聖書の言葉 使徒言行録 7章8節~15節 メッセージ 2024年11月24日(日)熊本伝道所朝拝説教 Rev.SHOICHI NEZU 使徒言行録6章8節~15節「迫害に向き合う天使」 1、 今朝、この礼拝にお集まりの方々の上に主イエス・キリストの恵みと祝福が豊かにありますように。主の御名によって祈ります、アーメン。11月第四週の礼拝を捧げています。次週の主の日は12月1日、アドベントに入ります。クリスマスが近づく時を迎えています。町では気の早いお店がクリスマスの飾りつけをしているのを見ました。共にクリスマスを祝うことが出来るといいと思いました。 さて、今朝は、使徒言行録の6章後半のみ言葉をご一緒に聞いております。今朝お読みしました最初の8節の前に、「ステファノの逮捕」と小見出しがつけられています。小見出しを追ってゆきますと、続く7章では「ステファノの説教」、そして7章の終わりに近い54節の前には「ステファノの殉教」とあります。今朝の6章8節から8章の1節「サウロはステファノの殺害に賛成していた」というところまで、かなり長いステファノの物語が続いてゆくことがわかります。 今朝のみ言葉を何度も読み返しながら、一つ、心にひっかったといいますか、疑問に思ったことがありました。それは、最後の15節のところです。「最高法院の席についていたものは皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」「その顔はさながら天使の顔のように見えた。」というところです。 印象的なみ言葉であり、ある感銘を残しながら、「そうか天使の顔のようだったのか」と、そのまますっと通り過ぎてしまいそうところです。けれども、ここで天使の顔のようにと言われている、そのときのステファノの顔はどんな顔であったのだろうかと考えました。まず、天使の顔といわれていますが、実は、わたくしを含めて現代の読者たちは、色々な絵画は別にしまして、実際に天使の顔を見たことがありませんし、使徒言行録の時代であっても、多くの人々にとっては事情は変わらないのではないかと思います。けれども、「天使の顔のようだった」といわれると、何かわかったような気がするのです。しかし実際にはわたくしには、どうしても疑問が残るのです。 天使と訳されている言葉は、新改訳聖書やフランシスコ会訳聖書では「御使い」と訳されています。旧約聖書でも新約聖書でも、ある任務を帯びて神から遣わされた霊的な存在としてあらわされます。ある時にはケルビムという鳥のような姿の翼を持つ存在でしたし、ある時には、突然いずこからか訪れてくる見知らぬ人の姿を取ります。クリスマスの際には、乙女マリアや夫のヨセフ、あるいはベツレヘム近くの羊飼いたちにも現れました。ギリシャ語の原語は、アンゲロス、英語のエンゼルのもとになった言葉です。遣わすという意味の動詞からつくられた名詞、神から遣わされたものを表します。しかし、その顔や表情については、聖書は多くを語りません。それなのに天使のような顔に見えた、とルカによる福音書は記しています。 ある注解者は、英語のエンゼルが表しているような、汚れのない乳飲み子のような顔だったのではないかと言います。別の注解者は、神のごとく荘厳で権威に満ちた神々しい顔ではないかと説明しております。わたくしとしては、まだ腑に落ちないところがあります。 2、 さて、ステファノと言う人は、エルサレムの教会が大きく成長してゆく中で起きてきた、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人との間に生じたもめごとを根本的に解決するために立てられた、7人の奉仕者の代表格の人物です。彼ら7人が立てられましたのは、会員たちの処遇に不公平が生じないようにする、特にギリシャ語を話すユダヤ人への配慮ということがそもそものきっかけでした。彼らの職務は、単に食事や配給の世話だけにとどまらずに、多忙を極めていた12使徒の補佐役でありました。説教や信仰の指導を含めて、すべての働きにおいて使徒たちを助けたと思われます。彼らは、12使徒が御言葉と祈りに専念できるようにするために、12使徒たちを助ける重要な役員として奉仕していたのであります。 8節に、「ステファノはめぐみと力に満ち、素晴らしい不思議な業としるしとを民衆の間に行っていた」とあります。ステファノは、立てられた7人の中でも特に目覚ましい働きをした人であります。 「ステファノス」はギリシャ語の冠という意味です。主イエス様が十字架の時に頭にかぶせられましたのは茨の冠であります。初代教会の指導者のパウロは、第一コリント9章で、賞を得るために競技をするアスリートのように、「わたしたちは朽ちない冠を得るために節制する」と語りました。ここで使われているのがステファノス、冠と言う言葉です。17世紀の宗教画家のルーベンスによるステファノの殉教と言う絵画があります。これを見ますと、ステファノが、主イエス様を見上げながら石打の刑によってまさに命を落とそうとするとき、ステファノの頭に天使が主イエス様と同じ茨の冠を授けようとしています。ステファノ、そのギリシャ語の名が示すように、彼は、ギリシャ語を話すユダヤ人でありました。 使徒言行録を読んできましたが、ステファノはキリスト教会最初の殉教者になりました。そして、このことをきっかけにしてエルサレム教会に対する大迫害が起こります。そして使徒たち以外の多くの信者たちは、ユダヤとサマリヤの全土に散らされてゆくことになります。そしてこのこともまた福音が広く地中海世界に広まってゆく契機となったのであります。 このステファノの活躍に、特別に神経をとがらせていましたのが、ギリシャ語を話すユダヤ人たちが集っていたユダヤ教のシナゴーグ、会堂に属するユダヤ教徒たちでありました。「解放された奴隷の会堂」、別の聖書ではリベルテンと訳されますが、ローマ帝国によって昔ユダヤから連れ去られて地中海各地で奴隷にさせられていた人々です。皇帝が変わることによって彼らは奴隷の身分から解放され、故郷のユダヤに帰ってきました。その人々が集うシナゴーグです。ギリシャ語訳の旧約聖書を用い、またギリシャ語で礼拝していました。そのユダヤ教のギリシャ語礼拝の指導者でしょう。キレネとアレクサンドリアから帰還したある人々が、ステファノの論敵として立ち上がりました。またキリキア州とアジア州出身の人びとも同様にステファノに対抗したというのです。彼らは、ギリシャ世界に住んでいたけれども、ユダヤの地に帰還した人々であり、その中でも熱心に会堂に集う人々、自分たちの父祖の信仰であるユダヤ教に忠実な人々でありました。おそらく、地元のユダヤ人たちよりも信仰熱心で保守的であった可能性があります。 どんな点について彼らは議論したのか、それは、この後のステファノの裁判で彼らが訴えたことであり、またステファノ自身が、この後の説教で語ったことでもあったと思います。つまり、イエス・キリストが救い主であるということと、旧約聖書の教えとの関係です。聖書とそれを解釈する伝統的なユダヤ教の教えとキリスト教会の信仰の衝突と言うことです。けれども、どんな風に議論しても、彼らはステファノの言葉に打ち勝つことが出来なかったのです。7節に「こうして神の言葉はますます広まっていった」、「弟子の数が非常に増えていった」と語られています。こういった事実に彼らは焦りと恐れを感じたのでしょう。 自分たちの属するシナゴーグ、ユダヤ教の集いからも、主イエス・キリストこそ、旧約聖書が指し示す救い主、メシア、キリストだと信じる人が増えて行き、その伝道者であるステファノのもつ知恵と霊とが優れていて太刀打ちが出来ないのです。 彼らは、ついにステファノを誹謗中傷するようなります。「ステファノは、モーセと神を冒涜している」「聖なる場所」、つまり「エルサレム神殿」をけなしている。またユダヤ教の中心教理であるモーセ律法とラビたちによる伝統的解釈をけなしているというのです。そしてユダヤ教の最高法院に訴え出て、ステファノを処罰しようといたしました。 彼らだけでは、裁判を起こしたり、ステファノを捕らえたりすることが出来ません。12節によれば、彼らは、民衆、民の長老たち、律法学者たちを扇動してステファノを襲い、最高法院に引いていったのです。長老たちと律法学者たちは、4章のペトロとヨハネ逮捕の中心勢力でしたが、今回は、これまで教会を尊敬し、好意を持っていたはずの民衆の一部も加わっています。それだけ福音が広まっていったためでありましょう。 そして極め付きは、偽証人の証言です。「あの男」つまりステファノは、こう言った。「ナザレのイエスはこの場所を破壊し、モーセが我々に伝えた習慣を変えるだろう」 先の最高法院の裁判で、尊敬されていた律法学者のガマリエルが、キリスト教徒たちのことは神にゆだねよう、彼らが偽りであるならやがて跡形もなく消え去るだろうと良識ある裁定をくだし、使徒たちは釈放され、自由に伝道ができたのです。しかしその結果、教会は消え去るどころか益々成長し、ギリシャ語を話すユダヤ人の間にも広まっていったことから、ついにユダヤ教の側も最終作戦に訴えたようです。 以前に中国の家の教会が迫害されているという話をいたしました。つい最近も、家の教会の中の代表的教会が迫害を受け、牧師や信徒たち100名以上が、国家の秩序を乱そうとしているとして逮捕拘束されたという情報が入ってきました。25日のNHKテレビの夕方のニュースでも報道されておりました。教会が小さく弱い間は、権力者はこれを放置し、自由に活動させます。けれども、ある一線を越えて成長し、社会に影響を持ち始めるや否や弾圧が始まるのです。 裁判の席で、原告の立てた証人はこう証言しました。 「ナザレ人イエスがこの場所を破壊するだろう」「イエスは、モーセの慣習を変えてしまうだろう」ステファノは確かにこう言いました。 この場所とは、13節の「聖なる場所」、つまり、出エジプト記3章12節で、モーセが神様からここは聖なる場所である、履物を脱ぎなさいと命じられた場所のことです。エルサレムの主の山、神殿のある丘のことです。これが転じて、神殿そのものを指すようになった言葉です。 当時のユダヤ教は神殿を中心にしたさまざまな祭儀、儀式が中心です。それを支えているのが旧約聖書の各書、各章にわたって積み重ねられてきた律法学者によってさだめられた解釈です。神殿が破壊されてしまうこと、と律法とその解釈が変えられることは伝統的なユダヤ教そのものの消滅を意味します。従って、ステファノが確かにそう主張したならば、決して赦すことが出来ない神冒涜に当たるでしょう。 けれども、主イエス様が実際に主張したことは、大きく違います。主イエス様ご自身こそ。旧約聖書の約束の成就であり、わたしは律法を完成するものであるということでした。このあとのステファノの説教もこのことを繰り返し語っています。 今日、ユダヤ人の大多数は、従来の伝統的ユダヤ教にとどまっています。エルサレム神殿こそはるか昔に破壊されましたが、割礼をすること、豚を食べてはならないといった食物規定を守ること、土曜日の安息日を守ること、そして土曜日ごとにシナゴーグに集まって、礼拝します。そして、やがて世の終わりと救い主とが到来し、世界を完成することを信じています。 けれども、旧約聖書が指し示していた救い主は、まだ来ておられないのではなく、クリスマスに世においでになりました。主イエスは死んでよみがえり、真の救い主として、今は天におられるのです。この旧約から新約への転換、前進、それをユダヤ教の大多数は受け入れることが出来なかったのです。ステファノの裁判は、まさにその歴史の節目を語るものです。 主イエス様は、ユダヤ人であり、まずはユダヤ人に福音を伝えました。しかし、ユダヤ人は主イエスを拒み、かえって、信仰はユダヤ以外の地に広まって行きます。そして今や世界中に教会は立てられ、福音が伝えられています。 7章から長いステファノの説教が始まります。このステファノの説教は、旧約聖書のアブラハム物語から始まり、主イエス様の十字架までを語ります。これは説教と言うよりも、裁判における弁明ですが、使徒言行録2章のペトロのペンテコステ説教、3章の美しの門での説教、そして、5章の短い説教とは明らかに違うものです。これまでの使徒の説教は、救い主を十字架につけたユダヤ人は、その罪を悔い改めて、神に立ち返るように勧める、伝道説教であり、赦しの説教でした。しかし、これから始まるステファノの説教は、そうではないのです。むしろ、自分が信じるところを後世に伝え残す、信仰告白のように思えます。ある説教者は、これはステファノの遺言であると言います。つまり、裁判では偽証人が立てられ、裁判自体が全く公正なものではない、そのことをステファノ自身がよく知っているのです。神冒涜という、ステファン自身の信仰とは全く相容れない罪を着せられており、今や彼は自分自身が死刑にされることを前提に彼は語っているというのです。わたくしもそう思います。 ステファノの顔は、さながら天使のように見えたと15節に書かれています。これは聖書を記しているルカの言葉ではなく、最高法院の席に着き、皆が一斉にステファノを見たという、その最高法院議員一人ひとりの思いを表すものです。自分たちのみにくい思いを超えたものを彼らは見たのです。 天使は、神の使いであり、その語ること、おもうこと、行うことのすべてを天の父なる神によってなします。 ステファノが最後に見たものは、最高法院の議員たちではありません。7章の56節で、彼は、こう言っています。「主イエスが神の右に立っておられる。」 天使のような顔に見えた、それは主イエス様にすべてをお任せしているありさまではないでしょうか。これがステファノの顔に表されたものであったに違いない、そう思うのです。この世的な思いをすべて取り去り、すべてを主イエス様にゆだねた平安と確信に満ちた顔であったに違いないと思います。 ステファノの顔は、天使のように見えても、しかしあくまでステファノの顔であったことでおしょう。わたしたちも一人ひとり顔は違っています。けれども、わたしたちの心に住んでおられる聖霊の神の力により頼み、神様におゆだねするとき、わたしたちの顔もまた、違ってくる、ステファノほどでは決してないと思いますが、しかし少しでも天使の顔に近づくことが出来るのではないか、そう思います。 祈りを致します。
2024年11月24日(日)熊本伝道所朝拝説教
Rev.SHOICHI NEZU
使徒言行録6章8節~15節「迫害に向き合う天使」
1、
今朝、この礼拝にお集まりの方々の上に主イエス・キリストの恵みと祝福が豊かにありますように。主の御名によって祈ります、アーメン。11月第四週の礼拝を捧げています。次週の主の日は12月1日、アドベントに入ります。クリスマスが近づく時を迎えています。町では気の早いお店がクリスマスの飾りつけをしているのを見ました。共にクリスマスを祝うことが出来るといいと思いました。
さて、今朝は、使徒言行録の6章後半のみ言葉をご一緒に聞いております。今朝お読みしました最初の8節の前に、「ステファノの逮捕」と小見出しがつけられています。小見出しを追ってゆきますと、続く7章では「ステファノの説教」、そして7章の終わりに近い54節の前には「ステファノの殉教」とあります。今朝の6章8節から8章の1節「サウロはステファノの殺害に賛成していた」というところまで、かなり長いステファノの物語が続いてゆくことがわかります。
今朝のみ言葉を何度も読み返しながら、一つ、心にひっかったといいますか、疑問に思ったことがありました。それは、最後の15節のところです。「最高法院の席についていたものは皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」「その顔はさながら天使の顔のように見えた。」というところです。
印象的なみ言葉であり、ある感銘を残しながら、「そうか天使の顔のようだったのか」と、そのまますっと通り過ぎてしまいそうところです。けれども、ここで天使の顔のようにと言われている、そのときのステファノの顔はどんな顔であったのだろうかと考えました。まず、天使の顔といわれていますが、実は、わたくしを含めて現代の読者たちは、色々な絵画は別にしまして、実際に天使の顔を見たことがありませんし、使徒言行録の時代であっても、多くの人々にとっては事情は変わらないのではないかと思います。けれども、「天使の顔のようだった」といわれると、何かわかったような気がするのです。しかし実際にはわたくしには、どうしても疑問が残るのです。
天使と訳されている言葉は、新改訳聖書やフランシスコ会訳聖書では「御使い」と訳されています。旧約聖書でも新約聖書でも、ある任務を帯びて神から遣わされた霊的な存在としてあらわされます。ある時にはケルビムという鳥のような姿の翼を持つ存在でしたし、ある時には、突然いずこからか訪れてくる見知らぬ人の姿を取ります。クリスマスの際には、乙女マリアや夫のヨセフ、あるいはベツレヘム近くの羊飼いたちにも現れました。ギリシャ語の原語は、アンゲロス、英語のエンゼルのもとになった言葉です。遣わすという意味の動詞からつくられた名詞、神から遣わされたものを表します。しかし、その顔や表情については、聖書は多くを語りません。それなのに天使のような顔に見えた、とルカによる福音書は記しています。
ある注解者は、英語のエンゼルが表しているような、汚れのない乳飲み子のような顔だったのではないかと言います。別の注解者は、神のごとく荘厳で権威に満ちた神々しい顔ではないかと説明しております。わたくしとしては、まだ腑に落ちないところがあります。
2、
さて、ステファノと言う人は、エルサレムの教会が大きく成長してゆく中で起きてきた、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人との間に生じたもめごとを根本的に解決するために立てられた、7人の奉仕者の代表格の人物です。彼ら7人が立てられましたのは、会員たちの処遇に不公平が生じないようにする、特にギリシャ語を話すユダヤ人への配慮ということがそもそものきっかけでした。彼らの職務は、単に食事や配給の世話だけにとどまらずに、多忙を極めていた12使徒の補佐役でありました。説教や信仰の指導を含めて、すべての働きにおいて使徒たちを助けたと思われます。彼らは、12使徒が御言葉と祈りに専念できるようにするために、12使徒たちを助ける重要な役員として奉仕していたのであります。
8節に、「ステファノはめぐみと力に満ち、素晴らしい不思議な業としるしとを民衆の間に行っていた」とあります。ステファノは、立てられた7人の中でも特に目覚ましい働きをした人であります。
「ステファノス」はギリシャ語の冠という意味です。主イエス様が十字架の時に頭にかぶせられましたのは茨の冠であります。初代教会の指導者のパウロは、第一コリント9章で、賞を得るために競技をするアスリートのように、「わたしたちは朽ちない冠を得るために節制する」と語りました。ここで使われているのがステファノス、冠と言う言葉です。17世紀の宗教画家のルーベンスによるステファノの殉教と言う絵画があります。これを見ますと、ステファノが、主イエス様を見上げながら石打の刑によってまさに命を落とそうとするとき、ステファノの頭に天使が主イエス様と同じ茨の冠を授けようとしています。ステファノ、そのギリシャ語の名が示すように、彼は、ギリシャ語を話すユダヤ人でありました。
使徒言行録を読んできましたが、ステファノはキリスト教会最初の殉教者になりました。そして、このことをきっかけにしてエルサレム教会に対する大迫害が起こります。そして使徒たち以外の多くの信者たちは、ユダヤとサマリヤの全土に散らされてゆくことになります。そしてこのこともまた福音が広く地中海世界に広まってゆく契機となったのであります。
このステファノの活躍に、特別に神経をとがらせていましたのが、ギリシャ語を話すユダヤ人たちが集っていたユダヤ教のシナゴーグ、会堂に属するユダヤ教徒たちでありました。「解放された奴隷の会堂」、別の聖書ではリベルテンと訳されますが、ローマ帝国によって昔ユダヤから連れ去られて地中海各地で奴隷にさせられていた人々です。皇帝が変わることによって彼らは奴隷の身分から解放され、故郷のユダヤに帰ってきました。その人々が集うシナゴーグです。ギリシャ語訳の旧約聖書を用い、またギリシャ語で礼拝していました。そのユダヤ教のギリシャ語礼拝の指導者でしょう。キレネとアレクサンドリアから帰還したある人々が、ステファノの論敵として立ち上がりました。またキリキア州とアジア州出身の人びとも同様にステファノに対抗したというのです。彼らは、ギリシャ世界に住んでいたけれども、ユダヤの地に帰還した人々であり、その中でも熱心に会堂に集う人々、自分たちの父祖の信仰であるユダヤ教に忠実な人々でありました。おそらく、地元のユダヤ人たちよりも信仰熱心で保守的であった可能性があります。
どんな点について彼らは議論したのか、それは、この後のステファノの裁判で彼らが訴えたことであり、またステファノ自身が、この後の説教で語ったことでもあったと思います。つまり、イエス・キリストが救い主であるということと、旧約聖書の教えとの関係です。聖書とそれを解釈する伝統的なユダヤ教の教えとキリスト教会の信仰の衝突と言うことです。けれども、どんな風に議論しても、彼らはステファノの言葉に打ち勝つことが出来なかったのです。7節に「こうして神の言葉はますます広まっていった」、「弟子の数が非常に増えていった」と語られています。こういった事実に彼らは焦りと恐れを感じたのでしょう。
自分たちの属するシナゴーグ、ユダヤ教の集いからも、主イエス・キリストこそ、旧約聖書が指し示す救い主、メシア、キリストだと信じる人が増えて行き、その伝道者であるステファノのもつ知恵と霊とが優れていて太刀打ちが出来ないのです。
彼らは、ついにステファノを誹謗中傷するようなります。「ステファノは、モーセと神を冒涜している」「聖なる場所」、つまり「エルサレム神殿」をけなしている。またユダヤ教の中心教理であるモーセ律法とラビたちによる伝統的解釈をけなしているというのです。そしてユダヤ教の最高法院に訴え出て、ステファノを処罰しようといたしました。
彼らだけでは、裁判を起こしたり、ステファノを捕らえたりすることが出来ません。12節によれば、彼らは、民衆、民の長老たち、律法学者たちを扇動してステファノを襲い、最高法院に引いていったのです。長老たちと律法学者たちは、4章のペトロとヨハネ逮捕の中心勢力でしたが、今回は、これまで教会を尊敬し、好意を持っていたはずの民衆の一部も加わっています。それだけ福音が広まっていったためでありましょう。
そして極め付きは、偽証人の証言です。「あの男」つまりステファノは、こう言った。「ナザレのイエスはこの場所を破壊し、モーセが我々に伝えた習慣を変えるだろう」
先の最高法院の裁判で、尊敬されていた律法学者のガマリエルが、キリスト教徒たちのことは神にゆだねよう、彼らが偽りであるならやがて跡形もなく消え去るだろうと良識ある裁定をくだし、使徒たちは釈放され、自由に伝道ができたのです。しかしその結果、教会は消え去るどころか益々成長し、ギリシャ語を話すユダヤ人の間にも広まっていったことから、ついにユダヤ教の側も最終作戦に訴えたようです。
以前に中国の家の教会が迫害されているという話をいたしました。つい最近も、家の教会の中の代表的教会が迫害を受け、牧師や信徒たち100名以上が、国家の秩序を乱そうとしているとして逮捕拘束されたという情報が入ってきました。25日のNHKテレビの夕方のニュースでも報道されておりました。教会が小さく弱い間は、権力者はこれを放置し、自由に活動させます。けれども、ある一線を越えて成長し、社会に影響を持ち始めるや否や弾圧が始まるのです。
裁判の席で、原告の立てた証人はこう証言しました。
「ナザレ人イエスがこの場所を破壊するだろう」「イエスは、モーセの慣習を変えてしまうだろう」ステファノは確かにこう言いました。
この場所とは、13節の「聖なる場所」、つまり、出エジプト記3章12節で、モーセが神様からここは聖なる場所である、履物を脱ぎなさいと命じられた場所のことです。エルサレムの主の山、神殿のある丘のことです。これが転じて、神殿そのものを指すようになった言葉です。
当時のユダヤ教は神殿を中心にしたさまざまな祭儀、儀式が中心です。それを支えているのが旧約聖書の各書、各章にわたって積み重ねられてきた律法学者によってさだめられた解釈です。神殿が破壊されてしまうこと、と律法とその解釈が変えられることは伝統的なユダヤ教そのものの消滅を意味します。従って、ステファノが確かにそう主張したならば、決して赦すことが出来ない神冒涜に当たるでしょう。
けれども、主イエス様が実際に主張したことは、大きく違います。主イエス様ご自身こそ。旧約聖書の約束の成就であり、わたしは律法を完成するものであるということでした。このあとのステファノの説教もこのことを繰り返し語っています。
今日、ユダヤ人の大多数は、従来の伝統的ユダヤ教にとどまっています。エルサレム神殿こそはるか昔に破壊されましたが、割礼をすること、豚を食べてはならないといった食物規定を守ること、土曜日の安息日を守ること、そして土曜日ごとにシナゴーグに集まって、礼拝します。そして、やがて世の終わりと救い主とが到来し、世界を完成することを信じています。
けれども、旧約聖書が指し示していた救い主は、まだ来ておられないのではなく、クリスマスに世においでになりました。主イエスは死んでよみがえり、真の救い主として、今は天におられるのです。この旧約から新約への転換、前進、それをユダヤ教の大多数は受け入れることが出来なかったのです。ステファノの裁判は、まさにその歴史の節目を語るものです。
主イエス様は、ユダヤ人であり、まずはユダヤ人に福音を伝えました。しかし、ユダヤ人は主イエスを拒み、かえって、信仰はユダヤ以外の地に広まって行きます。そして今や世界中に教会は立てられ、福音が伝えられています。
7章から長いステファノの説教が始まります。このステファノの説教は、旧約聖書のアブラハム物語から始まり、主イエス様の十字架までを語ります。これは説教と言うよりも、裁判における弁明ですが、使徒言行録2章のペトロのペンテコステ説教、3章の美しの門での説教、そして、5章の短い説教とは明らかに違うものです。これまでの使徒の説教は、救い主を十字架につけたユダヤ人は、その罪を悔い改めて、神に立ち返るように勧める、伝道説教であり、赦しの説教でした。しかし、これから始まるステファノの説教は、そうではないのです。むしろ、自分が信じるところを後世に伝え残す、信仰告白のように思えます。ある説教者は、これはステファノの遺言であると言います。つまり、裁判では偽証人が立てられ、裁判自体が全く公正なものではない、そのことをステファノ自身がよく知っているのです。神冒涜という、ステファン自身の信仰とは全く相容れない罪を着せられており、今や彼は自分自身が死刑にされることを前提に彼は語っているというのです。わたくしもそう思います。
ステファノの顔は、さながら天使のように見えたと15節に書かれています。これは聖書を記しているルカの言葉ではなく、最高法院の席に着き、皆が一斉にステファノを見たという、その最高法院議員一人ひとりの思いを表すものです。自分たちのみにくい思いを超えたものを彼らは見たのです。
天使は、神の使いであり、その語ること、おもうこと、行うことのすべてを天の父なる神によってなします。
ステファノが最後に見たものは、最高法院の議員たちではありません。7章の56節で、彼は、こう言っています。「主イエスが神の右に立っておられる。」
天使のような顔に見えた、それは主イエス様にすべてをお任せしているありさまではないでしょうか。これがステファノの顔に表されたものであったに違いない、そう思うのです。この世的な思いをすべて取り去り、すべてを主イエス様にゆだねた平安と確信に満ちた顔であったに違いないと思います。
ステファノの顔は、天使のように見えても、しかしあくまでステファノの顔であったことでおしょう。わたしたちも一人ひとり顔は違っています。けれども、わたしたちの心に住んでおられる聖霊の神の力により頼み、神様におゆだねするとき、わたしたちの顔もまた、違ってくる、ステファノほどでは決してないと思いますが、しかし少しでも天使の顔に近づくことが出来るのではないか、そう思います。
祈りを致します。