聖書の言葉 使徒言行録 7章1節~16節 メッセージ 2024年12月1日(日)熊本伝道所礼拝説教 Rev.SHOICHI NEZU 使徒言行録7章1~16節「アブラハムからヨセフまで」 1、 御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。アーメン。アドベントに入りました。新ためて主イエス様が来られたこと、そしてまたこの世界を裁き、救いを完成して下さるために来られることを覚えます。 今朝から使徒言行録7章のみ言葉を聞いてまいります。この前の6章で明らかにされたことは、ペンテコステ、聖霊の降臨以来、急速に成長してきた初代教会が、ギリシャ語を話すユダヤ人、へレニストーン、つまりギリシャ世界出身のユダヤ人たちと、そうではないもともとの土地の人、ヘブライ語、アラム語で生活しているユダヤ人、ヘブライオーンとの間で、教会での待遇を巡って深刻なトラブルが生じたということです。そこで、使徒たちは、この対策として新たな奉仕者を選ぶことにしました。これによって、12使徒を助けて働く7人の奉仕者が立てられました。彼らが大変良い働きをしましたので、使徒たちは本来の任務である祈りとみ言葉の奉仕に専念し、は平和を取り戻し、また神様の恵みを受けて成長を続けて行きました。 主イエス・キリストを救い主と信じる信仰、6章7節では、これを「神の言葉」と呼びますが、神の言葉はますます広まって行きました。今や、弟子の数は非常に増え、旧来の伝統的ユダヤ教を脅かすほどにまでなったのです。ユダヤ教の役職者である祭司たちも大勢この信仰に入る、そこまでの事態になりました。ユダヤ教の本山エルサレム神殿のひざ元でこのようなことが起きたのですから、祭司長や律法学者たちは慌てふためいたと思います。かつて主イエス様を十字架に架け、その後生き残った使徒たちを捕らえて鞭で打って、これ以上、イエス・キリストについて語ってはならないと脅かしたにも関わらず、効果がなかったというわけです。 ユダヤ教の側は、ギリシャ語を話すユダヤ人たちからの訴えに応じて、弟子たちの中で特に目立っている人物に、ギリシャ語を話すユダヤ人の奉仕者ステファノを逮捕し、最高法院に引いてyゆき、みせしめのために処刑するに至ったのです。 最高法院では、あらかじめ偽証人、偽りの証言をする人が立てられていました。そしてステファノについて、この人は「この聖なる場所」つまりエルサレム神殿と、「モーセ律法」彼らが信仰生活の基準としている律法と伝統的な解釈をけなしていると告発いたしました。これは初めから結論が決まっている仕組まれた裁判と言わなければなりません。 さて、さきほど7章の1節から16節をお読みしました。このみ言葉は、これから7章53節まで延々と続くステファの長い説教の第一段落と第二段落に当たります。使徒言行録には、ペトロの説教やパウロの弁明などいくつもの説教や演説が収められていますが、このステファノの説教ほど長いものはありません。丁寧に、使徒言行録のすべての説教や演説の節の数を数えて比較した方がおられます。その方の研究によりますとステファノの説教は、特別に長く、他のものの二倍以上の長さだそうです。 使徒言行録に残されている説教は、ペトロやパウロの説教もそうですが、語られた言葉をそのまま書き起こしたようなものでは決してありません。すべてが聖書記者ルカ、あるいはそれを残した人の要約、あるいは要点の引用なのです。けれども、ルカは、このステファノの弁明だけは、特に長く書き起こして、後に続く信仰者のための大切なみ言葉としています。 言い換えますと、当時のユダヤ教の根幹である神殿儀式とモーセ律法が、イエス・キリストを信じる信仰とどうつながるのか、つながらないのか、いわば旧約と新約の連続性と断絶、あるいは進展といったことがらに関わる大切な説教として、ここに残されているのだと思います。 今朝から4回に分けて、これを学んでまいります。この説教の直後、ステファノは激高したユダヤ人たちによって正式な判決を待たずに殺されてしまいます。初代教会の最初の殉教者となったのです。その死の直前のステファノの言葉が56節と59節、そして60節に残されています。いわばステファノの人生最後の三つの言葉です。56節「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」、ステファノは主イエス様を見上げながら召されました。59節「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして60節「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」 主イエス様も十字架の上で、同じように「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と叫び、また「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」と祈られました。すステファノは、父よではなく、主よ、と主イエス様に向かって祈っている点は違いますけれども、主イエス様の十字架の死と自分の死とを重ね合わせるようにして天に帰って行くのです。 恐らく、ステファノは裁判が始まった時から、自分の死は免れないと決心していたに違いありません。新共同訳では、ステファノの説教と小見出しがつけられていますが、まさしく、これは濡れ衣を着せられたことへの弁明ではなく、自分自身のまた、キリスト教会の信仰をはっきりと告げ知らせる、命がけの説教、あるいは証言、まさに殉教覚悟の証言的な説教です。 6章の最後に、最高法院の席、つまり裁判の被告人席にいるステファノの顔はさながら天使の顔のように見えたと記されています。主イエス様が共にいてくださる、守ってくださることを固く信じ、聖霊に満たされてステファノは語ったのです。 2、 裁判長を務める大祭司は、ステファノに発言を求めます。「訴えの通りか」、いわば罪状認否を問うたわけです。これに対してステファノは、創世記12章、アブラハムからはじまるイスラエル民族の歴史から語り始めました。神の選びの歴史です。神に選ばれ、恵みの運び手とされたにもかかわらず、神に背いて罪を重ねるユダヤ人の末裔があなたがただと、訴えた側を反対に告発しています。 イスラエルの発祥は、アブラハムから始まります。メソポタニアは、チグリス川とユーフラテス川という二つの川で挟まれた古代文明発祥の地です。アブラハムの一家は、そのメソポタニア地方からカナンへと旅をしています。ステファノの説教では、すでにアブラハムには、ここで神の召しが与えられていて、神はアブラハムに、あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行けと命じられていたと語られます。 神はアブラハムを選んで、今あなたがたユダヤ人が住んでいる場所であるカナンに移してくださったが、その時には、アブラハムは土地も財産もなく、また年老いたサラとの間に子もいなかったと、ステファノは語り始めます。しかし、それにも関わらず、神様はアブラハムに約束なさいました。アブラハムにカナンの地を与える、そしてこれを相続する子孫も与える、これが神様の約束でした。そして子孫たちはカナンに住んでそこで神を礼拝するようになる。 けれども、そこに至るまでの苦難のこともまた予告されたのです。アブラハムの子孫は外国に移住して奴隷にさせられる、そこで400年過ごすというのです。約束の地を得るまでの壮大な回り道のドラマはすでにアブラハムに告げられていたのです。けれどもその苦難を経て、そののちにエジプトからの脱出、出エジプトをすることが出来るとも告げられました。最終的にこの場所で、つまり、カナンの地で神を礼拝するようになるという神の約束、これは約束通り今実現しているではないかとステファノは言います。 モーセ律法は、確かに幕屋の建設とそこで行われるべき儀式を命じています。けれども、それよりも古い、アブラハムに与えられた約束には、エルサレム神殿は示されておらず、神ご自身がおられる場所として、単に「この場所」とだけ言われているではないかとステファノは言うのです。 アブラハムと神の約束は、その子であるイサク、孫であるヤコブへと受け継がれます。約束を信じるしるしは、生まれた子に割礼を施すことでした。それをステファノは割礼による契約と言い換えています。そこでは割礼は約束のしるしであり、割礼が大切なのではなく、神の約束が大切なのです。 ステファノが最高法院においてユダヤ人たちから訴えられた罪状は、この人は神殿とモーセ律法を軽んじ、これを変えてしまうというものでした。これに対してステファノの弁明を最後まで読みますと、普通の弁明のように、いやそんなことはない、わたしは神殿を重んじ、モーセ律法を大切にしているとは決して言っていないことがわかります。 そうではなくて、あなた方の言うとおりだ、だが神殿よりも大切なものがある、またモーセ律法を超える、もともとの神様の約束があると言います。そして神は人間が造ったようなものにはお住みならないと言い、神によって、モーセとは別に、モーセのような預言者が立てられるとモーセ自身が言っていると告げるのです。 言ってみれば火に油を注ぐような言い方をしています。つまり、相手と同じ土俵ではなく、もっと大きな土俵の上で議論します。神殿やモーセ律法が目指しているもの、神の約束にこそ目を向けよというのです。これは実は、主イエス様のみ言葉にもみられるものです。 マタイによる福音書5章17節、山上の説教と言われる八つの祝福の教えの最後にこういっておられます。 「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない、廃止するためではなく完成するためである。」 主イエス様の救いは、律法を廃止するかのように見えるけれども、むしろ律法の本来の目的を成し遂げるのだというのです。そこに神の恵みがあり愛があるというのです。 3、 さて第一段落ではアブラハム契約が語られましたが、9節から始まる第二段落は、アブラハムの孫であるヤコブとその子であるヨセフのことが語られます。説教の聴き手のユダヤ人たちは、旧約聖書を熟知していますから、9節では、まったくの説明なしにヨセフと言う名前を持ち出します。9節「この族長たちはヨセフをねたんでエジプトに売ってしまいました」 ヨセフは、アブラハムの子のイサクの子のヤコブ、そのヤコブの12人の息子のうちの下から二人目の息子です。アブラハムのひ孫にあたります。 旧約聖書創世記の後半の主人公はヤコブとヨセフです。ヤコブは、二人の妻と二人の妾(そばめ)合わせて4人の女性によって12人の息子と分かっているだけで一人の娘を得ますが、もっとも愛していたラケルから生まれたヨセフとベニヤミンの二人の息子を特にかわいがりました。ラケルはベニヤミンを産むときに死んでしまいます。愛するラケルの子、そして年寄子であり、末っ子の二人でしたから、父のヤコブは、例えば、袖の長い特別の着物を着せてやると言ったように、ほかの息子たちの恨みを買うほどにヨセフをかわいがったのです。そのために、上の息子たちは、ヨセフを妬み、野原で穴に陥れ、ヨセフは通りがかった旅の商人たちによって、エジプトに売られてしまうのです。 9節にこう書かれています。「この族長たちはヨセフを妬んで、エジプトに売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して・・」 「神はヨセフから離れず、あらゆる苦難から助け出す」とは、それからの全てのいきさつのことを指しています。奴隷であったヨセフは、夢を解き明かす知恵を神様から授けられており、この賜物を発揮して奴隷の身分からエジプト王、ファラオの木にいられるようになりました。そして大干ばつによる食糧危機をきっかけにエジプトの総理大臣にまで抜擢されるのです。 この干ばつと飢饉は、カナン地方をも襲いまして、ヤコブ一家は食べる穀物が無くなり、どこからも手に入れることが出来ないという危機に陥ります。そこでエジプトには食料が蓄えられていると聞いたヤコブは、息子たちをエジプトに遣わし、そこでヨセフと兄たちとの再会が果たされます。兄たちを恨んでいたはずのヨセフですが、彼は、二回目の会見の時に初めて身分を明かし、神がこのように守ってくださったと言って感謝するのです。 ヨセフは、ファラオの許しを得て、一族をエジプトに招き入れて、彼らはエジプト王ファラオから厚くもてなされるのです。 神様が、アブラハムに告げていた、イスラエル民族の先祖となるヤコブの12人の息子たちは、外国に移されるという預言がここで成し遂げられます。アブラハムに告げられていた神様の約束では、このあと、彼らは外国で奴隷にされて400年過ごすのですが、それは次の第三段落のモーセの物語で明らかにされます。 実は、ここでステファノが語ったヨセフ、そして次の第三段落で語られるモーセ、この二人こそ、旧約聖書において語られているイエス・キリストのしるしであるとされている人なのです。モーセについては次回語りますが、ヨセフは、同族の妬みのゆえに苦しみを受けた人です。これは主イエス様がユダヤ人の妬みによって十字架に付けられたことをあらかじめ示しています。そしてヨセフは、その苦しみによって同族を救うことになります。ヨセフがエジプトで苦難を経て、神の憐みによって出世して用いられていなければ、アブラハムの子孫たちは間違いなく飢え死にしていたことでしょう。イスラエルの民は、ヨセフの苦しみによって命をえたのです。 そして、この助け手であるヨセフを苦しみに合わせたのは、ヤコブの10人の息子たちであり、彼らは、主イエス様を十字架に付けたユダヤ人たちの先祖に当たるのです。 ステファノの説教は、これまでのペトロやほかの使徒たちの説教とは違って、ユダヤ人たちの悔い改めをはっきりと促すことはありません。いわば、あなたがたにはもはや望みがないと突き放すような雰囲気さえある説教です。けれども、ここでヨセフのことを語ることによって、主イエス様を十字架に付けたことが、いわば彼らの先祖たちの轍を踏む悪しき行為であったことをステファノは告げているのです。 4、 わたしたちは、ユダヤ人が主イエス様を十字架につけたことと同時に、主イエス様が地上で生きておられる間、福音が何よりもまずユダヤ人に語られたことを覚えるべきです。使徒たちもまた、ユダヤ人たちに、今生きておられる主イエス様の前で、罪を悔い改めて神に立ちかえるように説教したのです。神様がアブラハムを選び、救いの基としてくださったこと、そして福音がまずユダヤ人に宣べ伝えられたことは大切なことです。けれども新しい契約の時代である今の時代においては、主イエス・キリストの赦しには、何の制限もありません。すべての罪は、主イエス様において赦されます。 ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、それまで、罪を知らず、本当の意味で神様を信じないで、悔い改めもしなかった罪、その罪は主イエス様の十字架によって赦されるのです。そのことは神様が主イエス様を復活させて下さったことによって確かなものとなりました。そこに神様の大いなる御心があります。 しかし、ステファノは処刑されました。弟子たちは、エルサレムから追放されてユダヤとサマリヤの全土に散らされるようになります。そしてイエス・キリストの福音は、むしろ異邦人世界に広く浸透してゆくようになります。いまや、福音は全世界に広まり、教会は世界中に立てられています。ステファノの殉教は、その節目となる出来事でありました。祈りを致します。 天の父なる神さま、アドべント第一主日の礼拝を捧げています。時満ちて、神の御子がおいで下さり、罪の赦しと永遠の命をわたしたちに与えてくださったことを感謝します。あなたの愛にふさわしく歩めることが出来ますよう、助け導いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2024年12月1日(日)熊本伝道所礼拝説教
Rev.SHOICHI NEZU
使徒言行録7章1~16節「アブラハムからヨセフまで」
1、
御子イエス・キリストの恵みと平和とが豊かにありますように。アーメン。アドベントに入りました。新ためて主イエス様が来られたこと、そしてまたこの世界を裁き、救いを完成して下さるために来られることを覚えます。
今朝から使徒言行録7章のみ言葉を聞いてまいります。この前の6章で明らかにされたことは、ペンテコステ、聖霊の降臨以来、急速に成長してきた初代教会が、ギリシャ語を話すユダヤ人、へレニストーン、つまりギリシャ世界出身のユダヤ人たちと、そうではないもともとの土地の人、ヘブライ語、アラム語で生活しているユダヤ人、ヘブライオーンとの間で、教会での待遇を巡って深刻なトラブルが生じたということです。そこで、使徒たちは、この対策として新たな奉仕者を選ぶことにしました。これによって、12使徒を助けて働く7人の奉仕者が立てられました。彼らが大変良い働きをしましたので、使徒たちは本来の任務である祈りとみ言葉の奉仕に専念し、は平和を取り戻し、また神様の恵みを受けて成長を続けて行きました。
主イエス・キリストを救い主と信じる信仰、6章7節では、これを「神の言葉」と呼びますが、神の言葉はますます広まって行きました。今や、弟子の数は非常に増え、旧来の伝統的ユダヤ教を脅かすほどにまでなったのです。ユダヤ教の役職者である祭司たちも大勢この信仰に入る、そこまでの事態になりました。ユダヤ教の本山エルサレム神殿のひざ元でこのようなことが起きたのですから、祭司長や律法学者たちは慌てふためいたと思います。かつて主イエス様を十字架に架け、その後生き残った使徒たちを捕らえて鞭で打って、これ以上、イエス・キリストについて語ってはならないと脅かしたにも関わらず、効果がなかったというわけです。
ユダヤ教の側は、ギリシャ語を話すユダヤ人たちからの訴えに応じて、弟子たちの中で特に目立っている人物に、ギリシャ語を話すユダヤ人の奉仕者ステファノを逮捕し、最高法院に引いてyゆき、みせしめのために処刑するに至ったのです。
最高法院では、あらかじめ偽証人、偽りの証言をする人が立てられていました。そしてステファノについて、この人は「この聖なる場所」つまりエルサレム神殿と、「モーセ律法」彼らが信仰生活の基準としている律法と伝統的な解釈をけなしていると告発いたしました。これは初めから結論が決まっている仕組まれた裁判と言わなければなりません。
さて、さきほど7章の1節から16節をお読みしました。このみ言葉は、これから7章53節まで延々と続くステファの長い説教の第一段落と第二段落に当たります。使徒言行録には、ペトロの説教やパウロの弁明などいくつもの説教や演説が収められていますが、このステファノの説教ほど長いものはありません。丁寧に、使徒言行録のすべての説教や演説の節の数を数えて比較した方がおられます。その方の研究によりますとステファノの説教は、特別に長く、他のものの二倍以上の長さだそうです。
使徒言行録に残されている説教は、ペトロやパウロの説教もそうですが、語られた言葉をそのまま書き起こしたようなものでは決してありません。すべてが聖書記者ルカ、あるいはそれを残した人の要約、あるいは要点の引用なのです。けれども、ルカは、このステファノの弁明だけは、特に長く書き起こして、後に続く信仰者のための大切なみ言葉としています。
言い換えますと、当時のユダヤ教の根幹である神殿儀式とモーセ律法が、イエス・キリストを信じる信仰とどうつながるのか、つながらないのか、いわば旧約と新約の連続性と断絶、あるいは進展といったことがらに関わる大切な説教として、ここに残されているのだと思います。
今朝から4回に分けて、これを学んでまいります。この説教の直後、ステファノは激高したユダヤ人たちによって正式な判決を待たずに殺されてしまいます。初代教会の最初の殉教者となったのです。その死の直前のステファノの言葉が56節と59節、そして60節に残されています。いわばステファノの人生最後の三つの言葉です。56節「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」、ステファノは主イエス様を見上げながら召されました。59節「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして60節「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」
主イエス様も十字架の上で、同じように「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と叫び、また「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」と祈られました。すステファノは、父よではなく、主よ、と主イエス様に向かって祈っている点は違いますけれども、主イエス様の十字架の死と自分の死とを重ね合わせるようにして天に帰って行くのです。
恐らく、ステファノは裁判が始まった時から、自分の死は免れないと決心していたに違いありません。新共同訳では、ステファノの説教と小見出しがつけられていますが、まさしく、これは濡れ衣を着せられたことへの弁明ではなく、自分自身のまた、キリスト教会の信仰をはっきりと告げ知らせる、命がけの説教、あるいは証言、まさに殉教覚悟の証言的な説教です。
6章の最後に、最高法院の席、つまり裁判の被告人席にいるステファノの顔はさながら天使の顔のように見えたと記されています。主イエス様が共にいてくださる、守ってくださることを固く信じ、聖霊に満たされてステファノは語ったのです。
2、
裁判長を務める大祭司は、ステファノに発言を求めます。「訴えの通りか」、いわば罪状認否を問うたわけです。これに対してステファノは、創世記12章、アブラハムからはじまるイスラエル民族の歴史から語り始めました。神の選びの歴史です。神に選ばれ、恵みの運び手とされたにもかかわらず、神に背いて罪を重ねるユダヤ人の末裔があなたがただと、訴えた側を反対に告発しています。
イスラエルの発祥は、アブラハムから始まります。メソポタニアは、チグリス川とユーフラテス川という二つの川で挟まれた古代文明発祥の地です。アブラハムの一家は、そのメソポタニア地方からカナンへと旅をしています。ステファノの説教では、すでにアブラハムには、ここで神の召しが与えられていて、神はアブラハムに、あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行けと命じられていたと語られます。
神はアブラハムを選んで、今あなたがたユダヤ人が住んでいる場所であるカナンに移してくださったが、その時には、アブラハムは土地も財産もなく、また年老いたサラとの間に子もいなかったと、ステファノは語り始めます。しかし、それにも関わらず、神様はアブラハムに約束なさいました。アブラハムにカナンの地を与える、そしてこれを相続する子孫も与える、これが神様の約束でした。そして子孫たちはカナンに住んでそこで神を礼拝するようになる。
けれども、そこに至るまでの苦難のこともまた予告されたのです。アブラハムの子孫は外国に移住して奴隷にさせられる、そこで400年過ごすというのです。約束の地を得るまでの壮大な回り道のドラマはすでにアブラハムに告げられていたのです。けれどもその苦難を経て、そののちにエジプトからの脱出、出エジプトをすることが出来るとも告げられました。最終的にこの場所で、つまり、カナンの地で神を礼拝するようになるという神の約束、これは約束通り今実現しているではないかとステファノは言います。
モーセ律法は、確かに幕屋の建設とそこで行われるべき儀式を命じています。けれども、それよりも古い、アブラハムに与えられた約束には、エルサレム神殿は示されておらず、神ご自身がおられる場所として、単に「この場所」とだけ言われているではないかとステファノは言うのです。
アブラハムと神の約束は、その子であるイサク、孫であるヤコブへと受け継がれます。約束を信じるしるしは、生まれた子に割礼を施すことでした。それをステファノは割礼による契約と言い換えています。そこでは割礼は約束のしるしであり、割礼が大切なのではなく、神の約束が大切なのです。
ステファノが最高法院においてユダヤ人たちから訴えられた罪状は、この人は神殿とモーセ律法を軽んじ、これを変えてしまうというものでした。これに対してステファノの弁明を最後まで読みますと、普通の弁明のように、いやそんなことはない、わたしは神殿を重んじ、モーセ律法を大切にしているとは決して言っていないことがわかります。
そうではなくて、あなた方の言うとおりだ、だが神殿よりも大切なものがある、またモーセ律法を超える、もともとの神様の約束があると言います。そして神は人間が造ったようなものにはお住みならないと言い、神によって、モーセとは別に、モーセのような預言者が立てられるとモーセ自身が言っていると告げるのです。
言ってみれば火に油を注ぐような言い方をしています。つまり、相手と同じ土俵ではなく、もっと大きな土俵の上で議論します。神殿やモーセ律法が目指しているもの、神の約束にこそ目を向けよというのです。これは実は、主イエス様のみ言葉にもみられるものです。
マタイによる福音書5章17節、山上の説教と言われる八つの祝福の教えの最後にこういっておられます。
「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない、廃止するためではなく完成するためである。」
主イエス様の救いは、律法を廃止するかのように見えるけれども、むしろ律法の本来の目的を成し遂げるのだというのです。そこに神の恵みがあり愛があるというのです。
3、
さて第一段落ではアブラハム契約が語られましたが、9節から始まる第二段落は、アブラハムの孫であるヤコブとその子であるヨセフのことが語られます。説教の聴き手のユダヤ人たちは、旧約聖書を熟知していますから、9節では、まったくの説明なしにヨセフと言う名前を持ち出します。9節「この族長たちはヨセフをねたんでエジプトに売ってしまいました」
ヨセフは、アブラハムの子のイサクの子のヤコブ、そのヤコブの12人の息子のうちの下から二人目の息子です。アブラハムのひ孫にあたります。
旧約聖書創世記の後半の主人公はヤコブとヨセフです。ヤコブは、二人の妻と二人の妾(そばめ)合わせて4人の女性によって12人の息子と分かっているだけで一人の娘を得ますが、もっとも愛していたラケルから生まれたヨセフとベニヤミンの二人の息子を特にかわいがりました。ラケルはベニヤミンを産むときに死んでしまいます。愛するラケルの子、そして年寄子であり、末っ子の二人でしたから、父のヤコブは、例えば、袖の長い特別の着物を着せてやると言ったように、ほかの息子たちの恨みを買うほどにヨセフをかわいがったのです。そのために、上の息子たちは、ヨセフを妬み、野原で穴に陥れ、ヨセフは通りがかった旅の商人たちによって、エジプトに売られてしまうのです。
9節にこう書かれています。「この族長たちはヨセフを妬んで、エジプトに売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して・・」
「神はヨセフから離れず、あらゆる苦難から助け出す」とは、それからの全てのいきさつのことを指しています。奴隷であったヨセフは、夢を解き明かす知恵を神様から授けられており、この賜物を発揮して奴隷の身分からエジプト王、ファラオの木にいられるようになりました。そして大干ばつによる食糧危機をきっかけにエジプトの総理大臣にまで抜擢されるのです。
この干ばつと飢饉は、カナン地方をも襲いまして、ヤコブ一家は食べる穀物が無くなり、どこからも手に入れることが出来ないという危機に陥ります。そこでエジプトには食料が蓄えられていると聞いたヤコブは、息子たちをエジプトに遣わし、そこでヨセフと兄たちとの再会が果たされます。兄たちを恨んでいたはずのヨセフですが、彼は、二回目の会見の時に初めて身分を明かし、神がこのように守ってくださったと言って感謝するのです。
ヨセフは、ファラオの許しを得て、一族をエジプトに招き入れて、彼らはエジプト王ファラオから厚くもてなされるのです。
神様が、アブラハムに告げていた、イスラエル民族の先祖となるヤコブの12人の息子たちは、外国に移されるという預言がここで成し遂げられます。アブラハムに告げられていた神様の約束では、このあと、彼らは外国で奴隷にされて400年過ごすのですが、それは次の第三段落のモーセの物語で明らかにされます。
実は、ここでステファノが語ったヨセフ、そして次の第三段落で語られるモーセ、この二人こそ、旧約聖書において語られているイエス・キリストのしるしであるとされている人なのです。モーセについては次回語りますが、ヨセフは、同族の妬みのゆえに苦しみを受けた人です。これは主イエス様がユダヤ人の妬みによって十字架に付けられたことをあらかじめ示しています。そしてヨセフは、その苦しみによって同族を救うことになります。ヨセフがエジプトで苦難を経て、神の憐みによって出世して用いられていなければ、アブラハムの子孫たちは間違いなく飢え死にしていたことでしょう。イスラエルの民は、ヨセフの苦しみによって命をえたのです。
そして、この助け手であるヨセフを苦しみに合わせたのは、ヤコブの10人の息子たちであり、彼らは、主イエス様を十字架に付けたユダヤ人たちの先祖に当たるのです。
ステファノの説教は、これまでのペトロやほかの使徒たちの説教とは違って、ユダヤ人たちの悔い改めをはっきりと促すことはありません。いわば、あなたがたにはもはや望みがないと突き放すような雰囲気さえある説教です。けれども、ここでヨセフのことを語ることによって、主イエス様を十字架に付けたことが、いわば彼らの先祖たちの轍を踏む悪しき行為であったことをステファノは告げているのです。
4、
わたしたちは、ユダヤ人が主イエス様を十字架につけたことと同時に、主イエス様が地上で生きておられる間、福音が何よりもまずユダヤ人に語られたことを覚えるべきです。使徒たちもまた、ユダヤ人たちに、今生きておられる主イエス様の前で、罪を悔い改めて神に立ちかえるように説教したのです。神様がアブラハムを選び、救いの基としてくださったこと、そして福音がまずユダヤ人に宣べ伝えられたことは大切なことです。けれども新しい契約の時代である今の時代においては、主イエス・キリストの赦しには、何の制限もありません。すべての罪は、主イエス様において赦されます。
ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、それまで、罪を知らず、本当の意味で神様を信じないで、悔い改めもしなかった罪、その罪は主イエス様の十字架によって赦されるのです。そのことは神様が主イエス様を復活させて下さったことによって確かなものとなりました。そこに神様の大いなる御心があります。
しかし、ステファノは処刑されました。弟子たちは、エルサレムから追放されてユダヤとサマリヤの全土に散らされるようになります。そしてイエス・キリストの福音は、むしろ異邦人世界に広く浸透してゆくようになります。いまや、福音は全世界に広まり、教会は世界中に立てられています。ステファノの殉教は、その節目となる出来事でありました。祈りを致します。
天の父なる神さま、アドべント第一主日の礼拝を捧げています。時満ちて、神の御子がおいで下さり、罪の赦しと永遠の命をわたしたちに与えてくださったことを感謝します。あなたの愛にふさわしく歩めることが出来ますよう、助け導いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。