聖書の言葉 使徒言行録 8章14節~25節 メッセージ 2025年1月19日(日)隈本伝道所礼拝説教 使徒言行録8章14節~25節「魔術師シモンの回心2」 Rev.SHOICHI NEZU 1、 御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 今日は1月の19日です。1月も後半に入りました。一年で最も寒い日が続く季節だと思います。 先週の礼拝あと、次週の会員総会の資料でもあります教会の年報作成の奉仕を致しました。週報ボックスの数、30と西部中会内の34の教会・伝道所、合わせて64ですが、予備を合わせて70部ほど作成しました。年報には今年の予定も掲載しています。今年のイースターは4月20日、6月8日がペンテコステ、そしてクリスマス礼拝は12月21日に予定されています。 イースターは主イエス様の復活、クリスマスは主イエス様の誕生の記念日ですが、ペンテコステは教会の誕生日であります。この日に弟子たち一同に聖霊が降りました。それから使徒たちの伝道が始まりました。ペンテコステは、そして今日まで続くキリスト教会の原点なのです。そのペンテコステの日に先ず起こりましたのは、聖霊が人間の目に見えるような仕方で降ったということでした。これは今朝の御言葉に大いに関係のあることです。 朝のみ言葉の8章17節には、エルサレムの使徒たちから派遣されて来たペトロとヨハネが手を置くとサマリアの人々に聖霊が降ったと書かれています。これを見ていた魔術師シモンは、自分手を置けば同じように聖霊が降るその権能を売ってもらいたいとペトロに頼んでいます。つまりここでは聖霊の降臨。聖霊が降る、あるいは聖霊を受けるということが目に見える仕方で起きる、あのペンテコステの時のような出来事が起こっているのだと思います。 今日のわたしたちにとりましては、聖霊は、そのご存在もお働きも目に見えない、そういうお方です。吹く風そのものは見ることが出来ないけれども、風によって落ち葉が散ったり雲が流れてゆくことは見ることが出来るのと同じです。わたしたちは、聖霊の神が働いてくださって福音伝道によって罪ある人間が悔い改めてイエス様を信じるようになるという、そのお働きの結果だけを見ることが出来ます。けれども、今朝のみ言葉でサマリアの人々に降った聖霊、「聖霊を受ける」、あるいは「聖霊が降る」という出来事は、そのような、目に見えない聖霊の働きとは少し違っていることを理解しなければならないと思います。 2、 さて、エルサレムの大迫害、この迫害から逃れ、散らされていった弟子たちは、サマリアに入って伝道しました。フィリポは、名前は記されていませんが、サマリア地方の「ある町」で伝道しました。そしてその町で、以前から、その魔術の力によって人々の心をとらえていた魔術師シモンにも福音が伝わりました。この町で大きな影響力を持ち、神の偉大な力と呼ばれていた、魔術師シモンまでもがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたと書かれています。彼らが、信じた内容は、今朝の個所の直前の12節のみ言葉に明らかにされています。 「フィリポが神の国とイエス・キリストの福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。」 「神の国とイエスキリストの福音を伝えたと書かれています。この世界に神の御子イエス・キリストがおいでになったことにより、そして十字架と復活を成し遂げてくださる主イエス様において神の国は見える形で来た。この神様の国に入り、主イエス様の十字架による罪の赦しと復活による永遠の命を受けよとフィリポは伝道したのです。そして人々は、それを信じたのです。ここには目に見えない聖霊のお働きがあります。そしてこの町で偉大な神の力と呼ばれ、自分自身も自分は他の人とは違う偉大な人物だと自称していた魔術師シモンも信じて洗礼を受けました。このことは、この町の人々にとって驚くべきことだったと思います。あの魔術シモンまでが信じたのだ、神の国とイエス・キリストの福音は素晴らしい、人々は驚いたと思います。これは私の推測ですが、魔術師シモンが洗礼を受けたこともまた、この町の伝道に大きな影響を与えたのではないかと思います。 さて、このサマリアでの伝道の進展、目覚ましい成果が上がったことが、エルサレムにいる12使徒たちに伝えられました。14節に「使徒たちは、ペトロとヨハネをそこに行かせた」とあります。 この個所は、新改訳聖書では、「ペトロとヨハネを遣わした」といっそう正確に訳されています。12使徒の使徒と言う言葉はギリシャ語ではアポストロスです。遣わす、送るという言葉の名詞形です。主イエス様が遣わすもの、これが使徒です。ここでは、その使徒と言う言葉のもとになっている動詞であるアポストローと言う言葉が使われています。 ペトロとヨハネと言えば、エルサレムの初代教会を守る12使徒の中の双璧、教会の指導者です。しかし、指導者であっても、二人は勝手にやって来たのではないのです。彼らは、教会から遣わされるという形でサマリアに来ました。おそらく、12使徒の会議による決定、承認を経て遣わされました。彼らは、ペンテコステの聖霊降臨によって生まれたエルサレム教会を代表し、彼らが受けた聖霊降臨の恵みを分かちあうために派遣されたのです。 フィリポや他の弟子たちは、自分の意志ではなく、迫害を逃れるという仕方で、神様によって散らされて、サマリアに来ました。そしてそこで伝道し、信じるものが起こされました。教会は、これを喜びました。そして、彼らもまた、生まれたばかりのキリスト教会の完全な枝である、その一部であることを表し、公にするために、二人の使徒は教会から遣わされたのです。 ペトロとヨハネが信じた人々に手を置いて祈ると、彼らは聖霊を受けたと書かれています。これはあのペンテコステの時のような、目に見える形で聖霊が降ったことを表しています。 3, わたくしが、まだ神学校におりました時に、改革派ではなく、カリスマ派と呼ばれる教会出身の兄弟と親しくなりました。彼が、今週、ある教会で特別の集会があるので一緒に行かないかと誘われて、夜に出かけたことがあります。講師は、韓国から来た中年の女性の方でした。彼女は通訳を介して、ひとしきり自分自身が福音伝道者の召しを受けたときの証しをしました。そして自分は、神様から特別の癒しと恵みの賜物をいただいているので、前に来て、祈りを受けるようにと人々を招いたのです。 すぐに、彼女の前に列ができました。そして彼らは一人ひとり、その女性牧師に頭に手を置いて祈ってもらっていました。そのとき、彼女が祈ると、突然、恍惚状態になって表情が固まって動かなくなったり、後ろに倒れこんだりする人がいて、わたしは驚きました。集会の主催者は、あらかじめ、その人のうしろに待ち構えていて、倒れてもけがをしないようにとっさに体を支える人を用意していました。わたしは、この人たちは、なにか催眠術にかかったようだと感じましたが、わたし自身は、そういうことを求めなかったし、また経験したこともないので真相はわかりません。 けれども、五旬節、ペンテコステの聖霊降臨の時が代表的ですけれども、主イエス様がお蘇りになり、この世界に最初のキリストの教会が誕生して間もないころには、そういった、目に見える聖霊のしるしが頻繁に起きていたのです。病がたちどころに癒され、悪霊に取りつかれた人から悪霊が追い出される、そのような特別の聖霊の働きが、良くわかる、目に見える形でなされていたのです。 その後の古代教会は、またわたしたちも、このような歴史的な事実をもちろん否定しません。けれども、歴史が進んで行くうちに、教会の秩序を否定したりや教理を否定したりする熱狂主義が教会内で害を及ぼすようになり、聖霊の働きについて、教会は次第その人たちに警戒心を抱くようになりました。そして、教会の歴史を見ますと、このような目に見える聖霊の働きは、歴史が降るにつれて実際きわめてまれになってゆきました。 また、見せかけの奇跡や霊の働きがはびこるようになり、それが真正、真実なものであるかどうか審査されるようにもなりました。目に見える聖霊の働きは、健全でない人間の心理現象や恣意的な演技によって曲げられたり、心理的な倒錯と一緒になってしまったり可能性があったのです。また、異常な現象にばかり心が向けられると、わたしたち自身の罪とそこからの救いという教会の根本教理がわきにどけられるということも起こります。そして、ついには、どのような宗教も追い求める現世的な祝福ばかりに目が行くようになり、主イエス様の救いや恵みの理解と言う信仰の根本までもがゆがめられてしまう恐れがあります。 しかし、使徒言行録が記録している初期の教会、生まれたばかりの教会では、このような目に見える聖霊の力強い働きがあらわであったことは否定することが出来ません。 魔術師シモンは、神の偉大な力と呼ばれていたことからもわかるのですが、普通の人以上の知識と洞察力を持ち、また病の癒しや悪霊追い出し、預言などを行っていたと思われます。けれども、伝道者フィリポが来て、イエス・キリストを伝え、また、フィリポ自身が汚れた霊の追い出しや中風や足の麻痺を癒しますと、自分よりも大きな力がそこに働いていると確信して、フィリポに付き従うようになりました。そしてフィリポの伝えるイエス・キリストの福音を信じて洗礼を受けたのです。単にフィリポの素晴らしい「しるし」や奇跡を賞賛するだけでなく、そのしるしの背後に神の恵みの力、イエス・キリストがおられると知り、そのイエス・キリストは本当の神の子だと信じて洗礼を受けました。 3, 初代教会の大伝道者、指導者であるパウロと言う人が書きましたコリントの信徒への手紙1の12章3節に次の言葉があります。 「神の霊によって語る人は、誰も「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」 サマリアの町の人たちが主イエス様を信じてそのしるしとして洗礼を受けたということは、その心に働かれる神の霊、聖霊の働きに与かっていたことは間違いありません。 ところが今朝のみ言葉の、16節に、エルサレム教会から遣わされてきたペトロとヨハネの祈りによって、彼らが手を置いた人に聖霊が降ったと書いてあるので、分かりにくいのです。聖霊は、一度だけでなく何回も降るのか、といえばその通りです。聖霊の神は自由にお働きになります。主イエス様を信じるようになることは、目に見えない決定的な聖霊の働きです。それとは別に聖霊はペンテコステ、聖霊降臨のときのような目に見える聖霊の働きをもたらすためにもお働きになるのです。使徒たちがペンテコステの時に受けた聖霊の特別な働き、そこからキリスト教会が誕生したような別の意味で決定的な働きを聖霊の神は成し遂げてくださるのです。つまり、サマリアの信者たちもまた、聖霊降臨の恵みを受けたエルサレム教会の人びとと同じ恵みを受けるようにしてくださったということです。 このペトロとヨハネの働きを見ておりました魔術師シモンの心にある邪悪な思いが宿りました。つまり、自分が、この人は素晴らしいと思っていたフィリポよりもさらに素晴らしい人がエルサレムからやってきました。主イエス様を信じた人々に二人が手を置いて祈ると、目に見える仕方で、聖霊が降ったのです。もともと魔術師であったシモンは、これはすごいと驚きました。自分もまた、手をおくと聖霊が降るようになりたいということでした。聖霊を自由に操る素晴らしい力を求めたと言えるでしょう。これは自分を神様よりも上に置きたいという願望であり、聖霊を冒涜することです。 シモンは、魔術の力でお金持ちになっていましたから、ペトロとヨハネにお金をもってきて言いました。「私にもその力を授けてください」 聖職売買と言う言葉があります。長い教会の歴史の中で起きたことです。カトリック教会の司教や大司教は、修道士の中から誰を司祭にするかを決める権限を持っていました。そのときに金銭が動いたというのです。この聖職売買を英語でシモニーといいますが、まさしく、今朝のみ言葉のシモンの振舞いから生まれた言葉です。 もちろん、ペトロとヨハネはこれを拒否しました。そしてこう言い放ちました。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい」神の賜物である使徒という働き、与えられた特別な能力は、決して金銭でやり取りすることのできないものです。 4, ペトロの言葉は厳しいものでした。21節と23節の二つの節を見ますと、これでもかと言うほどにシモンを断罪しています。このように重ね重ね、悪を告発する表現は使徒言行録ではここにしかありません。「お前は、このことに何のかかわりもなければ権利もない」とは、今のあなたの状態は、このことに、つまり、イエス・キリストの福音には関係なくなってしまうし、もちろん、恵みもないということです。心が神の前に正しくない、つまり神様との関係において悪いということです。また23節では、「腹黒いもの」と言う言葉が使われます。ほかの聖書では、「悪意に満ち」とか、「苦い悪意の中にいる」と訳されます。もとの言葉は「苦い胆汁の中にいる」という特別の言葉で、蛇の毒を意味する言葉です。また、「悪の縄目に縛られ」と言う言葉も、旧約聖書イザヤ書58章6節の引用と言われます。イザヤ書58章6節にはこうあります。「悪による束縛を絶ち、くびきの縄目をほどいて、虐げられた人を解放し」。預言者イザヤが告発した南王国ユダの偶像礼拝と貧しい者への圧迫、このままではあなたたちは滅びるという預言の言葉を使って、ペトロは、魔術師シモンの滅びを警告したのです。そして、このような21節と23節に挟み込まれるようにして、悔22節に悔い改めへの招きの言葉が告げられます。「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれない」 当然許されないような罪、悪事であることをわきまえながら、しかし、そのような悪も赦してくださる神様の恵みにより頼み、祈りなさいと言うのです。 信仰を告白し、洗礼を受けて教会の仲間になっても、わたしたちは、決して完全なもの、聖人になったというわけではありません。むしろ、信仰の道に入れば入るほど、自分の罪が見えてくるのではないでしょうか。あるいはまた、罪を赦され、天のみくにの住人、天国人になっているにも関わらず、時として、自己中心的な心に逆戻りして、周りの人たちを失望させたり傷つけてしまったりすることがあるのではないでしょうか。 魔術師シモンの罪は特別にひどいものでした。しかし、それにも関わらず、使徒ペトロは、悔い改めて、主に祈りなさいと勧めました。そうであれば、わたしたちもまた神様からいつも悔い改めて祈ることを期待されているのではないでしょうか。 シモンの心に今度は、目に見える聖霊の働きではなく、目に見えない聖霊の働きがありました。シモンは言いました。「おっしゃったことが何一つ、わたしの身におこらないように主に祈ってください」 わたしたちもまた、罪を犯します。後から考えると、どうしてあんなことを口に出してしまったのかと思うようなことをしてしまうのです。しかし、わたしたちも悔い改めて主に祈るなら許されます。また教会の兄弟姉妹の誰も、この神様の恵みから落ちることはないのです。互いに執り成しあい、赦し合うならば神様は赦してくださいます。 この後の魔術シモンの行方について、聖書は語ることはありません。彼が具体的にどうしたのかは、書かれていません。教会の言い伝えによれば、シモンはこのあと、司教にまでなったけれども、グノーシス主義という異端に走り、教会に大きな害を与えたとされています。古代教会の伝承や古文書を重んじるカトリック教会では魔術師シモンは評判が悪いのかもしれません。しかし、わたしたちは、聖書以外の伝承や古文書と聖書のみ言葉を明確に区別します。 シモンのふるまいは、洗礼を受けたあとの一時的な転落の一例を見せてくれます。しかし、そのような聖霊を操ろうとする、とんでもない悪に陥ったものに向かってさえ、ペトロは、悔い改めと赦しの望みを伝えています。ペトロとヨハネは、当時のキリスト教会の本山の位置にあるエルサレム教会から遣わされた権威ある使徒です。ペンテコステによって生まれた教会には、悔い改めと赦しの言葉が語られています。祈ります。 主イエス・キリストの父なる神、魔術シモンが洗礼を受けたこと、しかし、悪い思いに一時的にとらわれてしまったこと、そしてシモンに悔い改めと祈りへの招きが語られたことを感謝します。今日の教会においてもこのような悔い改めと祈りが絶えず呼びかけられ、また実際に起こされますようお願いお致します。主の御名によって祈ります。アーメン。
2025年1月19日(日)隈本伝道所礼拝説教
使徒言行録8章14節~25節「魔術師シモンの回心2」
Rev.SHOICHI NEZU
1、
御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
今日は1月の19日です。1月も後半に入りました。一年で最も寒い日が続く季節だと思います。
先週の礼拝あと、次週の会員総会の資料でもあります教会の年報作成の奉仕を致しました。週報ボックスの数、30と西部中会内の34の教会・伝道所、合わせて64ですが、予備を合わせて70部ほど作成しました。年報には今年の予定も掲載しています。今年のイースターは4月20日、6月8日がペンテコステ、そしてクリスマス礼拝は12月21日に予定されています。
イースターは主イエス様の復活、クリスマスは主イエス様の誕生の記念日ですが、ペンテコステは教会の誕生日であります。この日に弟子たち一同に聖霊が降りました。それから使徒たちの伝道が始まりました。ペンテコステは、そして今日まで続くキリスト教会の原点なのです。そのペンテコステの日に先ず起こりましたのは、聖霊が人間の目に見えるような仕方で降ったということでした。これは今朝の御言葉に大いに関係のあることです。
朝のみ言葉の8章17節には、エルサレムの使徒たちから派遣されて来たペトロとヨハネが手を置くとサマリアの人々に聖霊が降ったと書かれています。これを見ていた魔術師シモンは、自分手を置けば同じように聖霊が降るその権能を売ってもらいたいとペトロに頼んでいます。つまりここでは聖霊の降臨。聖霊が降る、あるいは聖霊を受けるということが目に見える仕方で起きる、あのペンテコステの時のような出来事が起こっているのだと思います。
今日のわたしたちにとりましては、聖霊は、そのご存在もお働きも目に見えない、そういうお方です。吹く風そのものは見ることが出来ないけれども、風によって落ち葉が散ったり雲が流れてゆくことは見ることが出来るのと同じです。わたしたちは、聖霊の神が働いてくださって福音伝道によって罪ある人間が悔い改めてイエス様を信じるようになるという、そのお働きの結果だけを見ることが出来ます。けれども、今朝のみ言葉でサマリアの人々に降った聖霊、「聖霊を受ける」、あるいは「聖霊が降る」という出来事は、そのような、目に見えない聖霊の働きとは少し違っていることを理解しなければならないと思います。
2、
さて、エルサレムの大迫害、この迫害から逃れ、散らされていった弟子たちは、サマリアに入って伝道しました。フィリポは、名前は記されていませんが、サマリア地方の「ある町」で伝道しました。そしてその町で、以前から、その魔術の力によって人々の心をとらえていた魔術師シモンにも福音が伝わりました。この町で大きな影響力を持ち、神の偉大な力と呼ばれていた、魔術師シモンまでもがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたと書かれています。彼らが、信じた内容は、今朝の個所の直前の12節のみ言葉に明らかにされています。
「フィリポが神の国とイエス・キリストの福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。」
「神の国とイエスキリストの福音を伝えたと書かれています。この世界に神の御子イエス・キリストがおいでになったことにより、そして十字架と復活を成し遂げてくださる主イエス様において神の国は見える形で来た。この神様の国に入り、主イエス様の十字架による罪の赦しと復活による永遠の命を受けよとフィリポは伝道したのです。そして人々は、それを信じたのです。ここには目に見えない聖霊のお働きがあります。そしてこの町で偉大な神の力と呼ばれ、自分自身も自分は他の人とは違う偉大な人物だと自称していた魔術師シモンも信じて洗礼を受けました。このことは、この町の人々にとって驚くべきことだったと思います。あの魔術シモンまでが信じたのだ、神の国とイエス・キリストの福音は素晴らしい、人々は驚いたと思います。これは私の推測ですが、魔術師シモンが洗礼を受けたこともまた、この町の伝道に大きな影響を与えたのではないかと思います。
さて、このサマリアでの伝道の進展、目覚ましい成果が上がったことが、エルサレムにいる12使徒たちに伝えられました。14節に「使徒たちは、ペトロとヨハネをそこに行かせた」とあります。
この個所は、新改訳聖書では、「ペトロとヨハネを遣わした」といっそう正確に訳されています。12使徒の使徒と言う言葉はギリシャ語ではアポストロスです。遣わす、送るという言葉の名詞形です。主イエス様が遣わすもの、これが使徒です。ここでは、その使徒と言う言葉のもとになっている動詞であるアポストローと言う言葉が使われています。
ペトロとヨハネと言えば、エルサレムの初代教会を守る12使徒の中の双璧、教会の指導者です。しかし、指導者であっても、二人は勝手にやって来たのではないのです。彼らは、教会から遣わされるという形でサマリアに来ました。おそらく、12使徒の会議による決定、承認を経て遣わされました。彼らは、ペンテコステの聖霊降臨によって生まれたエルサレム教会を代表し、彼らが受けた聖霊降臨の恵みを分かちあうために派遣されたのです。
フィリポや他の弟子たちは、自分の意志ではなく、迫害を逃れるという仕方で、神様によって散らされて、サマリアに来ました。そしてそこで伝道し、信じるものが起こされました。教会は、これを喜びました。そして、彼らもまた、生まれたばかりのキリスト教会の完全な枝である、その一部であることを表し、公にするために、二人の使徒は教会から遣わされたのです。
ペトロとヨハネが信じた人々に手を置いて祈ると、彼らは聖霊を受けたと書かれています。これはあのペンテコステの時のような、目に見える形で聖霊が降ったことを表しています。
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わたくしが、まだ神学校におりました時に、改革派ではなく、カリスマ派と呼ばれる教会出身の兄弟と親しくなりました。彼が、今週、ある教会で特別の集会があるので一緒に行かないかと誘われて、夜に出かけたことがあります。講師は、韓国から来た中年の女性の方でした。彼女は通訳を介して、ひとしきり自分自身が福音伝道者の召しを受けたときの証しをしました。そして自分は、神様から特別の癒しと恵みの賜物をいただいているので、前に来て、祈りを受けるようにと人々を招いたのです。
すぐに、彼女の前に列ができました。そして彼らは一人ひとり、その女性牧師に頭に手を置いて祈ってもらっていました。そのとき、彼女が祈ると、突然、恍惚状態になって表情が固まって動かなくなったり、後ろに倒れこんだりする人がいて、わたしは驚きました。集会の主催者は、あらかじめ、その人のうしろに待ち構えていて、倒れてもけがをしないようにとっさに体を支える人を用意していました。わたしは、この人たちは、なにか催眠術にかかったようだと感じましたが、わたし自身は、そういうことを求めなかったし、また経験したこともないので真相はわかりません。
けれども、五旬節、ペンテコステの聖霊降臨の時が代表的ですけれども、主イエス様がお蘇りになり、この世界に最初のキリストの教会が誕生して間もないころには、そういった、目に見える聖霊のしるしが頻繁に起きていたのです。病がたちどころに癒され、悪霊に取りつかれた人から悪霊が追い出される、そのような特別の聖霊の働きが、良くわかる、目に見える形でなされていたのです。
その後の古代教会は、またわたしたちも、このような歴史的な事実をもちろん否定しません。けれども、歴史が進んで行くうちに、教会の秩序を否定したりや教理を否定したりする熱狂主義が教会内で害を及ぼすようになり、聖霊の働きについて、教会は次第その人たちに警戒心を抱くようになりました。そして、教会の歴史を見ますと、このような目に見える聖霊の働きは、歴史が降るにつれて実際きわめてまれになってゆきました。
また、見せかけの奇跡や霊の働きがはびこるようになり、それが真正、真実なものであるかどうか審査されるようにもなりました。目に見える聖霊の働きは、健全でない人間の心理現象や恣意的な演技によって曲げられたり、心理的な倒錯と一緒になってしまったり可能性があったのです。また、異常な現象にばかり心が向けられると、わたしたち自身の罪とそこからの救いという教会の根本教理がわきにどけられるということも起こります。そして、ついには、どのような宗教も追い求める現世的な祝福ばかりに目が行くようになり、主イエス様の救いや恵みの理解と言う信仰の根本までもがゆがめられてしまう恐れがあります。
しかし、使徒言行録が記録している初期の教会、生まれたばかりの教会では、このような目に見える聖霊の力強い働きがあらわであったことは否定することが出来ません。
魔術師シモンは、神の偉大な力と呼ばれていたことからもわかるのですが、普通の人以上の知識と洞察力を持ち、また病の癒しや悪霊追い出し、預言などを行っていたと思われます。けれども、伝道者フィリポが来て、イエス・キリストを伝え、また、フィリポ自身が汚れた霊の追い出しや中風や足の麻痺を癒しますと、自分よりも大きな力がそこに働いていると確信して、フィリポに付き従うようになりました。そしてフィリポの伝えるイエス・キリストの福音を信じて洗礼を受けたのです。単にフィリポの素晴らしい「しるし」や奇跡を賞賛するだけでなく、そのしるしの背後に神の恵みの力、イエス・キリストがおられると知り、そのイエス・キリストは本当の神の子だと信じて洗礼を受けました。
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初代教会の大伝道者、指導者であるパウロと言う人が書きましたコリントの信徒への手紙1の12章3節に次の言葉があります。
「神の霊によって語る人は、誰も「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」
サマリアの町の人たちが主イエス様を信じてそのしるしとして洗礼を受けたということは、その心に働かれる神の霊、聖霊の働きに与かっていたことは間違いありません。
ところが今朝のみ言葉の、16節に、エルサレム教会から遣わされてきたペトロとヨハネの祈りによって、彼らが手を置いた人に聖霊が降ったと書いてあるので、分かりにくいのです。聖霊は、一度だけでなく何回も降るのか、といえばその通りです。聖霊の神は自由にお働きになります。主イエス様を信じるようになることは、目に見えない決定的な聖霊の働きです。それとは別に聖霊はペンテコステ、聖霊降臨のときのような目に見える聖霊の働きをもたらすためにもお働きになるのです。使徒たちがペンテコステの時に受けた聖霊の特別な働き、そこからキリスト教会が誕生したような別の意味で決定的な働きを聖霊の神は成し遂げてくださるのです。つまり、サマリアの信者たちもまた、聖霊降臨の恵みを受けたエルサレム教会の人びとと同じ恵みを受けるようにしてくださったということです。
このペトロとヨハネの働きを見ておりました魔術師シモンの心にある邪悪な思いが宿りました。つまり、自分が、この人は素晴らしいと思っていたフィリポよりもさらに素晴らしい人がエルサレムからやってきました。主イエス様を信じた人々に二人が手を置いて祈ると、目に見える仕方で、聖霊が降ったのです。もともと魔術師であったシモンは、これはすごいと驚きました。自分もまた、手をおくと聖霊が降るようになりたいということでした。聖霊を自由に操る素晴らしい力を求めたと言えるでしょう。これは自分を神様よりも上に置きたいという願望であり、聖霊を冒涜することです。
シモンは、魔術の力でお金持ちになっていましたから、ペトロとヨハネにお金をもってきて言いました。「私にもその力を授けてください」
聖職売買と言う言葉があります。長い教会の歴史の中で起きたことです。カトリック教会の司教や大司教は、修道士の中から誰を司祭にするかを決める権限を持っていました。そのときに金銭が動いたというのです。この聖職売買を英語でシモニーといいますが、まさしく、今朝のみ言葉のシモンの振舞いから生まれた言葉です。
もちろん、ペトロとヨハネはこれを拒否しました。そしてこう言い放ちました。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい」神の賜物である使徒という働き、与えられた特別な能力は、決して金銭でやり取りすることのできないものです。
4,
ペトロの言葉は厳しいものでした。21節と23節の二つの節を見ますと、これでもかと言うほどにシモンを断罪しています。このように重ね重ね、悪を告発する表現は使徒言行録ではここにしかありません。「お前は、このことに何のかかわりもなければ権利もない」とは、今のあなたの状態は、このことに、つまり、イエス・キリストの福音には関係なくなってしまうし、もちろん、恵みもないということです。心が神の前に正しくない、つまり神様との関係において悪いということです。また23節では、「腹黒いもの」と言う言葉が使われます。ほかの聖書では、「悪意に満ち」とか、「苦い悪意の中にいる」と訳されます。もとの言葉は「苦い胆汁の中にいる」という特別の言葉で、蛇の毒を意味する言葉です。また、「悪の縄目に縛られ」と言う言葉も、旧約聖書イザヤ書58章6節の引用と言われます。イザヤ書58章6節にはこうあります。「悪による束縛を絶ち、くびきの縄目をほどいて、虐げられた人を解放し」。預言者イザヤが告発した南王国ユダの偶像礼拝と貧しい者への圧迫、このままではあなたたちは滅びるという預言の言葉を使って、ペトロは、魔術師シモンの滅びを警告したのです。そして、このような21節と23節に挟み込まれるようにして、悔22節に悔い改めへの招きの言葉が告げられます。「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれない」
当然許されないような罪、悪事であることをわきまえながら、しかし、そのような悪も赦してくださる神様の恵みにより頼み、祈りなさいと言うのです。
信仰を告白し、洗礼を受けて教会の仲間になっても、わたしたちは、決して完全なもの、聖人になったというわけではありません。むしろ、信仰の道に入れば入るほど、自分の罪が見えてくるのではないでしょうか。あるいはまた、罪を赦され、天のみくにの住人、天国人になっているにも関わらず、時として、自己中心的な心に逆戻りして、周りの人たちを失望させたり傷つけてしまったりすることがあるのではないでしょうか。
魔術師シモンの罪は特別にひどいものでした。しかし、それにも関わらず、使徒ペトロは、悔い改めて、主に祈りなさいと勧めました。そうであれば、わたしたちもまた神様からいつも悔い改めて祈ることを期待されているのではないでしょうか。
シモンの心に今度は、目に見える聖霊の働きではなく、目に見えない聖霊の働きがありました。シモンは言いました。「おっしゃったことが何一つ、わたしの身におこらないように主に祈ってください」
わたしたちもまた、罪を犯します。後から考えると、どうしてあんなことを口に出してしまったのかと思うようなことをしてしまうのです。しかし、わたしたちも悔い改めて主に祈るなら許されます。また教会の兄弟姉妹の誰も、この神様の恵みから落ちることはないのです。互いに執り成しあい、赦し合うならば神様は赦してくださいます。
この後の魔術シモンの行方について、聖書は語ることはありません。彼が具体的にどうしたのかは、書かれていません。教会の言い伝えによれば、シモンはこのあと、司教にまでなったけれども、グノーシス主義という異端に走り、教会に大きな害を与えたとされています。古代教会の伝承や古文書を重んじるカトリック教会では魔術師シモンは評判が悪いのかもしれません。しかし、わたしたちは、聖書以外の伝承や古文書と聖書のみ言葉を明確に区別します。
シモンのふるまいは、洗礼を受けたあとの一時的な転落の一例を見せてくれます。しかし、そのような聖霊を操ろうとする、とんでもない悪に陥ったものに向かってさえ、ペトロは、悔い改めと赦しの望みを伝えています。ペトロとヨハネは、当時のキリスト教会の本山の位置にあるエルサレム教会から遣わされた権威ある使徒です。ペンテコステによって生まれた教会には、悔い改めと赦しの言葉が語られています。祈ります。
主イエス・キリストの父なる神、魔術シモンが洗礼を受けたこと、しかし、悪い思いに一時的にとらわれてしまったこと、そしてシモンに悔い改めと祈りへの招きが語られたことを感謝します。今日の教会においてもこのような悔い改めと祈りが絶えず呼びかけられ、また実際に起こされますようお願いお致します。主の御名によって祈ります。アーメン。