2025年01月05日「主イエスとステファノ」

日本キリスト改革派 熊本教会のホームページへ戻る

聖書の言葉

使徒言行録 7章54節~8章3節

メッセージ

2025年1月5日(日)熊本伝道所礼拝説教

使徒言行録7章54節~8章3節「主イエスとステファノ」

Rev,SHOICHI NEZU

1、

御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

2025年最初の主の日の礼拝を捧げています。使徒言行録の7章の最後に差し掛かりました。これまで4回の主日礼拝を通して初代教会の奉仕者、ステファノの説教を聞いてまいりました。今朝のみ言葉は、説教を終えたステファノがまさに壮絶な殉教の死を遂げる場面であります。その死の間際にステファノが見たものは、天で立っておられる主イエス様のお姿でした。今朝のみ言葉の中で、何よりも印象深いのは、主イエス様が、天において立っておられる、立ち上がっておられるということです。

わたしたちは毎週の礼拝で告白しています使徒信条では、復活された主イエス様は天に昇り、全能の父なる神の右の座に座しておられるのです。右の座とは、神と共に、また神の最もまじかにかにおられ

、さらに父なる神と同じ立場、つまりすべての権能を任されていることを示します。その主イエス様がステファノのために立ち上がって身を乗り出しておられるそのお姿をステファノは見たというのです。

主イエス様ご自身は、最高法院で裁判にかけられましたとき、大祭司カイアファに向かって、御自身の昇天後のことについて、このように言われました。マタイによる福音書26章64節のみ言葉です。「あなたたちは、やがて人の子が全能の神の右の座に座り、天の雲に乗ってくるのを見る」

しかし、今朝のみ言葉においてステファノが目にしたものは、立ち上がっておられる主イエスのお姿です。このことについては、後ほどさらに詳しくお話しします。今朝の説教題を「主イエスとステファノ」としました。リンチ同然の石打の刑によって殉教の死を遂げたステファノが最後に見たものは石を投げてくるユダヤ人たちではありません、そうではなく、天で立っておられる主イエス様です。そして残る力を振り絞って主イエス様に向かって二つの祈りを叫びます。最初の祈りは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」。次の祈りは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」です。ステファノは、その瞬間、眠りに就いたのでした。

2、

 今朝のみ言葉では、聖書記者の眼差しが、ステファノと彼を取り巻く最高法院の人びととの間を交互に行き来します。視線が、行ったり来たり、二往復いたします。

 まず54節です。「人々はこれを聞いて激しく怒り」とあります。これはステファノの説教、演説に対する最高法院の人びとの有様です。「激しく怒り」と訳されている言葉は、のこぎりで木を切り刻むという意味の言葉です。心を切り裂く、あるいは切り刻む、新改訳聖書は、この言葉を「はらわたが煮えかえる思い」と訳しています。またステファノに向かって歯ぎしりしたとあります。歯ぎしりするというのは文字通り歯をこすって音を立てるように歯噛みをすることです。怒りと憤りの表現です。

 次の55節は、これに対するステファノの姿です。議場のすべての人が激高し興奮する中で、彼はただ一人聖霊に満たされ、天を見つめました。そして主イエス様のお姿を見ることが許されました。もちろん、これは通常の視力ではなく霊の視力です。霊の目で主イエス様を見ることを許されました。そして、すべての人に聞こえるように、こう言いました。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。元の言葉には、初めに「見よ」「見なさい」という小さな言葉があります。新改訳聖書はこれを訳し出して「見なさい」と言う言葉を加えています。ステファノは、わたしの見ているものをあなたがたも見てほしいと、こう言っているようです。

一方で、この「見よ」という言葉は、単に「ああ」とか「おお」とか訳すこともできます。カトリックのフランシスコ会訳と新しい共同訳はそう訳します。「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。いずれにしても、これはステファノの独り言ではなく、人々に向かって自分自身が見えているものを告白する言葉です。

 ユダヤ人にとっては、人の子は、旧約聖書ダニエル書に記されている権威ある救い主の称号です。そして主イエス様ご自身が、地上で生きておられるとき、ご自分のことを人の子と自称されました。聖書の中で、主イエス様について主イエス様以外の口から、人の子と呼ばれるのは、ここだけです。

主イエス様が、ご自分について人の子と言うときは、その多くが十字架の苦難と復活、そして再臨にかかわっていることが知られています。ステファノが、ここではっきりと見ている主イエス様の姿は、そのような神のご計画の中で救いを成し遂げられる天的な権威のある主イエス様のお姿であるということが出来ます。

 一方、主イエス様を認めないユダヤ人たちからすれば、人間に過ぎないナザレのイエスが、まさにダニエル書の天の業を行う「人の子」、神の子、また神であることは、到底認められないことでした。主イエスを神とすることは、唯一の神を冒涜する大罪でありました。

 57節は、今度は最高評議会の反応です。人々は大声でステファノを非難します。そのような神を冒涜する言葉は聴くことが出来ないと指を耳でふさぎました。さらにステファノの言葉を遮るために大声を出し続けたのであります。そしてついに、ステファノを都の町の外に引きずり出し、石打ちの刑を執行しました。

 このステファノの処刑が、人々の興奮の中で偶発的に起きてしまった、いわばリンチのようなものであったのか、それとも最高法院としての正規の判決と処刑であったのか、学者たちの議論が分かれています。主イエス様の処刑のときに明らかであるように、ユダヤ人の議会だけでは人を死刑にすることが出来ないはずである、それなのに、ここでは総督ピラトやヘロデ王の判断を仰いでいない。さらに正規の判決が言い渡されたというみ言葉がないので、ここは、ユダヤ人たちが怒りと興奮のあまり思わずステファノを殺してしまったように見えます。

けれども、よく見ますと、第一に、処刑に当たってステファノを町の外に引き出していることが記されています。これは旧約聖書レビ記24章14節に規定されている死刑の規定です。当時、死刑執行は町の外でなされなければなりませんでした。また、証人たちが、最初に石を投げていることも、申命記17章7節の規定に適うものです。石打の刑の執行に当たってまず証人が石を投げて、自らの証言に責任を取るという意味があります。神冒涜の罪は石打の刑にあたることは旧約聖書の律法の大原則でありました。

 ユダヤ人議会とローマの総督の間のそのときどきの力関係によって、ユダヤ人議会だけの権限で死刑を執行したということもあり得ることです。特に、ローマ総督ポンテオ・ピラトは紀元36年に失脚しますが、それに先立ってこの時すでに権力基盤が弱まっていたという説があります。

3、

 人々が石を投げつけている間、ステファノは虫の息でありつつ、なおも残る力をすべて注いで、先ほどの二つの祈りを主イエス様に捧げました。実は、この二つの祈りはどちらも、主イエス様ご自身の十字架上の祈りに重なるものです。

主イエス様が、その十字架の死に際して発せられました十字架上の7つの言葉は、四つの福音書に散らばるようにして残されています。そのうち、使徒言行録の著者でもあるルカは、ルカによる福音書に三つの言葉を記録しています。

 一つ目は、ルカによる福音書23章34節「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのかわからないのです」。二つ目は、同じルカによる福音書23章の43節、隣に並んで十字架に付けられている犯罪人の一人が死の間際に主イエス様に対して信仰を言い表したことに対してこう言われた言葉です。これは祈りではなく、宣言です。「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」

 そして三つめは、まさしく主イエス様の最後の言葉であります。これは天の父に向っての信仰の言葉、祈りの言葉です。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」。主イエス様は、こう言って息を引き取られました。

 ステファノは、この主イエス様の三つの言葉の内の二つの祈りを祈り、そして息を引き取りました。主イエス様の十字架の死の模範に自分自身を重ねるようにして死ぬのであります。

まず「主よ、わたしの霊をお受け下さい」。 主イエス様は十字架上で「父よ」と祈られましたが、ステファノは、「主よ」と祈りました。すなわち、主イエス様に向かって祈りました。ステファノにとって、まさしく主イエス様は祈りの対象であり、天におられる霊の受け手であります。

 そして次に「主よこの罪を彼らに負わせないでください」と祈りました。ここでも「父よ」ではなく、主イエスへの祈りとなっています。

 主イエス様は、かねがね、弟子たちに向かって、他の人を赦すことと、自分を迫害するもののために祈りなさいと命じておられました。ステファノは、この主イエス様のみ言葉に生きていたからこそ、最後のときにも、このように祈ったのでした。

 わたしたちが様々な人間関係の中で、最も苦しいことは、他の人を赦せないという思いです。自分に対して、何らかの打撃を与えた、自分が傷つけられた人を赦すことが出来ません。そして、その人を愛するのではなく、反対に裁く思いは、大なり小なり復讐の思いとなって心に積もって行きます。そして私たちは機会があれば、積極的にせよ、消極的にせよ、復讐を成し遂げようとするのです。罪は罪を呼び、復讐の連鎖となり、わたしたちは正義の名のもとに、互いに傷つけ合います。

 しかし、主イエス様は、わたしたちに赦しを命じられました。わたしたち自身が、実は自分では決して償うことが出来ない罪を赦していただいたものだからです。主イエス様は、ご自分の敵、迫害するもののために天の父にその赦しを祈られました。これこそ、最大の執り成しの祈りです。そして、ステファノも同じ祈りを祈りながら、主イエス様のもとに帰って行きました。ステファノの死を表す言葉が、7章の最後にあります。「ステファノは、こう言って眠りについた」

 自分を迫害し、殺そうとする者の赦しを主イエス様に祈りながら、安らかに、平安のうちに死んだのです。

4、

 さてこのとき、神の正義のためにとキリスト教会を憎み、彼らに対する裁きと復讐の思いに燃えていた一人の若者がいました。8章1節をお読みします。突然、サウロと言う名前が登場します。「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」

このサウロのギリシャ語名はパウロです。彼はこのとき、キリスト教会迫害の急先鋒でした。家の教会に押し入り、人々を神冒涜の罪で捕えて牢に入れていました。家から家へ、また男女を問わずと書かれていますように、容赦なくキリスト教徒たちを苦しめたのです。

 このサウロが、やがて、復活の主イエス様ご自身によって召され、使徒パウロとしてイエス・キリストを宣べ伝えるものに変えられることを誰が予測したことでしょうか。このサウロ、パウロの回心と、その働きはこの後の9章から先に記されます。そしてパウロの活躍は、使徒言行録の後半の主題となります。

 今朝のみ言葉は、新約聖書の中で、ただ一か所、主イエス様が天で立っておられることを記します。古代の教父をはじめとして、教会の中で、イエスは、ここで立ち上がって何をしようとしておられるのだろうかという問いが投げかけられてきました。有名なアウグスチヌスと言う教父は、どんな裁判でも、証人は一人立って証言する。ここで主イエス様は、偽の証言たちが立つユダヤの議会に対して、天の法廷で真実の権威ある証人として立ち、ステファノの無実を宣言しておられるのだと解説しました。またある人は、父なる神の右に座しておられた主イエス様が、このステファノがまさに殉教しようとしている姿をご覧になって、親がその子の危機に際して思わず駆け付けるように、ステファノに向かって身を乗り出しておられる、いままさに助けようとしているのではないかと言っております。

聖書は、主イエス様がなぜ立っておられるのかを記していません。色々な可能性があると思います。改革派の東京恩寵教会で長く説教された榊原康夫牧師は、主イエス様は、ステファノの祈りに応えて、ステファノの霊魂を天で受け止めようとしてくださる、その姿勢ではないかと言っています。

キリスト者が死ぬとき、天におられる主イエス様は、わたしたちを天のみくにへと間違いなく受け入れて下さいます。そして永遠に主イエス様と共にいるようにしてくださいます。ステファノが、主イエス様の証人として明確に信仰を言い表して殉教したとき、主イエス様は、まさに立ち上がって、ステファノの霊を迎え入れようと手を差し伸べておられるのではないかとわたくしも思います。

主イエス様が、天の父なる神と同じ権威と栄光のうちにおられる、右の座におられる、それは私たち信仰です。しかし一方で、主イエス様は立ち上がってわたしたちに身を伸ばすようにして、助けてくださるお方です。わたしたちが、悲しむとき、苦しむとき、主イエス様は必ず助けて下さいます。そしてわたしたちが天に帰るとき、わたしたちの霊魂は直ちに主イエス様に受け入れられます。わたしたちの功績や行いによらず、ただ主イエス様の下さる赦しと恵みによって、わたしたちは、天のみくにへと召され、主と共にいるようにされるのです。祈りを致します。

祈り

天の父なる神様、主イエス・キリストは、あなたの右におられ、いつもわたしたちを助け、救ってくださることを感謝します。この週も、また、この新しい年も、あなたが共にいて下さるようにお願いいたします。主の御名によって祈ります。アーメン。