から与えられている異なった賜物があると結論付けています。そしてそれに続いている最後の31節が大変大切なものです。それらの八つの働きに奉仕する人々が神様から与えられている違った賜物がある。そういう素晴らしい賜物があるとしても、教会には求めるべきもっと大きな賜物があると言うのです。最高の道、最も大いなる賜物があると言うのです。それは何かといいますと愛と言う賜物である。最高の賜物としての愛を追い求めなさいと勧告します。そして次の13章から聖書の中でも、ひときわ名高い、また美しい愛の教えが明らかにされてゆくことになります。 わたしたちの2025年の標語は、パウロがこの個所で語りたかった愛の賜物という結論部分ではなく、その途中の議論に出てくるみ言葉であると言うことを意識する必要があります。「愛の賜物を追い求めなさい」という勧めの文脈の途中で、教会はキリストの体であり一人一人はその部分であると語られていることを覚えなければならないのです。 12節から13節には、当時のコリントの教会に集まっていたいろいろな種類の人々が、記されています。「ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと」とあります。コリントという町はエーゲ海に突き出しているアカイア州と当時のギリシャの首都アテネの間にある商業都市でした。そこには多くのユダヤ人も住んでいましたし、そうではない異邦人、ここではギリシャ人とひとまとめにされていますが、ギリシャ人も住んでいます。そして教会には主イエス様を信じるようになったユダヤ人と、やはり主イエス様を信じるようになったギリシャ人である現地の人の両方が集まっていました。両者は文化的、宗教的な背景が全く違う人々です。また、奴隷であろうと自由人であろうと、と書かれているように違った身分や職業の人もいます。11章には、頭にかぶり物、ベールを被る女性のことが書かれているので、男性も女性も集っています。そういう違った境遇の人たちでありながら、一人の主、救い主イエス・キリストを信じる信仰を頂いた。それは一つの霊の働き、つまり聖霊の恵みでありました。それらの人々は、もともとは全く知る由もない他人の関係であったのに、今や家族のように、いやそれ以上に近い関係、一つの体になったというのです。それは、趣味が一緒とか境遇が似ているからというのではなく、ただ神によって招かれてイエス・キリストを知るものとされ教会の一員になりました。 熊本教会は小さな教会かも知れませんけれども、同じ原理のもとに成り立っています。教会が大きい、小さいに関わりなく、教会とはそのような場所であります。隣で讃美歌を歌っている人、後ろで使徒信条を告白している人、御言葉に耳を傾けている人、皆がそれぞれ違った場所から神様によってここに集められたのです。 14節に、「体は、一つの部分ではなく多くの部分から成っています」とあります。みなが違った人であり、違った賜物をもつ多様な人でありますが、一つの体、キリストの体を作っているのです。 3、 今朝の説教題は、先週の週報で予告したものから変わっています。はじめは「神の民としての教会」としていたのですが、説教を作りながら、今の説教題「キリストの体、教会」に変更しました。初めに予定されていた説教題をご覧になって意外な印象を持たれたかも知れませんが、「キリストの体」という大切な言葉が含まれていませんでした。 実は、聖書が明らかにしている教会の姿とはいかなるものなのか、いろいろな見解が可能です。例えばキリストの花嫁、あるいは神の家、神の家族、祈りの家などがあります。どれも聖書自体が言っていることです。その中で、最も重要なものが二つあります。一つは、今朝のみ言葉が語る「キリストの体」というものです。そしてもう一つが「神の民」であります。今朝読みました旧約聖書のエレミヤの預言31章36節に「イスラエルの子孫はわたしの民である」と書かれています。わたしの民、すなわち「神の民」であります。イスラエルと呼ばれている集団、それは血縁による共同体ではなく、あくまで神さまの契約による選びの民のことです。 モーセの時代のイスラエルの民は、時満ちて、主イエス様の十字架と復活を経て、神の選びの民と言う本質を保ちながら、教会となりました。教会は、旧約聖書に描かれているアブラハム、イサク、ヤコブの子孫、神の選びの民イスラエルの霊的な子孫であります。 神の民と言う言葉は、旧約に6回、新約に5回出てきます。つまり聖書全体が、教会が神の民であることを指し示しているのです。わたしたちは、教会がキリストの体であると言うことと同時に、神の民であるということも忘れてはならないと思いましたので、初めの説教題はそのように致しました。しかし、やはり今朝はキリストの体について語ることが大切だと思いなおしました。 教会が神の民であるということは、過去・現在・将来という歴史的な時間を貫くことです。そして旧約のイスラエルは、新約の教会のひな型でもあります。わたしたちは、約束の地を目指して旅をしたあの荒れ野の共同体のように、やがて来る終わりの時、或いは一人一人の生涯の終わりに向かって一緒に旅を続けてゆくのです。一方で、「キリストの体」という表現は、今現在の教会の姿を現わしている言葉です。わたしたちは教会について、神の民という歴史的な意識、時間軸とキリストの体という今現在の関係のあり方、時間的な垂直軸に対する、今現在の相互の関係という水平軸という二つの見方を持つ必要があると思うのです。 教会は、そこに集う仲間がただ一人のキリストにつながりながら、皆で力を合わせ、助け合い励まし合う一つの体として、世の終わりまで一緒に旅をしてゆく仲間です。 さて15節から25節には、まるで教会学校で語られるような仕方で、体の各部分が互いに配慮する様子が語られています。全体が目であるような、あるいは、全体が手や足だけであるような体は存在することが出来ません。不要な部分は一つもないということ、そして目立たない部分が互いに補い合って役割を果たす、そのことによって体全体の働きが支えられるのです。 ある集会で、わたしは驚くような成長を遂げて今は大教会になった牧師の話を聞いて唖然としたことがありました。他教派の先生ですが、その先生は、教会にはいろいろな人が集まってくる。素晴らしい賜物を持つ人やそうではない人もいる、中には、教会に迷惑をかけたり、害を及ぼしたりしそうな人も出てくる、そういう人を早い段階から見つけ出して、なるべくよその教会に行ってもらうことに苦労したとおっしゃったのです。今日のパウロの言葉に従えば、そのようにして教会が効率的に成長することが出来たとしても、それはキリストの体としての本来の聖書的な教会の姿を失っていると思うのです。教会が教会である「しるし」、それは体の中には、弱い部分があるとしても、決して排除されるのではなく、他の部分によって配慮されている姿であろうと思います。もちろんいろいろな配慮をする負担が教会にはかかってきます。しかし、そのような働き、そこでの困難や苦労こそがまさに教会が教会として生きて働いているあかしなのです。 孫悟空が出てくる西遊記や、あるいは少女ドロシーがブリキの人形や臆病なライオンと旅をするオズの魔法使いでは、いろいろな仲間が一緒に旅を続けます。教会もまた、天の御国を目指して一緒に旅をする仲間なのです。そこで先頭を進んで行かれるのは主イエス様です。わたしたちを愛するがゆえに神の御子であるのに、いや愛である神の御子であるからこそ、十字架の苦難を受けられ、わたしたちの罪をすべて贖い、赦しと恵みをくださった主イエス様が先頭に立って、わたしたちと一緒に旅をしてくださいます。主イエス様に従って歩むわたしたちは、その主イエス・キリストの体として互いに配慮し合い、助け合いながら進んで行くのです。 4, 当時のコリント教会にはいろいろな課題がありました。使徒パウロは、そのコリント教会に向けていくつかの手紙を書いています。その課題の一つが聖霊の恵みの問題でした。異言と言って、礼拝の中で恍惚状態になる人や、当時女性はしとやかさのしるしにかぶりもの、ベールをかぶる風習があったのですが、それをかなぐり捨てて熱狂的に祈ったりする女性の存在もありました。それこそが聖霊が働いておられるしるしだと言う者たちも現れました。パウロは、教会には秩序が必要であること、皆が分かる言葉で祈ったり語ったりするべきであること、そして、聖霊の賜物の中で最も重要な最高のものは愛であると答えました。愛がなければすべてはむなしいと書きました。聖霊の中心的な賜物とは、何か熱狂や恍惚をもたらすことではなく、教会の中で様々な奉仕の役割を果たすために働いてくださる、上から一人一人に与えられる力であると言うのです。 わたくしが説教塾で指導を受けました加藤常昭先生が、ドイツから来られた牧師たちを鎌倉の有名な神社に案内したそうです。一人の方が、ずいぶん沢山の人が来ているけれども、集会はいつ始まるのかと質問されたそうです。彼らにとっては、それぞれが勝手に礼拝して帰って行くという礼拝のスタイルは理解できなかったようだと言うのです。 神は、共にいて下さるお方であって、何よりもそこに集まって共に礼拝する人々のただ中におられるお方です。集う人々は、そこで神であるお方、イエス・キリストに皆が結ばれることになります。それだけではなく、集う人々同士もまた、互いに結ばれている、それが教会です。互いに結ばれていて、そこに交わりがあり、助け合いが生まれているのです。パウロは、それは家族のようだと言うのではなく、ひとつの体、キリストの体が造られていると言いました。 この交わりは、この世のいわゆる親睦とは違います。交わりは交わりでも「主にある交わり」です。皆が主イエス様に先ず結ばれているのです。一緒におしゃべりしたり、親しくすることが楽しい人だけではなく、そうでない人もいます。でも互いの事情に踏み込んでいったり、踏み込んで来られることに抵抗を覚える方がおられても良い、何ら問題ないのです。その方のあり方を尊重する、大切にすることもまた、愛の奉仕のかたちであり、交わりの一つのかたちであると思います。 互いが違っていても、様々な部分があっても、弱いところ、見栄えの良い所、そうでないところがあっても体は一つの体として働きます。むしろ、そのような弱い部分こそが必要なのです。キリストの体、それが教会なのです。祈りを致します。 愛する主、天の父なる神の御子イエス・キリストの御名を崇めます、あなたは、不思議な仕方で教会にわたしあっち一人一人を招いてくださいました。それぞれは違った境遇、個性を持つおmのですが、一人の主、イエス・キリストのゆえに互いに結ばれて売ることを感謝します。キリストの体として教会が立て上げられていきますよう、どうか導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2025年1月26日(日)熊本伝道所礼拝説教
コリントの信徒への手紙12章12節~27節「キリストの体、教会」
Rev.SHOICHI NEZU
1、
御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
今朝は特別に、続けて聞き続けています使徒言行録の御言葉を離れて、今年の教会標語となっているみ言葉、コリントの信徒への手紙1の12章の御言葉に聞くことにいたしました。その理由は、2025年度の定期会員総会が本日礼拝後に開かれると言うことです。わたくしは会員総会の日の説教は、いつもその年の標語聖句の御言葉を語ることにしているからです。
2025年度の教会標語は、すでに1月最初の週報から第一面に掲げているとおりです。コリントの信徒への手紙1の12章27節です。「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」
毎年の教会標語は、前年の11月と12月の伝道所委員会で協議して決定しています。その決定は、やはり牧師のイニシアチブといいますか主導権に負うところが大きいのが実際のところです。わたくしが、伝道所委員会でいつも複数の候補を挙げまして委員の方々と話し合って、その中から最終的に決めています。昨年の標語は、まだ前の壁に掲げていますが、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」第二テモテのみ言葉です。
昨年は、教会の外に向かって為すべき使命に励む、折が良くても悪くても熊本伝道所は、伝道の使命を果たしてゆくという福音宣教に関わる御言葉を選びました。家族や友人知人、地域の方を主イエス様のもとに招き続ける、その心意気を込めて、この「伝道のみ言葉」を掲げていたと思います。それに対して今年は、外に向かってのものというよりも、そのための体制を整えるということ、あるいは教会が神様の求めている本来の姿として建て上げられてゆく、そういう方向性の御言葉を選んだのであります。
昨年、一昨年と熊本伝道所は神様の恵みの中で新しい人が加えられて、教勢、つまり教会の数字的な面では目に見える祝福を頂きました。コロナの災いが始まる前後から10人前後でのささやかな礼拝になっていたのですが、昨年は平均16名、多い時には20名の方が神様によって集められました。それでも小さな教会であることには変わりがないわけで、経済的、政治的な独立には未だ道遠しという状況です。道遠しなのですが、コロナの頃とは打って変わって、ただただ神様の恵みと導きの中で、わたしたちはそのことを喜んでいますし、何となく前向きの思いで過ごしているわけです。
けれども小さな教会に新しい人が加えられるという状況の中で、神様から与えられる新たな課題というものもあります。昨年から始めました「コイノニア会」、小グループでの主にある交わりの会というものも、その課題を意識しているものだと思います。教会に集う兄弟姉妹、仲間の間での交わりが課題になっているのです。今年の標語は、そのような中で選ばれた標語であります。「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」この聖書のみ言葉を神様がわたしたち自身に語ってくださった言葉として受け止めたいと思います。
2,
さて、先ほど第一コリント書12章12節から27節までをお読みしました。教会標語としていますのは27節です。けれども、聖書を良く見ますとあることに気が付きます。12節から始まった段落が26節でいったん切れていることです。27節からは新しい段落に入っていることが分かります。27節からの新しい段落は、26節までの、キリストの教会は、一人の人間の体のようであるという段落を受けたもので。そこから新たな主張が始まっています。
それは、教会に立てられる様々な奉仕の役割に関することです。当時の教会に立てられていた使徒や預言者、教師、奇跡をおこなう人と続いている、合わせて8つの奉仕の役目が記されています。それぞれ違った役割であって、その役割を担う人には神様から与えられている異なった賜物があると結論付けています。そしてそれに続いている最後の31節が大変大切なものです。それらの八つの働きに奉仕する人々が神様から与えられている違った賜物がある。そういう素晴らしい賜物があるとしても、教会には求めるべきもっと大きな賜物があると言うのです。最高の道、最も大いなる賜物があると言うのです。それは何かといいますと愛と言う賜物である。最高の賜物としての愛を追い求めなさいと勧告します。そして次の13章から聖書の中でも、ひときわ名高い、また美しい愛の教えが明らかにされてゆくことになります。
わたしたちの2025年の標語は、パウロがこの個所で語りたかった愛の賜物という結論部分ではなく、その途中の議論に出てくるみ言葉であると言うことを意識する必要があります。「愛の賜物を追い求めなさい」という勧めの文脈の途中で、教会はキリストの体であり一人一人はその部分であると語られていることを覚えなければならないのです。
12節から13節には、当時のコリントの教会に集まっていたいろいろな種類の人々が、記されています。「ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと」とあります。コリントという町はエーゲ海に突き出しているアカイア州と当時のギリシャの首都アテネの間にある商業都市でした。そこには多くのユダヤ人も住んでいましたし、そうではない異邦人、ここではギリシャ人とひとまとめにされていますが、ギリシャ人も住んでいます。そして教会には主イエス様を信じるようになったユダヤ人と、やはり主イエス様を信じるようになったギリシャ人である現地の人の両方が集まっていました。両者は文化的、宗教的な背景が全く違う人々です。また、奴隷であろうと自由人であろうと、と書かれているように違った身分や職業の人もいます。11章には、頭にかぶり物、ベールを被る女性のことが書かれているので、男性も女性も集っています。そういう違った境遇の人たちでありながら、一人の主、救い主イエス・キリストを信じる信仰を頂いた。それは一つの霊の働き、つまり聖霊の恵みでありました。それらの人々は、もともとは全く知る由もない他人の関係であったのに、今や家族のように、いやそれ以上に近い関係、一つの体になったというのです。それは、趣味が一緒とか境遇が似ているからというのではなく、ただ神によって招かれてイエス・キリストを知るものとされ教会の一員になりました。
熊本教会は小さな教会かも知れませんけれども、同じ原理のもとに成り立っています。教会が大きい、小さいに関わりなく、教会とはそのような場所であります。隣で讃美歌を歌っている人、後ろで使徒信条を告白している人、御言葉に耳を傾けている人、皆がそれぞれ違った場所から神様によってここに集められたのです。
14節に、「体は、一つの部分ではなく多くの部分から成っています」とあります。みなが違った人であり、違った賜物をもつ多様な人でありますが、一つの体、キリストの体を作っているのです。
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今朝の説教題は、先週の週報で予告したものから変わっています。はじめは「神の民としての教会」としていたのですが、説教を作りながら、今の説教題「キリストの体、教会」に変更しました。初めに予定されていた説教題をご覧になって意外な印象を持たれたかも知れませんが、「キリストの体」という大切な言葉が含まれていませんでした。
実は、聖書が明らかにしている教会の姿とはいかなるものなのか、いろいろな見解が可能です。例えばキリストの花嫁、あるいは神の家、神の家族、祈りの家などがあります。どれも聖書自体が言っていることです。その中で、最も重要なものが二つあります。一つは、今朝のみ言葉が語る「キリストの体」というものです。そしてもう一つが「神の民」であります。今朝読みました旧約聖書のエレミヤの預言31章36節に「イスラエルの子孫はわたしの民である」と書かれています。わたしの民、すなわち「神の民」であります。イスラエルと呼ばれている集団、それは血縁による共同体ではなく、あくまで神さまの契約による選びの民のことです。
モーセの時代のイスラエルの民は、時満ちて、主イエス様の十字架と復活を経て、神の選びの民と言う本質を保ちながら、教会となりました。教会は、旧約聖書に描かれているアブラハム、イサク、ヤコブの子孫、神の選びの民イスラエルの霊的な子孫であります。
神の民と言う言葉は、旧約に6回、新約に5回出てきます。つまり聖書全体が、教会が神の民であることを指し示しているのです。わたしたちは、教会がキリストの体であると言うことと同時に、神の民であるということも忘れてはならないと思いましたので、初めの説教題はそのように致しました。しかし、やはり今朝はキリストの体について語ることが大切だと思いなおしました。
教会が神の民であるということは、過去・現在・将来という歴史的な時間を貫くことです。そして旧約のイスラエルは、新約の教会のひな型でもあります。わたしたちは、約束の地を目指して旅をしたあの荒れ野の共同体のように、やがて来る終わりの時、或いは一人一人の生涯の終わりに向かって一緒に旅を続けてゆくのです。一方で、「キリストの体」という表現は、今現在の教会の姿を現わしている言葉です。わたしたちは教会について、神の民という歴史的な意識、時間軸とキリストの体という今現在の関係のあり方、時間的な垂直軸に対する、今現在の相互の関係という水平軸という二つの見方を持つ必要があると思うのです。
教会は、そこに集う仲間がただ一人のキリストにつながりながら、皆で力を合わせ、助け合い励まし合う一つの体として、世の終わりまで一緒に旅をしてゆく仲間です。
さて15節から25節には、まるで教会学校で語られるような仕方で、体の各部分が互いに配慮する様子が語られています。全体が目であるような、あるいは、全体が手や足だけであるような体は存在することが出来ません。不要な部分は一つもないということ、そして目立たない部分が互いに補い合って役割を果たす、そのことによって体全体の働きが支えられるのです。
ある集会で、わたしは驚くような成長を遂げて今は大教会になった牧師の話を聞いて唖然としたことがありました。他教派の先生ですが、その先生は、教会にはいろいろな人が集まってくる。素晴らしい賜物を持つ人やそうではない人もいる、中には、教会に迷惑をかけたり、害を及ぼしたりしそうな人も出てくる、そういう人を早い段階から見つけ出して、なるべくよその教会に行ってもらうことに苦労したとおっしゃったのです。今日のパウロの言葉に従えば、そのようにして教会が効率的に成長することが出来たとしても、それはキリストの体としての本来の聖書的な教会の姿を失っていると思うのです。教会が教会である「しるし」、それは体の中には、弱い部分があるとしても、決して排除されるのではなく、他の部分によって配慮されている姿であろうと思います。もちろんいろいろな配慮をする負担が教会にはかかってきます。しかし、そのような働き、そこでの困難や苦労こそがまさに教会が教会として生きて働いているあかしなのです。
孫悟空が出てくる西遊記や、あるいは少女ドロシーがブリキの人形や臆病なライオンと旅をするオズの魔法使いでは、いろいろな仲間が一緒に旅を続けます。教会もまた、天の御国を目指して一緒に旅をする仲間なのです。そこで先頭を進んで行かれるのは主イエス様です。わたしたちを愛するがゆえに神の御子であるのに、いや愛である神の御子であるからこそ、十字架の苦難を受けられ、わたしたちの罪をすべて贖い、赦しと恵みをくださった主イエス様が先頭に立って、わたしたちと一緒に旅をしてくださいます。主イエス様に従って歩むわたしたちは、その主イエス・キリストの体として互いに配慮し合い、助け合いながら進んで行くのです。
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当時のコリント教会にはいろいろな課題がありました。使徒パウロは、そのコリント教会に向けていくつかの手紙を書いています。その課題の一つが聖霊の恵みの問題でした。異言と言って、礼拝の中で恍惚状態になる人や、当時女性はしとやかさのしるしにかぶりもの、ベールをかぶる風習があったのですが、それをかなぐり捨てて熱狂的に祈ったりする女性の存在もありました。それこそが聖霊が働いておられるしるしだと言う者たちも現れました。パウロは、教会には秩序が必要であること、皆が分かる言葉で祈ったり語ったりするべきであること、そして、聖霊の賜物の中で最も重要な最高のものは愛であると答えました。愛がなければすべてはむなしいと書きました。聖霊の中心的な賜物とは、何か熱狂や恍惚をもたらすことではなく、教会の中で様々な奉仕の役割を果たすために働いてくださる、上から一人一人に与えられる力であると言うのです。
わたくしが説教塾で指導を受けました加藤常昭先生が、ドイツから来られた牧師たちを鎌倉の有名な神社に案内したそうです。一人の方が、ずいぶん沢山の人が来ているけれども、集会はいつ始まるのかと質問されたそうです。彼らにとっては、それぞれが勝手に礼拝して帰って行くという礼拝のスタイルは理解できなかったようだと言うのです。
神は、共にいて下さるお方であって、何よりもそこに集まって共に礼拝する人々のただ中におられるお方です。集う人々は、そこで神であるお方、イエス・キリストに皆が結ばれることになります。それだけではなく、集う人々同士もまた、互いに結ばれている、それが教会です。互いに結ばれていて、そこに交わりがあり、助け合いが生まれているのです。パウロは、それは家族のようだと言うのではなく、ひとつの体、キリストの体が造られていると言いました。
この交わりは、この世のいわゆる親睦とは違います。交わりは交わりでも「主にある交わり」です。皆が主イエス様に先ず結ばれているのです。一緒におしゃべりしたり、親しくすることが楽しい人だけではなく、そうでない人もいます。でも互いの事情に踏み込んでいったり、踏み込んで来られることに抵抗を覚える方がおられても良い、何ら問題ないのです。その方のあり方を尊重する、大切にすることもまた、愛の奉仕のかたちであり、交わりの一つのかたちであると思います。
互いが違っていても、様々な部分があっても、弱いところ、見栄えの良い所、そうでないところがあっても体は一つの体として働きます。むしろ、そのような弱い部分こそが必要なのです。キリストの体、それが教会なのです。祈りを致します。
愛する主、天の父なる神の御子イエス・キリストの御名を崇めます、あなたは、不思議な仕方で教会にわたしあっち一人一人を招いてくださいました。それぞれは違った境遇、個性を持つおmのですが、一人の主、イエス・キリストのゆえに互いに結ばれて売ることを感謝します。キリストの体として教会が立て上げられていきますよう、どうか導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。